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006 下谷金杉 (台東区下谷3丁目) 几号現存
007 下谷通新町 (荒川区南千住1丁目) 几号現存
008 千住南組 (荒川区南千住6丁目) 几号現存
009 千住北組 (足立区千住大川町) 几号現存
010 保木間 (足立区竹の塚2丁目・3丁目)

006 下谷金杉

(更新 19.09.10)

点   名

006 下谷金杉(したやかなすぎ)

当時の場所

東京府 下谷金杉三島神社玉垣石柱

現在の地名

東京都 台東区下谷3丁目7-5  三島神社

海面上高距

3.9248m

前後の距離

上野信濃坂 ← 1048.20m → 下谷金杉 ← 1208.56m → 下谷通新町

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 下谷金杉
 3.9248m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kanasugi
 3.9248m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 下谷金杉三島神社玉垣石柱
 3.9248m/12.9518尺

照合資料 4

地質要報
 金杉三島神社境内
 3.9m/―

照合資料 5

地理局 東京実測図
(下谷区金杉上町21)
  ―/12.9尺

照合資料 6

ナウマン論文
 Mishima, Shtaya Kanasugi
  3.92m/―

几号の現存有無

現存(移設)

解  説

北門の敷石に転用されている。

現地を調査した日

@2005年4月15日  A2015年4月19日

参考文献

※※※

 


三島神社の正面。附刻当初の几号はこの道路に面した玉垣に刻まれた。

 


北門の風景。几号が刻まれた玉垣は北門の敷石に転用されている。

 

敷石全体の様子
幅34cm、長さ146cm。本来は画像のような感じで直立していた。
左の角が3pほど斜めに削り落されている。この角削ぎが玉垣当時からのものなのか、それとも敷石に転用された際に施されたのかは不明である。

 

 

几号。横棒8.0cm、縦棒9.0cm、横棒の幅1.0cm。靴で踏まれているため磨滅がみられる。

 

007 下谷通新町

(更新 19.11.22)

点   名

007 下谷通新町(したやとおりしんまち)

当時の場所

東京府 下谷通新町円通寺百観音石

現在の地名

東京都 荒川区南千住1丁目59-11  円通寺

海面上高距

3.6843m

前後の距離

下谷金杉 ← 1208.56m → 下谷通新町 ← 457.82m → 千住南組

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 下谷通新町
 3.6843m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Shimmachi
 3.6843m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 下谷通新町円通寺百観音石
 3.6843m/12.1582尺

照合資料 4

地理局 東京実測図
(下谷区通新町88)
  ―/12.2尺

照合資料 5

ナウマン論文
 Shtaya torishimachi
  3.68m/―

几号の現存有無

現存

解  説

境内に入って南側の「百観音碑」台石に刻まれている。
地理局雑報には「下谷新道通リ町」とあるが誤字(誤植)と判断し修正。

現地を調査した日

@2005年4月15日  A2015年4月19日

参考文献

東京近郊名所図会1、北郊の部其一、 東陽堂、1910年

 

「秩父 坂東 西國 百くわんおん 通新町圓通寺」 (裏)「明和元年甲申七月中浣」 
棹石高132.5cm、幅27cm。台石高(地表に出ている部分)13cm、幅61.5cm。

 


几号。横棒7.5cm、縦棒9.3cm、横棒の幅1.0cm。
台石の正面中央に刻まれているが几号の下半分は埋没している。

 

 


『東京近郊名所図会』第1巻、北郊の部其一 (明治43年2月、東陽堂発行) より。
明治後期における円通寺の門前を写した画像。「殉難幕臣之墓」の碑と並んで「百くわんおん」碑が建つ。その台石に刻まれた几号も横棒がはっきり見て取れる。

 

008 千住南組

(更新 19.09.14)

点   名

008 千住南組(せんじゅみなみくみ)

当時の場所

東京府 千住南組素戔男神社石華表

現在の地名

東京都 荒川区南千住6丁目60-1  素盞雄神社

海面上高距

4.1401m

前後の距離

下谷通新町 ← 457.82m → 千住南組 ← 2443.72m → 千住北組

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 千住南組
 4.1401m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Shimmachi
 4.1401m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 千住南組素戔男神社石華表
 4.1401m/13.6623尺

照合資料 4

ナウマン論文
 Susanoo bei Senji
 4.13m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 千住
  ―/1丈3尺7寸

几号の現存有無

現存

解  説

南正面の石鳥居左柱に刻まれている。

現地を調査した日

@2005年4月15日  A2015年4月19日

参考文献

※※※

 


石鳥居の全景

 


石鳥居の左柱に刻まれた几号。地表から横棒までの高さは87cm。

 


几号。横棒7.5cm、縦棒9.5cm、横棒の幅1.0cm。

 

009 千住北組

(更新 20.03.18)

点   名

009 千住北組(せんじゅきたぐみ)

当時の場所

東京府 千住北組五丁目鎮守八幡社内石碑

(千住宿北組字西中沼耕地 → 大字千住五丁目722番地)

現在の地名

移設前:東京都 足立区千住5丁目20-21から24まで
移設後:東京都 足立区千住大川町12-3  大川町氷川神社

海面上高距

2.8031m

前後の距離

千住南組 ← 2443.72m → 千住北組 ← 3850.10m → 保木間

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 千住駅北組
 2.8031m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 SENJI
 2.8031m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 千住北組五丁目鎮守八幡社内石碑
 2.8031m/9.2502尺

几号の現存有無

現存(移設)

解  説

千住大川町の氷川神社に移設された「紙漉きの碑」台石に刻まれている。

千住5丁目の八幡社は街道を挟んで安養院の北側にあった。境内は400坪余。現在はわずかな宅地と大部分が荒川の堤防敷になっている。日光道中分間延絵図には「八幡宮」、明治12年の実測東京全図には「八幡旅所」とある。明治44年の調査から始まった荒川放水路開削工事により神社は合祀され、石碑も大正初年には氷川神社に移設された。石碑の裏面には「再建費、一金拾六圓町内氏子中、一金拾参圓地漉組合、大正六年一月」と追刻されている。
そもそもこの石碑は天保14年6月に幕府から紙献上の用命があった記念碑であり、草加の狂歌師四角園草翁による紙漉きが農業に劣らぬ生業であることを詠んだ和歌が刻まれている。
台石正面には永続連という紙漉き組合の問屋21軒の名前が記されているが、几号はその正面の縁取りを大胆に削り取って刻まれている。
幕末に編まれた日光道中宿村大概帳の千住宿内往還ェ出る除地には「八幡宮 別当安養院 但、右社往還ゟ少々引込有之」と記されている。

現地を調査した日

@2005年4月15日(几号発見)  A2015年4月19日

参考文献

児玉幸多校訂:近世交通史料集6、日光・奥州・甲州道中宿村大概帳、1972年

 


紙漉きの碑。碑高135cm、台高55.5cm。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒幅1.2cm。

 

 
(左)明治44年.東京逓信管理局 「南足立郡千住町・北豊島郡南千住町全図」の一部
(右)同じ範囲の現在の地図(Mapion)
明治の地図では図の中心付近に境内地が赤く表示され「八幡」と見える。現在の地図では+印で神社があった場所を示した。荒川放水路の開削により地形が大きく変化し、神社だけでなく街道も消滅したことが如実にわかる。

 

010 保木間

(更新 20.03.18)

点   名

010 保木間(ほきま)

当時の場所

東京府 保木間村字増田増田橋石崖

現在の地名

東京都 足立区竹の塚2丁目・3丁目

海面上高距

3.2801m

前後の距離

千住北組 ← 3850.10m → 保木間 ← 2825.60m → 瀬崎

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 保木間村
 3.2801m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Jokimamura
 3.2801m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 保木間村字増田増田橋石崖
 3.2801m/10.8243尺

几号の現存有無

亡失

解  説

川は暗渠となり橋の痕跡は残っていない。交差点やバス停の名前に「増田橋」という地名が残されている。

幕末に編まれた日光道中宿村大概帳の千住宿并往還通間之村々道・橋・樋類・川除等には「保木間村 字増田橋 一、石橋 長九尺、横弐間」と記されている。

現地を調査した日

@2005年4月15日  A2015年4月19日

参考文献

児玉幸多校訂:近世交通史料集6、日光・奥州・甲州道中宿村大概帳、1972年

 


陸羽街道「増田橋交差点」から千住方面を見る。

 


上の画像と対角の場所から草加方面を見る。
現地に建つ標柱に「増田橋跡 北へ旧日光道中」とある。

 

 

 

以上で東京都は終了です。次は埼玉県に入ります。