064 白坂 (白河市白坂)
065 白坂 北 (白河市白坂) 几号現存
066 皮籠 (白河市白坂) 几号現存
067 白河 南 (白河市松並) 几号現存
068 白河 北 (白河市向寺)
069 萱根 (白河市萱根)
070 小田川 (白河市小田川)
064 白坂
(更新 20.07.12)
点 名 |
064 白坂(しらさか) |
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当時の場所 |
福島県 白坂駅北口観音寺門前供養塔 |
現在の地名 |
福島県 白河市白坂19番地 観音寺 |
海面上高距 |
405.1877m |
前後の距離 |
境の明神 ← 1481.80m → 白坂 ← 601.00m → 白坂 北 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
白坂山 照明院 観音寺。宗派:天台宗。福島百八地蔵霊場41番札所。
現在、観音寺の門前には供養塔はない。参道の石段を登り境内を探索すると観音堂と薬師堂が建つ場所に供養塔など10基程の石塔があった。しかし、残念ながらこれらには几号を確認できなかった。 |
現地を調査した日 |
@2012年12月16日 A2014年4月9日 |
参考文献 |
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観音寺の門前風景。陸羽街道を北に見ている。この先は白河の中心部に至る。
白い土蔵の背後に茶色の屋根の観音堂が見える。
門前正面から観音寺の堂宇を見る。この場所に供養塔は見当たらない。
参道の石段から街道側を見る。参道の南側は駐車場になっている。
観音堂と薬師堂がある高台に並ぶ石塔。庚申塔、念佛一百萬編供養塔、大乗妙典日本廻國供養塔、光明真言一百萬編供養塔など。ほかに法印大和尚号の墓石も混在している。
065 白坂 北
(更新 20.07.15)
点 名 |
065 白坂 北(しらさか きた) |
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当時の場所 |
福島県 白坂村字御林下馬頭観音供養塔 |
現在の地名 |
福島県 白河市白坂愛宕山 |
海面上高距 |
404.7414m |
前後の距離 |
白坂 ← 601.00m → 白坂 北 ← 1512.00m → 皮籠 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
明治10年 官省指令留 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
2004年、福島県庁文書『明治10年 官省指令留』に計9か所の几号を刻んだ石塔が記載されているのを確認し、私と相棒の畠山君は同年10月24日、白河市内の几号探索に出掛けた。白河の自転車屋で自転車を借りての銀輪部隊である。調査は白河の北方面を皮切りに次第に南下し、066皮籠の石地蔵を過ぎた時点で時計は午後3時を回っていた。見事、白坂の馬頭観音塔に几号を見つけ出したときには、秋の日差しは山かげに隠れ周囲は薄暗くなっていた。
台石に刻まれた几号は苔に覆われており、『官省指令留』に対象物の記載がなければ丹念に確認することもなく見落としていただろう。薄暗いなかでの几号の計測や碑文の判読は難儀した。しかし、お大師様との遍路旅ではないがそこは「同行二人」、2人で協力して調査をやり終えた。やはりひとりより2人は心強い。 |
現地を調査した日 |
@2004年10月24日(発見) A2005年4月10・18日 |
参考文献 |
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石3、仙台愛宕山経緯度測点・福島の高低几号、2005年 |
2004年10月24日、几号発見の際に撮影。山かげはすでに日も当たらなくて薄暗い。
右が几号の刻まれている文久元年(1861)建立の馬頭観世音大菩薩塔。
左は昭和57年(1982)建立の牛頭観世音塔。
馬頭観音塔の全景と、石塔の背後から陸羽街道を見た風景。道の先は皮籠に至る。
2005年4月10日撮影。自転車旅行の最中で午前8時40分に石塔の前を通過。
几号は台石正面のやや左寄りに刻まれている。これは石の形状によるものと思われる。
2005年4月18日撮影。几号。横棒9.0cm、縦棒10.3cm、横棒の幅1.2cm。
台石全体は青苔や白苔に覆われていて、几号の線刻にも風化現象が見受けられる。
石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※碑文はイメージ
碑文の判読は発見時に行ったきりで、紀年銘と署名には若干不安な文字がある。要確認。
066 皮籠
(更新 20.07.18)
点 名 |
066 皮籠 (かわご) |
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当時の場所 |
福島県 皮籠村字八幡社内地蔵塔台石 |
現在の地名 |
福島県 白河市白坂皮籠 |
海面上高距 |
382.7502m |
前後の距離 |
白坂 北 ← 1512.00m → 皮籠 ← 3100.00m → 白河 南 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
明治10年 官省指令留 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
佐藤栄一氏の「旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況1」(1989年)は皮籠の石地蔵を最北として報告を終えている。石地蔵の几号に関しては「たいへん見易い位置にあり、通りすがり一目で見つけることができた」と書いておられる。境の明神以北は『地理局雑報』という強い味方を失い、几号が刻まれていそうな石造物をひとつひとつ見て歩いての発見だったと思われる。
私は2004年に畠山君と初めて訪れる機会を得た。この時はすでに複数の書籍やインターネット上で本点几号の報告が行わていたので、形式的な計測程度で済ませた。しかし、これが今となっては後悔している。お地蔵様の建立年に関しては享保18年(1733)という報告もあるが、私たちは刻銘の確認を怠ってしまったのである。 |
現地を調査した日 |
@2004年10月24日 A2005年4月10日 B2015年2月8日 |
参考文献 |
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況1、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究27、1989年 |
2004年10月24日撮影。石地蔵の周囲は竹木が鬱蒼と生い茂っている。
2015年2月8日撮影。石地蔵の前を通る陸羽街道を南に見る。ベージュ色の建物は白河市消防団のポンプ置場。電話ボックスが見える敷地の奥に八幡神社と集会所がある。
石地蔵の正面全景。建立から相当の年月が経ている様子が見てとれる。
上台石に刻まれた几号。台石の右上角は大きく欠損している。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.3cm。線刻はしっかり残っている。
石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※坐像部は輪郭のみ
067 白河 南
(更新 20.07.25)
点 名 |
067 白河 南(しらかわ みなみ) |
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当時の場所 |
福島県 白河駅南口 旧舛形 追分道標石礎 |
現在の地名 |
福島県 白河市松並20番地(九番町) 権兵衛稲荷神社境内 |
海面上高距 |
369.0554m |
前後の距離 |
皮籠 ← 3100.00m → 白河 南 ← 3409.98m → 白河 北 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質調査所の図幅 |
几号の現存有無 |
現存(移設) |
解 説 |
権兵衛稲荷神社境内、参道脇にある石祠の基壇に几号が刻まれている。
高低測量が行われた明治10年当時、この周辺は白河の東京口にあたり、かつての枡形を出ると鬱蒼とした杉並木が境の明神まで続いていた。この権兵衛稲荷神社も深い木立に包まれ、参道には百を超える赤鳥居が建ち並んでいたという。付け加えれば、測量のわずか9年前には神社が鎮座する稲荷山周辺は戊辰戦争の激戦が繰り広げられた場所でもある。 |
現地を調査した日 |
@2004年10月24日(発見) A2005年4月10日 B2015年2月8日 |
参考文献 |
白河保勝会:白河案内、1901年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.奥游日録 (中山高陽:明和9年) |
調査回顧録 「街道 行ったり来たり」 |
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2004年10月24日に私と畠山君が自転車で白河市内の几号探索を行ったことは、すでに「065 白坂北」の解説で記した。白河の北方面の調査が空振りで終わり、午後は南方面に移動した。ここでは「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記された距離の表記を利用し、几号のある皮籠の石地蔵から北へ3100メートルの位置を目指した。
白河の市街地南部は街道に沿って一番町から九番町まであり、次第に3100メートルの推定地点に近づいてきた。神社・寺院、石造物を見落とさないよう注意しながら進み、ついに町場最後の九番町の家並みも終点となった。九番町の出口を東京方面に右折。やや進んだところで小さな神社を見つけた。権兵衛稲荷神社。自転車から降り入口から石灯籠、石鳥居などを見て回る。参道を少し進むと石祠がどっかと鎮座していた。その基壇に目をやれば探し求めていた几号が飛び込んできた。 われわれは大声で歓声をあげ握手をした。発見時刻午後2時5分。 |
上は2015年2月8日撮影
下は2004年10月24日撮影
街道側から狐石像(明治32年)、社号標、石灯籠、石鳥居(慶応3年)などが建ち並んでいたが、恐らく2011年の東日本大震災で倒壊したと思われる。
上は2015年2月8日撮影
下は2004年10月24日撮影
二の石鳥居、三の石鳥居も地震で倒壊してしまったのだろう。跡形もなくなっている。
上は2015年2月8日撮影
下は2005年4月10日撮影
石祠の基壇正面に几号が刻まれている。石祠の屋根は右下にひっくり返ってしまった。
※ 2020年現在の情報。落下した石祠の屋根は元の姿に戻っているとのことである。
石祠の基壇部分。参考までに基壇から上の構造物の総高を示せば、2004年の計測で石祠の屋根の頂部までで196センチメートルあった。
几号は亀裂が入り分断されている。寸法は横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.1cm。
奥州道中分間延絵図。白河宿南口(九番丁)の枡形が描かれている。枡形のどの位置にどのような道標が建っていたのだろうか。丸円で示した場所が権兵衛稲荷神社である。
068 白河 北
(更新 20.07.28)
点 名 |
068 白河 北(しらかわ きた) |
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当時の場所 |
福島県 白河向寺 鬼門薬師自然石崖 |
現在の地名 |
福島県 白河市向寺 |
海面上高距 |
347.8189m |
前後の距離 |
白河 南 ← 3409.98m → 白河 北 ← 2567.36m → 萱根 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
本点は前点「067白河南」権兵衛稲荷神社石祠(現存)からの距離と、後点「069萱根」二十三夜塔(几号未確認)からの距離で、早くから田町大橋の北詰と場所は推定できていた。しかし二度三度と現地を探索してみたが几号は見つからなかった。 |
現地を調査した日 |
2012年12月16日 |
参考文献 |
佃与次郎:山田音羽子とお国替絵巻、1930年、 国会図書館デジコレ |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.白河風土記 (広瀬典 編:文化2年) 巻之二 |
奥州道中分間延絵図。現在の田町大橋付近の様子である。右側から田町、大木戸、河原町、阿武隈川に架かる大橋、向寺町となっている。薬師堂は赤円の場所に描かれている。
(地図マピオンを加工)追手門を含む灰色の線は三の丸を囲んでいた掘の位置(推定)。
向寺の薬師堂は田町大橋の北詰に位置し、鬼門封じとしては納得できる場所である。
田町大橋の南詰から薬師堂があった場所を見る。流れは国内6位の長さを誇る阿武隈川。
向寺磨崖仏と呼ばれる岩壁。この画像の範囲に数々の磨崖仏や磨崖碑が確認されている。
右端は安政2年の「大勢至」石塔。碑の下の岩には大正15年に移設再興した旨が刻まれている。中央の木の陰には「大乗妙典五十部」(寛延4年)、不動明王像、祠、「大乗妙典六十六部」(年不明)などが刻まれている。(向寺磨崖仏の諸文献を参考。以下同じ)
仏龕(ぶつがん)と呼ばれる壁面の一区画に聖観音、勢至、阿彌陀、薬師、地蔵の尊像。中央は偈頌「衆病悉除、身心安樂」の文字。5体の石像も岩壁の前に安置されている。
丸太棒の陰には如意輪観音、中央仏龕の区画内には大慈観音像、文殊菩薩像、「奉納経典六十六部」(宝永3年)などが刻まれている。なお、画像の外になるが左方向には文字高が2メートルを超える「南無阿弥陀佛」の大書もある。
【本点を調査に行かれる方にお願い】
向寺磨崖仏がある場所は個人宅の敷地内です。たとえご不在の場合でも勝手に立ち入ることは厳に慎んでください。また、立ち入り調査をお許しをいただいた場合でも、常識ある行動を心掛け、気持ちの良い調査を行いましょう。 Web管理人(浅野)
069 萱根
(更新 20.07.31)
点 名 |
069 萱根 (かやね) |
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当時の場所 |
福島県 新小萱字寺山下二十三夜塔 |
現在の地名 |
福島県 白河市萱根三本木 |
海面上高距 |
331.9451m |
前後の距離 |
白河 北 ← 2567.36m → 萱根 ← 2832.60m → 小田川 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
明治10年 官省指令留 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
明治10年(1877)3月17日に新小萱(にこがや)村と根田(ねだ)村が合併し「萱根村」が成立した。照合資料では「新小萱」の表記もあるが、点名としては「萱根」で統一する。 |
現地を調査した日 |
2004年10月24日 |
参考文献 |
山岡光治:地図読み人になろう、地図の上で旧街道を歩く(白河−矢吹)、2009年 |
推定地点の前を通る陸羽街道を北に見る。この先は須賀川・郡山方面に至る。
二十三夜塔は防火用水池の奥に建っている。背後の山は石雲寺の裏山である。
二十三夜塔の全景。正面には「卄三𡖍」「岐雲 献書」と刻まれている。「卄」は「廿」、「𡖍」は「夜」の異体字である。台石を含まない碑の高さ198センチメートル、最大幅97センチメートル、側面幅14センチメートル。
背面には「安政三丙辰年十月吉日建」「石工白川万蔵」と刻まれている。
台石は土に埋もれているためその全容は不明であるが、確認できた横幅は130センチメートル、奥行70センチメートルといったところか。
070 小田川
(更新 20.08.03)
点 名 |
070 小田川(こたがわ) |
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当時の場所 |
福島県 小田川 里程標石崖 村中央 |
現在の地名 |
福島県 白河市小田川小田ノ里 |
海面上高距 |
314.5498m |
前後の距離 |
萱根 ← 2832.60m → 小田川 ← 3561.80m → 踏瀬 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
小田ノ里(旧小田川宿)は現在の国道4号線と東北自動車道に挟まれた地域である。 |
現地を調査した日 |
2005年4月18日 |
参考文献 |
太政官日誌、慶応4年 第35、1868年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.太政官日誌 (慶応4年・第35) |
明治9年6月14日の御小休所、元小泉太十宅。小田川駅の北側「下いづみ屋」という旅館であった。昭和初年当時、外観は昔のままであるが、家屋も敷地も人手に渡り小田川信用組合事務所として使用していた。この隣家の佐藤家は代々庄屋本陣問屋検断などを兼ねていたことから、本来なら御小休所の下命があるべきだったが、火災後の仮住宅であったため小泉家が御小休所に充てられた。「東巡録」に出てくる雪は甲子山から運んだと伝えられる。本題の几号探索としては右端の石垣に目がいってしまう。どれどれ几号は?
2005年4月18日撮影。小田川郵便局があるこの周辺が集落の中央にあたる。画像には写っていないが、郵便局向かいの辻には宝積院入口の石製道標が建っている。