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064 白坂 (白河市白坂)
065 白坂 北 (白河市白坂) 几号現存
066 皮籠 (白河市白坂) 几号現存
067 白河 南 (白河市松並) 几号現存
068 白河 北 (白河市向寺)
069 萱根 (白河市萱根)
070 小田川 (白河市小田川)

064 白坂

(更新 20.07.12)

点   名

064 白坂(しらさか)

当時の場所

福島県 白坂駅北口観音寺門前供養塔

現在の地名

福島県 白河市白坂19番地  観音寺

海面上高距

405.1877m

前後の距離

境の明神 ← 1481.80m → 白坂 ← 601.00m → 白坂 北

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 白坂駅 北口
 405.1877m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Shirasaka (Nordseite)
 405.1877m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 白坂駅北口観音寺門前供養塔
 405.1877m/1337.1194尺

照合資料 4

地質要報
 白坂駅
 411.5m(?)/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 白坂
 ―/133丈7尺

几号の現存有無

不明

解  説

白坂山 照明院 観音寺。宗派:天台宗。福島百八地蔵霊場41番札所。

現在、観音寺の門前には供養塔はない。参道の石段を登り境内を探索すると観音堂と薬師堂が建つ場所に供養塔など10基程の石塔があった。しかし、残念ながらこれらには几号を確認できなかった。
ご住職様にお話しを伺うと、数十年前まで街道から入った参道脇に1,2基の供養塔があったという。しかし、参道南側の畑を駐車場にする際に、これを観音堂のところに移動したとのこと。ただし、今となってはどの石塔だったか覚えていないという。
観音寺にある供養塔は観音堂の場所にあるものだけとのこと。そうなると考えられるのは次の2点である。
 1.台石の土に埋もれている部分に几号があるのか? 
 2.移設の際に台石は交換あるいは撤去してしまったのか?
台石の周囲を深く掘り返す時間もなかったので、几号探索のチラシなどを置いて観音寺を後にした。現時点では「亡失」とは言いがたく、さらなる調査が必要である。

現地を調査した日

@2012年12月16日  A2014年4月9日

参考文献

 

 


観音寺の門前風景。陸羽街道を北に見ている。この先は白河の中心部に至る。
白い土蔵の背後に茶色の屋根の観音堂が見える。

 


門前正面から観音寺の堂宇を見る。この場所に供養塔は見当たらない。

 


参道の石段から街道側を見る。参道の南側は駐車場になっている。

 


観音堂と薬師堂がある高台に並ぶ石塔。庚申塔、念佛一百萬編供養塔、大乗妙典日本廻國供養塔、光明真言一百萬編供養塔など。ほかに法印大和尚号の墓石も混在している。

 

065 白坂 北

(更新 20.07.15)

点   名

065 白坂 北(しらさか きた)

当時の場所

福島県 白坂村字御林下馬頭観音供養塔

現在の地名

福島県 白河市白坂愛宕山

海面上高距

404.7414m

前後の距離

白坂 ← 601.00m → 白坂 北 ← 1512.00m → 皮籠

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 白坂村字御林下
 404.7414m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Shirasaka
 404.7414m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 白坂村字御林下馬頭観音供養塔
 404.7417m(?)/1352.1476尺

照合資料 4

明治10年 官省指令留
 白坂村馬頭観世音大菩薩台(台自然石)
 ―/―

几号の現存有無

現存

解  説

2004年、福島県庁文書『明治10年 官省指令留』に計9か所の几号を刻んだ石塔が記載されているのを確認し、私と相棒の畠山君は同年10月24日、白河市内の几号探索に出掛けた。白河の自転車屋で自転車を借りての銀輪部隊である。調査は白河の北方面を皮切りに次第に南下し、066皮籠の石地蔵を過ぎた時点で時計は午後3時を回っていた。見事、白坂の馬頭観音塔に几号を見つけ出したときには、秋の日差しは山かげに隠れ周囲は薄暗くなっていた。

台石に刻まれた几号は苔に覆われており、『官省指令留』に対象物の記載がなければ丹念に確認することもなく見落としていただろう。薄暗いなかでの几号の計測や碑文の判読は難儀した。しかし、お大師様との遍路旅ではないがそこは「同行二人」、2人で協力して調査をやり終えた。やはりひとりより2人は心強い。
その後も何度かこの石碑の前を通る機会があったが、石碑にはいつも花が供えられている。人家から離れているのに感心なことである。

現地を調査した日

@2004年10月24日(発見)  A2005年4月10・18日

参考文献

浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石3、仙台愛宕山経緯度測点・福島の高低几号、2005年

 


2004年10月24日、几号発見の際に撮影。山かげはすでに日も当たらなくて薄暗い。
右が几号の刻まれている文久元年(1861)建立の馬頭観世音大菩薩塔。
左は昭和57年(1982)建立の牛頭観世音塔。

 

 
馬頭観音塔の全景と、石塔の背後から陸羽街道を見た風景。道の先は皮籠に至る。

 


2005年4月10日撮影。自転車旅行の最中で午前8時40分に石塔の前を通過。
几号は台石正面のやや左寄りに刻まれている。これは石の形状によるものと思われる。

 


2005年4月18日撮影。几号。横棒9.0cm、縦棒10.3cm、横棒の幅1.2cm。
台石全体は青苔や白苔に覆われていて、几号の線刻にも風化現象が見受けられる。

 

石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※碑文はイメージ

碑文の判読は発見時に行ったきりで、紀年銘と署名には若干不安な文字がある。要確認。

 

066 皮籠

(更新 20.07.18)

点   名

066 皮籠 (かわご)

当時の場所

福島県 皮籠村字八幡社内地蔵塔台石

現在の地名

福島県 白河市白坂皮籠

海面上高距

382.7502m

前後の距離

白坂 北 ← 1512.00m → 皮籠 ← 3100.00m → 白河 南

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 皮籠村
 382.7502m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kawagome
 382.7502m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 皮籠村字八幡社内地蔵塔台石
 382.7502m/1263.0757尺

照合資料 4

地質要報
 皮籠
 382.7m/―

照合資料 5

明治10年 官省指令留
 皮籠村石地蔵台石
 ―/―

几号の現存有無

現存

解  説

佐藤栄一氏の「旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況1」(1989年)は皮籠の石地蔵を最北として報告を終えている。石地蔵の几号に関しては「たいへん見易い位置にあり、通りすがり一目で見つけることができた」と書いておられる。境の明神以北は『地理局雑報』という強い味方を失い、几号が刻まれていそうな石造物をひとつひとつ見て歩いての発見だったと思われる。

私は2004年に畠山君と初めて訪れる機会を得た。この時はすでに複数の書籍やインターネット上で本点几号の報告が行わていたので、形式的な計測程度で済ませた。しかし、これが今となっては後悔している。お地蔵様の建立年に関しては享保18年(1733)という報告もあるが、私たちは刻銘の確認を怠ってしまったのである。
文化3年(1806)成立の「奥州道中分間延絵図」3巻を見ると、皮籠村「吉次八幡」の北側に「地蔵」と記されたお堂が描かれている。当時はお地蔵様を保護する鞘堂があったと思われる。
台石には傷みが目立つ。今後、この傷んだ台石に改修の手が入る可能性も十分考えられるので、なるべく早いうちに再訪(4度目の正直)を実現したい。

現地を調査した日

@2004年10月24日  A2005年4月10日  B2015年2月8日

参考文献

佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況1、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究27、1989年

 


2004年10月24日撮影。石地蔵の周囲は竹木が鬱蒼と生い茂っている。

 


2015年2月8日撮影。石地蔵の前を通る陸羽街道を南に見る。ベージュ色の建物は白河市消防団のポンプ置場。電話ボックスが見える敷地の奥に八幡神社と集会所がある。

 


石地蔵の正面全景。建立から相当の年月が経ている様子が見てとれる。

 


上台石に刻まれた几号。台石の右上角は大きく欠損している。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.3cm。線刻はしっかり残っている。

 

石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※坐像部は輪郭のみ

 

067 白河 南

(更新 20.07.25)

点   名

067 白河 南(しらかわ みなみ)

当時の場所

福島県 白河駅南口 旧舛形 追分道標石礎

現在の地名

福島県 白河市松並20番地(九番町) 権兵衛稲荷神社境内

海面上高距

369.0554m

前後の距離

皮籠 ← 3100.00m → 白河 南 ← 3409.98m → 白河 北

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 白川駅 南口 示道標
 369.0554m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 SHIRAKAWA
 369.0554m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 白川駅南口 旧舛形 追分道標石礎
 369.0554m/1217.8828尺

照合資料 4

地質調査所の図幅
 白河
 369m/―

几号の現存有無

現存(移設)

解  説

権兵衛稲荷神社境内、参道脇にある石祠の基壇に几号が刻まれている。

高低測量が行われた明治10年当時、この周辺は白河の東京口にあたり、かつての枡形を出ると鬱蒼とした杉並木が境の明神まで続いていた。この権兵衛稲荷神社も深い木立に包まれ、参道には百を超える赤鳥居が建ち並んでいたという。付け加えれば、測量のわずか9年前には神社が鎮座する稲荷山周辺は戊辰戦争の激戦が繰り広げられた場所でもある。
2004年に几号の現存を確認し、翌年に『宮城の標石3』でその旨を報告したが、その当時の推論として、几号の刻まれている基壇も含めて石祠全体が街道脇にあったのではないかと記述した。しかし、後年になって「福島県下高低几号所在」が発見され、これにより本点の附刻物は「南口 旧舛形 追分道標石礎」であると明らかになり、当時の推論は否定されることになった。
だが、解決とともに疑問も生まれた。一般的な道標をイメージした場合、その土台石の一辺が149センチメートル(約5尺)も必要だろうか。絵図など絵画的なものが残っていればはっきりするのだが、どのような形の道標が建っていたのか残念ながら確認できていない。石祠が載った現在と同じ組み合わせでは「道標」とは表現しないだろう。現状の形は几号の石が境内に移設されたのちに転用されたと推定している。
道標の謎は残ったままだが几号が失われずに残っていたことはお稲荷様の天佑といえる。ただし、残念なのは几号が真っ二つに割れていることである。上に載せた石組みの荷重と基礎の不安定さにより断裂したと想像されるが、亀裂の幅は大きく上下にズレも生じている。これじゃ「可哀そうだよ稲荷の几号 右と左に泣き別れ」である。

現地を調査した日

@2004年10月24日(発見)  A2005年4月10日  B2015年2月8日

参考文献

白河保勝会:白河案内、1901年
西白河郡役所:西白河郡誌、1915年
佃与次郎:山田音羽子とお国替絵巻、1930年、 国会図書館デジコレ
広瀬典:白河風土記、天之巻、堀川古楓堂、1932年
中山高陽:奥游日録、日本庶民生活史料集成3、三一書房、1969年
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石3、仙台愛宕山経緯度測点・福島の高低几号、2005年
東博 研究情報アーカイブズ、奥州道中分間延絵図 巻3 白川宿

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

1.奥游日録 (中山高陽:明和9年)
(境の明神)これを過て村屋なし。山道を経、白川に至る。入口に松林有、又杉木森々たり。
2.白河風土記 (広瀬典 編:文化2年) 巻之二
  新町
天神町ノ西ヨリ天神山ノ下ヲ南ヘ転シタル町ニテ町端喰違土居マデヲ新町トス、此町ノ内ヲ分チ一番丁二番丁三番丁七番丁九番丁トテ五段ニ分ツ
  九番丁
七番丁ニ続キタル町ニテ長サ百三十八間幅六間家数四十五軒、町ノ西尾食違ノ土居アリ其外ハ南郊江戸海道ナリ、寛政三辛亥年正月官ヘ聞シ、海道ノ両側境ノ明神迄二里ノ間、苗木ヲ植ヘ並木ノ如ク列シ、他日営造ノ用ニ供ス
3.御国替絵巻 (山田音羽子:弘化3年)
白川、誠によき御城下にて、町はゞ打ひらき、中にきよき流れ有て、馬すさまじく居る中に、小馬いくらもはねあるくていも中々めづらしく、出はなれて松なみ有、
4.白河案内 (白河保勝会 編:明治34年)
権兵衛稲荷社
九番町外れに在り、数百の赤鳥居、石階を挟みて林立す、毎歳初午を以て、祭典を執行す、賽人堵の如し
5.西白河郡誌 (西白河郡役所:大正4年)
小社 稲荷神社
白河町字松並にあり、境内二百四十四坪官有地なり、九番丁の入口に当る丘上にして社頭は古杉亭々として茂れり、社殿(縦一尺五寸・横二尺)、雨覆(縦一間半・横一間半)、拝殿(縦二間・横一間半)、石灯籠(八基)、盥水石(縦二尺五寸・横二尺八寸)、石段(六十階)、石鳥居二、一は高一丈二尺・明九尺、一は高九尺・明六尺、木鳥居(百二十基)
祭神倉稲魂命、勧請の年代未詳、俗に権兵衛稲荷と称し文政年間より信者漸く多く、旅舎旗亭貸座敷業者等特に信仰す、社殿は嘉永年間の再建にかゝる、旧稲荷大明神と称せしか明治二年十二月稲荷神社と改称す、祭日は陰暦六月二十二日なり

 

調査回顧録 「街道 行ったり来たり」
2004年10月24日に私と畠山君が自転車で白河市内の几号探索を行ったことは、すでに「065 白坂北」の解説で記した。白河の北方面の調査が空振りで終わり、午後は南方面に移動した。ここでは「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記された距離の表記を利用し、几号のある皮籠の石地蔵から北へ3100メートルの位置を目指した。

白河の市街地南部は街道に沿って一番町から九番町まであり、次第に3100メートルの推定地点に近づいてきた。神社・寺院、石造物を見落とさないよう注意しながら進み、ついに町場最後の九番町の家並みも終点となった。九番町の出口を東京方面に右折。やや進んだところで小さな神社を見つけた。権兵衛稲荷神社。自転車から降り入口から石灯籠、石鳥居などを見て回る。参道を少し進むと石祠がどっかと鎮座していた。その基壇に目をやれば探し求めていた几号が飛び込んできた。 われわれは大声で歓声をあげ握手をした。発見時刻午後2時5分。

 

 

 

 

 

上は2015年2月8日撮影
下は2004年10月24日撮影

 

街道側から狐石像(明治32年)、社号標、石灯籠、石鳥居(慶応3年)などが建ち並んでいたが、恐らく2011年の東日本大震災で倒壊したと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

上は2015年2月8日撮影
下は2004年10月24日撮影

 

二の石鳥居、三の石鳥居も地震で倒壊してしまったのだろう。跡形もなくなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

上は2015年2月8日撮影
下は2005年4月10日撮影

 

石祠の基壇正面に几号が刻まれている。石祠の屋根は右下にひっくり返ってしまった。
※ 2020年現在の情報。落下した石祠の屋根は元の姿に戻っているとのことである。

 

 


石祠の基壇部分。参考までに基壇から上の構造物の総高を示せば、2004年の計測で石祠の屋根の頂部までで196センチメートルあった。

 


几号は亀裂が入り分断されている。寸法は横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.1cm。

 


奥州道中分間延絵図。白河宿南口(九番丁)の枡形が描かれている。枡形のどの位置にどのような道標が建っていたのだろうか。丸円で示した場所が権兵衛稲荷神社である。

 

068 白河 北

(更新 20.07.28)

点   名

068 白河 北(しらかわ きた)

当時の場所

福島県 白河向寺 鬼門薬師自然石崖

現在の地名

福島県 白河市向寺

海面上高距

347.8189m

前後の距離

白河 南 ← 3409.98m → 白河 北 ← 2567.36m → 萱根

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 白川田町 阿武隈川北岸
 347.8189m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Abukumagawa (N.S.)
 347.8189m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 白川田町 鬼門薬師自然石崖
 347.8189m/1147.8024尺

照合資料 4

地質要報
 白河町
 347.8m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 白川 阿武隈川岸
 ―/114丈7尺

几号の現存有無

不明

解  説

本点は前点「067白河南」権兵衛稲荷神社石祠(現存)からの距離と、後点「069萱根」二十三夜塔(几号未確認)からの距離で、早くから田町大橋の北詰と場所は推定できていた。しかし二度三度と現地を探索してみたが几号は見つからなかった。
2010年になり本点の附刻物は「鬼門薬師自然石崖」と明らかになったが、翌年に発生した東日本大震災の影響で福島県内の調査は当面中止せざるを得ない状況となった。その間に文献の調査を行い、その結果「鬼門薬師自然石崖」がなんたるかもおおよそ判明した。
1.『高低几号所在』には地名が「白川田町」とあるが「白河 向寺」が正しい。
2.鬼門薬師と呼ばれた薬師堂は西へ2.6km行った西郷村長坂へ移転している。
  (西郷村長坂字長坂153番地。鬼門鎮護七仏薬師堂。村指定重要文化財)
3.薬師堂があった場所には岩壁に仏像などが刻まれた磨崖仏が残されている。
2012年12月、ようやく現地調査のため白河に向かった。
田町大橋を渡り向寺地区に入る。しかし予備知識を持って調査に臨んだにもかかわらず薬師堂があった場所にたどり着けない。地元の人に聞いてようやく場所が判明した。Iさんという個人宅の敷地内である。幸いこの日Iさんはご在宅で、訪ねてきた理由を説明し庭先へ通していただいた。
お庭に面して高さ4メートルほどの岩壁があった。近づくにつれ岩に刻まれた仏像や大きな文字が見えてきた。「これは几号があるかも知れないぞ」と思ったのだが、それもつかの間、岩壁の下には落ち葉が厚く堆積していたのである。その厚さは1メートルに達する場所もあった。この落ち葉のバリケードによって私の前進は遮られた。岩壁の前を右に左に移動して几号が刻まれていそうな高さの岩肌を探したが、近寄ることができないのでそれも難しい。残念無念。今回は何もできないままIさんに御礼を述べて失礼した。
その後は再び訪ねる機会がなく、現在の状況はわからない。
文化年間に成立した「奥州道中分間延絵図」を見ると、薬師堂の堂宇は山に囲まれているように描かれている。しかし現在は東側の岩壁が残るだけである。明治初期にお堂を長坂へ移設して以来、少しずつ山を崩して宅地にしたと想像される。今に残る磨崖仏の岩壁が有力地点であることに違いはないが、明治10年当時の風景を想像したとき几号が刻めそうな(刻みたくなるような)「自然石崖」はお堂の周囲にたくさんあったと考えられる。
鬼門観音の旧観はすでに失われているが几号まで湮滅したとは思いたくない。可能性は決して高くないが、磨崖仏の存在にとらわれることなく範囲を広げ探索を行う必要があると感じている。

現地を調査した日

2012年12月16日

参考文献

佃与次郎:山田音羽子とお国替絵巻、1930年、 国会図書館デジコレ
広瀬典:白河風土記、天之巻、堀川古楓堂、1932年
佐藤俊一:福島県の磨崖仏、蒼海社、1990年
福島県白河市:白河市史9、各論編1 民俗、1990年
小林源重:ふくしまの磨崖仏、1997年
福島県白河市:白河市史4、資料編1 自然・考古、2001年
佐々木豊蔵原著:道中記 乾・坤、佐々木康良、2006年
青木淳 著、大屋孝雄 写真・文:福島の磨崖仏、鎮魂の旅へ、淡交社、2017年
東博 研究情報アーカイブズ、奥州道中分間延絵図 巻3 白川宿

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

1.白河風土記 (広瀬典 編:文化2年) 巻之二
  田町
南北長サ二百四十三間幅五間四尺中ニ渠アリ、町ノ尾ニ大木戸アリテ仙台会津両街道ヨリ城下ヘノ入口ナリ、家数百三十一軒
  河原町
田町ニ属シタル町ニテ大木戸外南ヨリ北大橋ノ際マテヲ云、長サ四十六間三尺、幅ハ阿武隈川ノ南岸ニ連リテ空濶ナレハ間数定メガタシ、モトハ屋敷モ有リシ町並ナルカ享和三年六月廿四日洪水ニ流亡シケレバ、人ソノ水害ヲ懼ルヽニ依テ農商ヲ他ノ地ニ移シテ今ハ町ノ名ノミ残レリ
  大橋
橋長サ三十四間二尺幅一丈二尺、阿武隈川ニ架ス、橋ノ南ヲ河原町トシ北ヲ向寺町トス
  向寺町
南北長サ二百四間幅三間二尺計リ、大橋ノ北ニ続キタル町ニテ農商雑処シテ其ヨリ家人屋敷足軽長屋ニ続キタリ、屋数百三十一軒、町ノ尾ニ喰違ヒノ土居アリ
  甘露寺  
境内東西二十四間、南北十八間
大橋ノ東詰ニアリ、修験ニテ本山聖護院派ナリ、法雨山徳善院ト云フ
縁起ヲ按スルニ、後堀川院ノ御宇寛喜二年結城上野入道朝光長男大蔵権少輔朝広、居城鬼門鎮護ノタメ領中三城目村ヨリ七仏薬師如来ヲ此高岡艮の山上ニ勧請ス、山ハ往古ヨリ高岡ノ名アレトモ山ノ字ニテ岡ニハアラス、丹羽長重当城再築ノトキ山ノ麓ニ移シテ当城鬼門ノ鎮護トスト云
薬師堂   三間四方、本尊薬師如来七躯木仏立像、共ニ丈ケ一尺、定朝ノ作
2.御国替絵巻 (山田音羽子:弘化3年)
白川入口に大川有、らんかんの橋かゝりて両方に茶屋あり、左の方に休らふ。むかふの方には水野家の駕籠三四挺たて昼の休の様子なり。左のわきに大な岩の中に堂あり、其景色いわんかたなし、
3.佐々木豊蔵 道中記 (明治8年)
白川  此手前ニ大隈川アリ、賃三厘、此流れニ結構なる岩有、駅よろしき也
4.西白河郡誌 (西白河郡役所:大正4年)
西郷村  薬師堂
西郷村大字長坂にあり、民有地、堂 縦四間半・横三間
本尊、薬師如来、七体、木仏立像、中尊長九寸、他は七寸、定朝作と云伝ふ、昔は白河町字向寺に在りしを明治十四年八月今の地に移す、所謂白川七薬師の一にして、七薬師とは白河町萬持寺、小峯寺、米山、大沼村久田野、西郷村鶴生、古関村関山及白河町向寺甘露寺(今は廃してなし)薬師をいふなり、縁日は四月八日なり、
縁起云、(中略)丹羽五郎左衛門尉長重公、当小峯城修築の砌小峯城より鬼門に当る故城中安全武運長久子孫繁栄を祈る、之に依て代々の城主尊崇し奉れり、丹羽長重公改めて法雨山甘露寺と号し、(中略)祭礼は四月八日、年々会式作法あり、本尊薬師は定朝作、御丈七寸、中尊は九寸、尊体七仏、開帳本式は四十九年に一度之れ有り、別当は本山修験龍蔵院良雅、

 


奥州道中分間延絵図。現在の田町大橋付近の様子である。右側から田町、大木戸、河原町、阿武隈川に架かる大橋、向寺町となっている。薬師堂は赤円の場所に描かれている。

 


(地図マピオンを加工)追手門を含む灰色の線は三の丸を囲んでいた掘の位置(推定)。
向寺の薬師堂は田町大橋の北詰に位置し、鬼門封じとしては納得できる場所である。

 


田町大橋の南詰から薬師堂があった場所を見る。流れは国内6位の長さを誇る阿武隈川。

 


向寺磨崖仏と呼ばれる岩壁。この画像の範囲に数々の磨崖仏や磨崖碑が確認されている。

 


右端は安政2年の「大勢至」石塔。碑の下の岩には大正15年に移設再興した旨が刻まれている。中央の木の陰には「大乗妙典五十部」(寛延4年)、不動明王像、祠、「大乗妙典六十六部」(年不明)などが刻まれている。(向寺磨崖仏の諸文献を参考。以下同じ)

 


仏龕(ぶつがん)と呼ばれる壁面の一区画に聖観音、勢至、阿彌陀、薬師、地蔵の尊像。中央は偈頌「衆病悉除、身心安樂」の文字。5体の石像も岩壁の前に安置されている。

 


丸太棒の陰には如意輪観音、中央仏龕の区画内には大慈観音像、文殊菩薩像、「奉納経典六十六部」(宝永3年)などが刻まれている。なお、画像の外になるが左方向には文字高が2メートルを超える「南無阿弥陀佛」の大書もある。

 

【本点を調査に行かれる方にお願い】

向寺磨崖仏がある場所は個人宅の敷地内です。たとえご不在の場合でも勝手に立ち入ることは厳に慎んでください。また、立ち入り調査をお許しをいただいた場合でも、常識ある行動を心掛け、気持ちの良い調査を行いましょう。  Web管理人(浅野) 

069 萱根

(更新 20.07.31)

点   名

069 萱根 (かやね)

当時の場所

福島県 新小萱字寺山下二十三夜塔

現在の地名

福島県 白河市萱根三本木

海面上高距

331.9451m

前後の距離

白河 北 ← 2567.36m → 萱根 ← 2832.60m → 小田川

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 新小萱村
 331.9451m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Niogaya
 331.9451m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 新小萱字寺山下二十三夜塔
 331.9451m/1095.4188尺

照合資料 4

地質要報
 新小萱
 331.9m/―

照合資料 5

明治10年 官省指令留
 萱根村二十三夜塔台 台自然石
 ―/―

几号の現存有無

不明

解  説

明治10年(1877)3月17日に新小萱(にこがや)村と根田(ねだ)村が合併し「萱根村」が成立した。照合資料では「新小萱」の表記もあるが、点名としては「萱根」で統一する。
2004年10月24日に私と畠山君が自転車で白河市内の几号探索を行ったことは、すでに「065 白坂北」と「067 白河南」で触れてきた。本点はその日の午前中に訪れて調査を行った。
われわれは『明治10年 官省指令留』の「萱根村二十三夜塔台 台自然石」の記述と、『TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT』に記された距離を参考に推定地点を目指した。推定した場所には望みどおり二十三夜塔が建っていたのであるが、残念ながら台石は埋もれていて几号の有無は確認できない。できることなら掘り返してみたかったのであるが、いかんせん地元の方が植えたと思われる植物があり掘り返しは断念した。
「068 白河北」からの距離による推定地点周辺では、この石塔以外に二十三夜塔は見当たらないことから、几号の刻まれた石塔はこれで間違いないと見ているが、移設や撤去されている可能性もゼロではないことを付け加えておく。
後日、須賀川市在住で伊能忠敬など測量史全般を調査研究されている松宮輝明様が、われわれの話を聞いて本点を確認しに訪ねていただいた。その当時のお話しでは「地元の方に事情を説明したところ掘り返すことができそうだ」と伺った。しかし東日本大震災の発生などもあって掘り返し計画は中断したままである。ほかにどなたかが掘り返したという情報も聞こえてこないので、今も当時と同じ状況と思われる。
いずれ几号の「ある」「なし」ははっきりとさせなければならない。

現地を調査した日

2004年10月24日

参考文献

山岡光治:地図読み人になろう、地図の上で旧街道を歩く(白河−矢吹)、2009年

 


推定地点の前を通る陸羽街道を北に見る。この先は須賀川・郡山方面に至る。

 


二十三夜塔は防火用水池の奥に建っている。背後の山は石雲寺の裏山である。

 

  
二十三夜塔の全景。正面には「卄三𡖍」「岐雲 献書」と刻まれている。「卄」は「廿」、「𡖍」は「夜」の異体字である。台石を含まない碑の高さ198センチメートル、最大幅97センチメートル、側面幅14センチメートル。

 

   
背面には「安政三丙辰年十月吉日建」「石工白川万蔵」と刻まれている。
台石は土に埋もれているためその全容は不明であるが、確認できた横幅は130センチメートル、奥行70センチメートルといったところか。

 

 

070 小田川

(更新 20.08.03)

点   名

070 小田川(こたがわ)

当時の場所

福島県 小田川 里程標石崖 村中央

現在の地名

福島県 白河市小田川小田ノ里

海面上高距

314.5498m

前後の距離

萱根 ← 2832.60m → 小田川 ← 3561.80m → 踏瀬

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 小田川村
 314.5498m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Otagawa
 314.5498m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 小田川 里程標石崖 村中央
 314.5498m/1038.0143尺

照合資料 4

地質要報
 小田川
 314.5m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 小田川
 ―/103丈8尺

几号の現存有無

不明

解  説

小田ノ里(旧小田川宿)は現在の国道4号線と東北自動車道に挟まれた地域である。
福島県内では至るところに戊辰戦争の歴史が残るが、小田川周辺でも戦闘が行われている。(下記の「この付近の様子を記した紀行文や記録など」を参照)
さて「059 寺子黒川」でも几号の附刻物は「里程標」であった。(059 寺子黒川)
高低測量が行われた当時、里程標の標柱は真新しく、この制度も末永く続くと想像したのだろうが、現実はそうではなかった。残念なことであるが里程標や掲示場の石垣を不朽物と見なしたのは適切でなかったと言える。
本点の石崖、すなわち石組み・石垣は、役目を終えたあとどのうような運命をたどったのであろうか。
私が調査した2005年当時はまだ「村中央の里程標石崖」とは知らない時分だったので、小田川の集落をただ漠然と通り過ぎただけであった。しかし、その時も感じたのだが、実際に歩いた感触として、どこかの家の石垣や建物の土台石などに再利用されているのではないかと思う場所が少なからず見受けられた。几号の石は粉々に割られたり、土中に埋もれたりもせず、集落のどこかでひっそりと生き残っているのではないだろうか。希望的観測ではあるが私はそうであることを願っている。

現地を調査した日

2005年4月18日

参考文献

太政官日誌、慶応4年 第35、1868年
防衛省防衛研究所蔵:明治元年5月 諸願窺届留 波11
下飯坂秀治:仙台藩戊辰史 巻2、1902年
明治天皇聖蹟保存会:明治天皇聖蹟、東北北海道御巡幸 上、1931年
福島県教育会:明治天皇御巡幸録、1936年
明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年
山岡光治:地図読み人になろう、地図の上で旧街道を歩く(白河−矢吹)、2009年

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

1.太政官日誌 (慶応4年・第35)
大垣藩届書写
五月廿一日九ツ時過采女正人数斥候隊為巡邏、仙台街道泉田宿迄罷越候処、左ノ山手ヨリ賊砲発イタシ候ニ付当手ヨリモ発砲、山手ノ方迄追々進撃之処賊敗走、小田川宿左山手迄追討仕七ツ時頃人数引揚申候
一、廿五日薩長藩及弊藩斥候隊仙台街道巡邏之処、小田川宿先キ化地蔵辺山上ヨリ賊復発砲候ニ付、右三藩ヨリモ同様進撃太田川宿先迄追込賊散乱イタシ、八ツ時以前人数引揚申候
2.軍務官記録 諸願窺届留 波11 (慶応4年5月25日)
一、小田川と申所ニ賊弐百人程罷出候処、薩州四十人・大垣二十人・長州二十人巡邏ニ出兵之所ニテ戦ニ相成候由、追々賊兵逃去候旨、賊方七八人程被打殺、官軍ニテモ薩二人戦死・怪我人弐人・大垣手負弐人有之、尤小田川焼失
3.仙台藩戊辰史 (慶応4年)
五月廿一日、我士細谷十太夫須賀川ニアリ、細作(さいさく。密偵)来リ報シテ曰ク、敵兵進撃ノ兆アリ請フ警戒セヨト、十太夫部下六十七名ヲ率ヰテ小田川ニ進ミシニ、敵兵已ニ七曲ノ山上ニ整列シテアリ、十太夫部下ニ令シ六十七名抜刀シテ一散ニ敵兵ヲ突ク、敵辟易シテ退ク、十太夫追撃セント欲シテ日脚ヲ見ルニ既ニ晡(ひぐれ)ヲ過キテ軍ニ後援ナシ、因テ兵ヲ収メ帰リテ太田川ニ至レハ、敵兵前面ノ山上ニアリテ銃ヲ発シテ戦ヲ挑ム、此時白石勢一小隊来リ援ク、我亦銃ヲ発シテ応戦シ敵兵五名ヲ斃ス、我兵一名傷キ暫時ニシテ止ム
4.東巡録 (明治9年)
六月十四日晴。四五旬来此爽快無シ。白河駅例刻発輦。駅外逢隈川ヲ渡ル。八時小田川駅小泉太十ノ許ニ憩ハセラル。雪数塊ヲ供シ群臣ニ及ブ。小泉氏亦梨実数顆ヲ出シ、天覧ヲ乞フテ云フ、村人賜覧ノ果実ヲ頒チ以テ駆疫截瘧ノ用ニ供セントスト。

 


明治9年6月14日の御小休所、元小泉太十宅。小田川駅の北側「下いづみ屋」という旅館であった。昭和初年当時、外観は昔のままであるが、家屋も敷地も人手に渡り小田川信用組合事務所として使用していた。この隣家の佐藤家は代々庄屋本陣問屋検断などを兼ねていたことから、本来なら御小休所の下命があるべきだったが、火災後の仮住宅であったため小泉家が御小休所に充てられた。「東巡録」に出てくる雪は甲子山から運んだと伝えられる。本題の几号探索としては右端の石垣に目がいってしまう。どれどれ几号は?

 


2005年4月18日撮影。小田川郵便局があるこの周辺が集落の中央にあたる。画像には写っていないが、郵便局向かいの辻には宝積院入口の石製道標が建っている。