000 霊巌島 (中央区新川2丁目)
001 京橋 (中央区京橋3丁目)
002 一石橋 (中央区八重洲1丁目) 几号現存
003 万世橋 (千代田区神田須田町1丁目)
004 上野広小路 (台東区上野4丁目)
005 上野信濃坂 (台東区上野7丁目)
000 霊巌島
(更新 19.07.06)
点 名 |
000 霊巌島(れいがんじま) |
---|---|
当時の場所 |
@ 東京府 霊巌島水位標几号石 |
現在の地名 |
東京都 中央区新川2丁目 |
海面上高距 |
2.5718m |
前後の距離 |
霊巌島 ← 1496.45m → 京橋 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
参謀本部 東京図測量原図 |
照合資料 6 |
地理局 東京実測図 |
几号の現存有無 |
亡失 |
解 説 |
水位標は明治6年の設置。当時の場所にシンボル柱が設置されている。 |
現地を調査した日 |
2005年4月16日 |
参考文献 |
※※※ |
〔東京都公文書館 『寮司往復』 明治9年 607.C2.8〕
中央大橋から見た点名「霊巌島」の景色。左側に現在の水位観測所が見える。
現地に設置されている解説パネル。その1。
解説パネル。その2。 東日本大震災後、標高などの記述は改められていると思われる。
001 京橋
(更新 19.07.06)
点 名 |
001 京橋(きょうばし) |
---|---|
当時の場所 |
東京府 京橋石欄干石柱(北ノ方) |
現在の地名 |
東京都 中央区京橋3丁目5番先 |
海面上高距 |
4.8242m |
前後の距離 |
霊巌島 ← 1496.45m → 京橋 ← 1255.86m → 一石橋 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
参謀本部 東京図測量原図 |
照合資料 6 |
地理局 東京実測図 |
照合資料 7 |
ナウマン論文 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
京橋は従来の木造橋から明治8年に長さ11間、幅8間の石造アーチ橋となり、欄干もすべて花崗岩の石造となった。その橋は市区改正事業により明治34年に長さ・幅共に10間の鉄橋に架け替えられたが、石造欄干はそのまま再利用された。(下の古写真はその当時のもの) しかし、大正11年の拡幅工事により再び架け替えられ、近代的な照明付きの親柱となり明治の欄干は姿を消した。この橋も昭和38〜40年の京橋川埋め立てに伴い撤去され、現在は京橋跡に明治の親柱2本と、大正の親柱1本が保存されている。几号が刻まれた場所、すなわち北詰東側には現在「京橋」と刻まれた明治の親柱が往時の形見として建っている。
問題は日比谷公園にある明治の京橋欄干石柱である。ほぞ穴から見て親柱でないことは明白である。かつては「京橋」と刻まれた親柱とともに大正11年の架け替えの際に移設されたようだが、「京橋」銘の親柱は昭和9年に京橋へ戻り、この1本だけが日比谷公園に残されて今日に至っている。さてさて親柱でもない欄干柱を移設保存した理由とは何か? もしこの石柱に几号が刻まれているとしたら土の中となる。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月16日 A2009年4月8日(日比谷公園) |
参考文献 |
京橋図書館、郷土室だより、第62号、1989年
京橋協会、京橋繁盛記、1912年 |
〔東京都公文書館『各寮使庁府県 往復録 9〜12月 第二部 土木』明治9年 607.C4.9〕
京橋の欄干が石造擬宝珠当時の古写真や絵葉書は数多く残されているが、几号を刻んだ石柱が写っているものは数が少ない。画質は悪いがその中の1点。(京橋繁盛記) 地理寮の図面に基づけば矢印の先に几号が刻まれていると思われる。
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京橋跡 「京橋」銘の親柱 日比谷公園に残る欄干石柱
002 一石橋
(更新 19.07.11)
点 名 |
002 一石橋(いちこくばし・いっこくばし) |
---|---|
当時の場所 |
東京府 一石橋際迷子知ルヘ石 |
現在の地名 |
東京都 中央区八重洲1丁目11 |
海面上高距 |
2.9227m |
前後の距離 |
京橋 ← 1255.86m → 一石橋 ← 2099.32m → 万世橋 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
地理局 東京実測図 |
照合資料 6 |
ナウマン論文 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
一石橋のたもとに保存されている東京都指定有形文化財(歴史資料)の「迷子しらせ石標」に刻まれている。
現在のような情報網もなかった江戸から明治の時代に迷子の探索に用いたものの一つに「迷子しらせ石標」があった。一石橋に建立された石標の銘文は正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側面「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」とある。左側面に尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、心当たりの人は右側面にその旨を知らせる紙を貼って知らせたという。現地の解説パネルによれば碑の総高175.7cm、このうち棹石は163cm、台石は12.7cm。棹石の正面幅36cm、奥行26cm。台石の正面幅70cm、奥行68.5cmとなっている。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月16日 A2016年10月20日 |
参考文献 |
長沢利明:迷子の石標、講談社学術文庫、江戸東京の庶民信仰p122-132、2019年 |
明治5年頃の古写真。一石橋の南側から常盤橋を望む。一石橋の南詰西側に石標が見える。現在と違って正面は道路側(東)を向いている。石標の左隣にある黒い物体は人力車である。
現在の一石橋と「迷子しらせ石標」
一時期はフェンスで厳重に囲まれていたが整備されて景観が良くなった。
几号。伝存状態は良い。
003 万世橋
(更新 19.08.07)
点 名 |
003 万世橋(よろずよばし・まんせいばし) |
---|---|
当時の場所 |
東京府 万世橋石欄干(南ノ方) |
現在の地名 |
東京都 千代田区神田須田町1丁目 |
海面上高距 |
4.8704m |
前後の距離 |
一石橋 ← 2099.32m → 万世橋 ← 1517.50m → 上野広小路 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
地理局 東京実測図 |
照合資料 6 |
ナウマン論文 |
几号の現存有無 |
亡失 |
解 説 |
元の交通博物館西側。橋は撤去解体。親柱のみ神田明神に移設されている。 |
現地を調査した日 |
2005年4月16日 |
参考文献 |
※※※ |
〔東京都公文書館『各寮使庁府県 往復録 9〜12月 第二部 土木』明治9年 607.C4.9〕
古写真。北詰の西側から見た万世橋。地理寮の図面に基づけば対岸の右から2本目の欄干石柱に几号を刻んだことになっている。
浮世絵「東京開化名勝筋違万代橋景」の一部。上の古写真とほぼ同じ場所から見た構図である。古写真には写っていないが南詰には迷子知らせ石標があったことがわかる。
2005年に当時の交通博物館の西側から撮影した風景。現在は周囲の建物も様変わりしてしまったが、道の直線上にある煉瓦高架橋は今も変わっていない。その高架橋の場所が初代万世橋の南詰である。
神田明神に移設された万世橋の親柱。『東京開化繁昌誌』(萩原乙彦、明治7年)から万世橋の記事を引用すれば「欄干の親柱に大書して萬世橋と彫したるは北より昇る右手に立てり。南より進む右手の柱に与路徒よ橋と大字に刻せし仮字は運筆至妙」とある。(与路徒よ橋=よろつよ橋) 残念ながら背丈の低い親柱だけが残されて、几号が刻まれた石柱は姿を消してしまった。
004 上野広小路
(更新 19.08.03)
点 名 |
004 上野広小路(うえのひろこうじ) |
---|---|
当時の場所 |
東京府 上野広小路常楽院中地蔵台石 |
現在の地名 |
東京都 台東区上野4丁目 |
海面上高距 |
5.7998m |
前後の距離 |
万世橋 ← 1517.50m → 上野広小路 ← 1072.45m → 上野信濃坂 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
地理局 東京実測図 |
照合資料 6 |
ナウマン論文 |
几号の現存有無 |
亡失 |
解 説 |
現在はABAB赤札堂本社ビル。寺は調布市に移転し、移転先にも石地蔵は見当たらない。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月16日 A2005年4月16日 B2008年12月13日(調布・常楽院) |
参考文献 |
※※※ |
浮世絵『名所之内上野』(歌川芳盛・慶応4年)の一部。官軍が上野寛永寺に向かって進むさまを描いている。常楽院は右上の「六アミダ」と表示のある場所になる。建ち並ぶ町屋の間にある冠木門(表門)をくぐって境内に入る構造が理解できる1枚である。境内の奥に見えるのは唐銅多宝塔であろうか。(下記の書き出しを参照)
武蔵国豊島郡上野広小路二十五番地
本山 近江国滋賀郡 延暦寺末 天台宗 常楽院
一、本堂内陣土蔵 九坪
安政二乙卯年十月震災ノ節寺院不残類焼、安政五午年八月檀家井口源左衛門外五人世話
人信施ヲ以テ再建前住慈栄代
一、同拝殿仮屋 拾壱坪
慶応四辰年五月十五日兵火ニテ寺院類焼、土蔵相残リ同年六月前住慈栄建之
一、閻魔堂土蔵造 三坪三合三勺
乙卯震災ノ節類焼之処明治八年一月再建
一、観音堂 四尺四方
慶応四辰年焼失明治六年再建
一、六地蔵尊 石仏石台
明治六年十二月上屋根久保盛一寄進
一、地蔵尊 石仏石台壱ケ所
明治六年十二月上屋根久保盛一寄進
地理寮ヨリ台石ヘ印シ御彫附
一、唐銅多宝塔 石台壱ケ所
宝永年中念仏同行中寄附、焼損ニ付安政三年修復石台新調
一、石手洗鉢 壱ケ所
宝永三年二月霊岸島南新川相模屋伊兵衛寄進、慶応四辰年上屋根焼失後木村宇兵衛寄進
右之通相違無之候也
明治十年八月 右寺住職 高志慈隆(印)
〔東京都公文書館 『明治十年調製 天台宗明細簿』 明治10年 633.D3.1〕
地蔵台石に几号を刻んで間もない時に常楽院が提出した書き出し。記事は附図に関連した部分のみを掲載した。注目は地蔵尊の項に「地理寮ヨリ台石ヘ印シ御彫附」と記されている点である。まさに台石に几号が刻まれていることを報告している。住職にとっては印象深い出来事だったのだろう。なお、附図における地蔵尊の場所は赤い線で囲んだ。これは地理局の『東京実測全図』に記された几号の位置とも合致している。
005 上野信濃坂
(更新 19.08.13)
点 名 |
005 上野信濃坂(うえのしなのさか) |
---|---|
当時の場所 |
東京府 上野信濃坂下供養塔台石 |
現在の地名 |
東京都 台東区上野7丁目 |
海面上高距 |
5.2931m |
前後の距離 |
上野広小路 ← 1072.45m → 上野信濃坂 ← 1048.20m → 下谷金杉 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
ナウマン論文 |
几号の現存有無 |
亡失 |
解 説 |
現在はJR上野駅北側の線路敷地内。何の供養塔かは特定できていない。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月16日 A2015年4月19日 |
参考文献 |
※※※ |
『東叡山内外分間絵図面』(国立国会図書館・古典籍資料)の一部。
常楽院近くの三橋から坂下門の門外善養寺までの範囲である。凌雲院から下るのが車坂、慈眼堂の前から下るのが屏風坂、慈眼堂と御霊屋の間から下るのが信濃坂である。坂の下に建ち並ぶのは寛永寺の子院群で、現在はJR上野駅と線路敷地になっている。
(この画像はクリックすると拡大表示します)
両大師橋から信濃坂があった場所を望む。山際を走る京浜東北線と山手線の線路敷地が高低測量の経路にあたる。画像の中心付近が信濃坂の下である。
望遠で坂の下だった場所に寄ってみる。左側の緑の斜面に信濃坂の坂道があった。
『東叡山内外分間絵図面』の信濃坂付近を拡大。
信濃坂下と坂下門の間には新門稲荷なるものが存在したが、各種絵図や史料を見ると坂下門寄りである。(下図参照) それでは信濃坂の下の四角の表示はなんであろうか。(原図に矢印と?を加筆) その答えはまだ見つかっていない。
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【参考】 左は『東叡山総絵図』(明治6年)の一部。新門(坂下門)の内側に新門稲荷と表示がある。右は『江戸名所図会』から「東叡山坂本口」の図の一部。新門(坂下門)付近を俯瞰したもので、これには門の内側にはっきりと鳥居が描かれている。(ともに国立国会図書館・古典籍資料) ※ 坂本へ出る坂本口の門は坂下門・金杉門・新門などと呼ばれた。普段は使用されなかったという。