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017 堤根 (杉戸町堤根) 几号現存
018 下高野 (杉戸町下高野大島) 几号現存
019 茨島 (杉戸町茨島) 
020 幸手 (幸手市中2丁目) 几号現存
021 小右衛門 (久喜市小右衛門) 几号現存
022 栗橋 (久喜市栗橋)

017 堤根

(更新 19.12.19)

点   名

017 堤根(つつみね)

当時の場所

埼玉県 堤根村二百六番屋敷九品寺  青面金剛供養塚

現在の地名

埼玉県 杉戸町堤根3913  九品寺境内

海面上高距

9.7396m

前後の距離

粕壁 ← 3376.10m → 堤根 ← 5026.00m → 下高野

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 堤根村
 9.7396m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Isutsumine
 9.7396m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 堤根村二百六番屋敷九品寺  青面金剛供養塚
 9.7396m/32.1407尺

照合資料 4

地質要報
 堤根村
 9.7m/―

几号の現存有無

現存(石碑は移動している可能性あり)

解  説

道しるべを兼ねた青面金剛(しょうめんこんごう)碑に刻まれている。青面金剛は庚申講の本尊であり、庚申の日の夜に人の行いを天帝に告げるといわれる三尸の虫を押さえる神とされる。この石碑は天明4年(1784年)に堤根村の庚申講の人々が建立したものである。

現地を調査した日

@2005年4月14日  A2015年4月17日

参考文献

※※※

 


九品寺の門前。陸羽街道を北に見る。赤い矢印の先に青面金剛碑は建っている。
ただし、現在の位置では青面金剛碑に刻まれた「左日光・右江戸」という「道しるべ」は正しく示していない。何らかの時点で現在地へ移動されたと思われる。
画面左側の脇道から日光街道(陸羽街道)に出てきた人のために道路向かいカーブミラーのあたりに青面金剛碑が建っていたと考えるのが妥当であろう。

 


青面金剛碑を右端に入れて陸羽街道を南に見る。この先は春日部に至る。

 


陸羽街道側から青面金剛碑を見る。石碑としては右側面にあたる。台石に几号あり。
貴重な文化財として町が「青面金剛碑兼道しるべ」の解説板を設置している。
脇に建つ小碑は馬頭観世音塔である。

 


  左側面「左日光」      正面「青面金剛」       右側面「右江戸」
右側面には他に小文字で「武州葛飾郡幸手領堤根村」とあり。
背面には「天明四甲辰歳十一月吉日」(=1784年)と石工の名前など。

 


下から2番目の台石、その左寄りに几号が刻まれている。

 


几号。横棒8.9cm、縦棒9.9cm、横棒の幅1.3cm。
石が風化して判読が難しいが几号は青面金剛碑の建立に関わった人々の名前の上に刻まれている。このような例はほかにも見られるが、石碑も几号も大好きな者としては複雑な心境である。

 

018 下高野

(更新 19.12.25)

点   名

018 下高野(しもたかの)

当時の場所

埼玉県 下高野村字小谷堀株厳島境内石燈籠

現在の地名

埼玉県 杉戸町下高野字大堀向道下2089  厳島神社

海面上高距

7.7776m

前後の距離

堤根 ← 5026.00m → 下高野 ← 892.20m → 茨島

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 下高野村
 7.7776m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Shimo Yakano
 7.7776m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 下高野村字小谷堀株厳島境内石燈籠 ※原本には「小谷塚株」とあり
 7.7776m/25.6661尺

照合資料 4

地質要報
 下高野村
 7.8m/―

几号の現存有無

現存

解  説

厳島神社境内にある石灯籠の台石に几号が刻まれている。

「小谷堀株」の「小谷堀」は下高野村の小名であり、「株」は「集落」「組」「垣内」などと同様に小規模な地域の集団を意味している。新編武蔵風土記稿で下高野村周辺を見ても「〇〇株」と表記され小名が散在している。神社境内にある文政5年建立の庚申塔にも「武州葛飾郡幸手領下高野村内小谷堀」と刻まれている。
地理局雑報には「小谷株」とあるがこれは誤植である。

現地を調査した日

@2005年4月14日  A2015年4月17日

参考文献

新編武蔵風土記稿、巻之35、5丁ウラ、下高野村、内務省地理局、1884年

 


厳島神社の門前。陸羽街道を北に見る。この先は幸手に至る。
社殿脇の建物は小谷堀集会所。

 


厳島神社の全景と几号の刻まれた石灯籠。

 


石灯籠。刻銘「御神燈」「嘉永四亥歳十二月十五日」(=1851年)
石灯籠は左右一対ではなく一基のみ奉納されたと思われる。

 


几号は街道側に面した台石に刻まれている。

 


2005年に撮影した几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.3cm。

 


2015年に撮影した几号。
台石の風化は10年間で確実に進行した。几号の線刻に影響が及ぶ前に何らかの対処が必要である。 地元の皆さん、几号の保全にご協力をお願いいたします

 

019 茨島

(更新 20.03.18)

点   名

019 茨島(ばらじま)

当時の場所

埼玉県 茨島村下高野村界標傍石橋石崖

現在の地名

北詰 西側 埼玉県 幸手市上高野2070番地1地先 / 東側 杉戸町茨島753番地先

南詰 西側 埼玉県 杉戸町高野台東1丁目9番7号地先 / 東側 茨島750番地1地先

海面上高距

7.4671m

前後の距離

下高野 ← 892.20m → 茨島 ←2848.60m → 幸手

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 下高野村
 7.4671m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Barajima
 7.4671m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 茨島村下高野村界標傍石橋石崖
 7.4671m/24.6414尺

照合資料 4

地質要報
 茨島村
 7.4m/―

几号の現存有無

亡失

解  説

杉戸町と幸手市の境界。当時の石橋を確認することはもはや不可能である。

地理局雑報には茨島村と高野村の境界とあるが、正しくは茨島村と高野村の境界である。
明治8年頃の茨島村地誌(武蔵国郡村誌)には「陸羽街道 村の南方下高野村界より北方上高野村界に至る、長二町四十二間巾六間、両側に柳の並木あり」と記す。また河渠の項目には「大石橋 陸羽街道に属し村の北方伊勢堀の中流に架す、長二間巾二間、石橋」とある。この大石橋が几号の刻まれた石橋と推定している。
幕末に編まれた日光道中宿村大概帳の杉戸宿并間之村々往還通道・橋・樋類・川除等には「茨島村 字伊勢堀 一、石橋 長弐間壱尺、横弐間」と記されている。

現地を調査した日

@2005年4月14日  A2015年4月17日

参考文献

埼玉県編:武蔵国郡村誌、第14巻、p282-284茨島村、埼玉県立図書館、1955年

児玉幸多校訂:近世交通史料集6、日光・奥州・甲州道中宿村大概帳、1972年

 


茨島歩道橋から陸羽街道を北に見る。この先は幸手に至る。
赤の破線で記したところが明治の地誌に記された伊勢堀の流路と大石橋の位置を示している。当時の大石橋の幅は2間(3.6m)とあるので明らかに拡幅された現状がわかる。
※ なお、現在この水路は「千石用水路」と呼ばれているが、本項では便宜的に当時の「伊勢堀」「大石橋」の名称を用いて説明している。

 


伊勢堀を挟んで反対側から陸羽街道を南に見る。この先は杉戸・春日部方面。
左側、小道に沿ってフェンス越しに伊勢堀が流れている。

 


伊勢堀の流れと大石橋の現状。
地理局雑報に記された「石橋石崖」を確認することは不可能である。流れは牛丼屋さんの看板左下から来ている。長崎市内のとある石橋が舗装道路の下に残されていた例もあるが、往来の激しい国道4号線においてはそのような可能性を望むほうが無理だろう。

 


上の画像とは陸羽街道を挟んで反対側の様子。
伊勢堀には蓋が掛けられ、堀の両側は幸手市の上高野自転車駐車場となっている。

 

020 幸手

(更新 20.01.28)

点   名

020 幸手(さって)

当時の場所

埼玉県 幸手駅字馬之助神明社石燈籠

現在の地名

埼玉県 幸手市中2丁目1-5(旧表示:大字幸手字右馬之助町6249) 神明神社

海面上高距

9.3721m

前後の距離

茨島 ← 2848.60m → 幸手 ← 6558.10m →小右衛門

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 幸手駅
 9.3721m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Sate
 9.3721m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 幸手駅字馬之助神明社石燈籠
 9.3721m/30.9279尺

照合資料 4

地質要報
 幸手駅
 9.3m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 幸手
 ―/3丈1尺

几号の現存有無

現存

解  説

灯籠の台石を保存し説明板も設置されている。

この台石は2003年の秋までは境内の片隅に放置されていて、かろうじて逆さになった几号が確認できる状態だったという。しかし、草加の神明神社同様に標石研究家伊藤正昭氏の保存嘆願により、幸手市の教育委員会や文化財保護委員会が動いて保存が決定され、その年の11月末には台石の移設と説明板の設置が終了した。

現地を調査した日

@2005年4月14日  A2015年4月17日

参考文献

伊藤正昭氏のHP:埼玉県の几号水準点を訪ねる 幸手神明神社

国立公文書館デジタルアーカイブ、日光道中絵図 巻3

 


国立公文書館所蔵「日光道中絵図」巻3 (天保14年・1843年)
幸手宿。「右馬之助町」「神明社」と記されている。

 


神明神社の社頭。
2枚の説明板の下にある黒みがかった四角い石が几号の刻まれた灯籠台石である。

 


灯籠台石越しに陸羽街道を見る。
いったん西方向に進むが約800メートルほど先で南へ折れて真っすぐ進めば茨島に至る。

 


灯籠台石の正面。
下の台石は高さ22p、上の台石は高さ39p。幅は正面・奥行ともに75p。几号以外に刻銘なし。几号の縦線は台石横幅の中心に位置している。

 


几号。若干の欠損が見受けられる。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。

 


幸手市教育委員会が設置した説明板。

 


2005年に訪れたときに撮影した撤去品置場。
このときは既に几号の刻まれた灯籠台石は移設保存されていたが、石灯籠の残りの部材と思われる笠石などが置かれていた。
手前の四角い石(幅56.5cm)には「発願主 中村右馬之助 氏子中」などと刻まれている。大きさからして几号が刻まれた台石の上に載っていたものかも知れない。

 

021 小右衛門

(更新 20.01.28)

点   名

021 小右衛門(こえもん)

当時の場所

埼玉県 小右衛門村香取八幡社華表  (小右衛門字堤外)

現在の地名

埼玉県 久喜市栗橋東6丁目20-13(旧:北葛飾郡栗橋町小右衛門207) 川通神社

海面上高距

16.3131m

前後の距離

幸手 ← 6558.10m → 小右衛門 ← 2029.40m → 栗橋

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 小右衛門村
 16.3131m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Koyemon
 16.3131m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 小右衛門村香取八幡社華表
 16.3131m/53.8332尺

照合資料 4

地質要報
 小右衛門村
 16.3m/―

几号の現存有無

現存

解  説

神社明細帳によれば明治6年に小右衛門村の村社となり、大正3年には従来の社名である「香取神社・八幡神社」を「川通神社」に改称したとある。

本来の几号は街道側を向いていたと思われるが、現在の几号は社殿側を向いている。恐らく石鳥居を移動もしくは補修でもした際に反対向きになったと推定される。
日光道中略記には「香取八幡合社 村民の持なり、社前に天神の小祠およひ観音庵といへる小庵あり」と記す。

現地を調査した日

@2005年4月14日  A2015年4月17日

参考文献

国立公文書館デジタルアーカイブ、日光道中絵図 巻4

 


国立公文書館所蔵「日光道中絵図」巻4  (天保14年・1843年)
小右衛門村。「香取八幡合社」と記され、石鳥居も描かれている。

 


川通神社前を通る陸羽街道を東に見る。この先は幸手に至る。

 


神社は小高い場所に鎮座している。見上げた石鳥居に几号がある。

 


社殿側から石鳥居の裏側を見る。几号は右柱の根巻石に刻まれている。
扁額は「香取宮八幡宮」。石鳥居の刻銘「宝暦十四年甲申十二月吉日」(=1764年。6月に明和と改元済み)「願主 栗橋宿常薫寺隠居 日全」「小右衛門村 氏子中」など。
ちなみに左柱脇、手水石の前にあるのが一等水準点「第2024号」(標高14.3013m)。さらに右柱の奥、陸羽街道の向かい側に小さく白い棒状のものが見えるのが、これは三等三角点「豊田村」(標高12.82m)である。※明治22年に小右衛門村ほか5か村が合併し豊田村となる。

 


右柱の根本。一番下の台石は高さ20.5cm、几号の刻まれた根巻石は高さ18.3cm。

 


几号。横棒8.8cm、縦棒9.8cm、横棒の幅1.2cm。

 

     
      一等水準点「第2024号」              三等三角点「豊田村」

 

022 栗橋

(更新 20.02.07)

点   名

022 栗橋(くりはし)

当時の場所

埼玉県 栗橋渡場旧関所址石崖

現在の地名

埼玉県 久喜市栗橋(利根川橋南詰の北側堤防)

海面上高距

16.0076m

前後の距離

小右衛門 ← 2029.40m → 栗橋 ← 536.86m →中田

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 栗橋駅
 16.0076m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kurihashi
 16.0076m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 栗橋渡場旧関所址石崖
 16.0076m/52.8251尺

照合資料 4

地質要報
 栗橋駅
 16.0m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 栗橋
 ―/5丈2尺8寸

几号の現存有無

亡失

解  説

関所跡は利根川の河川改修により完全に消滅している。

明治8年頃の栗橋宿地誌(武蔵国郡村誌)には「古関址 利根川堤上にあり(中略)明治二年廃せられ後見張番所を置く」とある。

現地を調査した日

@2005年4月14日  A2015年5月24日

参考文献

埼玉県編:武蔵国郡村誌、第14巻、p422-427栗橋宿、埼玉県立図書館、1955年

久喜市教育委員会編:久喜市栗橋町史、第4巻、資料編2近世、2013年

ご 協 力

筑波大学中央図書館 参考調査担当 様

 


「栗橋関所址」の碑 (栗橋北2丁目7番) ※仮移転前
公爵徳川家達の筆になり大正13年(1924年)旧堤防上に建立された。
堤防を越えてこの石碑の裏側に関所があった。
現在、この石碑は利根川堤防強化事業のため栗橋北2丁目5-19(旧栗橋町商工会館跡地)に仮移転しているとのことである。

 


石碑の脇にあった説明板 (2005年撮影)

 


天保3年(1832年)「利根川通堤外家作御糺ニ付取調絵図面」(一部)
原本は栗橋宿本陣池田家所蔵になるもので、JR栗橋駅構内に複製が掲げられている。
関所は当時の堤防を越えて、川側の盛土上にあったことがわかる。

 


文政4年(1821年)「房川渡中田御関所之図」(一部)
関所の番士であった島田氏に伝えられている史料で、「久喜市栗橋町史、第4巻、資料編2近世」に掲載されている。関所を描いた絵図が数々伝わるなかで、石垣の雰囲気がよく描かれており、私としては一押しの史料である。
また、筑波大学附属図書館所蔵の古地図の中にも好史料があるのでご覧いただきたい。
1.房川船橋勤番繪圖・御成之節   2.房川船橋勤番繪圖・還御之節

 


利根川橋から見た栗橋方面の景色
赤の線で囲んだあたりが「旧関所址石崖」の旧位置と推定。堤防は明治9・10年当時より高さも幅も格段に補強されている。現在の堤防の下に関所の石垣が埋もれているのか、それとも撤去したうえで堤防を高くしたのかは不明。

左は明治の迅速測図(陸軍) 右は現在の地図(国土地理院)
が「022栗橋」であり、が「023中田」の推定位置である。直線距離で530mほどある。「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記された距離が536.86mとあるので、A・Bの位置はおおむね妥当とみている。(国立研究開発法人農業環境技術研究所が提供している歴史的農業環境閲覧システムの比較地図を利用し加筆したものである)

 


Googleマップの3D機能を用いて「022栗橋」と「023中田」の場所を俯瞰。栗橋側の景観は利根川堤防強化事業が行われているので変化するものと思われる。

 

 

 

以上で埼玉県は終了です。次は茨城県に入ります。