私は2002年(平成14年)に宮城県多賀城市で高低几号(127:市川)を見て以来、几号が秘めた不思議な魅力に取りつかれ調査を続けてきました。測量の分野は学習も実務経験もないまったくの素人です。歴史の掘り起こしという感覚で調査活動をしております。 一番最初に私を市川の几号へ案内してくれたのは職場の同僚であった畠山未津留氏でした。その後も行動派である彼は出不精で引っ込み思案の私を大いに叱咤激励し、宮城県および福島県での几号探索に数え切れず同行してくれました。私一人の調査では途中で投げ出していたことでしょう。畠山氏には心より感謝しております。 現地調査で几号が見つからなかった日に畠山氏が必ず言ってくれた言葉、
「几号が無いとわかっただけでもそれはそれで今日の収穫です」
寒風酷暑、ひたすら街道を歩いた日々を懐かしく思い出します。
私の几号調査の過程では大きな転機と呼べるものが何度か訪れました。 第一の転機は2003年(平成15年)の「宮城県内几号附刻一覧」の発見でした。几号を刻んだ対象物がわからず当てずっぽうで街道を歩いていましたので、これは几号調査の大きな前進となりました。その調査成果をもとに『宮城の標石』第1集と第2集を作成しました。 第二の転機は2004年(平成16年)の「TOKIO−SENDAI NIVELLEMENT」(クニッピング報告)の発見でした。明治期の雑誌記事の目録に目を通していると上記のタイトルで目が止まりました。大学図書館で内容を確認したところ紛れもなく東京−塩竈間高低測量の一覧表でした。福島県はいまだ几号を刻んだ対象物が不明でしたので、この一覧に掲載された各点の距離によっておおよその位置が判明しました。 第三の転機は2005年(平成17年)の自転車による塩竈−東京間の往復調査です。「TOKIO−SENDAI NIVELLEMENT」という力強い味方と春の陽気に誘われて断行しましたが、無謀にも使い古しの普通自転車で出発したものですから往復16日間、下半身全体の筋肉痛と闘いながらの旅行となりました。そんな苦労した甲斐があって新たに8か所で几号を見つけて無事帰還しました。この成果をもとに『宮城の標石』第4集を作成しました。 このあとも第四の転機、第五の転機と続きますが、これは日を改めて掲載します。 「史料は標石調査の財産」これは私が経験した数々の転機から言えることです。几号を含めた測量標石の調査は現地の確認とともに文献の調査も重要です。史料の掘り起こしと現地の確認という両輪が働いてこそ標石調査は完全なものになります。
現在の私ですが、子育てと仕事に追われて残念ながら現地調査も文献調査もできない状況です。 このホームページ「高低几号の情報室」は、そんな調査に行きたくても行けない失望感の穴埋めと、これまでに収集した重要な史料を公表しなければという気負いから立ち上げました。 しかしながらホームページの記事入力も余力があれば行っている状況ですので、数年先を一つの到達点と考えていただき、どうぞ気長にお付き合いください。よろしくお願いいたします。 |