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103 越河 (白石市越河) 
104 矢尻 (白石市越河平)
105 斎川 (白石市斎川) 
106 中目 (白石市大平中目) 几号現存
107 白石 南 (白石市南町) 几号現存
108 白石 北 (白石市福岡長袋)

東京を出発し陸街街道を進んできた高低几号の旅もいよいよ最後の宮城県に入ります。
宮城県内の現地調査はその大部分において私(浅野)と畠山未津留氏との同行調査となっています。越河から塩竈までの解説において「私たち」や「我われは」などの表現がある場合は、特段の断りがない限り私と畠山氏の二人を指しています。
二人での現地調査は合計すると何十回になるのか数え切れませんが、さまざまな困難とともに喜びもありました。二人三脚で几号を探し求め歩き回った成果をご報告いたします。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

なお、宮城県内の現地調査はそのほとんどが東日本大震災の前におこなったものです。
月日の流れとともに状況が変化している場所もあると思われます。できれば最新の情報を掲載したいと考えていますが、それが叶わない場所については10数年前の調査結果であることを予めご了承ください。

 

103 越河

(更新 22.04.20)

点   名

103 越河(こすごう)

当時の場所

宮城県 越河 三十五番地大浪甚五郎 門口自然石

現在の地名

宮城県 白石市越河字町屋敷

海面上高距

174.9366m

前後の距離

貝田 ← 2675.00m → 越河 ← 2444.30m → 矢尻

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 越河駅
  174.9366m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kosugo
 174.9366m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 越河 三十五番地大浪甚五郎 門口自然石
  174.9366m/174.9366尺  ※尺位は完全な誤植
A明治10年 地理局通知(史料9)
 越河 三十五番地大浪甚五郎 門口石

照合資料 4

地質要報
 越河
 174.9m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 越河
 ―/57丈7尺

几号の現存有無

不明

解  説

本点の几号附刻地は「越河 三十五番地大浪甚五郎 門口自然石」である。

 

1回目の調査は2003年8月におこなった。
当時は「TOKIO−SENDAI NIVELLEMENT」の確認前であり、前後の距離などは皆目不明である。住宅地図で「大浪」姓の家に目星をつけ、最初に訪問したのが旧越河宿の北口にあたる大浪十郎氏の御宅であった。
ご当主十郎氏が在宅であり、訪問の趣旨を伝えると「甚五郎はオライ(我が家)の先祖だ」との答えが返ってきた。当てずっぽうながら一発で目的地にたどり着けたのは幸運であった。
大浪十郎氏(当時80歳前後)から聞き取った内容は次のようなものである。
 1.大浪家の屋敷は越河宿の北口に位置し、かつては家の前が枡形になっていた。
   そのため大浪家の屋号は「角屋(かどや)」という。
 2.枡形が改められて直進する新道ができたのは明治16年頃である。
 3.かつて明治天皇も通られた旧道の跡は失われて畑になっている。
 4.(几号の図を見て)どこかで見たような気がするが思い出せない。
その後、十郎氏の案内で旧道跡を見て歩いたが几号は発見できなかった。

 

2回目の調査は前回から半年余りが過ぎた2004年3月におこなった。
草木が芽吹く前をねらって再度几号発見に挑んだが、今回も残念ながら発見には至らなかった。また、十郎氏の「(几号を)見たような気がする」というご記憶にも変化はなかった。
同年秋に「TOKIO−SENDAI NIVELLEMENT」を確認したことで、海面上高距および前点「貝田」、後点「矢尻」からの距離を図上で検証したところ、几号附刻地はやはり大浪十郎氏宅付近とみて間違いないものと判断した。

 

推定地の道路は廃道になって百年以上経過していることから、几号の刻まれた石は土の下に埋没、あるいは移動され周囲に散在する多くの石に紛れているのではと想像している。
なお、私たちが几号附刻地と推定した場所は、現在では完全に個人所有の敷地内となっている。このような状況をふまえ、2度の調査はいずれも掘り起こしなどは行わず、旧道跡に沿って表面観察にとどめたことを附記しておく。

現地を調査した日

@2003年8月10日  A2004年3月28日

参考文献

宮城県:明治天皇聖蹟志、1925年
白石市史編さん委員:白石市史1、通史編、白石市、1979年
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年

ご 協 力

大浪十郎 様(白石市)、関口重樹 様(調査同行)

 


明治8年「刈田郡越河村絵図」(一部)(宮城県公文書館所蔵:V-0024)(掲載承認済)
右が北:仙台方面。左が南:福島方面。中央の赤い部分が旧奥州街道越河宿の家並み。北と南の出口がクランク状の枡形になっている。几号附刻の推定地は北口側にある。

 


明治19年前後、刈田郡越河村「町屋敷字限図」(一部)(仙台法務局大河原支局保管)
旧公図(土地台帳附属地図)。上図における旧越河宿の家並みが字「町屋敷」に相当する。
表示したのは北口側の図面。中央の赤太線には「国道一等道路」と記す。
同じく法務局保管の「土地台帳」によれば、明治22年当時、町屋敷46番地および47番地は郡村宅地として大浪家の所有であった。「門口」として現地の地形なども考慮すれば几号の附刻場所は「旧道」と記された枡形の部分にあると推定される。

 


推定地周辺の概観図 (Google Earthの画像に加筆)
表示した画像の上部から下部に向けて地形は低くなる。東北本線の線路脇で約182メートル。現在の国道4号線で約160メートル。本点における地理局の測量成果である174.9366メートルは、まさに大浪邸の南面(ビニールハウス側)に位置している。

 


(2004年3月28日撮影、以下同じ)
現道から旧道の跡を奥に進むと石積みが現れてくる。ただし、石の積み直しは何度もおこなっている様子がうかがえる。  ※注意:個人所有の敷地内。無断立ち入りは厳禁!

 


旧道が北に向きを変える角の部分。このあたりから道路跡は斜面を下り大浪邸の裏に回る。

 


石積みは大浪邸の裏側を旧道の跡に沿ってしばらく続く。道路跡は完全に畑と化している。

 

104 矢尻

(更新 22.05.07)

点   名

104 矢尻(やじり)

当時の場所

宮城県 平村字矢尻一軒家ノ傍自然石

現在の地名

宮城県 白石市越河平字矢尻

海面上高距

138.2524m

前後の距離

越河 ← 2444.30m → 矢尻 ← 1342.30m → 斎川

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 平村
  138.2524m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Taira
 138.2524m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 平村字矢尻一軒家ノ傍自然石
  138.2524m/456.2329尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 平村字矢尻一軒家傍丸石

照合資料 4

地質要報
 平村
 38.0m/―  ※誤植。百の位の「1」がない

几号の現存有無

不明

解  説

刈田郡平村、現在は白石市越河平(こすごうたいら)となっている。
その矢尻囲(小字の範囲)の陸羽街道沿いには10軒ほどの家が点在している。現在の国道4号線は東側の水田地帯を通過しているので、この付近の道路敷には大きな変化はないと思われる。
現地調査は2003年8月を初回として何度かおこなった。街道を行ったり来たりして几号が刻まれた石を探索したのであるが、残念ながら発見には至らなかった。今になって思えば文字どおり行ったり来たりしただけで切り上げたことに未練が残る。
調査範囲はたかが300メートル程である。しかし、沿道には程のよい石が散在していることもあって、「一軒家」「傍(かたわら)」「自然石(丸石)」と具体性に欠けるあいまいな表現では見つけ出すのも容易でないと感じた。
明治10年に民家があった位置を特定し、そこを重点的に探索せねばと思いつつ十数年が過ぎてしまった。何度訪ねても見落としはあるものである。今後皆さんの手で探し出されることを期待している。

現地を調査した日

@2003年8月10日  A2003年9月1日(畠山) B2004年3月28日

参考文献

白石市史編さん委員:白石市史1、通史編、白石市、1979年
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年
磐城国刈田郡平村地引帳(『磐城国刈田郡村々地引牒』[明治8年2-0003]に合本)、宮城県公文書館所蔵

ご 協 力

佐藤 忠 様(白石市)、関口重樹 様(調査同行)

 


明治8年「刈田郡平村絵図」(一部)(宮城県公文書館所蔵:V-0010)(掲載承認済)
掲載した範囲は平村の北端部。左下から右上にかけて茶色の線で描かれているのが一等道路=陸羽街道である。南は越河村から五賀村を経て平村に入り北隣の斎川村へ至る。

 


上図における矢尻囲の拡大図
陸羽街道の北側が「第五十三番 字矢尻囲」の範囲である。この村絵図と対応している『磐城国刈田郡平村地引帳』(宮城県公文書館蔵)によれば、字名の左脇に記された「五十三ノ一 宅地 民一」の所有主は「半沢〇〇郎 外四名」と記されている。
絵図のように1か所に固まって複数戸(5戸?)が建っていたのか、それとも点在する宅地を便宜的に集約して描いたのかは判然としない。念のため他の囲における宅地の記載方法を確かめたところ、集約して描いた可能性が高いと推測できるが断定するには至っていない。
なお、矢尻囲と道路を挟んだ「第五十二番 字上谷地囲」にも宅地がある。これも『地引帳』で確認したところ所有主は「安藤〇〇郎」ただ一人であった。矢尻囲の向かい側であるが街道沿いの一軒家と見ることもできる。

 

上図とほぼ同じ範囲の空中写真(Googleマップ)
本点の几号附刻地点は特定が難しく、今のところピンポイントで「ここ」と示すことができない。とりあえず村絵図で矢尻囲の「宅地」と記された付近を候補地としておく。村絵図に描かれた山林の境界が同じような形状で残っている。

 


二枚橋付近から候補地方向を見る(2003年8月10日撮影)
上で紹介した村絵図では斎川に架かる二枚橋は図面の左下に描かれている(ただし、明治初期と現在では若干橋の位置が異なる)。道路の左側は矢尻囲、右側は上谷地囲で「宅地」と記された場所にあたる。当初はこの付近を有力視し探索を行ったが几号発見には至らなかった。

105 斎川

(更新 22.06.07)

点   名

105 斎川(さいかわ)

当時の場所

宮城県 斎川 馬形沼岸丸石 三沢村十三番組掃除場内

現在の地名

宮城県 白石市斎川馬牛 馬牛沼

海面上高距

122.1028m

前後の距離

矢尻 ← 1342.30m → 斎川 ← 3674.20m → 中目

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 斎川村
  122.1028m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Saikawa
 122.1028m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 斎川村 三沢村十三番組掃除場内
  122.1028m/402.9392尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 斎川 馬形沼岸丸石 三沢村十三番組掃除場内

照合資料 4

地質要報
 斎川
 122.1m/―

几号の現存有無

不明

解  説

越河平の矢尻を過ぎて程なくすると陸羽街道は現在の国道4号線に合流する。この辺りから下り坂となり800メートルの間に20メートル近く低くなる。木々に囲まれた下り坂が終われば視界が開け、左手に水面のきらめきが見えてくる。ここが今回の几号附刻地、斎川の馬牛沼(ばぎゅうぬま)である。地理局の報告では「斎川 馬形沼岸丸石 三沢村十三番組掃除場内」と表記されている。
現在は「馬牛沼(ばぎゅうぬま)」と呼び表すのが一般的であるが、かつては「馬沼(ばぎょうぬま)」「ばんぎ沼」とも呼ばれていた。
他点と同じように海面上高距および前点・後点からの距離を地図上で検証してみると、几号附刻の推定地は馬牛沼の南岸付近が有力と示している。
地理局の報告をご覧になるとお分かりのように探索のポイントは2点ある。「馬形沼岸丸石」と「三沢村十三番組掃除場内」である。
馬牛沼の前後における坂道は明治以降に大掛かりな改修や付け替えが行われている。しかし、沼の岸辺を通る区間は基本的に同じ位置と思われる。よって、岸の「丸石」も、「三沢村十三番組掃除場」も現在の国道の道筋にあるとみて間違いないだろう。
ちなみに「掃除場」(註)とは明治前期の制度で道路の改修や掃除を各村各戸に担当させたもので、自宅前は勿論のこと、村内の道路や、自分の村に主要な街道がない場合でも近隣の主要道路を担当することになっていた。同様の制度は江戸時代にも定められていたが、維新後おろそかになっていたことから明治5年に太政官布達で改めて制定された。(参考までに明治5年太政官布達「道路掃除条目」と、これに関連する宮城県布達を項目末尾に掲載する)
三沢村は斎川村の東隣に位置するが、「三沢村十三番組」の人たちは山を越えて斎川村に出向き、一等道路(=陸羽街道)に割り当てられた区間の改修と掃除を担当していたのである。
さて、肝心の「三沢村十三番組掃除場」であるが、持ち場の境界には木製の標杭を建てる規則になっていて、標杭には受け持つ範囲(間尺)と村名が記されていた。馬牛沼岸辺の丸石に几号附刻を選定した地理局の官員は、辺りを見渡し標杭に記された「三沢村十三番組掃除場」をもって場所の絞り込みを図ったのだろう。しかし、それも今となっては昔の話。これまでのところ掃除場の詳細な区割りや範囲を明らかにする史料は見つかっていない。

 

では「丸石は?」となる。地形および地質的にみてかつては自然石がごろごろあったと思われるが、陸羽街道(国道4号線)の整備にともない撤去や破壊が行われたと推定できる。
何度か馬牛沼沿岸を歩いて大き目の自然石を探したが、その中で「これなんかは」と見つけたのが「馬牛沼バス停」の足元にある石である。残念ながら表面観察では几号は見当たらない。また、この石と断定もできないことから無理をして石周囲の掘り返しもおこなわなかった。
形状的にこの石を丸石と見るかは判断が難しいところもある。しかし、前点・後点からの距離や几号を刻むに適した大きさの石となると、現在確認できた中ではこの石を候補の第一に挙げるしかない。

 

註:地理局の報告には「掃除場」とあるが「掃除丁場」あるいは「掃除持場」が正しいと思われる。

現地を調査した日

@2003年7月19日  A2003年8月10日  B2005年4月7・19日

参考文献

宮城県:明治天皇聖蹟志、1925年
明治天皇聖蹟保存会:明治天皇聖蹟 東北北海道御巡幸之巻上、1932年
白石市史編さん委員:白石市史1、通史編、白石市、1979年
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年
宮城県布達撮要、明治6〜10年、宮城県公文書館蔵 (明治10年 2-0085)
清水秋全:武奥増補行程記6 →国立国会図書館デジタルコレクション

ご 協 力

関口重樹 様(調査同行)

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

1.武奥増補行程記 (清水秋全筆:江戸時代中期)

馬牛沼周辺の様子
越河方面から来て馬牛沼の手前、街道の真ん中に「休石」とあるのがどうしても目にとまる。しかし、ここは坂の途中で几号附刻推定地とは距離が隔たっており、注意すべき対象物からは外れるだろう。

 

2.東北御巡幸記 (岸田吟香:明治9年)
6月22日
越河駅にて御小休みあり、当所は、北に山を背負ひたる山駅にて往来の中に流渠ありて、北側は、南側よりおよそ六尺ばかり高き町なり、当駅以東の官道は、山間にありと雖も、両側に並樹ありて、よき往還なり、然れども、小坂多く、一方は崕に臨みし所なれば、新たに欄干を作りて危害を防げり、稍ゆきて小坂あり、坂をあがれば、松の茂りたる山に入り、又坂を下らんとして見れば、木挽小屋所々にありて、板を多く造り重ねたるは、都府には見なれざる事なれば、主上もさこそ珍らしと御覧し玉ふらめ、夫より少し曲りて、坂を下れる所に、大きなる沼あり、馬牛沼と称し、水青々として四方山深く、実に幽邃(ゆうすい)の地なりけり、官道は、沼の南を東にゆき、道の右なる山に添ふて、小高き所の老樹の蔭に、新たに仮屋を造りて、御小休み所とせり、屋板は青竹にてつくり、四方は細き篠竹にて垣を結ひ廻し、御前の欄干は、此沼に生ふる太藺(ふとい)をもつて作りしに、緑殊に色こくして美しかりき、又此沼の傍に生茂る並樹の松は、丈高く枝天然の振をなして面白し、其樹の間より、遥かに沼の向ふを見渡せば、山に添ふて田畑も見え、人家七八間の小村も見ゆ〔三沢村と云由〕、山の頂きは、雲に覆はれて、人家の折り々々見え隠れ為すは、仙境もかくやらんと思へるばかりなり、此村よりも、行幸を拝んと、男女の群がり出たるを見れば、山の奥にも鹿ぞ啼なるとの古歌をも忍ばる、夫より、坂を下りて、程なく斎川の駅に至れり、

 

3.明治天皇聖蹟志 (宮城県:大正14年)

馬牛沼ヲ隔テテ伊達刈田ノ連嶺ヲ望ム

 

4.明治天皇聖蹟 東北北海道御巡幸之巻上 (明治天皇聖蹟保存会:昭和7年)

宮城県刈田郡斎川村字東明堂  御野立所

 


(2003年8月10日撮影、以下同じ)
街道は江戸時代から馬牛沼の岸辺を通っており、人々には風光明媚な地として知られていた。
考えてみれば東京−塩竈高低几号の旅でこれ程の湖沼を眺められる場所も他にはない。
沼の中に建つのは鯉供養の碑。かつてこの沼で鯉の養殖が行われていた歴史を伝えている。

 


馬牛沼バス停と沼にせり出した見事な老松。一幅の絵になる光景である。

 


松の根元にある自然石。なかなかの大きさをしているのがお分かりになるだろう。

 


上面は扁平であるが全体に角が取れ丸みがある。これが探している「丸石」かは不明。

 


現在の風景。Googleストリートビュー(2022年3月撮影) 
老朽化した樋門や護岸を改修するため、2010〜2014年の5か年計画で県営ため池等整備事業(馬牛沼地区)が実施された。この工事にともない国道沿いは沼側に堤防(315m)を増設補強し、この堤防の上には巡回用道路という名目で歩道が整備された。
この工事に伴うものだろうか、水面に優美な影を映していた老松はものの見事に伐採され姿を消した。松が消滅したことで根元にあった自然石の存否が気になっていたが、ようやく最新のストリートビューで無事であることを確認した(画像の右側に自然石が写る)。
几号探索とは関係ないが、この画像で池の中に建つ鯉供養の碑がなくなっていることに気がついた。本年(2022年)3月16日の地震で損壊したのかも知れない。(福島・宮城で最大震度6強を観測。馬牛沼から北へ3.4キロメートルの場所では東北新幹線が脱線している)

 

 

太政官布達「道路掃除条目」

 

明治五年十月二十八日  府県へ布告
太政官第三百二十五号     
近来道路掃除ノ儀多クハ等閑二相成甚以不相済事二候条各地方官二於テ厚ク注意シ追テ道路ノ制被相立候マテハ従前掃除請持有之道筋ハ勿論持場無之場所ハ最寄町村へ公平二割渡左ノ条目ノ通掃除可為致事
 第一条
一 総テ掃除請持丁場ハ風雨等ノ障リ有無二不拘必ス三ケ月中一度ツヽ掃除可致事
 第二条
一 風雨ノ後ハ必ス其持場ヲ掃除シ溜水ハ左右溝へ導キ水溜ノ場所相減候様可致事
 第三条

一 並木根返リ風折雪折等ハ追テ其庁ヨリ所分有之ト雖トモ不取敢通路妨ナキ様取片付置可申事

 第四条
一 左右ニ溝渠無之道路ハ可成丈ケ路ノ両縁ヲ低下ニシ雨水ノ捌方宜敷様可致事
 第五条

一 掃除丁場標杭往々等閑二致シ置候向モ有之右ハ必ス其請持丁場境二従是東西或ハ南北何百何十何丁何郡何村掃除丁場ト誌シ標杭可相建事

 第六条

一 路舗往々田畑二切添候ヨリ並木根サシヲ失シ之カ為メ根返二及ヒ易ク以ノ外ノ事二候以来決テ右等ノ所業致ス間敷事

右之通堅可相守候若等閑二差置二於テハ掛リ官員巡廻ノ節屹度可申付事

 

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道路掃除および掃除丁場に関する宮城県達

 

無号                     明治七年三月廿五日
道路修営掃除不手入等無之様明治五年十月中如別紙太政官ヨリ御布達相成其後追々申達置候次第モ有之候処于今心違ノ者有之手入ヲ打捨置候区々モ有之哉ニ相聞実ニ不相済事ニ候今般各小区エ土木下係一人ツヽヲ命シ時々区内ヲ巡廻調査為致候条兼テ御布告ノ条々奉体シ村吏ヨリモ下方エ厚ク申諭村々丁場ヲ確定シ営繕又ハ掃除ノ節ハ至当ニ人足ヲ出シ不手入無之様可致事
右之通各区無洩漏可相達者也
(別紙)  ※太政官布達は省略 (上記参照)
右之通被仰出候条各区無遺漏可触示候就テハ県下幷小路ハ勿論其他村々往還筋塵芥不潔物取払ノ儀平常注意イタシ往来運輸ノ便宜ヲ不失様其持場々々無油断修理相加ヘ可申請持無之場所ハ早々取究置総テ不行届無之様可致凡道路ヲ修営スルハ天下相互ノ儀ニテ開化ノ今日決テ等閑不相成筈ニ候処者心得違之者於有之ハ其区戸長副ヨリ厳敷可申付万一不取用等閑置候ハヽ夫々至当ノ処置可及候条兼テ相心得道路ノ便宜実際相開候様可致事
 壬申十一月               宮城県参事塩谷良翰

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甲県第九号                明治八年四月廿日
道路掃除持場ヲ定村々ニテ標木ヲ立置候様兼テ相達置候処于今立方モ不致向モ有之適マ立様及候モ記載区々ニシテ不体裁ニ相見候間本月三十日迄ニ左ノ如雛形標木立方可致事
  但右標木ハ一二等道路ノ分ト可相心得其他ノ小道ハ追テ可相達候

一村々掃除持場内常ニ掃除ハ勿論小破損ハ速ニ修復ヲ加ヘ大破之分ハ可申立筈右等者兼テ相達置候規則之通可相心得候

 右之通ニ致シ人々見易ク且人馬ノ妨ケニ不相成場ヲ撰ミ立杭可致事
右之通区々無漏可相達者也

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

甲県第廿五号              明治八年五月廿五日
道路掃除持場ヲ定メ標杭建方等之儀客月相達置候通ニ有之就テハ掃除心得方等向後如左可相心得候
 第一条
明治六年太政官御布告ニ基キ各村持場内ノ掃除三ケ月一度ツヽト定ムヘシ(二月五月八月十一月)此月一日ヨリ七日迄之内天気宜キ日ヲ見斗掃除スヘシ
   但当月ニハ官員幷邏卒等巡廻勤惰ヲ糺スヘシ
 第二条
各村自宅之前ハ朝暮自分ニテ掃除スルハ勿論也其他村内申合セ惣掛ニテ一ケ月一度ツヽ隅々迄掃除スヘシ
 第三条
総テ自宅外往還ハ持場ノ村内申合人頭ニ応シ五名七名組合ヲ定メ輪番ニ掃除スヘシ
 第四条
掃除スル者ハ道路凹ノ所アレハ土ヲ入レ凸ノ地ハ平カニシ左右ノ溝ニ塵芥木ノ枝葉等落入タルハ之ヲ浚ヒ石幷木ノ根等尖出スルハ抜去凡道ハ蒲鉾形ニシテ水ノ左右ニ流ルヽヲ善トス
 第五条
橋梁モ平カニシテ凸凹又ハ石等無之様掃除ノ度毎ニ手入スヘシ
 第六条
道路橋梁共小損之分ハ速ニ持村ニテ修繕ヲ加ヘ置ヘシ大損ノ分ハ其旨村吏幷土木下係ヘ協議一同見分之上届出指令ヲ得ヘシ

但風雨等ニテ急破有之人馬往来難相成節ハ持村幷近傍ノ者協議仮ニ取繕ヒ往来指支無之様ニ致シ置速ニ届出ヘシ

 第七条
並木折倒レ往来ノ障碍ニ相成候節ハ土木下係立合速ニ取片付置可届出
 第八条
掃除ノ節掲示場里程標掃除杭段歩改杭等倒アラハ之ヲ直シ不体裁無之様致スヘシ
 第九条
道路ヲ掘割リ田地ヘ水ヲ引候節ハ必ス樋ヲ埋メ上ニ土ヲ掛道並ニ致シ置ヲ要ス若シ樋ヲ不入道路ノ損害ヲ為スハ田主ヘ申付速ニ取潰スヘシ
   但宅地等ヨリ悪水ヲ往来ヘ流レ出スヲ禁スヘシ不得止分ハ如本文樋ヲ埋ムヘシ
 第十条
三等道路掃除丁場ノ儀モ先般相達置候一二等道路ノ規則ニ准拠シ其道筋ニ関スル村々申合掃除スヘシ尤標杭モ右雛形ノ如ク可建置
   但杭ハ三寸角位ヲ用ユヘシ
 第十一条
掃除持場ヲ村々ニ割附スルニハ一大区中平均シ戸数ニ割ルヘシ譬ハ一大区ノ戸数一千アリ一二等道路一万間ナレハ一戸ニ十間ニ当ルヘシ
 第十二条
一大区中甲ニ一等道アリ乙ニ二等路アルカ如キハ甲ニ近キ村ハ甲ニ属シ乙ニ近キ村ハ乙ニ附クヘシ
   但往復五里以外ノ遠村ハ適宜斟酌ヲ加ヘ間数ヲ減シ割附スルハ不苦候
 第十三条
往還ニテモ居宅ノ前ハ自分掃除タルヘシ故ニ持場ノ間数割ニ除クヘシ
   但標杭ニハ全間数ヲ如左記載シ但書ヲ附スヘシ
    何百何十間       何村掃除持場
    但内何十間居宅前除之
右之通取極候条区内無洩漏可相達候尤標杭建方相揃候ハヽ区長ヨリ可届出候官員巡回之節検査可及候也

106 中目

(更新 22.06.22)

点   名

106 中目(なかのめ)

当時の場所

宮城県 中野目村 字穴田前一軒家ノ傍 金華山供養塔

現在の地名

宮城県 白石市大平中目字古屋敷

海面上高距

68.4429m

前後の距離

斎川 ← 3674.20m → 中目 ← 2758.00m → 白石 南

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 中野目村
  68.4429m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Nakanome
 68.4429m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 中野目村 字穴田前一軒家ノ傍 金華山供養塔
  68.4429m/225.8616尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 中埜目ムラ 字穴田前一軒家傍 旧金華山塔台石

照合資料 4

地質要報
 中ノ目
 68.4m/―

几号の現存有無

現存

解  説

前点「斎川」から白石市街地を目指して北上してくると、国道4号線(陸羽街道)・東北自動車道・東北本線・東北新幹線、これら東北の大動脈4線がわずか数百メートルの範囲で集結している珍しい場所に出くわす。折よく走りくる新幹線や貨物列車を眺めながら東北道の高架をくぐれば目指す「中目・金華山塔」に到達である。
本点は神社でもなければ寺院の境内でもない。国道4号線の沿道にただ1基だけで建つ石塔である。注意していないと見落としてしまう可能がある。近くの目標物は白石市民バス「田辺バス停」になるだろうか。(これも見落とす可能性はある)

 

事前の調査により中目の田辺商店近くに金華山塔が存在することは把握できたが、果たしてそれがお目当ての金華山塔なのか? もし、そうだとしても几号は残っているのか? そんな不安を抱きつつ小雨そぼ降る2003年7月19日、我われは中目・金華山塔と対面した。
桜の木の下にたたずむ金華山塔は思いのほか小振りであると感じた。雨に濡れた石塔の表面を観察したが几号は見当たらない。台石の周囲には背後の斜面から流れ出て堆積した土砂と夏草が生い茂っている。雨で重くなった土砂と草を取り除いたところ台石の右側面から几号の線刻が現れた。(やったー!)

 

その後、2005年4月自転車旅行で現地を通過した際、金華山塔に隣接する家の人から話を聞くことができた。コンクリートで基壇を作り現在の形に整備したのはこの家のご主人とのことであった。かつては現在の国道車線まで地山が張り出していたという。話を聞いたあと改めて現地に立ってみた。私の想像力が乏しいこともあるが昔の光景を完全に理解することはできなかった。何はともあれ石塔と几号が現存していたのだ。それで良しとしよう。

 

さて、現地に行くのなら草木が枯れている春先が最適と思われる。そんな季節に拓本でもと思いつつ再訪は果たせていない。この間に宮城県は何度か激しい地震に見舞われた。Googleストリートビューで最新の様子を見る限り金華山塔は無事である。周囲を見渡せば隣接する田辺商店が店を閉じた以外は大きな変化もないようだ。

現地を調査した日

@2003年7月19日(発見)  A2005年4月7日

参考文献

浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年

ご 協 力

小室道雄 様(白石市)、関口重樹 様(調査同行)

 


明治8年「刈田郡中目村絵図」(一部)(宮城県公文書館所蔵:V-0029)(掲載承認済)
画像の下辺、茶色の太線が一等道路=陸羽街道である。道路の西側に小字の区切りが並ぶがその中に「第三拾四番 字古屋敷前囲」と「第三拾五番 字穴田前囲」が見える。山側から下ってくる溝渠が小字の境界で、溝渠の両側は細い作場道となっている。
地理局の通知には「穴田前一軒家」とあるが、明治8年当時、穴田前および古屋敷前とも陸羽街道の沿道は田または畑になっていて「宅地」の存在は認められない。「一軒家」とはあるが小屋程度の非住居、もしくは高低測量の時までに建った新規の家屋なのかも知れない。

 


Googleストリートビュー(2022年3月撮影)
画像中央の堀と小道が小字の境界である。右が穴田前、左が古屋敷(現在は「古屋敷前」ではないらしい)。金華山塔は古屋敷側に建っている。絵図に描かれていた古屋敷側の作場道は痕跡すら判然としない。かつて、この付近は山側から流れてきたと思われる土砂が堆積し、堀の両側はこんもりと高く、画像両端の家にはそれぞれ段を下りて敷地に出入りしていたという。

 


Googleストリートビュー(2021年4月撮影)
国道4号線、白石中心部方向から南の斎川方面を望む。後方に見える高架は東北自動車道。
金華山塔は道路西側、コンクリート製の階段状基壇の上に鎮座し、正面は国道側を向いている。以前(昭和30年代)は現在の道路敷に掛る位置まで土山が続き、金華山塔はその土山の上、今の歩道縁石付近にあったという。

 

 
(2003年7月19日撮影。以下同じ)
金華山塔の正面と右側面。石碑の前に置かれた小皿までの地上高は160センチメートルほど。石碑本体は碑塔と台石がモルタルで固定されている。碑塔の高さ約88センチメートル、最大幅50センチメートル。刻銘は「金華山 安政三丙辰歳 十一月十五日」とある。台石の高さ約30センチメートル、最大幅70センチメートル。自然石。台石の右側面に几号が刻まれている。この石塔に几号を刻むとしたら台石の滑らかなこの面に限られるだろう。

 

 
几号。横棒8.7センチメートル、縦棒10.5センチメートル。上下2段に建立奉納者の名前が刻まれているが、几号はその名前の上に重刻されている。このような事例はこれまでも何度か報告してきたが、まさに内務省地理局の“怖いもの知らず”な手法である。ただし、彫り手には多少の遠慮があったのか、いささか線刻の彫りが浅いように見える。(気のせい?)

 

107 白石 南

(更新 22.08.08)

点   名

107 白石 南(しろいし みなみ)

当時の場所

宮城県 白石駅南口一等路指道石標

現在の地名

宮城県 白石市南町1丁目2−78

海面上高距

47.2944m

前後の距離

中目 ← 2758.00m → 白石 南 ← 2431.40m → 白石 北

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 白石駅 南口
  47.2944m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 SHIRAISHI (Sud Ende)
 47.2944m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 白石駅南口一等路示道標
 47.2944m/ ? 15?.0715尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 白石駅南口一等路指道石標

照合資料 4

地質要報
 白石
 47.2m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 白石
 ―/19丈

几号の現存有無

移設現存

解  説

宮城県白石は伊達家重臣片倉氏が代々居城を置いた場所である。今でも町を歩けばそこかしこに城下町の雰囲気が残っている。
城下の南端にあたるのが現在の南町・田町付近。ここからは陸羽街道(かつての奥州街道)から分けれ遠く米沢まで至る間道が通じていた。その分岐点に建てられたのが今回の几号附刻物「一等路指道石標」である(以下「道標」と表記)。
道標の設置時期であるが、道標を建立した白石の豪商米竹清右衛門の褒賞記録により明治8年末から翌9年の初頭と考えられる。『白石市史・通史編』の年表では「明治9年3月28日、米竹清右ェ門が田町角に羽州街道への追分石標を建てる」と、褒賞の木盃を賜った日付で記している。なお、文献によっては建立年を「明治22年」とするものもあるが、これはまったくの誤りである。
道標は風雪に耐え長らく田町交差点角に建っていたが、石柱の根元からぽっきりと折れてしまう事故が発生し、約100メートル離れた白石中学校北門の前に移設された。時は昭和57年(1982)という。

 

道標の移設現存を把握した我われは、2003年6月12日、几号の存否を確認するため現地に向かった。道標の前に立ち祈るような気持ちで見入ったところ、地表面ぎりぎりの位置に几号の線刻を確認した。(あったー!)
しかし、興奮冷めやらぬ間に几号の下三分の一が完全にコンクリート内に埋没していることが判明する。(なんということだ・・・) 
喜びと落胆とで心中はまったく穏やかでないのだが、道標に隣接する、というか道標が建っているお宅を訪ねた。そこは「お茶とく」さんというお茶屋さんで、ご主人にお話を伺うことができた。話しの要点は次の2点である。
 1.田町交差点の角で折れていた道標を市に頼んで移設してもらった。
 2.移設の際に自分は立ち会わなかったこともあり碑面の向きは間違っている。
今にして思えばもっと詳しく聞いておけばよかったと思うが致し方ない。

 

道標は左面に「Main Road To Tokio」、「一等道路東亰街道」とあり、右面にも英語表記と「此方二等道路 下戸澤駅エ出テ米澤街道」と刻む。英語の表記は文明開化の影響も大いにあるだろうが、やがて輸出生糸の相場を影響するまでに成長する米竹家の人々には、東京の先には横浜が、米沢の先には新潟があり、それぞれの開港場を通して世界が見えていたのかも知れない。

 

この道標は白石の歴史でも特筆すべき石造物と言って過言ではないが、白石城を代表とする近世の歴史に注目が集まる状況では甚だ存在の影は薄い。道標が道標たるため、付け加えれば几号のためにも、いつの日か本来あるべき場所に再移設されることを願っている。

 

本項の末尾に、当時の街道に関する法令や報告、米竹清右衛門褒賞関係の史料を収録した。私の拙い解説を補うものとして参考にしていただきたい。

現地を調査した日

2003年6月12日(浅野・畠山発見)

参考文献

荒井太四郎編:山形県地誌提要・上下巻、明治閣、1878年
福島県史料集成編纂委員会:福島県史料集成4、福島県史料集成刊行会、1953年
宮城県史編纂委員会:宮城県史5、地誌交通史、1960年
白石郷土研究会:みちばたの神さまたち・白石市周辺、会報第4号特別号、1970年
白石市史編さん委員:白石市史1、通史編、白石市、1979年
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年
国立公文書館所蔵:磐前県下磐城国地誌提要、明治9年
国立公文書館所蔵:磐前県管内一二等駅路幷枝道里程調、明治9年
宮城県公文書館所蔵:明治8年・刈田郡白石本郷絵図(V-0006)
宮城県公文書館所蔵:明治9年・官省指令・六冊ノ内・内務省
宮城県図書館所蔵:磐城国刈田郡地誌、明治18年
宮城県図書館所蔵:宮城県国史・明治9年
法令全書

ご 協 力

お茶とく・日下 様(白石市)

 

白石米沢間の街道概略図(明治10年頃)

陸羽街道の星印が本点の道標である。米沢へ至る道のりであるが、まず白石の背後にそびえる鉢森峠を越えて小原へ出る。下戸沢まで至ると桑折町の追分(100 谷地)から小坂峠を越えてきた南羽前街道と合流する。南羽前街道はかつての羽州街道であり、上山藩から弘前藩に至る13の大名が江戸との上り下りに利用した。しかし、山中の険路にして仙台藩領に七つ置かれた宿駅はいずれも規模は小さいものであった。七つの宿の西端が湯原(ゆのはら)である。ここを過ぎると庚申塔に「右ハもかみ海道 左ハ米さわ海道」と刻まれた追分石が建っている。左の道へ入り二井宿=新宿(にいじゅく)、高畠を経れば米沢に到着である。
これらの経路は明治14年に福島から米沢へ至る新道(萬世大路)が開通したことで交通量は大きく減少する。また、白石においても明治18年に小原新道が開削され、逐次路面も改修されたことで急峻な鉢森峠を越える道は廃れてしまった。
現在、小原新道から二井宿に至る路線は国道113号線として整備されている。

 

 


明治8年「刈田郡白石本郷絵図」(一部)(宮城県公文書館所蔵:V-0006)(掲載承認済)
陸羽街道は東京方面から入って市街地をカギ型に仙台方面へ進む。道標は鉢森峠・下戸沢方面の道(=羽前岐街道)が分岐する黄色の丸印の場所に建立された。この絵図では陸羽街道を「一等道路」、鉢森峠・下戸沢への道を「三等道路」と記している。なお、絵図の左上には片倉氏の「旧城跡」が描かれている。

 


(Mapionの地図を加工)
現在、道標は建立当初の場所「田町交差点」から西へ約100メートル入った場所へ移設されている。位置的には白石中学校の北門前と言ったほうが分かりやすいかも知れない。この移設先へ至る道こそが道標が示す鉢森峠・下戸沢方面への経路である。

 


(2003年6月12日撮影。以下同じ)
田町交差点から西へ100メートル進んできた場所。左手には白石中学校の北門がある。手前から奥へ続くのが鉢森峠・下戸沢への道にあたるが、地元の人でもここが遠く米沢まで至るかつての主要道だったと理解している人は少ないと思われる。
中央の緑に囲まれた建物がお茶屋の「お茶とく」さん。ここのご主人が折れて亡失の恐れがあった道標を、市に掛け合って店舗敷地の前に建て直してもらったという。
註)ネットの情報によれば、お茶屋さんだった建物は最近Chainon(シェノン)というパン屋さんに変身していた。週に2日しか開かないパン屋だという。

 

 
道標の脇には「東京街道道標」という文化財標柱が建っている。しかしながら道標を建て直した場所がなんともビミョーな環境であることは見てのとおりである。東京街道の面はまだしもその右側面の米沢方面を示す刻銘は植え込みの中でまともに読むことができない。果たして幾人が意識して道標を眺めることだろうか。だが、亡失の危機にあった道標をここへ移設し、今日まで保存に成功したことも事実である。厳しい評価よりもまずは感謝せねばならない。

 


道標正面。現在確認できる高さは162センチメートル。幅24.5センチメートル。錐頭方柱。
上から、左を示す指さし、「Main Road To Tokio」、「一等道路東亰街道」、「」と刻む。
右側面は、右を示す指さし、英文(略)、「此方二等道路 下戸澤駅エ出テ米澤街道」と刻む。
拓本は地元の白石郷土研究会が1970年に発行した『みちばたの神さまたち・白石市周辺』に収録されたものを転載。道標が破断する以前のもので几号も完全に写し採っていて貴重である。

 


几号。横棒8.5センチメートル。縦棒は地上に出ている部分で6センチメートル。几号の下部がコンクリートに埋没しているのが惜しまれる。
道の字の部分へ横に走る亀裂が移設のきっかけとなった道標の破断箇所と思われる。

 

 

 

河川・港・道路の重要度に応じて一等から三等に分ける(明治6年)

明治六年八月二日  各府県
大蔵省 番外達
  河港道路修築規則(抜粋)

第一則 澱刀根信濃川ノ如キ一河ニシテ其利害数県ニ関スル者ヲ一等河トス横浜神戸長崎新潟凾館港ノ如キ全国ノ得失ニ係ル者ヲ一等港トス東海中山陸羽道ノ如キ全国ノ大経脈ヲ通スル者ヲ一等道路トス(後略)
第二則 他管轄ノ利害ニ関セサル河港及ヒ各部ノ経路ヲ大経脈ニ接続スル脇往還枝道ノ類ヲ二等河港道路トス(後略)
第三則 市街郡村ノ利害ニ関スル河港及田地灌漑ノ用悪水路村市ノ経路等ヲ三等河港道路トス(後略)

 

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賞盃規則(明治8年)

学校病院其他道路橋梁及済貧恤窺等ノ費用ヲ差出候者ノ内勅奏任官及華族ヲ除之外出金高四千円未満之分ハ左ノ賞例ニ照シ夫々処分可致尤盃ハ追テ可下渡旨達置金高詳記速ニ内務省ヘ申出其品送致ヲ請フヘシ且金高拾円未満ノ分ハ褒詞取計置人名幷金員トモ月末ニ取束詳細同省ヘ可届出事
 但出金高四千円以上ノ分ハ其都度内務省ヘ可伺出事

 

   賞盃規則
金高拾円以上七十円未満
 木盃 壱個
  但金高拾円毎ニ品格等差アリ
同七拾円以上百円未満
 同  三ッ組
  但前同断
同百円以上八百円未満
 銀盃 壱個
  但金高百円毎ニ品格等差アリ
同八百円以上千円未満
 同  三ッ組
  但前同断
同千円以上四千円未満
 同  同
  但金高千円毎ニ品格等差アリ

 

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道標建立者米竹清右衛門、褒賞として木盃1個を賜る(明治9年)

1.宮城県公文書館所蔵『明治九年 官省指令 六冊ノ内 内務省』
   陸羽道中ヨリ羽州支道ヘ追分石標建設候者ヘ賞与之儀ニ付伺
                   当県下刈田郡白石本郷平民  米竹清右衛門
右清右衛門儀当管下磐城国第九大区小六区刈田郡白石本郷陸羽道中ヨリ羽州支道ヘ通行之他方旅客等為便宜之自費ヲ以追分石標建設致度願出ルニ付聞届至候処今般落成候旨申出ルニ付費額取調候ヘハ総計金弐拾五円拾銭壱厘ニ有之就テハ明治八年第百弐拾壱号太政官御達道路修繕等之為メ費用差出候者ヘ照準之木盃可下賜哉御指揮有之度此段相伺候也
 明治九年二月十九日         権令宮城時亮代理 宮城県参事渡辺習(印)
  内務卿大久保利通殿
(指令)
書面米竹清右衛門江賞誉トシテ木盃壱個下渡候条授与方例規之通可取計事
  但本文木盃之儀者追テ通運会社ヲ以送致候儀旨可相心得事
 明治九年三月廿日                   内務卿大久保利通(印)

 

2.『宮城県国史』明治9年・賞
刈田郡白石本郷商米竹清右衛門磐城国刈田郡白石本郷陸羽道中ヨリ羽州支道ヘ通行ノ旅客等便宜ノ為メ金弐拾五円余ノ自費ヲ以テ追分石標建設候賞トシテ三月廿八日木盃一個ヲ賜フ

 

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河川・港の等級を廃する

明治九年六月八日  府県
太政官達 第五十九号
明治六年八月大蔵省ヨリ相達候河港等級ノ儀ハ渾テ相廃シ候条此旨可心得(後略)

 

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道路の等級を廃し国道県道里道を定める

明治九年六月八日  府県
太政官達 第六十号
明治六年八月大蔵省ヨリ相達候道路ノ等級ヲ廃シ更ニ別紙ノ通相定候条右分類等級各管内限詳細取調内務省ヘ可伺出此旨相達候事
(別紙)
 国道
  一等 東京ヨリ各開港場ニ達スルモノ
  二等 東京ヨリ伊勢ノ宗廟及各府各鎮台ニ達スルモノ
  三等 東京ヨリ各府県ニ達スルモノ及各府各鎮台ヲ拘聯スルモノ
 県道
  一等 各県ヲ接続シ及各鎮台ヨリ各分営ニ達スルモノ
  二等 各府県本庁ヨリ其支庁ニ達スルモノ
  三等 著名ノ区ヨリ都府ニ達シ或ハ其区ニ往還スヘキ便宜ノ海港等ニ達スルモノ
 里道
  一等 彼此ノ数区ヲ貫通シ或ハ甲区ヨリ乙区ニ達スルモノ
  二等 用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該区人民ノ協議ニ依テ別段ニ設クルモノ
  三等 神社仏閣及田畑耕耘ノ為ニ設クルモノ

 

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磐前県下磐城国地誌提要(明治9年)

駅路

〇陸羽街道。越河(コスガフ)、一里十五丁五十四間、斎川(サイカワ)、一里十四丁三間、白石(シロイシ)、一里二十九丁二十一間、宮(ミヤ)、一里十二丁五十間、陸前国金ヶ瀬
〇自陸羽道中白石羽前新宿道。白石(シロイシ)、三里三十二丁三十間、下戸沢(シモトサワ)、一里九丁十間、渡瀬(ワタラセ)、一里二十九丁十九間、関(セキ)、一里十丁一間、滑津(ナメヅ)、一里十丁十五間、峠田(タフゲダ)、一里四丁二十八間、湯原、一里三十四丁四十二間、羽前国新宿

 

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磐前県管内一二等駅路幷枝道里程調(明治9年)

〇陸羽街道  一等ニ属ス
岩代国貝田
  里程十八町
越 河
  同一里十五町五十四間
斎 川
  同一里十四町三間
白 石
  同一里二十九町二十一間

  同一里十二町五十間
陸前国金ヶ瀬
  合六里十八町八間  内管地凡五里十九町三間四尺

 

〇羽前街道  一等ニ属ス
岩代国小坂
  里程一里五町二十五間
上戸沢
  同三十四町二間
下戸沢
  同一里九町十間
渡 瀬
  同一里廿九町十九間

  同一里十町一間
滑 津
  里程一里十町十五間
峠 田
  同一里四町二十八間
湯 原
  同三里十二町
羽前国楢下
  合 (里程欠落)

 

湯 原
  里程一里三十四町四十二間  二等ニ属ス
羽前国新宿

 

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山形県地誌提要(明治11年)

〇道路、東京街道、二線、其一、小坂通リ、上ノ山、楢下、福島県下、磐城国苅田郡湯ノ原ニ至ル、八里卅四丁二間余、其二、米沢通リ、上ノ山、川口、中山、川樋、赤湯、糠ノ目、米沢、板谷、仝信夫郡李平ニ至ル、廿里三丁四十五間余

〇村山郡

楢下駅以東、路次第ニ険ナリ、金山峠ニ不動堂アリ、即国界トス、楢下ヨリ一里廿二丁十四間、東京街道ニ当レリ

〇置賜郡
 二井宿ヨリ陸前湯ノ原ニ至ルノ路線有リ、二里トス

 

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伊達郡村誌(明治13年)

〇谷地村

道路  陸前街道。国道一等に属す、南隣桑折村より来るを本村字道下に受け、一直線村の西部を通し吉田に至る、長十六町四十間、幅五間、湿抜二間。
羽前街道。字追分に於て陸前街道に分岐し、南半田村と本村の境を北行し北道合に至り全く南半田村に入る、長九町四十間、幅三間許。

 

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磐城国刈田郡地誌(明治18年)

〇白石本郷

道路  陸羽街道。一等道路ニ属ス郷ノ西南方森合村界ヨリ北方長袋村界ニ至ル長二十九町四十間幅五間道敷三間松ノ並木アリ。 小原道。三等道路ニ属ス郷ノ中央字田町ニテ陸羽街道ヨリ分レ西方森合村界ニ至ル長五町三十間幅一間三尺。

〇小原村

道路  羽州街道。一等道路ニ属ス村ノ南方伊達郡小坂村界ヨリ西北方本郡渡瀬村界ニ至ル長二里二十五町幅二間。 白石道。三等道路ニ属ス村ノ西北方字町尻ニテ羽州街道ヨリ分レ東方森合村界ニ至ル長一里十八町二十間幅一間一尺。

〇湯原村

道路  羽州街道。一等道路ニ属ス村ノ東方本郡滑津村界ヨリ西北方南村山郡菖蒲村界ニ至ル長二里一町五間幅二間。 米沢道。三等道路ニ属ス村ノ西方字追分ニテ羽州街道ヨリ分レ西方置賜郡二井宿村界ニ至ル長二十二町五十八間幅二間。

108 白石 北

(更新 22.08.30)

点   名

108 白石 北(しろいし きた)

当時の場所

宮城県 白石駅北口白石橋北詰 旧金華山塔台石

現在の地名

宮城県 白石市福岡長袋字中ノ狐沢南・山ノ下

海面上高距

49.3956m

前後の距離

白石 南 ← 2431.40m → 白石 北 ← 2196.60m → 深谷

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 白石駅 白石橋
  49.3956m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 SHIRAISHI (Nordende)
 49.3956m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 白石駅北口白石橋北詰 旧金華山塔台石
 49.3956m/163.0055尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 白石駅北口白石橋北詰 旧金華山塔台石

照合資料 4

地質要報
 白石橋
 49.3m/―

几号の現存有無

不明

解  説

本点「白石駅北口白石橋北詰 旧金華山塔台石」は、2003年5月に宮城県の高低几号附刻一覧(明治10年地理局通知・史料9)を確認して以来、“見つかりそうで見つからない”という、なんとも悩ましい箇所のひとつに挙げることができる。
2003年6月の調査にはじまり、白石周辺に行った際は白石大橋周辺の気になる場所をひとつひとつ確認して回ったが、特に注目するような「金華山塔」にはめぐり会うことができなかった。
時は過ぎて2013年、ようやく有力な手掛かりが書かれた文献にたどりついた。『仙臺郷土研究』18巻2号(1958年)収録の《「陸奥山に黄金花咲」の碑 〜白石市長袋神明社境内〜》である。
著者は片倉信光氏。白石城主片倉氏のご子孫。旧男爵。1985年没。学芸員や宮司を務める傍ら郷土研究にも熱心であった。
片倉氏は長袋神明社の万葉歌碑について論考しているが、その記述により我われが探し求める「白石橋北詰 旧金華山塔」は当該万葉歌碑である可能性がつかめた。
いささか長文になるが、歌碑を揮毫した人物を特定するくだりまで片倉氏の論考を紹介する。(文章は原本のまま)

 

「陸奥山に黄金花咲」の碑  −白石市長袋神明社境内−
碑の高さ  一米一五 巾六七センチ
旧所在地  白石大橋北岸足尾神社前
現 在 地  白石市長袋 神明社境内

建立者名も筆者名も記入は無いが、筆者は白石片倉家臣書家倉田蠖堂(耕之進聖純)だと言伝えていた。始めは、白石大橋北岸の奥州街道に沿つた足尾神社の前に在つたが、明治天皇東北御巡幸の際、打倒されて頭部を折損した。後神明社境内に移されて現存する。台石などに建立者の名前が刻んであつたのではなかろうか。
先年来、倉田耕之進の筆蹟を調べているが、白石市戸沢の熊谷武衛氏蔵の倉田の「掌中自吟鑑」と題する、自分の詩歌其他を年代順に書き留めた自筆本を見ている中に、安政二年の頁に、次の歌が前書なしに突然現れて来た。
 「人皇四十五代 聖武天皇御宇 天平二十一年三月 陸奥国ヨリ黄金ヲ貢ス 
  此時奥州探題恵美朝獦
                     奉祝歌 宿禰
  皇の御代さかえんとあつまなるみちのくやまに黄金はなさく」
次に古事記日本紀万葉集の中の栄えの用字を書抜いて記してある。この歌を何故此処に記したのかと疑問のまゝ来た処、昨年暮れ長袋の大内幸之助翁に案内され神明社の碑を実見して、符節を合せる碑と記録によつて、これこそ誤りなく倉田耕之進の筆蹟であると確認することができた。
  (後略)        (文片倉信光)

《仙臺郷土研究・18巻2号・1958年》

 

論考冒頭に掲載された碑の拓本は省略したが、篆書体で「金華山」、草書連綿体で「皇の御代さかえんと東なるみちのく山に黄金花咲」と大伴家持の万葉歌が刻まれている(万葉集巻18−4097)。陸奥国で金が産出したことを奉祝する歌であり、『万葉集』の中でもよく知られた一首といえる。歌の詳しい解釈や金華山信仰との関連、さらには揮毫した倉田耕之進(1794-1871)については本題からそれるので関連書に譲る。

 

片倉氏は長袋神明社境内にあり俗に万葉歌碑と呼ばれる金華山塔について、もともと「白石大橋北岸の奥州街道に沿つた足尾神社の前に在つた」と記している。もし、これが事実とすれば我われは大きな見落としをしていたことになる。
記憶をたどれば調査初年の2003年にも神明社を訪ね金華山塔を実見していたのである。この時は白石大橋の北側、長袋地区の“鎮守”ということで訪ね、そこにある金華山塔も“念のため”見た程度のことであった。神社は白石大橋から直線距離で1キロメートルも隔たっており、ましてやこの金華山塔が白石大橋付近から移設されたとはまったく知る由もない。台石に几号があれば神業並みの大発見であったのだが、残念ながらそのような線刻も見当たらず、我われは特に重要視することなく立ち去ったのである。
八方塞がりのところへ舞い込んできたのが片倉氏の記事である。我われは10年ぶりに神明社を訪ね、金華山塔を念入りに調査した。だが、というより当然のことながら前回の調査と同じく几号は見当たらない。片倉氏が指摘するように現在の台石は建立当時のものではない可能性が考えられる。
この日、神明社の宮司さんはあいにく出掛けており、移設に関する何らかの情報を得ることができなかったのが惜しまれる。
碑を見たあと念のため神明社境内を一巡し、さらに再三調査しているが白石大橋北岸「足尾神社」と推定される場所も改めて見て回った。残念ながら几号の刻まれた石は勿論のこと、「これでは?」と疑うような石も見当たらなかった。

 

これまでの現地調査の結果と片倉氏の記述から導き出されたのは、几号を刻んだ「白石橋北詰 旧金華山塔」は長袋神明社の金華山塔が最有力ということだ。
しかし、それならば肝心の几号が台石に見当たらないことが謎となる。素直に考えれば台石部分が何らかの理由で別物に替えられたことになるだろう。
塔身と分離されたのは昨日今日の話ではない。何十年も前に離れ離れになった“元の台石”を見つけ出すのは至難の業だ。だが、我われがおこなった現地調査も完璧ではない。草木の陰、人家の庭先、石段や石垣に組み込まれている可能性も考えられる。いつかどこかで几号の刻まれた石が見つかることを切に願っている。

現地を調査した日

@2003年6月12日  A2013年4月27日  ※主要な調査日のみ

参考文献

庄司一郎:白石町誌、北日本書房、1925年
刈田郡教育会:刈田郡誌、宮城県刈田郡教育会、1928年
宮城県史編纂委員会:宮城県史23、資料篇1、宮城県、1954年
片倉信光:倉田耕之進の事績、五城農友、130号、宮城県農業普及協会、1957年
仙台郷土研究会:仙臺郷土研究、18巻2号、1958年
白石郷土研究会:みちばたの神さまたち・白石市周辺、会報第4号特別号、1970年
白石市教育委員会:白石市文化財調査報告書13、道ばたの碑、1974年
白石市役所:広報しろいし、199号、史跡散歩・金華山の碑、1976年 (→閲覧
白石市史編さん委員:白石市史1、通史編、白石市、1979年
富田高久:不退堂 倉田耕之進、1987年
白石市制施行50周年記念、年表 白石市50年のあゆみ、白石市、2004年
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年
宮城県図書館所蔵:磐城国刈田郡地誌、明治18年

 

白石大橋の周辺図 (Google Earthの画像を加工)

城下特有のクランク道で白石の町並み抜けてきた陸羽街道は、西北端の新町まで到達したところで白石川沿いに出てV字を描くように東側に反転し白石橋の付け根に至る()。なお、オレンジ色の線は大きく迂回する経路を解消するため明治19年に開通した新道である。
白石橋を渡ると几号附刻の推定地に入る。前点「107 白石南」からの距離2431.4メートルはまさに旧白石橋の北詰を示している()。片倉信光氏の論考で金華山碑があったとされるのはの場所。ここまで来ると前点からの距離は2500メートルになってしまう。このことは石碑が長袋神明社に移設される前にもからへ移動されていた可能性を示している。
※ 参考のため白石大橋に関する資料や年表を本項末尾に掲載した。

 


『刈田郡誌』(昭和3年刊)掲載の「陣場山及大橋」の景観
白石川南岸から白石橋北詰方向を望んでいる。橋は架け替え前の旧位置にあった当時の木橋。
中央の小山が陣場山。右端は周辺図における「足尾大権現碑」がある場所と思われる。

 


(2013年4月27日撮影。以下同じ)
周辺図における「足尾大権現碑」の場所。中央にある方形の石に「足尾大権現・元治元甲子」と刻まれている(=1864年)。地元で「足尾社」と呼ばれていることから、片倉信光氏が記す「足尾神社」もこの場所を指すものと思われる。ここは更に上の住宅地に通じる階段の踊り場のような空間であり、10基ほどの石碑が立ち並ぶ以外に社殿や祠などは特にない。

 


足尾大権現碑の場所から俯瞰。左上は現在の白石大橋。枯れすすきの陰になっているが右上が旧白石橋の北詰()。カーブを描いて眼下に至る道が陸羽街道(旧道)である。この画像に写る白石川北岸の一帯が「白石橋北詰 旧金華山塔台石」の推定地といえる。
ちなみに、陸羽街道を境に手前側が長袋「中ノ狐沢南」、向こう側が「山ノ下」である。

 


周辺図におけるの位置。階段の上に「足尾大権現碑」がある。ここが「足尾神社の前」とすれば長袋神明社に移設される前の金華山塔はこの付近にあったことになる。付近の何人かに尋ねてみたが異口同音に「昔のことは知らない」との答えだった。

 


白石川北岸から北へ1キロメートル移動し長袋神明社の社殿前に到着。渡り廊下の奥に金華山塔が見える。おのれの洞察力の無さを棚に上げるわけではないが、白石橋北詰にあった石碑がこのような奥まった場所に移動しているとは誰が想像できるだろうか。

 


碑身。高さ:117cm、幅:68cm。 台石。高さ:42cm、幅116cm。
碑身の正面に篆書体で「金華山」、草書連綿体で「皇の御代さかえんと東なるみちのく山に黄金花咲」と刻む。傍らに「万葉歌碑」の標柱が建つ。
台石の正面には平らな面もあるのだが、几号は期待のし過ぎとしても建立者名すら一文字も刻まれていない。これだけの石塔としては情報不足であり不自然な印象を受ける。

 


右から「金華山」と刻まれている。しかし、これを一目見て「はいはい、金華山ね👍」と読めるのは書道家にハンコ屋に地理局の大川通久さんくらいなものだろう。

 

 
碑身の右側面に「安政二乙卯歳六月吉祥日」。左側面の下部には「石工 大倉平治」の刻銘がある。台石は側面も背面も凹凸が激しく几号も文字も刻むには適していない。

 

 

【参考1】風土記御用書出(安永6年)
〇白石本郷

 一、白石川橋 長三十三間 幅壱丈 御城下ゟ江戸江之往還道

 一、御城下ゟ江戸江之往還道 壱筋

〇蔵本村

 一、白石川橋 長サ三拾三間 幅壱丈
御城下ゟ江戸江之往還通、御城下江之通路、当時板橋
 一、御城下ゟ江戸江之往還道 壱筋
右者丁間少之間当村分罷成居

〇長袋村

 一、御城下ゟ江戸江之往還道 壱筋
北ハ当郡深谷村西南ハ当郡蔵本村

 

【参考2】磐城国刈田郡地誌(明治18年)
〇白石本郷

白石橋。陸羽街道ニ属ス本郷ヨリ八町二十間架シテ郷ノ北方白石川ノ中流ニアリ本郷ヨリ長袋村ニ通ス水深三尺広五十間橋長六十六間三尺幅四間木製

〇長袋村

白石橋。陸羽街道ニ属ス本村ヨリ二十町四十間架シテ村ノ東南方白石川ノ上流ニアリ本村ヨリ白石本郷ニ通ス水深三尺広五十間橋長六十六間幅四間木製

 

【参考3】橋をめぐる年表
明治03年  白石大橋流失、仮橋仮設
同09年  木橋、橋長121m、幅員7.9m  ※巡幸前に完成
19年  橋南詰から亘理町へ抜ける新道開通 ※有志丁へ発展
23年  一部流失
24年  木橋、橋長123m、幅員5.1m
27年  落橋
34年  木橋、橋長123m、幅員5.1m
37年  木橋、橋長123m、幅員7m
40年  流失
41年  修繕、竣工
大正01年  流失
同02年  流失
昭和07年  鉄筋コンクリート、橋長148.4m、幅員7.3m ※従来より60m下流に新設
33年  改修工事で設置した仮橋が大雨で流失 ※数日後に仮橋復旧
34年  大橋完成 ※負荷20トン級の国道一等橋