103 越河 (白石市越河)
104 矢尻 (白石市越河平)
105 斎川 (白石市斎川)
106 中目 (白石市大平中目) 几号現存
107 白石 南 (白石市南町) 几号現存
108 白石 北 (白石市福岡長袋)
東京を出発し陸街街道を進んできた高低几号の旅もいよいよ最後の宮城県に入ります。
宮城県内の現地調査はその大部分において私(浅野)と畠山未津留氏との同行調査となっています。越河から塩竈までの解説において「私たち」や「我われは」などの表現がある場合は、特段の断りがない限り私と畠山氏の二人を指しています。
二人での現地調査は合計すると何十回になるのか数え切れませんが、さまざまな困難とともに喜びもありました。二人三脚で几号を探し求め歩き回った成果をご報告いたします。
* * * * * * * * * *
なお、宮城県内の現地調査はそのほとんどが東日本大震災の前におこなったものです。
月日の流れとともに状況が変化している場所もあると思われます。できれば最新の情報を掲載したいと考えていますが、それが叶わない場所については10数年前の調査結果であることを予めご了承ください。
103 越河
(更新 22.04.20)
点 名 |
103 越河(こすごう) |
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当時の場所 |
宮城県 越河 三十五番地大浪甚五郎 門口自然石 |
現在の地名 |
宮城県 白石市越河字町屋敷 |
海面上高距 |
174.9366m |
前後の距離 |
貝田 ← 2675.00m → 越河 ← 2444.30m → 矢尻 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
@宮城県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
本点の几号附刻地は「越河 三十五番地大浪甚五郎 門口自然石」である。
1回目の調査は2003年8月におこなった。
2回目の調査は前回から半年余りが過ぎた2004年3月におこなった。
推定地の道路は廃道になって百年以上経過していることから、几号の刻まれた石は土の下に埋没、あるいは移動され周囲に散在する多くの石に紛れているのではと想像している。 |
現地を調査した日 |
@2003年8月10日 A2004年3月28日 |
参考文献 |
宮城県:明治天皇聖蹟志、1925年 |
ご 協 力 |
大浪十郎 様(白石市)、関口重樹 様(調査同行) |
明治8年「刈田郡越河村絵図」(一部)(宮城県公文書館所蔵:V-0024)(掲載承認済)
右が北:仙台方面。左が南:福島方面。中央の赤い部分が旧奥州街道越河宿の家並み。北と南の出口がクランク状の枡形になっている。几号附刻の推定地は北口側にある。
明治19年前後、刈田郡越河村「町屋敷字限図」(一部)(仙台法務局大河原支局保管)
旧公図(土地台帳附属地図)。上図における旧越河宿の家並みが字「町屋敷」に相当する。
表示したのは北口側の図面。中央の赤太線には「国道一等道路」と記す。
同じく法務局保管の「土地台帳」によれば、明治22年当時、町屋敷46番地および47番地は郡村宅地として大浪家の所有であった。「門口」として現地の地形なども考慮すれば几号の附刻場所は「旧道」と記された枡形の部分にあると推定される。
推定地周辺の概観図 (Google Earthの画像に加筆)
表示した画像の上部から下部に向けて地形は低くなる。東北本線の線路脇で約182メートル。現在の国道4号線で約160メートル。本点における地理局の測量成果である174.9366メートルは、まさに大浪邸の南面(ビニールハウス側)に位置している。
(2004年3月28日撮影、以下同じ)
現道から旧道の跡を奥に進むと石積みが現れてくる。ただし、石の積み直しは何度もおこなっている様子がうかがえる。 ※注意:個人所有の敷地内。無断立ち入りは厳禁!
旧道が北に向きを変える角の部分。このあたりから道路跡は斜面を下り大浪邸の裏に回る。
石積みは大浪邸の裏側を旧道の跡に沿ってしばらく続く。道路跡は完全に畑と化している。
104 矢尻
(更新 22.05.07)
点 名 |
104 矢尻(やじり) |
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当時の場所 |
宮城県 平村字矢尻一軒家ノ傍自然石 |
現在の地名 |
宮城県 白石市越河平字矢尻 |
海面上高距 |
138.2524m |
前後の距離 |
越河 ← 2444.30m → 矢尻 ← 1342.30m → 斎川 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
@宮城県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
刈田郡平村、現在は白石市越河平(こすごうたいら)となっている。 |
現地を調査した日 |
@2003年8月10日 A2003年9月1日(畠山) B2004年3月28日 |
参考文献 |
白石市史編さん委員:白石市史1、通史編、白石市、1979年 |
ご 協 力 |
佐藤 忠 様(白石市)、関口重樹 様(調査同行) |
明治8年「刈田郡平村絵図」(一部)(宮城県公文書館所蔵:V-0010)(掲載承認済)
掲載した範囲は平村の北端部。左下から右上にかけて茶色の線で描かれているのが一等道路=陸羽街道である。南は越河村から五賀村を経て平村に入り北隣の斎川村へ至る。
上図における矢尻囲の拡大図
陸羽街道の北側が「第五十三番 字矢尻囲」の範囲である。この村絵図と対応している『磐城国刈田郡平村地引帳』(宮城県公文書館蔵)によれば、字名の左脇に記された「五十三ノ一 宅地 民一」の所有主は「半沢〇〇郎 外四名」と記されている。
絵図のように1か所に固まって複数戸(5戸?)が建っていたのか、それとも点在する宅地を便宜的に集約して描いたのかは判然としない。念のため他の囲における宅地の記載方法を確かめたところ、集約して描いた可能性が高いと推測できるが断定するには至っていない。
なお、矢尻囲と道路を挟んだ「第五十二番 字上谷地囲」にも宅地がある。これも『地引帳』で確認したところ所有主は「安藤〇〇郎」ただ一人であった。矢尻囲の向かい側であるが街道沿いの一軒家と見ることもできる。
上図とほぼ同じ範囲の空中写真(Googleマップ)
本点の几号附刻地点は特定が難しく、今のところピンポイントで「ここ」と示すことができない。とりあえず村絵図で矢尻囲の「宅地」と記された付近を候補地としておく。村絵図に描かれた山林の境界が同じような形状で残っている。
二枚橋付近から候補地方向を見る(2003年8月10日撮影)
上で紹介した村絵図では斎川に架かる二枚橋は図面の左下に描かれている(ただし、明治初期と現在では若干橋の位置が異なる)。道路の左側は矢尻囲、右側は上谷地囲で「宅地」と記された場所にあたる。当初はこの付近を有力視し探索を行ったが几号発見には至らなかった。
105 斎川
(更新 22.06.07)
点 名 |
105 斎川(さいかわ) |
---|---|
当時の場所 |
宮城県 斎川 馬形沼岸丸石 三沢村十三番組掃除場内 |
現在の地名 |
宮城県 白石市斎川馬牛 馬牛沼 |
海面上高距 |
122.1028m |
前後の距離 |
矢尻 ← 1342.30m → 斎川 ← 3674.20m → 中目 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
@宮城県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
越河平の矢尻を過ぎて程なくすると陸羽街道は現在の国道4号線に合流する。この辺りから下り坂となり800メートルの間に20メートル近く低くなる。木々に囲まれた下り坂が終われば視界が開け、左手に水面のきらめきが見えてくる。ここが今回の几号附刻地、斎川の馬牛沼(ばぎゅうぬま)である。地理局の報告では「斎川 馬形沼岸丸石 三沢村十三番組掃除場内」と表記されている。
では「丸石は?」となる。地形および地質的にみてかつては自然石がごろごろあったと思われるが、陸羽街道(国道4号線)の整備にともない撤去や破壊が行われたと推定できる。
註:地理局の報告には「掃除場」とあるが「掃除丁場」あるいは「掃除持場」が正しいと思われる。
|
現地を調査した日 |
@2003年7月19日 A2003年8月10日 B2005年4月7・19日 |
参考文献 |
宮城県:明治天皇聖蹟志、1925年 |
ご 協 力 |
関口重樹 様(調査同行) |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.武奥増補行程記 (清水秋全筆:江戸時代中期)
2.東北御巡幸記 (岸田吟香:明治9年)
3.明治天皇聖蹟志 (宮城県:大正14年) 馬牛沼ヲ隔テテ伊達刈田ノ連嶺ヲ望ム
4.明治天皇聖蹟 東北北海道御巡幸之巻上 (明治天皇聖蹟保存会:昭和7年) 宮城県刈田郡斎川村字東明堂 御野立所 |
(2003年8月10日撮影、以下同じ)
街道は江戸時代から馬牛沼の岸辺を通っており、人々には風光明媚な地として知られていた。
考えてみれば東京−塩竈高低几号の旅でこれ程の湖沼を眺められる場所も他にはない。
沼の中に建つのは鯉供養の碑。かつてこの沼で鯉の養殖が行われていた歴史を伝えている。
馬牛沼バス停と沼にせり出した見事な老松。一幅の絵になる光景である。
松の根元にある自然石。なかなかの大きさをしているのがお分かりになるだろう。
上面は扁平であるが全体に角が取れ丸みがある。これが探している「丸石」かは不明。
現在の風景。Googleストリートビュー(2022年3月撮影)
老朽化した樋門や護岸を改修するため、2010〜2014年の5か年計画で県営ため池等整備事業(馬牛沼地区)が実施された。この工事にともない国道沿いは沼側に堤防(315m)を増設補強し、この堤防の上には巡回用道路という名目で歩道が整備された。
この工事に伴うものだろうか、水面に優美な影を映していた老松はものの見事に伐採され姿を消した。松が消滅したことで根元にあった自然石の存否が気になっていたが、ようやく最新のストリートビューで無事であることを確認した(画像の右側に自然石が写る)。
几号探索とは関係ないが、この画像で池の中に建つ鯉供養の碑がなくなっていることに気がついた。本年(2022年)3月16日の地震で損壊したのかも知れない。(福島・宮城で最大震度6強を観測。馬牛沼から北へ3.4キロメートルの場所では東北新幹線が脱線している)
太政官布達「道路掃除条目」
明治五年十月二十八日 府県へ布告
太政官第三百二十五号
近来道路掃除ノ儀多クハ等閑二相成甚以不相済事二候条各地方官二於テ厚ク注意シ追テ道路ノ制被相立候マテハ従前掃除請持有之道筋ハ勿論持場無之場所ハ最寄町村へ公平二割渡左ノ条目ノ通掃除可為致事
第一条
一 総テ掃除請持丁場ハ風雨等ノ障リ有無二不拘必ス三ケ月中一度ツヽ掃除可致事
第二条
一 風雨ノ後ハ必ス其持場ヲ掃除シ溜水ハ左右溝へ導キ水溜ノ場所相減候様可致事
第三条
第四条
一 左右ニ溝渠無之道路ハ可成丈ケ路ノ両縁ヲ低下ニシ雨水ノ捌方宜敷様可致事
第五条
第六条
右之通堅可相守候若等閑二差置二於テハ掛リ官員巡廻ノ節屹度可申付事
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
道路掃除および掃除丁場に関する宮城県達
無号 明治七年三月廿五日
道路修営掃除不手入等無之様明治五年十月中如別紙太政官ヨリ御布達相成其後追々申達置候次第モ有之候処于今心違ノ者有之手入ヲ打捨置候区々モ有之哉ニ相聞実ニ不相済事ニ候今般各小区エ土木下係一人ツヽヲ命シ時々区内ヲ巡廻調査為致候条兼テ御布告ノ条々奉体シ村吏ヨリモ下方エ厚ク申諭村々丁場ヲ確定シ営繕又ハ掃除ノ節ハ至当ニ人足ヲ出シ不手入無之様可致事
右之通各区無洩漏可相達者也
(別紙) ※太政官布達は省略 (上記参照)
右之通被仰出候条各区無遺漏可触示候就テハ県下幷小路ハ勿論其他村々往還筋塵芥不潔物取払ノ儀平常注意イタシ往来運輸ノ便宜ヲ不失様其持場々々無油断修理相加ヘ可申請持無之場所ハ早々取究置総テ不行届無之様可致凡道路ヲ修営スルハ天下相互ノ儀ニテ開化ノ今日決テ等閑不相成筈ニ候処者心得違之者於有之ハ其区戸長副ヨリ厳敷可申付万一不取用等閑置候ハヽ夫々至当ノ処置可及候条兼テ相心得道路ノ便宜実際相開候様可致事
壬申十一月 宮城県参事塩谷良翰
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
甲県第九号 明治八年四月廿日
道路掃除持場ヲ定村々ニテ標木ヲ立置候様兼テ相達置候処于今立方モ不致向モ有之適マ立様及候モ記載区々ニシテ不体裁ニ相見候間本月三十日迄ニ左ノ如雛形標木立方可致事
但右標木ハ一二等道路ノ分ト可相心得其他ノ小道ハ追テ可相達候
右之通ニ致シ人々見易ク且人馬ノ妨ケニ不相成場ヲ撰ミ立杭可致事
右之通区々無漏可相達者也
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
甲県第廿五号 明治八年五月廿五日
道路掃除持場ヲ定メ標杭建方等之儀客月相達置候通ニ有之就テハ掃除心得方等向後如左可相心得候
第一条
明治六年太政官御布告ニ基キ各村持場内ノ掃除三ケ月一度ツヽト定ムヘシ(二月五月八月十一月)此月一日ヨリ七日迄之内天気宜キ日ヲ見斗掃除スヘシ
但当月ニハ官員幷邏卒等巡廻勤惰ヲ糺スヘシ
第二条
各村自宅之前ハ朝暮自分ニテ掃除スルハ勿論也其他村内申合セ惣掛ニテ一ケ月一度ツヽ隅々迄掃除スヘシ
第三条
総テ自宅外往還ハ持場ノ村内申合人頭ニ応シ五名七名組合ヲ定メ輪番ニ掃除スヘシ
第四条
掃除スル者ハ道路凹ノ所アレハ土ヲ入レ凸ノ地ハ平カニシ左右ノ溝ニ塵芥木ノ枝葉等落入タルハ之ヲ浚ヒ石幷木ノ根等尖出スルハ抜去凡道ハ蒲鉾形ニシテ水ノ左右ニ流ルヽヲ善トス
第五条
橋梁モ平カニシテ凸凹又ハ石等無之様掃除ノ度毎ニ手入スヘシ
第六条
道路橋梁共小損之分ハ速ニ持村ニテ修繕ヲ加ヘ置ヘシ大損ノ分ハ其旨村吏幷土木下係ヘ協議一同見分之上届出指令ヲ得ヘシ
第七条
並木折倒レ往来ノ障碍ニ相成候節ハ土木下係立合速ニ取片付置可届出
第八条
掃除ノ節掲示場里程標掃除杭段歩改杭等倒アラハ之ヲ直シ不体裁無之様致スヘシ
第九条
道路ヲ掘割リ田地ヘ水ヲ引候節ハ必ス樋ヲ埋メ上ニ土ヲ掛道並ニ致シ置ヲ要ス若シ樋ヲ不入道路ノ損害ヲ為スハ田主ヘ申付速ニ取潰スヘシ
但宅地等ヨリ悪水ヲ往来ヘ流レ出スヲ禁スヘシ不得止分ハ如本文樋ヲ埋ムヘシ
第十条
三等道路掃除丁場ノ儀モ先般相達置候一二等道路ノ規則ニ准拠シ其道筋ニ関スル村々申合掃除スヘシ尤標杭モ右雛形ノ如ク可建置
但杭ハ三寸角位ヲ用ユヘシ
第十一条
掃除持場ヲ村々ニ割附スルニハ一大区中平均シ戸数ニ割ルヘシ譬ハ一大区ノ戸数一千アリ一二等道路一万間ナレハ一戸ニ十間ニ当ルヘシ
第十二条
一大区中甲ニ一等道アリ乙ニ二等路アルカ如キハ甲ニ近キ村ハ甲ニ属シ乙ニ近キ村ハ乙ニ附クヘシ
但往復五里以外ノ遠村ハ適宜斟酌ヲ加ヘ間数ヲ減シ割附スルハ不苦候
第十三条
往還ニテモ居宅ノ前ハ自分掃除タルヘシ故ニ持場ノ間数割ニ除クヘシ
但標杭ニハ全間数ヲ如左記載シ但書ヲ附スヘシ
何百何十間 何村掃除持場
但内何十間居宅前除之
右之通取極候条区内無洩漏可相達候尤標杭建方相揃候ハヽ区長ヨリ可届出候官員巡回之節検査可及候也
106 中目
(更新 22.06.22)
点 名 |
106 中目(なかのめ) |
---|---|
当時の場所 |
宮城県 中野目村 字穴田前一軒家ノ傍 金華山供養塔 |
現在の地名 |
宮城県 白石市大平中目字古屋敷 |
海面上高距 |
68.4429m |
前後の距離 |
斎川 ← 3674.20m → 中目 ← 2758.00m → 白石 南 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
@宮城県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
前点「斎川」から白石市街地を目指して北上してくると、国道4号線(陸羽街道)・東北自動車道・東北本線・東北新幹線、これら東北の大動脈4線がわずか数百メートルの範囲で集結している珍しい場所に出くわす。折よく走りくる新幹線や貨物列車を眺めながら東北道の高架をくぐれば目指す「中目・金華山塔」に到達である。
事前の調査により中目の田辺商店近くに金華山塔が存在することは把握できたが、果たしてそれがお目当ての金華山塔なのか? もし、そうだとしても几号は残っているのか? そんな不安を抱きつつ小雨そぼ降る2003年7月19日、我われは中目・金華山塔と対面した。
その後、2005年4月自転車旅行で現地を通過した際、金華山塔に隣接する家の人から話を聞くことができた。コンクリートで基壇を作り現在の形に整備したのはこの家のご主人とのことであった。かつては現在の国道車線まで地山が張り出していたという。話を聞いたあと改めて現地に立ってみた。私の想像力が乏しいこともあるが昔の光景を完全に理解することはできなかった。何はともあれ石塔と几号が現存していたのだ。それで良しとしよう。
さて、現地に行くのなら草木が枯れている春先が最適と思われる。そんな季節に拓本でもと思いつつ再訪は果たせていない。この間に宮城県は何度か激しい地震に見舞われた。Googleストリートビューで最新の様子を見る限り金華山塔は無事である。周囲を見渡せば隣接する田辺商店が店を閉じた以外は大きな変化もないようだ。 |
現地を調査した日 |
@2003年7月19日(発見) A2005年4月7日 |
参考文献 |
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年 |
ご 協 力 |
小室道雄 様(白石市)、関口重樹 様(調査同行) |
明治8年「刈田郡中目村絵図」(一部)(宮城県公文書館所蔵:V-0029)(掲載承認済)
画像の下辺、茶色の太線が一等道路=陸羽街道である。道路の西側に小字の区切りが並ぶがその中に「第三拾四番 字古屋敷前囲」と「第三拾五番 字穴田前囲」が見える。山側から下ってくる溝渠が小字の境界で、溝渠の両側は細い作場道となっている。
地理局の通知には「穴田前一軒家」とあるが、明治8年当時、穴田前および古屋敷前とも陸羽街道の沿道は田または畑になっていて「宅地」の存在は認められない。「一軒家」とはあるが小屋程度の非住居、もしくは高低測量の時までに建った新規の家屋なのかも知れない。
Googleストリートビュー(2022年3月撮影)
画像中央の堀と小道が小字の境界である。右が穴田前、左が古屋敷(現在は「古屋敷前」ではないらしい)。金華山塔は古屋敷側に建っている。絵図に描かれていた古屋敷側の作場道は痕跡すら判然としない。かつて、この付近は山側から流れてきたと思われる土砂が堆積し、堀の両側はこんもりと高く、画像両端の家にはそれぞれ段を下りて敷地に出入りしていたという。
Googleストリートビュー(2021年4月撮影)
国道4号線、白石中心部方向から南の斎川方面を望む。後方に見える高架は東北自動車道。
金華山塔は道路西側、コンクリート製の階段状基壇の上に鎮座し、正面は国道側を向いている。以前(昭和30年代)は現在の道路敷に掛る位置まで土山が続き、金華山塔はその土山の上、今の歩道縁石付近にあったという。
(2003年7月19日撮影。以下同じ)
金華山塔の正面と右側面。石碑の前に置かれた小皿までの地上高は160センチメートルほど。石碑本体は碑塔と台石がモルタルで固定されている。碑塔の高さ約88センチメートル、最大幅50センチメートル。刻銘は「金華山 安政三丙辰歳 十一月十五日」とある。台石の高さ約30センチメートル、最大幅70センチメートル。自然石。台石の右側面に几号が刻まれている。この石塔に几号を刻むとしたら台石の滑らかなこの面に限られるだろう。
几号。横棒8.7センチメートル、縦棒10.5センチメートル。上下2段に建立奉納者の名前が刻まれているが、几号はその名前の上に重刻されている。このような事例はこれまでも何度か報告してきたが、まさに内務省地理局の“怖いもの知らず”な手法である。ただし、彫り手には多少の遠慮があったのか、いささか線刻の彫りが浅いように見える。(気のせい?)
107 白石 南
(更新 22.08.08)
点 名 |
107 白石 南(しろいし みなみ) |
---|---|
当時の場所 |
宮城県 白石駅南口一等路指道石標 |
現在の地名 |
宮城県 白石市南町1丁目2−78 |
海面上高距 |
47.2944m |
前後の距離 |
中目 ← 2758.00m → 白石 南 ← 2431.40m → 白石 北 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
@宮城県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
移設現存 |
解 説 |
宮城県白石は伊達家重臣片倉氏が代々居城を置いた場所である。今でも町を歩けばそこかしこに城下町の雰囲気が残っている。
道標の移設現存を把握した我われは、2003年6月12日、几号の存否を確認するため現地に向かった。道標の前に立ち祈るような気持ちで見入ったところ、地表面ぎりぎりの位置に几号の線刻を確認した。(あったー!)
道標は左面に「Main Road To Tokio」、「一等道路東亰街道」とあり、右面にも英語表記と「此方二等道路 下戸澤駅エ出テ米澤街道」と刻む。英語の表記は文明開化の影響も大いにあるだろうが、やがて輸出生糸の相場を影響するまでに成長する米竹家の人々には、東京の先には横浜が、米沢の先には新潟があり、それぞれの開港場を通して世界が見えていたのかも知れない。
この道標は白石の歴史でも特筆すべき石造物と言って過言ではないが、白石城を代表とする近世の歴史に注目が集まる状況では甚だ存在の影は薄い。道標が道標たるため、付け加えれば几号のためにも、いつの日か本来あるべき場所に再移設されることを願っている。
本項の末尾に、当時の街道に関する法令や報告、米竹清右衛門褒賞関係の史料を収録した。私の拙い解説を補うものとして参考にしていただきたい。 |
現地を調査した日 |
2003年6月12日(浅野・畠山発見) |
参考文献 |
荒井太四郎編:山形県地誌提要・上下巻、明治閣、1878年 |
ご 協 力 |
お茶とく・日下 様(白石市) |
白石米沢間の街道概略図(明治10年頃)
陸羽街道の星印が本点の道標である。米沢へ至る道のりであるが、まず白石の背後にそびえる鉢森峠を越えて小原へ出る。下戸沢まで至ると桑折町の追分(100 谷地)から小坂峠を越えてきた南羽前街道と合流する。南羽前街道はかつての羽州街道であり、上山藩から弘前藩に至る13の大名が江戸との上り下りに利用した。しかし、山中の険路にして仙台藩領に七つ置かれた宿駅はいずれも規模は小さいものであった。七つの宿の西端が湯原(ゆのはら)である。ここを過ぎると庚申塔に「右ハもかみ海道 左ハ米さわ海道」と刻まれた追分石が建っている。左の道へ入り二井宿=新宿(にいじゅく)、高畠を経れば米沢に到着である。
これらの経路は明治14年に福島から米沢へ至る新道(萬世大路)が開通したことで交通量は大きく減少する。また、白石においても明治18年に小原新道が開削され、逐次路面も改修されたことで急峻な鉢森峠を越える道は廃れてしまった。
現在、小原新道から二井宿に至る路線は国道113号線として整備されている。
明治8年「刈田郡白石本郷絵図」(一部)(宮城県公文書館所蔵:V-0006)(掲載承認済)
陸羽街道は東京方面から入って市街地をカギ型に仙台方面へ進む。道標は鉢森峠・下戸沢方面の道(=羽前岐街道)が分岐する黄色の丸印の場所に建立された。この絵図では陸羽街道を「一等道路」、鉢森峠・下戸沢への道を「三等道路」と記している。なお、絵図の左上には片倉氏の「旧城跡」が描かれている。
(Mapionの地図を加工)
現在、道標は建立当初の場所「田町交差点」から西へ約100メートル入った場所へ移設されている。位置的には白石中学校の北門前と言ったほうが分かりやすいかも知れない。この移設先へ至る道こそが道標が示す鉢森峠・下戸沢方面への経路である。
(2003年6月12日撮影。以下同じ)
田町交差点から西へ100メートル進んできた場所。左手には白石中学校の北門がある。手前から奥へ続くのが鉢森峠・下戸沢への道にあたるが、地元の人でもここが遠く米沢まで至るかつての主要道だったと理解している人は少ないと思われる。
中央の緑に囲まれた建物がお茶屋の「お茶とく」さん。ここのご主人が折れて亡失の恐れがあった道標を、市に掛け合って店舗敷地の前に建て直してもらったという。
註)ネットの情報によれば、お茶屋さんだった建物は最近Chainon(シェノン)というパン屋さんに変身していた。週に2日しか開かないパン屋だという。
道標の脇には「東京街道道標」という文化財標柱が建っている。しかしながら道標を建て直した場所がなんともビミョーな環境であることは見てのとおりである。東京街道の面はまだしもその右側面の米沢方面を示す刻銘は植え込みの中でまともに読むことができない。果たして幾人が意識して道標を眺めることだろうか。だが、亡失の危機にあった道標をここへ移設し、今日まで保存に成功したことも事実である。厳しい評価よりもまずは感謝せねばならない。
道標正面。現在確認できる高さは162センチメートル。幅24.5センチメートル。錐頭方柱。
上から、左を示す指さし、「Main Road To Tokio」、「一等道路東亰街道」、「」と刻む。
右側面は、右を示す指さし、英文(略)、「此方二等道路 下戸澤駅エ出テ米澤街道」と刻む。
拓本は地元の白石郷土研究会が1970年に発行した『みちばたの神さまたち・白石市周辺』に収録されたものを転載。道標が破断する以前のもので几号も完全に写し採っていて貴重である。
几号。横棒8.5センチメートル。縦棒は地上に出ている部分で6センチメートル。几号の下部がコンクリートに埋没しているのが惜しまれる。
道の字の部分へ横に走る亀裂が移設のきっかけとなった道標の破断箇所と思われる。
河川・港・道路の重要度に応じて一等から三等に分ける(明治6年)
明治六年八月二日 各府県
大蔵省 番外達
河港道路修築規則(抜粋)
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賞盃規則(明治8年)
学校病院其他道路橋梁及済貧恤窺等ノ費用ヲ差出候者ノ内勅奏任官及華族ヲ除之外出金高四千円未満之分ハ左ノ賞例ニ照シ夫々処分可致尤盃ハ追テ可下渡旨達置金高詳記速ニ内務省ヘ申出其品送致ヲ請フヘシ且金高拾円未満ノ分ハ褒詞取計置人名幷金員トモ月末ニ取束詳細同省ヘ可届出事
但出金高四千円以上ノ分ハ其都度内務省ヘ可伺出事
賞盃規則
金高拾円以上七十円未満
木盃 壱個
但金高拾円毎ニ品格等差アリ
同七拾円以上百円未満
同 三ッ組
但前同断
同百円以上八百円未満
銀盃 壱個
但金高百円毎ニ品格等差アリ
同八百円以上千円未満
同 三ッ組
但前同断
同千円以上四千円未満
同 同
但金高千円毎ニ品格等差アリ
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道標建立者米竹清右衛門、褒賞として木盃1個を賜る(明治9年)
1.宮城県公文書館所蔵『明治九年 官省指令 六冊ノ内 内務省』
陸羽道中ヨリ羽州支道ヘ追分石標建設候者ヘ賞与之儀ニ付伺
当県下刈田郡白石本郷平民 米竹清右衛門
右清右衛門儀当管下磐城国第九大区小六区刈田郡白石本郷陸羽道中ヨリ羽州支道ヘ通行之他方旅客等為便宜之自費ヲ以追分石標建設致度願出ルニ付聞届至候処今般落成候旨申出ルニ付費額取調候ヘハ総計金弐拾五円拾銭壱厘ニ有之就テハ明治八年第百弐拾壱号太政官御達道路修繕等之為メ費用差出候者ヘ照準之木盃可下賜哉御指揮有之度此段相伺候也
明治九年二月十九日 権令宮城時亮代理 宮城県参事渡辺習(印)
内務卿大久保利通殿
(指令)
書面米竹清右衛門江賞誉トシテ木盃壱個下渡候条授与方例規之通可取計事
但本文木盃之儀者追テ通運会社ヲ以送致候儀旨可相心得事
明治九年三月廿日 内務卿大久保利通(印)
2.『宮城県国史』明治9年・賞
刈田郡白石本郷商米竹清右衛門磐城国刈田郡白石本郷陸羽道中ヨリ羽州支道ヘ通行ノ旅客等便宜ノ為メ金弐拾五円余ノ自費ヲ以テ追分石標建設候賞トシテ三月廿八日木盃一個ヲ賜フ
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河川・港の等級を廃する
明治九年六月八日 府県
太政官達 第五十九号
明治六年八月大蔵省ヨリ相達候河港等級ノ儀ハ渾テ相廃シ候条此旨可心得(後略)
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道路の等級を廃し国道県道里道を定める
明治九年六月八日 府県
太政官達 第六十号
明治六年八月大蔵省ヨリ相達候道路ノ等級ヲ廃シ更ニ別紙ノ通相定候条右分類等級各管内限詳細取調内務省ヘ可伺出此旨相達候事
(別紙)
国道
一等 東京ヨリ各開港場ニ達スルモノ
二等 東京ヨリ伊勢ノ宗廟及各府各鎮台ニ達スルモノ
三等 東京ヨリ各府県ニ達スルモノ及各府各鎮台ヲ拘聯スルモノ
県道
一等 各県ヲ接続シ及各鎮台ヨリ各分営ニ達スルモノ
二等 各府県本庁ヨリ其支庁ニ達スルモノ
三等 著名ノ区ヨリ都府ニ達シ或ハ其区ニ往還スヘキ便宜ノ海港等ニ達スルモノ
里道
一等 彼此ノ数区ヲ貫通シ或ハ甲区ヨリ乙区ニ達スルモノ
二等 用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該区人民ノ協議ニ依テ別段ニ設クルモノ
三等 神社仏閣及田畑耕耘ノ為ニ設クルモノ
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磐前県下磐城国地誌提要(明治9年)
駅路
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磐前県管内一二等駅路幷枝道里程調(明治9年)
〇陸羽街道 一等ニ属ス
岩代国貝田
里程十八町
越 河
同一里十五町五十四間
斎 川
同一里十四町三間
白 石
同一里二十九町二十一間
宮
同一里十二町五十間
陸前国金ヶ瀬
合六里十八町八間 内管地凡五里十九町三間四尺
〇羽前街道 一等ニ属ス
岩代国小坂
里程一里五町二十五間
上戸沢
同三十四町二間
下戸沢
同一里九町十間
渡 瀬
同一里廿九町十九間
関
同一里十町一間
滑 津
里程一里十町十五間
峠 田
同一里四町二十八間
湯 原
同三里十二町
羽前国楢下
合 (里程欠落)
湯 原
里程一里三十四町四十二間 二等ニ属ス
羽前国新宿
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山形県地誌提要(明治11年)
〇村山郡
〇置賜郡
二井宿ヨリ陸前湯ノ原ニ至ルノ路線有リ、二里トス
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伊達郡村誌(明治13年)
〇谷地村
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磐城国刈田郡地誌(明治18年)
〇白石本郷
〇小原村
〇湯原村
108 白石 北
(更新 22.08.30)
点 名 |
108 白石 北(しろいし きた) |
---|---|
当時の場所 |
宮城県 白石駅北口白石橋北詰 旧金華山塔台石 |
現在の地名 |
宮城県 白石市福岡長袋字中ノ狐沢南・山ノ下 |
海面上高距 |
49.3956m |
前後の距離 |
白石 南 ← 2431.40m → 白石 北 ← 2196.60m → 深谷 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
@宮城県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
本点「白石駅北口白石橋北詰 旧金華山塔台石」は、2003年5月に宮城県の高低几号附刻一覧(明治10年地理局通知・史料9)を確認して以来、“見つかりそうで見つからない”という、なんとも悩ましい箇所のひとつに挙げることができる。
「陸奥山に黄金花咲」の碑 −白石市長袋神明社境内−
碑の高さ 一米一五 巾六七センチ
旧所在地 白石大橋北岸足尾神社前
現 在 地 白石市長袋 神明社境内
建立者名も筆者名も記入は無いが、筆者は白石片倉家臣書家倉田蠖堂(耕之進聖純)だと言伝えていた。始めは、白石大橋北岸の奥州街道に沿つた足尾神社の前に在つたが、明治天皇東北御巡幸の際、打倒されて頭部を折損した。後神明社境内に移されて現存する。台石などに建立者の名前が刻んであつたのではなかろうか。 《仙臺郷土研究・18巻2号・1958年》
論考冒頭に掲載された碑の拓本は省略したが、篆書体で「金華山」、草書連綿体で「皇の御代さかえんと東なるみちのく山に黄金花咲」と大伴家持の万葉歌が刻まれている(万葉集巻18−4097)。陸奥国で金が産出したことを奉祝する歌であり、『万葉集』の中でもよく知られた一首といえる。歌の詳しい解釈や金華山信仰との関連、さらには揮毫した倉田耕之進(1794-1871)については本題からそれるので関連書に譲る。
片倉氏は長袋神明社境内にあり俗に万葉歌碑と呼ばれる金華山塔について、もともと「白石大橋北岸の奥州街道に沿つた足尾神社の前に在つた」と記している。もし、これが事実とすれば我われは大きな見落としをしていたことになる。
これまでの現地調査の結果と片倉氏の記述から導き出されたのは、几号を刻んだ「白石橋北詰 旧金華山塔」は長袋神明社の金華山塔が最有力ということだ。 |
現地を調査した日 |
@2003年6月12日 A2013年4月27日 ※主要な調査日のみ |
参考文献 |
庄司一郎:白石町誌、北日本書房、1925年 |
白石大橋の周辺図 (Google Earthの画像を加工)
城下特有のクランク道で白石の町並み抜けてきた陸羽街道は、西北端の新町まで到達したところで白石川沿いに出てV字を描くように東側に反転し白石橋の付け根に至る(A)。なお、オレンジ色の線は大きく迂回する経路を解消するため明治19年に開通した新道である。
白石橋を渡ると几号附刻の推定地に入る。前点「107 白石南」からの距離2431.4メートルはまさに旧白石橋の北詰を示している(B)。片倉信光氏の論考で金華山碑があったとされるのはCの場所。ここまで来ると前点からの距離は2500メートルになってしまう。このことは石碑が長袋神明社に移設される前にもBからCへ移動されていた可能性を示している。
※ 参考のため白石大橋に関する資料や年表を本項末尾に掲載した。
『刈田郡誌』(昭和3年刊)掲載の「陣場山及大橋」の景観
白石川南岸から白石橋北詰方向を望んでいる。橋は架け替え前の旧位置にあった当時の木橋。
中央の小山が陣場山。右端は周辺図における「足尾大権現碑」がある場所と思われる。
(2013年4月27日撮影。以下同じ)
周辺図における「足尾大権現碑」の場所。中央にある方形の石に「足尾大権現・元治元甲子」と刻まれている(=1864年)。地元で「足尾社」と呼ばれていることから、片倉信光氏が記す「足尾神社」もこの場所を指すものと思われる。ここは更に上の住宅地に通じる階段の踊り場のような空間であり、10基ほどの石碑が立ち並ぶ以外に社殿や祠などは特にない。
足尾大権現碑の場所から俯瞰。左上は現在の白石大橋。枯れすすきの陰になっているが右上が旧白石橋の北詰(B)。カーブを描いて眼下に至る道が陸羽街道(旧道)である。この画像に写る白石川北岸の一帯が「白石橋北詰 旧金華山塔台石」の推定地といえる。
ちなみに、陸羽街道を境に手前側が長袋「中ノ狐沢南」、向こう側が「山ノ下」である。
周辺図におけるCの位置。階段の上に「足尾大権現碑」がある。ここが「足尾神社の前」とすれば長袋神明社に移設される前の金華山塔はこの付近にあったことになる。付近の何人かに尋ねてみたが異口同音に「昔のことは知らない」との答えだった。
白石川北岸から北へ1キロメートル移動し長袋神明社の社殿前に到着。渡り廊下の奥に金華山塔が見える。おのれの洞察力の無さを棚に上げるわけではないが、白石橋北詰にあった石碑がこのような奥まった場所に移動しているとは誰が想像できるだろうか。
碑身。高さ:117cm、幅:68cm。 台石。高さ:42cm、幅116cm。
碑身の正面に篆書体で「金華山」、草書連綿体で「皇の御代さかえんと東なるみちのく山に黄金花咲」と刻む。傍らに「万葉歌碑」の標柱が建つ。
台石の正面には平らな面もあるのだが、几号は期待のし過ぎとしても建立者名すら一文字も刻まれていない。これだけの石塔としては情報不足であり不自然な印象を受ける。
右から「金華山」と刻まれている。しかし、これを一目見て「はいはい、金華山ね👍」と読めるのは書道家にハンコ屋に地理局の大川通久さんくらいなものだろう。
碑身の右側面に「安政二乙卯歳六月吉祥日」。左側面の下部には「石工 大倉平治」の刻銘がある。台石は側面も背面も凹凸が激しく几号も文字も刻むには適していない。
【参考1】風土記御用書出(安永6年)
〇白石本郷
道 一、御城下ゟ江戸江之往還道 壱筋
〇蔵本村
〇長袋村
【参考2】磐城国刈田郡地誌(明治18年)
〇白石本郷
〇長袋村
【参考3】橋をめぐる年表
明治03年 白石大橋流失、仮橋仮設
同同09年 木橋、橋長121m、幅員7.9m ※巡幸前に完成
同同19年 橋南詰から亘理町へ抜ける新道開通 ※有志丁へ発展
同同23年 一部流失
同同24年 木橋、橋長123m、幅員5.1m
同同27年 落橋
同同34年 木橋、橋長123m、幅員5.1m
同同37年 木橋、橋長123m、幅員7m
同同40年 流失
同同41年 修繕、竣工
大正01年 流失
同同02年 流失
昭和07年 鉄筋コンクリート、橋長148.4m、幅員7.3m ※従来より60m下流に新設
同同33年 改修工事で設置した仮橋が大雨で流失 ※数日後に仮橋復旧
同同34年 大橋完成 ※負荷20トン級の国道一等橋