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097 五十辺 (福島市松山町) 几号現存
098 瀬上 (福島市瀬上町)
099 桑折 (桑折町西町)
100 谷地 (桑折町谷地)
101 藤田 (国見町藤田) 几号現存
102 貝田 (国見町貝田)

097 五十辺

(更新 21.09.02)

点   名

097 五十辺(いがらべ)

当時の場所

福島県 五十辺村 信夫文字摺観世音道標

現在の地名

移設前:福島県 福島市松山町108付近(以前の表示は五十辺字茶屋下)

移設1:福島県 福島市山口字舘越3-2
移設2:福島県 福島市山口字文字摺70
移設3:福島県 福島市山口字雷4-1(付近)

海面上高距

60.0483m

前後の距離

福島中央 ← 3340.00m → 五十辺 ← 4030.07m → 瀬上

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 五十辺村
 60.0483m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Isobe
 60.0483m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 五十辺村 信夫文字摺観世音道標
  60.0483m/198.1594尺

照合資料 4

地質要報
 五十辺村
 60.0m/―

几号の現存有無

移設現存  【発見:1995年?、佐藤丈夫(福島市)】

解  説

本点には「五十辺(いがらべ)」という地名を冠したが、それにもまして「文知摺(もちずり=もじずり)」という言葉が本点の重要な用語となっている。これについて簡単に説明すれば(実は簡単ではないのだが・・)、みちのく信夫の里に「信夫摺(しのぶずり)」という石の紋様を利用した布染めの産物があり、その染色を行ったとされるのが文知摺観音堂にある石なのだそうだ。話しはここから複雑になる。石を神聖視したさまざまな伝説、小倉百人一首にも登場する歌枕、行基作と伝わる観音信仰など、人々を引き付ける要素が1か所に集中し(集約され)、気がつけば見どころ満載の“テーマパーク”と化して、多くの文人墨客が訪れる名所になっていたのである。とりわけ松尾芭蕉が訪れたことが拍車をかけたように思われる。
(注)「信夫摺」には諸説あってその実体はよくわかっていないという。また、「文知摺」あるいは「文字摺」は「もじり」の当て字とされる。

 

几号の刻まれた「信夫文字摺観世音道標」は幸いにして現存しているが、本点ほど移動した回数の多さと、原位置からの隔たりの大きさはないと思われる。
この道標の存在が標石研究の分野に紹介されたのは、箱岩英一氏と関義治氏による「奥州街道と明治水準点追跡E」(日本測量協会『測量』1996年3月号)であった。それによれば福島市在住の佐藤丈夫氏によって発見されたとあるが、その発見に至る経緯は不明である。
なお、道標自体はそれ以前から存在が知られていて、『福島市の文化財』(福島市教育委員会、1966年)文知摺観音の項目にも写真が掲載されていてる。写真をよく見れば几号の線刻もしっかり写りこんでいる。几号というものを知っている人が見れば「おっ」と思うことだろう。

 

道標の存在が紹介されて以来、文人墨客の文知摺石詣でならぬ、標石研究家の道標詣が相次ぎ、もともとの建立場所や移設の年代などが解き明かされている。道標は嘉永2年(1849)に奥州街道から文知摺石・文知摺観音堂へ至る道の入口に建立され、現在の場所に落ち着くまでに3回の移設が行われているという。

 

それでは、道標が最初に建立された位置と文知摺観音への道筋を理解するため、3点の文献を紹介する。

 

まずは松尾芭蕉『おくのほそ道』における『曾良随行日記』(曾良旅日記)の一節から見てゆく。元禄2年(1689)という古い文献ではあるが、端的に本点付近の地理的状況を記しており、それはそのまま明治10年当時でも通じるものである。
五月二日、快晴。福島ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、イガラベ村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七、八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七、八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六、七本有。虎が清水ト云フ小ク浅キ水有。福島ヨリ東ノ方也。其辺ヲ山口村ト云。

 

次に“秋田の二宮尊徳”とも称せらる石川理紀之助(弘化2年−大正4年)が、明治10年に開催された第1回内国勧業博覧会を参観するため、郷里の秋田を出立し、岩手・宮城・福島における道すがらを記した『初めぐり』という紀行文を紹介する。時はまさに高低測量が行われた明治10年。道標の記述も出てくる。
十一月五日。空くもる。とく起きて桑折を出でたつ。歩にて川原町、長岡を過ぎ摺上川橋をわたる。こゝは伊達信夫の郡境なり。それより瀬の上、かまた、本内、松川を過ぎ、五十辺に至れば、信夫もち摺石に入るしるしの石碑あれども、むかし里人これをとぶらふ人のしげきが為め、畑作のそこなふことをいとひて埋めたりとてなしといへり。まからで過ぎぬ。
ちなみに「むかし里人これを…云々」の記述は、道標のことを指しているように捉えてしまうが、これは訪ねる先の文知摺石が埋没しているいわれを記したものである。

 

最後は明治12年1月稿成『信達二郡村誌』信夫郡五十辺村の、字地と道路の項目から必要な部分を抜き出してみる。
【字地】
松川前、南部ノ南端ニ在リ、南ハ払川ヲ以テ小山荒井村ニ界シ、北ハ溝渠ヲ以テ塚間(人家十二戸)ニ界シ、塚間ノ北ヲ田中島、又北ヲ北前(人家三戸)、又北ヲ道前(人家九戸)、又北ヲ茶屋下(人家三戸)トス、皆西一等路ニ循ヒ字界トス、
【道路】
陸羽街道、一等道路ニ属ス、南隣小山荒井村ヨリ松川前町田ノ間ニ入リ、北ニ亘リ茶屋下山居ノ間ヲ経、松川ヲ径リ(板橋二所)北隣本内村ニ入ル、
支道三有リ、一ハ南部塚間ニ起リ東シテ(略)下荒子ノ渡頭ニ至ル(東隣岡部村エ渡ル)、一ハ中部田中島ヨリ東ニ支シ(略)塚間ヨリ来ル支道ニ会ス、一ハ北部道前茶屋下ノ間ニ起リ、東シテ下荒子ニ至リ塚間ヨリ来ル支道ニ会ス、長九町十五間、幅七尺

この『村誌』の記述を図示すると下のようになるだろう。

文献3点の読み解きや、道標の裏面に追刻された大正元年移設の経緯、さらには先達諸氏の調査などにより、道標が最初に建立された場所はの位置と推定される。これは「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記載された前後の距離や標高の数値を見てもほぼ合致している。

 

道標は平成の御代に入りきれいに磨かれ、正面の文字には緑色の色が入れられた。一見すると新しく作られた石碑に見えてしまうが、明治に刻まれた几号の線刻もしっかり残っている。

現地を調査した日

@2005年4月7日  A2006年12月2日

参考文献

児玉庄太郎:偉人石川翁の事業と言行、平凡社、1929年
石川翁農道要典編纂会:石川翁農道要典、三井報恩会、1939年
福島市教育委員会:福島市の文化財、福島市教育委員会、1966年
岩波文庫:芭蕉 おくのほそ道 付 曾良旅日記、岩波書店、1979年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書36、信達二郡村誌1、1982年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書48、福島のいしぶみ、1986年
箱岩英一・関義治:奥州街道と明治水準点追跡6、日本測量協会『測量』1996年3月号

 


道標移設の変遷(地理院地図に加筆)

 


2005年4月7日撮影(末尾2枚を除き同じ) 変遷@の場所。福島市松山町(かつての茶屋下)
手前の道が陸羽街道。画像の場所は現在「松山町」となっているが、かつては「茶屋下」といい、その南西角にあたると推定している。間違いがなければ右奥に延びる道が文知摺観音へ至る道になる。この道は明治18年に文知摺観音方面への新道開鑿と、同22年の岡部橋完成により、参詣道としての役目はほぼ終えることになる。道標の正確な原位置は不明。

 


変遷Aの場所。福島市山口字舘越3-2。岡山村道路元標。
「茶屋下」@からの参詣道が役目を終えたことで、道標は大正元年に阿武隈川を越えて岡山村に移設された。移設にあたっては文知摺観音を管理する安洞院(山口字寺前5)の14世玄彰和尚が尽力した。右へカーブするのが相馬に至る中村街道。左の道を直進すれば文知摺観音に至る。道標はこの分岐点に移設された。この場所には大正の岡山村道路元標が現存している。

 


変遷Bの場所。文知摺観音(普門院)。福島市山口字文字摺70。
昭和54年に2代目の文知摺橋が元岡部橋があった場所に完成し、それにあわせて中村街道(国道115号)がバイパス化された。文知摺観音への参詣者はAの場所を含め従来の道を迂回するようになり、道標が人々の目に触れる機会は少なくなった。そんな折の平成元年、芭蕉のみちのく行脚300年にあわせて文知摺観音の境内入口に芭蕉像が建立されることになり、道標も門前に移設された。門標としての役目を果たしたと思われる。

 


変遷Cの場所。セブンイレブン 福島山口店の前。福島市山口字雷4-1(付近)。
道標は平成元年にBの文知摺観音入口に移設されたが、そこが安住の地になったわけではなかった。いなかる理由で移動されたかは知らないが、現在のセブンイレブン福島山口店の前に移設されたのは平成9年のことという。文知摺観音は正面の道の突き当りである。もともと道標として建立されたものであるから、本来の役目を再び果たすことになったのである。

 

 
(右画像は2006年12月2日撮影。下も同じ) 道標。高さ197cm、幅39cm、奥行24.5cm。
正面「信夫毛知摺観世音」。右側面「ひと毎に 忍ふこゝろを もち摺や 老もわすれぬ こひのみちのく」「行年七十歳 今日楽」。左側面「嘉永二己酉語五月吉辰」。正直なところ正面の文字以外ほとんど判読できない(刻銘は『福島のいしぶみ』参照)。また裏面にも移設の経緯を記した文字が刻まれているが、こちらも判読できない。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm。「観世音」の音の字の左下に刻まれている。日光のあたり具合で几号の線刻が浮かび上がるときもあるが、私が訪ねたのは2回とも夕方であったため見た目ではよく分からない状態であった。この画像は標石グループの皆さんと訪れたときのもので、京都の上西さんが水と砂などで几号を浮かび上がらせてくださった。見えにくいだけで線刻はしっかりと残っている。

 

098 瀬上

(更新 21.09.21)

点   名

098 瀬上(せのうえ)

当時の場所

福島県 瀬上 郡界標石崖 摺上川南岸

現在の地名

福島県 福島市瀬上町 摺上川幸橋の南側

   (街道東側)西北川原・町尻 [ 旧 瀬上村]
   (街道西側)柳沼・沢目 [ 旧 宮代村]

海面上高距

58.4505m

前後の距離

五十辺 ← 4030.07m → 瀬上 ← 4488.00m → 桑折

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 信夫・伊達 郡界標
 58.4505m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Senouwaye
 58.4505m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 瀬上 郡界標石崖 摺上川南岸
  58.4505m/175.3515尺

照合資料 4

地質要報
 瀬上駅
 53.1m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 瀬上
 ―/17丈5尺

几号の現存有無

亡失

解  説

本点の几号は信夫郡と伊達郡の境界を示す「郡界標」に刻まれた。
信夫・伊達の郡界に関しては、下段の「この付近の様子を記した紀行文や記録など」に関係史料をまとめたが、いずれも陸羽街道(奥州街道)では、摺上川が境界になっていることで共通している。
現地調査は2005年におこなった。当時は「郡界標」という標目を知る以前のことだったが、現地は度重なる橋の架け替えや拡幅工事が実施されており、几号現存の可能性は低いと判断した。のちに几号は「郡界標」に刻んだと判明したが、現地の状況や、法的な根拠を失った「郡界標」が現存している可能性は極めてゼロに近い。残念ながら「亡失」と判断する。

 

では、「郡界標」とはいかなる形をしていたのか。

おそらく、明治6年12月の太政官達第413号で定められた「境界標柱書式」にならった形をしていたと想像される。(左図)
一、標柱ハ檜椴ノ内ヲ用テ左ノ寸尺ニ照シ製造可致事
    大阪府並各県本庁所在ノ地及管轄境界ハ
     壱尺角地上壱丈弐尺
    駅村ヘ可取建目標ハ
     八寸各地上壱丈
    但適宜ニ石据或ハ竹矢来等可取設事
標柱に書き記す文言に関しては明治8年11月の太政官達第199号で改正されるが、標柱の建設様式は改められていないので、この形が継承されたであろう。几号は「石据」と表現された基礎部分に刻まれたと推定するのが自然である。

 

ただし、福島県庁文書内で「郡界標」設置に関する史料は未探索であり、この形で間違いがないとは言い切れない。今後、裏付け史料の掘り起こしに努めたい。

現地を調査した日

2005年4月7日

参考文献

福島県伊達郡統計書、大正4年版、伊達郡役所、1917年
児玉庄太郎:偉人石川翁の事業と言行、平凡社、1929年
石川翁農道要典編纂会:石川翁農道要典、三井報恩会、1939年
建設省東北地方建設局:福島県直轄国道改修史、福島工事事務所、1965年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書36、信達二郡村誌1、1982年
桑折町史編纂委員会:桑折町史6、資料編3、近世史料、1992年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書68、瀬上町検断阿部家文書、1996年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書75、新聞資料集成、昭和の福島19、2000年
秦檍麻呂:大日本国東山道陸奥州駅路図1 →国立国会図書館デジタルコレクション

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

1.大日本国東山道陸奥州駅路図(寛政12年序文。秦檍麻呂)

※秦檍麻呂(はたあわきまろ)は村上島之允(むらかみしまのじょう)の筆名。宝暦10年(1760)伊勢の生まれ。寛政10年(1798)に幕府の一員として近藤重蔵などと蝦夷地の探索に参加。その後も江戸と蝦夷地の間を往復し『蝦夷島奇観』『東蝦夷地名考』『陸奥州駅路図』などの著書を残している。文化5年(1808)没。49才。
2.奥州伊達信夫郡道中筋御案内(享和元年)
瀬上駅出口に摺上川アリ、土橋又ハ仮橋、右落橋之節ハ舟渡也、此川より南の方を信夫郡、北方を伊達郡とす
3.袖中録(文政12年。瀬上町検断阿部家文書)
公儀之御絵図ニ信夫郡伊達郡之境ハ摺上川中央ニ無相違有之
4.初めぐり(明治10年。石川理紀之助)
長岡を過ぎ摺上川橋をわたる。こゝは伊達信夫の郡境なり。
5.信達二郡村誌
信夫郡瀬上村(明治12年4月稿成)
【道路】
 一等道路(陸羽街道)南隣鎌田村ヨリ町頭街道東ノ間ニ入リ、北シテ本町ニ入リ、荒町ヲ過キ、町尻
 北川原ヲ経、郡村界(伊達郡長岡村)摺上川ニ至ル、長十二町三十五間、道敷七間、幅五間、馬踏四間半
 (本町南端ヨリ荒町北端ニ至ル六町二十間)
【川】
 摺上川 二等河ニ属ス、信夫郡伊達郡ノ間ヲ経、一等道路北川原ヨリ伊達郡長岡村エ二ノ板橋ヲ架ス、南
 ナル者十四間、幅二間半、北ナル者長八間、幅同シ、民費ニ係ル
信夫郡宮代村(明治12年3月稿成)
【道路】
 一等道路(陸羽街道)東部町裏沢目及ヒ北部柳沼ノ東端ニ亘リ、南ヨリ北ニ赴キ瀬上村ニ界ス、人家
 (十三戸)、皆道ノ西側ニ縁リ、瀬上ノ人家ト門戸相対ス、長二町五十間、北隣伊達郡長岡村ニ入ル、道
 敷七間、幅五間半、馬踏四間半
6.福島県下輦道駅村略記(明治14年)
【摺上川】
 板橋ヲ架スル三、一ハ長六間巾八尺五寸、次ハ長廿五間巾弐間半、次ハ長六間巾八尺五寸、川源ハ駅
 (注:瀬上)ノ北方伊達郡茂庭村杭甲岳ヨリ発シ急流箭ノ如ク本村ニ至リ大隈川ニ入ル、流域九里
【信夫伊達郡界】
 摺上川ヲ以両郡ノ境トナス、南ハ信夫郡瀬ノ上村、北ハ伊達郡長岡村
7.福島県会沿革誌 下巻ノ甲
明治14年度地方税予算、土木費、道路橋梁費
 陸羽街道。信夫郡瀬ノ上・伊達郡長岡、幸橋、長廿二間巾二間半、此金四百五拾円
明治17年度地方税予算、土木費、道路橋梁費
 陸羽街道改修費。信夫郡瀬ノ上村ト伊達郡長岡村ノ間、郡境摺上川架橋前後石河原低地悪路ニシテ運輸ノ
 便ヲ妨ク、因テ築造此金八百九拾五円六拾五銭。
 信夫伊達両郡界摺上川幸橋架橋費。金六千三百円。即チ国道一等相当陸羽街道摺上川橋ニシテ十三年五月
 中架設、翌年ニ至リ落橋シ爾来其時々仮橋ヲ架スルモ、客年十月中大風雨ノ際落橋シタルニヨリ本年度ニ
 於テ堅牢ノ木橋ヲ架スル見込ナリ。(決議。金三千七百八拾円)
8.福島県直轄国道改修史
摺上川橋架設
 位置:岩代国信夫郡瀬ノ上村〜伊達郡長岡村
 路線:国道1等相当、陸羽街道摺上川通り字幸橋
 構造:板橋長50間
    橋杭3本建11組、幅員3間1尺掛ケ渡1ケ所、行桁5通、
    高欄敷板上より笠木上迄3尺3寸、前後両袖
 着手・竣功年月日:明治17年8月21日〜同年9月2日
 工費:金3060円967
信夫郡瀬ノ上村道路建築精算帳   瀬ノ上村
 郡界ヨリ橋マデ
 一、道路長25間
   右仕様、在来土砂ヲ取除キ路盤ニ大玉石持込仕上ケ、粘土6寸通リ持込ミ中央5寸高円形ニ突堅メ、
   左右幅8寸ノ縁芝付、5分目玉砂利ヲ厚3寸通リ敷平均シ一式仕上ケノ事。
 一、石垣延長50間、平均高3尺、此坪25坪
 合計金147円135   残金2円865ハ返納
 ※摺上川橋の取付道路については、村方負担工事として予算150円をもって県が施工した、とある。
9.福島県伊達郡統計書(大正4年版)
国道橋梁
a橋名    所属地名     長     巾     架換年月    架設工費    橋質   河川名
南幸橋  信夫郡瀬上町  50間   21尺   大正2年3月   8,910.770   板橋   摺上川
     伊達郡長岡村
幸 橋  伊達郡長岡村  42間   21尺   明治41年3月   5,497.830   板橋   摺上川
10.福島民友(昭和52年4月2日夕刊)
幸橋(県道)が全面完成
福島市・伊達町境の摺上川にかかる県道下戸沢−福島線(旧国道4号)の幸橋架橋工事が全面完成、二日午前十時三十分から同橋福島側岸で開通式が行われた。
幸橋は大正十三年、木造橋として架けられ、県北地方の交通の要となっていたが、老朽化したため、昭和四十八年から総事業費二億七千九百万余円、三年の工期をかけて永久橋づくりが進められていた。こんど完成した新幸橋は鉄筋コンクリート製T字ケタ型、全長百八十六メートル、有効幅員八・七五メートル、片側歩道付きの一等橋。

 


2005年4月7日撮影  県道国見福島線(県道353号) 摺上川幸橋の南側
当時は「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記載された前後の距離により、幸橋南側の「何か」に几号が刻まれたと推定された。道の奥の白い欄干が見える場所が幸橋である。推定地をゆっくり歩きながら几号を探索し、その風景を撮影した1コマである。
几号の附刻物は「郡界標」と判明したが、その現存を期待するのは無理だろう。

 

099 桑折

(更新 21.12.02)

点   名

099 桑折(こおり)

当時の場所

福島県 桑折 郷社諏訪神社門柱

現在の地名

福島県 桑折町字諏訪 諏訪神社

海面上高距

77.5400m

前後の距離

瀬上 ← 4488.00m → 桑折 ← 1465.40m → 谷地

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 桑折駅
 77.5400m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kori
 77.5400m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 桑折 郷社諏訪神社門柱
  77.5400m/255.8820尺

照合資料 4

地質要報
 桑折駅
 77.5m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 桑折
 ―/25丈5尺

几号の現存有無

不明

解  説

几号調査を本格的に開始した2003年は、当初、宮城県内に限って調査を行っていたが、調査範囲を拡大するため福島県の文献確認にも着手した。すると、さっそく『伊達郡地誌』なる史料で興味深い記述を3か所見つけた。
そのひとつが桑折村の記事である。
『伊達郡村誌』伊達郡桑折村(明治13年1月稿成)
  高低標  元標西位準市街ノ南側、郷社ノ門前石柱ニ鐫ス
『伊達郡村誌』は「皇国地誌」編纂のため、各村で村誌取調書を作成し、県の編輯掛が体裁を整えたものである。その編集例則は明治8年に示されたが、「高低標」という項目は例則にないもので、桑折村独自の記述である。
また、記事中の「郷社」に関しては、同じ『伊達郡村誌』で次のように記している。
  郷社 諏訪神社
  市街ノ南側字諏訪ニ鎮座ス、社地九百六十四坪(官有地)
  建御名方命、八坂刀当ス、事代主命ヲ祭ル
  明治四年十一月郷社ニ列セラル
  明治十一年ニ至リ重ネテ神殿ヲ建築ス(木製華表二基、石燈籠五基)

 

さて、桑折の諏訪神社に「高低標」が現存しているか確認するため、2003年と2005年に足を運んだ。2003年は「門前に石柱は現存しない」と確認した程度であった。
2回目の2005年は境内を隅々まで見て回った。その際に陸羽街道とは反対側の南参道入口で古い石柱1対を見つけた。刻銘は「天保十五年甲辰六月」とある。
境内を一巡したあと、菅野宮司にお話しを伺うことができた。宮司さんから教えていただいた要点は次のようなものである。
 1.陸羽街道側の入口に石柱があったという記憶はない。
 2.南参道の門柱は境内社「琴平神社」社殿下にあるのを見つけ10数年に建てた。

以上のことから、南参道にある天保15年銘の門柱はそもそもの建立場所が不明ということになる。ならば陸羽街道側にあった可能性も十分考えられるのではないか。しかし、現地で2本の石柱を見た限り几号を見つけることはできなかった。下部に相当な風化が見られることから、もしその部分に几号が刻まれていたとすれば、風化で几号の線刻は失われたことになる。
いずれにしても、いま述べたことは私の推測であり、南参道の門柱が陸羽街道に面した北参道にあったという確証はない。北参道にあった正真正銘の門柱がどこからか出てくる可能性もある。私は期待を込めて几号現存の有無を「不明」としておく。

現地を調査した日

@2003年8月10日  A2005年4月7日

参考文献

福島県史料集成編纂委員会:福島県史料集成4、福島県史料集成刊行会、1953年
中川英右:伊達郡村誌1、歴史図書社、1980年
桑折町史編纂委員会:桑折町史3、各論編、民俗・旧町村沿革、1989年
福島県歴史資料館所蔵:地籍図、伊達郡桑折村字「諏訪」、「町ノ一」、明治初期
清水秋全:武奥増補行程記6 →国立国会図書館デジタルコレクション

 


『武奥増補行程記』(清水秋全筆)より、桑折宿の諏訪大明神

 


2005年4月7日撮影(以下同じ) 諏訪神社の北参道入口。陸羽街道の南側に位置している。
門前に石柱は見当たらない。ちなみに、現在の風景をGoogleストリートビューで確認したところ、中央に写る赤い瓦屋根の家はなくなり駐車スペースになっている。

 


参道は細長く社殿のある奥の境内に続いている。この状況は明治時代から変わっていない。

 


明治の地籍図。桑折村字「諏訪」と字「町ノ一」の図を接合したもの。黄色線が字界。
(福島県歴史資料館所蔵「明治期福島県地籍帳・地籍図・丈量帳」)【掲載許可済。禁転載

 


陸羽街道とは社殿をはさんで反対の位置にある南参道の門柱。左右一対である。

 

      
石柱の高さ約246センチメートル。直径32センチメートル。石材は六角形をしていて一辺の幅は14センチメートル。右柱の裏に「天保十五年甲辰六月 總氏子中」と刻まれている。(天保15年=1844年) 石柱の下部は風化がすすみ剥落している。

 

現地調査から十数年が経過し、Googleストリートビューで現状を確認したところ…

Googleストリートビュー(2014年撮影)  アレレレ?! 門柱がなくなっている?!

Googleストリートビュー(2019年撮影)  あら! 新しい門柱が建っている!!
 ※ わたくし的には大変驚き動揺している状況です。 いやー まいった、まいった。

 

 

掲載した明治期の地籍図は福島県歴史資料館の掲載許可を得ています。(転載禁止)
【ひとこと】 福島県歴史資料館は明治・大正期の県庁文書や明治期の地籍帳を公開する施設として、全国でも先駆け的な機関であり、私もその恩恵に預かってきた。
そのような敬意と感謝の気持ちがあるからこそ、今回、掲載許可の件では残念な思いを感じた。
掲載許可の申請は当然ながら歴史資料館に提出した。のちに知ったが、申請は歴史資料館で決裁されるのではなく、県庁の福島県総務部文書法務課に回され、そこで審査されるのだという。
待てど暮らせど掲載許可は届かない。待たされること丸2か月、ようやくにして許可が下りた。「お役所仕事」とは言いたくないが、このご時世、もう少し迅速に処理ができないものかと思う次第である。

100 谷地

(更新 21.12.02)

点   名

100 谷地(やじ)

当時の場所

福島県 谷地村字追分 金華山塔

現在の地名

移設前:福島県 桑折町谷地字追分1

移設後:(不明)

海面上高距

99.2820m

前後の距離

桑折 ← 1465.40m → 谷地 ← 3538.70m → 藤田

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 谷地村 陸前羽前 道追分
 99.2820m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Tanichi
 99.2820m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 谷地村字追分 金華山塔
  99.2820m/327.6306尺

照合資料 4

地質要報
 谷地村
 99.2m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 谷地村 仙台山形両道分岐
 ―/32丈7尺

照合資料 6

明治10年 官省指令留
 谷地村 金華山台石
 ―/―

几号の現存有無

不明

解  説

東京−塩竈間の高低几号で100番目となるのは福島県桑折町にある「谷地(やじ)」である。几号は谷地字追分(おいわけ)の金華山塔に刻まれたとされる。
説明するまでもないが、「追分(おいわけ)」とは道が二つに分かれる場所をさしている。語源としては「牛馬を追い分ける場所」からきているという。追分の地名は日本各地に点在しているが、同義語である「わかれ」系も含めると相当な数になると思われる。桑折町谷地の追分は奥州街道と羽州街道の分岐する場所である。

 

寛政12年の序文がある秦檍麻呂(はたあわきまろ)の『大日本国東山道陸奥州駅路図』は98の瀬上などでも登場している。

奥州街道、桑折−藤田間の部分。桑折駅を出ると程なくして「羽州道」との追分がある。柳と思われる樹木と、道標と思われる石碑が描かれている。

 

時代は下って、高低測量から間もない明治13年8月稿成の『伊達郡村誌』伊達郡谷地村のくだりから必要な箇所を書き出してみる。
【字地】  
追分 村の西南部に在り、東は陸前街道を帯び、西は羽前街道を以て南半田村に接す、東西八十間、南北二百間、人家一戸。
【道路】
陸前街道 国道一等に属す、南隣桑折村より来るを本村字道下に受け、一直線村の西部を通し吉田に至る、長十六町四十間、幅五間、湿抜二間。
羽前街道 字追分に於て陸前街道に分岐し、南半田村と本村の境を北行し北道合に至り全く南半田村に入る、長九町四十間、幅三間許。
【古碑】
字追分陸前街道と羽前街道の岐す所に柳の古木ありしが今は枯れて穉柳を植たり、傍に俳歌を刻したる碑を建つ、高四尺余、石形凹凸、文字剥落読み難き所あり、左に模写す。  碑面  夕暮に心の通ふ柳哉  (背面の碑文は省略)

 

現在の谷地字追分はJR東北本線桑折駅のすぐ近くということもあって住宅が建ち並んでいるが、かつては「人家一戸」しかなかったというのが驚きである。高低測量が行われた当時、周囲に畑が広がるところに追分の道標、句碑、そして金華山塔が建っていたと想像される。やがて昭和初期(7・8年頃)に国道4号線の拡幅工事が行われた際に、追分の石塔類は谷地地区の鎮守厳島神社へ移設されたとされる。

 

2004年9月に初めて厳島神社を訪ねた。追分からは北東へ約800メートル離れた場所にある。境内を探索すると社殿の裏手に立派な金華山塔が建っていた。祈るような気持ちで台石に几号の線刻を探したが見つけることはできなかった。
石塔の刻銘は正面に「金華山」「一如道人欽書」と刻むのみ。建立年すら不明である。唯一の手掛かりとなる「一如道人」だが、仙台原町の観音堂別当、清光院11世がこれに該当すると思われる。彼は修験者であるとともに「百非(ひゃくひ)」と号した俳人でもあった。生没年不詳であるが、彼の弟「心阿」(俳号)が天保7年に百非の三回忌追善句集を発行しているので、天保5年頃に没したと考えられる。
金華山塔の一如道人が仙台の俳人百非であるならば、柳の句碑しかり、桑折における文芸活動の奥深さを改めて証明することになる。

 

厳島神社の金華山塔に几号が見つからない理由を推理
1.追分から移動された金華山塔は別の場所にある。
厳島神社にある金華山塔が確かに追分にあったという史料的裏付けは得られていない。しかし、追分周辺を探索しても厳島神社以外に金華山塔が見つからないことや、道標や句碑が厳島神社へ移設されていた事実からして、この説の説得力は弱いとみている。ただし、思い込みが先行して見落としている可能性がないではない。改めて追分周辺の社寺仏閣・公園・空き地などを見て歩くことも必要だろう。
2.台石は付け替えられた。
現状の台石は東海に浮かぶ金華山をイメージしたように荒々しく力強いものである。その一方で、平面の少ないこの石にはたして几号を刻むだろうかという疑問が残る。そこで出てくるのが、几号の刻まれた台石とはまったく別の物に替わっているという見方である。しかし、それならばそれで「本来の台石はどこにいった?」となるだろう。厳島神社の境内には該当するようなものは見当たらない。
3.台石は3段目まであった。
現在は失われたのか、それとも埋没しているのか、基壇ともいえる3段目の台石が存在した可能性もあるのではないか。しかし、現在の形で石塔の全高は約250センチメートル。すでにそれなりの高さがあることを考えると、いささか無理がある。

 

有力と思われる金華山塔は存在するが、几号は見つからない。どうにもこうにも、気分はすっきりとしない谷地の追分である。

現地を調査した日

@2004年9月10日 A2005年4月7日 B2006年12月2日 C2013年4月27日

参考文献

福島県史料集成編纂委員会:福島県史料集成4、福島県史料集成刊行会、1953年
福島民友新聞社:福島民友、1985年10月11日号
桑折町史編纂委員会:桑折町史3、各論編、民俗・旧町村沿革、1989年
猪俣 某:地元の魅力探し 桑折宿追分「柳の句碑」、2006年
秦檍麻呂:大日本国東山道陸奥州駅路図1 →国立国会図書館デジタルコレクション

ご 協 力

桑折町役場生涯学習課歴史文化係 井沼千秋 様

 

参  考

福島民友 1985年(昭和60年)10月11日号
不明の“追分道標”発見 ――奥州街道と羽州街道の分岐点示す――
桑折町は奥州と羽州に分かれる交通要衝の宿場として栄え、特に追分道標は文字通り旅人の道案内役として重宝がられた。
追分道標が立っていたのは同町谷地字追分地内。記録によると昭和初期に道路拡張のため取り外され、その後行方不明となった(中略)。見つかった追分道標は、設置されていた場所から東方約1キロメートル離れた同町谷地地内の水道工事現場で発掘。地中約1メートルに埋まっていたもので、高さ70センチ、25センチ四方の石柱。右側面に「右奥州街道仙台通」左側面に「左羽州街道通」と刻まれ、裏面には「宝永五年九月」(1708年)と建立した年号が入っている。

 

【補足】記事に道標の掘り出された具体的な場所は記されていないが、追分の公園に掲示されていた解説書(猪俣さん作成)によれば「厳島神社の前」ということである。
追分の公園に運び込まれた道標を実際に見たが、刻銘は「右 奥州仙台通」「左 羽州最上(通)」と読める。掘り出された道標が二つあるわけでもあるまいし、当時の新聞記事しかり、現在一般に紹介されている説明しかり、正確さに欠けているようである。

 


Googleストリートビュー(2019年撮影)【何度も現地に行っているのにもかかわらず使えそうな写真がないので今回もグーグルさんにお力を借ります。】
2006年(平成18年)に整備された追分の公園。県が民家の建っていた分岐点の土地を購入し、桑折町が江戸期の『諸国道中商人鑑』(文政10年・1827年)の挿絵や伝聞などを基に、道標、句碑、柳の木、あずまや(休憩所)などを整備した。突端に建つ木柱には「奥州街道 羽州街道 追分」「平成十八年十月 設置者桑折町」とある。右が仙台・盛岡へ通じる奥州街道、左が山形・秋田へと通じる羽州街道。昭和40年代に国道4号線の新路線が東側に開通したこともあって、いい雰囲気で追分の風情が感じられる。唯一残念なのは、ここにあったはずの金華山塔が復元されなかったことである。

 


「奥州街道 羽州街道 追分」の木柱根元に置かれた「追分の大石」。由来などは不明。石塔の台石のようにも見える。形、大きさともに几号が刻まれても不思議はないが、ぐるりと周囲を観察しても几号の線刻は見当たらない。(2006年12月2日撮影)

 


追分から道標や句碑などが移設された厳島神社。現在は元の場所(追分公園)へ里帰りした句碑も鳥居の左脇に写っている。(2004年9月10日撮影)

 

  
厳島神社の社殿裏手にひっそりと建つ金華山塔。正面と左側面。
正面に「金華山」「一如道人欽書」とある以外刻銘はない。肝心の台石を観察したが几号の線刻も見当たらない。そもそも、上下2段の台石はゴツゴツとした形状であり、几号を刻むのに適した場所は限られてくる。台石下段の正面幅145p、高さ68p。台石上段の正面幅110p、高さ40p。塔身の正面幅94p、高さ140p。(2013年4月27日撮影)

 

101 藤田

(更新 21.12.10)

点   名

101 藤田(ふじた)

当時の場所

福島県 藤田駅中央 大千寺境内 金華山塔

現在の地名

福島県 国見町藤田字堤下28 大千寺

海面上高距

72.9482m

前後の距離

谷地 ← 3538.70m → 藤田 ← 4403.00m → 貝田

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 藤田駅
 72.9482m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Fujita
 72.9482m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 藤田駅中央 大寺境内 金華山塔  ※「泉」は「千」が正しい。
  72.9482m/240.7291尺

照合資料 4

地質要報
 桑折駅
 27.9m/―  ※誤字。正しくは「72.9」と推定。

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 藤田
 ―/24丈

照合資料 6

伊達郡村誌 藤田村
 地勢 陸前国宮城郡塩竈海面ヨリ高キコト
 ―/23丈5尺5分9厘3

几号の現存有無

現存

解  説

『伊達郡村誌』については「099桑折」でも取り上げ解説しているが、今回の藤田に関しても興味深い記述がある。
  藤田村 地勢 陸前国宮城郡塩竈海面ヨリ高キコト二十三丈五尺五分九厘三
この数値は東京塩竈間高低測量に基づくものであることは明らかである。

 

2004年6月、私と畠山君が越河から桑折までの几号探索を行った結果、大千寺境内の供養塔台石に几号を見つけることができた。我われにとっては宮城県以外で最初となる几号の発見だっただけに喜びはひとしおであった。
碑の本体は正面に地蔵菩薩が線描され、その裏面には昭和27年建立の由来が記されている。すなわち、この供養塔は上の碑面に昭和のお地蔵様が、下の台石には明治の高低几号が刻まれているのである。発見当初からこの台石は別の供養塔からの転用と見ていたが、「福島県下高低几号所在」の存在確認により、「大千寺境内 金華山塔」の台石だったことが明らかになった。
上に載っていた金華山塔の行方は探索に及んでいないが、どこか近くの神社などへ移設されたのかと想像していた。しかし、『国見町歴史文化基本構想』(国見町、2020年)に掲載された石造供養塔の一覧表を見る限り、町内で金華山塔の現存は報告されていない。

 

最近、国見町郷土史研究会の機関誌『郷土の研究』を読む機会があった。すると、第38号(2008年)と第39号(2009年)に会員の秦宏さんによる大千寺の高低几号に関する記事が掲載されていた。
それによると、秦さんが子どもの頃、几号の刻まれた石の上には「ぼろぼろ」と風化した石の地蔵さまが載っていたのだという。1952年(昭和27年)に現在の線で描かれた地蔵菩薩塔に改められ、大千寺を改修した1994年には、地蔵堂の前で南向きに建っていた石塔を、現在の場所へ数メートル移動したとのことである。
台石の来歴を知る貴重な証言であるが、ここでも「金華山塔」のことは触れられていない。「金華山塔」は相当早い時点で損壊などの憂き目にあったと想像される。
頭にいただくものがたびたび替わっても、几号の刻まれた台石が残っていたことは本当に幸いであった。

現地を調査した日

@2004年6月17日(発見)  A2005年4月7・19日

参考文献

福島県史料集成編纂委員会:福島県史料集成4、福島県史料集成刊行会、1953年
中川英右:伊達郡村誌1、歴史図書社、1980年
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石4、特別付録 新たに確認した高低几号、2005年
秦宏:大千寺のいしぶみに刻まれた不思議な記号、郷土の歴史38、国見町郷土史研究会、2008年
秦宏:大千寺の几号水準点のことについて補足、郷土の歴史39、国見町郷土史研究会、2009年
国見町:国見町歴史文化基本構想、2020年
福島県歴史資料館所蔵:地籍図、伊達郡藤田村字「堤下」、「南」、明治初期

 

調査回顧録 「街道 行ったり来たり」

『伊達郡村誌』に記された「藤田村 地勢 陸前国宮城郡塩竈海面ヨリ高キコト二十三丈五尺五分九厘三」は、藤田村内どの地点の数値かは記されていないのが残念である。しかし、几号調査と関わり合った初期の情報としては、大変に興味をかき立てられる記述であった。
満を持して2004年6月17日、私と畠山君は宮城県白石市の越河駅から桑折町の桑折駅まで几号探索のため歩行調査を行った。当時は「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」を見つける前であり、街道沿いの石塔や石垣、自然石を次から次へと見て歩くしか方法はなかった。
昼過ぎに藤田の町場へ入った。ここでも街道の右、左と見て回っていた。やがて、家並みの奥に寺院風の建築が見える路地の入口にたどり着いた。手持ちの道路地図には「卍」の記載がなく、まったく見落としていた場所である。
路地を奥へ進むと門柱に「大千寺」という表札が出ていた。街道からは50メートル以上も奥まっている。だが、供養塔なら移設の可能性も十分考えられるので境内へ足を踏み入れてみた。
入ってぐるりと周囲を見渡すと、右手の塀に沿って4基の石塔が並んでいるを確認できた。石塔へ近寄るなり畠山君が「わ、わーー!」と奇声をあげたのである。なんと、入口に一番近い石塔の台石に几号が刻まれていたのである。時刻は午後2時20分。朝から歩き通してようやく得られた収穫であった。
路地を一本見落とせば通り過ぎていたことだろう。これも仏様のお導きと有難く思っている。

 


明治の地籍図。藤田村字「堤下」と字「南」の図を接合したもの。黄色線が字界。大千寺の境内は町家が並ぶ陸羽街道から参道ともいうべき路地を通って奥まった場所にある。(福島県歴史資料館所蔵「明治期福島県地籍帳・地籍図・丈量帳」)【掲載許可済。禁転載

 


境内に入ると右手に「子育地蔵」という小さなお堂と供養塔が4基建っている。台石に几号の刻まれた地蔵菩薩塔は入口に一番近い場所にある。(2005年4月7日撮影)

 

 
地蔵菩薩塔とその台石。碑本体の高さ135p、正面幅57p、厚さ7.7p。粘板岩。画像からは確認しづらいが碑の正面には地蔵菩薩立像が線刻されている。昭和27年建立。(撮影日同上)

 


台石の高さ33〜36p。正面幅138p。奥行90p。几号は左寄りの場所に刻まれている。几号横棒までの地上高32p。(撮影日同上)

 


几号。横棒9.0cm、縦棒11.0cm、横棒の幅1.0cm。几号の周囲は13〜14pの幅で平面に加工された痕跡あり。几号の線刻は風化により輪郭がぼやけている。(2005年4月19日撮影)

 

102 貝田

(更新 21.12.30)

点   名

102 貝田(かいだ)

当時の場所

福島県 貝田村 庚申供養塔台石

現在の地名

福島県 国見町貝田字百枚大沢・熊坂

海面上高距

151.6724m

前後の距離

藤田 ← 4403.00m → 貝田 ← 2675.00m → 越河

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 岩代 貝田村
 151.6724m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kaida
 151.6724m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 貝田村 庚申供養塔台石
 151.6124m/500.3202尺  ※誤字。正しくは「151.6724」と推定。

照合資料 4

地質要報
 貝田村
 151.6m/―

照合資料 5

明治10年 官省指令留
 貝田村 庚申台石
 ―/―

照合資料 6

伊達郡村誌 貝田村
 地勢 陸前国宮城郡塩竈海面ヨリ高キコト
 ―/49丈5尺2寸1分9厘

几号の現存有無

不明

解  説

貝田は陸羽街道高低几号の旅にとって福島県最北の地である。
2004年6月に畠山君と越河駅から歩いて訪ねたのが最初となる。当時は前点「101 藤田」と同様『伊達郡村誌』の海抜に関する記述「 貝田村 地勢 陸前国宮城郡塩釜海面ヨリ高キコト四十九丈五尺二寸一分九厘」と、明治10年の『官省指令留』(参照)に記された「貝田村 庚申台石」という標目が頼りであった。
標高はメートルに換算すると約150.066メートルとなり、その海抜高度にある庚申塔を見つけるのが目標であった。
貝田の集落(旧貝田宿)に場所を絞れば、福島市寄りの町頭が海抜150メートル、反対に仙台寄り町尻の最禅寺付近は175メートルであり、おのずと調査地点は町頭付近が有力地点ということになる。
推定地にたどり着いた我われは、この場所に計3基の庚申塔があることを確認した。しかし、肝心の台石はいずれも土に埋もれた状態であり、その場で掘り返しをできる状況ではないと判断した。

 

次に貝田を訪ねたのは翌年の4月である。この間に「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」を入手し、この一覧表により几号附刻地点間の距離が判明した。貝田において前後からの距離が示す場所は前回訪れた町頭付近である。目星は的中した形だ。
だが、自転車旅行の途次であり今回も掘り返しはあきらめ、庚申塔に隣接するお宅のおばあさんなど、2,3の人に話を聞いた程度で貝田をあとにした。

 

その後、貝田を訪ねる機会はなかった。台石の掘り返しには地元の人の協力が必要であり、その解決策が見い出せないまま年月が過ぎたのである。
最近の様子はどうなっているのか気になりGoogleストリートビューを見たところ、推定地付近のお宅が建て直されたことで雰囲気が一変していた。「十年ひと昔」とはよく言ったものだ。

 

訪ねた時と同じ推定地の風景。Googleストリートビュー(2014年撮影) 

 

現在の風景。Googleストリートビュー(2018年撮影) 

この最新のストリートビューで位置を変え推定地にある庚申塔を探したところ、同じ位置に現存していることが確認できた。ひとまずは安心した。
いつの日か几号現存の有無を確かめられることを願っている。

現地を調査した日

@2004年6月17日  A2005年4月7・19日

参考文献

福島県史料集成編纂委員会:福島県史料集成4、福島県史料集成刊行会、1953年
中川英右:伊達郡村誌1、歴史図書社、1980年
国見町:国見町歴史文化基本構想、2020年

 

以下、2005年4月7日の調査

推定地。ここは貝田集落の町頭(福島市寄り)にあたる。現在、陸羽街道として車両が通行できるのは画像手前の道路であるが、地理局高低測量が行われた当時の陸羽街道は正面奥の細道へ下って行くものだった。江戸時代は伊達や南部の殿さまが、明治の御巡幸も百官とこの道をお通りになったと思うと感慨深いものがある。中央の建物は水道ポンプ小屋とのこと。
なお、右端、速度標識「30」の下には一等水準点「第2147号」の標石がある。2018年の改算で151.7240メートル。地理局の高低測量数値151.6724メートルと非常に近いものである。

 


旧道側に入って振り返ると右手に大きな庚申塔が建っている。碑高は147センチメートル。正面幅50センチメートル。刻銘は「庚申」「明治二巳歳三月吉祥日」とある。

 


さらに水道ポンプ小屋の裏手には石塔が3基並んでいる。手前から「庚申」(嘉永年間)、「湯殿山」、「庚申」。 陸羽街道の旧道はこの坂道を下り、やがて畑や果樹園にまぎれて消滅する。消え入るあたりにも庚申塔はあるが標高はすでに15メートルも低くなっている。

 

 
推定地にある石塔の台石は、いずれも埋没した状態で全容は確認できない。几号の確認には掘り返しの必要があるが、大掛かりになることが予見されるため実行できていない。
その存在感から几号附刻物と有力視している明治2年の碑(左)は、正面側に高さ20数センチの台石が露出している。しかし、見える側面は凹凸が大きく几号を刻むには適していない。

 


推定地から北東へ200メートルほど離れた場所にある貝田公民館隣の秋葉神社。
ご覧のように境内には庚申塔がたくさん建っている。推定地にある3基の庚申塔にこだわることなく、移設の可能性も含めて少し広い範囲の探索を行う必要もあるだろう。