097 五十辺 (福島市松山町) 几号現存
098 瀬上 (福島市瀬上町)
099 桑折 (桑折町西町)
100 谷地 (桑折町谷地)
101 藤田 (国見町藤田) 几号現存
102 貝田 (国見町貝田)
097 五十辺
(更新 21.09.02)
点 名 |
097 五十辺(いがらべ) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 五十辺村 信夫文字摺観世音道標 |
現在の地名 |
移設前:福島県 福島市松山町108付近(以前の表示は五十辺字茶屋下)
移設1:福島県 福島市山口字舘越3-2 |
海面上高距 |
60.0483m |
前後の距離 |
福島中央 ← 3340.00m → 五十辺 ← 4030.07m → 瀬上 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
移設現存 【発見:1995年?、佐藤丈夫(福島市)】 |
解 説 |
本点には「五十辺(いがらべ)」という地名を冠したが、それにもまして「文知摺(もちずり=もじずり)」という言葉が本点の重要な用語となっている。これについて簡単に説明すれば(実は簡単ではないのだが・・)、みちのく信夫の里に「信夫摺(しのぶずり)」という石の紋様を利用した布染めの産物があり、その染色を行ったとされるのが文知摺観音堂にある石なのだそうだ。話しはここから複雑になる。石を神聖視したさまざまな伝説、小倉百人一首にも登場する歌枕、行基作と伝わる観音信仰など、人々を引き付ける要素が1か所に集中し(集約され)、気がつけば見どころ満載の“テーマパーク”と化して、多くの文人墨客が訪れる名所になっていたのである。とりわけ松尾芭蕉が訪れたことが拍車をかけたように思われる。
几号の刻まれた「信夫文字摺観世音道標」は幸いにして現存しているが、本点ほど移動した回数の多さと、原位置からの隔たりの大きさはないと思われる。
道標の存在が紹介されて以来、文人墨客の文知摺石詣でならぬ、標石研究家の道標詣が相次ぎ、もともとの建立場所や移設の年代などが解き明かされている。道標は嘉永2年(1849)に奥州街道から文知摺石・文知摺観音堂へ至る道の入口に建立され、現在の場所に落ち着くまでに3回の移設が行われているという。
それでは、道標が最初に建立された位置と文知摺観音への道筋を理解するため、3点の文献を紹介する。
まずは松尾芭蕉『おくのほそ道』における『曾良随行日記』(曾良旅日記)の一節から見てゆく。元禄2年(1689)という古い文献ではあるが、端的に本点付近の地理的状況を記しており、それはそのまま明治10年当時でも通じるものである。
次に“秋田の二宮尊徳”とも称せらる石川理紀之助(弘化2年−大正4年)が、明治10年に開催された第1回内国勧業博覧会を参観するため、郷里の秋田を出立し、岩手・宮城・福島における道すがらを記した『初めぐり』という紀行文を紹介する。時はまさに高低測量が行われた明治10年。道標の記述も出てくる。
最後は明治12年1月稿成『信達二郡村誌』信夫郡五十辺村の、字地と道路の項目から必要な部分を抜き出してみる。
道標は平成の御代に入りきれいに磨かれ、正面の文字には緑色の色が入れられた。一見すると新しく作られた石碑に見えてしまうが、明治に刻まれた几号の線刻もしっかり残っている。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月7日 A2006年12月2日 |
参考文献 |
児玉庄太郎:偉人石川翁の事業と言行、平凡社、1929年 |
道標移設の変遷(地理院地図に加筆)
2005年4月7日撮影(末尾2枚を除き同じ) 変遷@の場所。福島市松山町(かつての茶屋下)
手前の道が陸羽街道。画像の場所は現在「松山町」となっているが、かつては「茶屋下」といい、その南西角にあたると推定している。間違いがなければ右奥に延びる道が文知摺観音へ至る道になる。この道は明治18年に文知摺観音方面への新道開鑿と、同22年の岡部橋完成により、参詣道としての役目はほぼ終えることになる。道標の正確な原位置は不明。
変遷Aの場所。福島市山口字舘越3-2。岡山村道路元標。
「茶屋下」@からの参詣道が役目を終えたことで、道標は大正元年に阿武隈川を越えて岡山村に移設された。移設にあたっては文知摺観音を管理する安洞院(山口字寺前5)の14世玄彰和尚が尽力した。右へカーブするのが相馬に至る中村街道。左の道を直進すれば文知摺観音に至る。道標はこの分岐点に移設された。この場所には大正の岡山村道路元標が現存している。
変遷Bの場所。文知摺観音(普門院)。福島市山口字文字摺70。
昭和54年に2代目の文知摺橋が元岡部橋があった場所に完成し、それにあわせて中村街道(国道115号)がバイパス化された。文知摺観音への参詣者はAの場所を含め従来の道を迂回するようになり、道標が人々の目に触れる機会は少なくなった。そんな折の平成元年、芭蕉のみちのく行脚300年にあわせて文知摺観音の境内入口に芭蕉像が建立されることになり、道標も門前に移設された。門標としての役目を果たしたと思われる。
変遷Cの場所。セブンイレブン 福島山口店の前。福島市山口字雷4-1(付近)。
道標は平成元年にBの文知摺観音入口に移設されたが、そこが安住の地になったわけではなかった。いなかる理由で移動されたかは知らないが、現在のセブンイレブン福島山口店の前に移設されたのは平成9年のことという。文知摺観音は正面の道の突き当りである。もともと道標として建立されたものであるから、本来の役目を再び果たすことになったのである。
(右画像は2006年12月2日撮影。下も同じ) 道標。高さ197cm、幅39cm、奥行24.5cm。
正面「信夫毛知摺観世音」。右側面「ひと毎に 忍ふこゝろを もち摺や 老もわすれぬ こひのみちのく」「行年七十歳 今日楽」。左側面「嘉永二己酉語五月吉辰」。正直なところ正面の文字以外ほとんど判読できない(刻銘は『福島のいしぶみ』参照)。また裏面にも移設の経緯を記した文字が刻まれているが、こちらも判読できない。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm。「観世音」の音の字の左下に刻まれている。日光のあたり具合で几号の線刻が浮かび上がるときもあるが、私が訪ねたのは2回とも夕方であったため見た目ではよく分からない状態であった。この画像は標石グループの皆さんと訪れたときのもので、京都の上西さんが水と砂などで几号を浮かび上がらせてくださった。見えにくいだけで線刻はしっかりと残っている。
098 瀬上
(更新 21.09.21)
点 名 |
098 瀬上(せのうえ) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 瀬上 郡界標石崖 摺上川南岸 |
現在の地名 |
福島県 福島市瀬上町 摺上川幸橋の南側
(街道東側)西北川原・町尻 [← 旧 瀬上村] |
海面上高距 |
58.4505m |
前後の距離 |
五十辺 ← 4030.07m → 瀬上 ← 4488.00m → 桑折 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
亡失 |
解 説 |
本点の几号は信夫郡と伊達郡の境界を示す「郡界標」に刻まれた。
おそらく、明治6年12月の太政官達第413号で定められた「境界標柱書式」にならった形をしていたと想像される。(左図)
ただし、福島県庁文書内で「郡界標」設置に関する史料は未探索であり、この形で間違いがないとは言い切れない。今後、裏付け史料の掘り起こしに努めたい。 |
現地を調査した日 |
2005年4月7日 |
参考文献 |
福島県伊達郡統計書、大正4年版、伊達郡役所、1917年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.大日本国東山道陸奥州駅路図(寛政12年序文。秦檍麻呂) ※秦檍麻呂(はたあわきまろ)は村上島之允(むらかみしまのじょう)の筆名。宝暦10年(1760)伊勢の生まれ。寛政10年(1798)に幕府の一員として近藤重蔵などと蝦夷地の探索に参加。その後も江戸と蝦夷地の間を往復し『蝦夷島奇観』『東蝦夷地名考』『陸奥州駅路図』などの著書を残している。文化5年(1808)没。49才。 |
2005年4月7日撮影 県道国見福島線(県道353号) 摺上川幸橋の南側
当時は「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記載された前後の距離により、幸橋南側の「何か」に几号が刻まれたと推定された。道の奥の白い欄干が見える場所が幸橋である。推定地をゆっくり歩きながら几号を探索し、その風景を撮影した1コマである。
几号の附刻物は「郡界標」と判明したが、その現存を期待するのは無理だろう。
099 桑折
(更新 21.12.02)
点 名 |
099 桑折(こおり) |
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当時の場所 |
福島県 桑折 郷社諏訪神社門柱 |
現在の地名 |
福島県 桑折町字諏訪 諏訪神社 |
海面上高距 |
77.5400m |
前後の距離 |
瀬上 ← 4488.00m → 桑折 ← 1465.40m → 谷地 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
几号調査を本格的に開始した2003年は、当初、宮城県内に限って調査を行っていたが、調査範囲を拡大するため福島県の文献確認にも着手した。すると、さっそく『伊達郡地誌』なる史料で興味深い記述を3か所見つけた。
さて、桑折の諏訪神社に「高低標」が現存しているか確認するため、2003年と2005年に足を運んだ。2003年は「門前に石柱は現存しない」と確認した程度であった。 |
現地を調査した日 |
@2003年8月10日 A2005年4月7日 |
参考文献 |
福島県史料集成編纂委員会:福島県史料集成4、福島県史料集成刊行会、1953年 |
『武奥増補行程記』(清水秋全筆)より、桑折宿の諏訪大明神
2005年4月7日撮影(以下同じ) 諏訪神社の北参道入口。陸羽街道の南側に位置している。
門前に石柱は見当たらない。ちなみに、現在の風景をGoogleストリートビューで確認したところ、中央に写る赤い瓦屋根の家はなくなり駐車スペースになっている。
参道は細長く社殿のある奥の境内に続いている。この状況は明治時代から変わっていない。
明治の地籍図。桑折村字「諏訪」と字「町ノ一」の図を接合したもの。黄色線が字界。
(福島県歴史資料館所蔵「明治期福島県地籍帳・地籍図・丈量帳」)【掲載許可済。禁転載】
陸羽街道とは社殿をはさんで反対の位置にある南参道の門柱。左右一対である。
石柱の高さ約246センチメートル。直径32センチメートル。石材は六角形をしていて一辺の幅は14センチメートル。右柱の裏に「天保十五年甲辰六月 總氏子中」と刻まれている。(天保15年=1844年) 石柱の下部は風化がすすみ剥落している。
現地調査から十数年が経過し、Googleストリートビューで現状を確認したところ…
Googleストリートビュー(2014年撮影) アレレレ?! 門柱がなくなっている?!
Googleストリートビュー(2019年撮影) あら! 新しい門柱が建っている!!
※ わたくし的には大変驚き動揺している状況です。 いやー まいった、まいった。
掲載した明治期の地籍図は福島県歴史資料館の掲載許可を得ています。(転載禁止)
【ひとこと】 福島県歴史資料館は明治・大正期の県庁文書や明治期の地籍帳を公開する施設として、全国でも先駆け的な機関であり、私もその恩恵に預かってきた。
そのような敬意と感謝の気持ちがあるからこそ、今回、掲載許可の件では残念な思いを感じた。
掲載許可の申請は当然ながら歴史資料館に提出した。のちに知ったが、申請は歴史資料館で決裁されるのではなく、県庁の福島県総務部文書法務課に回され、そこで審査されるのだという。
待てど暮らせど掲載許可は届かない。待たされること丸2か月、ようやくにして許可が下りた。「お役所仕事」とは言いたくないが、このご時世、もう少し迅速に処理ができないものかと思う次第である。
100 谷地
(更新 21.12.02)
点 名 |
100 谷地(やじ) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 谷地村字追分 金華山塔 |
現在の地名 |
移設前:福島県 桑折町谷地字追分1
移設後:(不明) |
海面上高距 |
99.2820m |
前後の距離 |
桑折 ← 1465.40m → 谷地 ← 3538.70m → 藤田 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
照合資料 6 |
明治10年 官省指令留 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
東京−塩竈間の高低几号で100番目となるのは福島県桑折町にある「谷地(やじ)」である。几号は谷地字追分(おいわけ)の金華山塔に刻まれたとされる。
寛政12年の序文がある秦檍麻呂(はたあわきまろ)の『大日本国東山道陸奥州駅路図』は98の瀬上などでも登場している。
時代は下って、高低測量から間もない明治13年8月稿成の『伊達郡村誌』伊達郡谷地村のくだりから必要な箇所を書き出してみる。
現在の谷地字追分はJR東北本線桑折駅のすぐ近くということもあって住宅が建ち並んでいるが、かつては「人家一戸」しかなかったというのが驚きである。高低測量が行われた当時、周囲に畑が広がるところに追分の道標、句碑、そして金華山塔が建っていたと想像される。やがて昭和初期(7・8年頃)に国道4号線の拡幅工事が行われた際に、追分の石塔類は谷地地区の鎮守厳島神社へ移設されたとされる。
2004年9月に初めて厳島神社を訪ねた。追分からは北東へ約800メートル離れた場所にある。境内を探索すると社殿の裏手に立派な金華山塔が建っていた。祈るような気持ちで台石に几号の線刻を探したが見つけることはできなかった。
厳島神社の金華山塔に几号が見つからない理由を推理
有力と思われる金華山塔は存在するが、几号は見つからない。どうにもこうにも、気分はすっきりとしない谷地の追分である。 |
現地を調査した日 |
@2004年9月10日 A2005年4月7日 B2006年12月2日 C2013年4月27日 |
参考文献 |
福島県史料集成編纂委員会:福島県史料集成4、福島県史料集成刊行会、1953年 |
ご 協 力 |
桑折町役場生涯学習課歴史文化係 井沼千秋 様 |
参 考 |
---|
福島民友 1985年(昭和60年)10月11日号
【補足】記事に道標の掘り出された具体的な場所は記されていないが、追分の公園に掲示されていた解説書(猪俣さん作成)によれば「厳島神社の前」ということである。 |
Googleストリートビュー(2019年撮影)【何度も現地に行っているのにもかかわらず使えそうな写真がないので今回もグーグルさんにお力を借ります。】
2006年(平成18年)に整備された追分の公園。県が民家の建っていた分岐点の土地を購入し、桑折町が江戸期の『諸国道中商人鑑』(文政10年・1827年)の挿絵や伝聞などを基に、道標、句碑、柳の木、あずまや(休憩所)などを整備した。突端に建つ木柱には「奥州街道 羽州街道 追分」「平成十八年十月 設置者桑折町」とある。右が仙台・盛岡へ通じる奥州街道、左が山形・秋田へと通じる羽州街道。昭和40年代に国道4号線の新路線が東側に開通したこともあって、いい雰囲気で追分の風情が感じられる。唯一残念なのは、ここにあったはずの金華山塔が復元されなかったことである。
「奥州街道 羽州街道 追分」の木柱根元に置かれた「追分の大石」。由来などは不明。石塔の台石のようにも見える。形、大きさともに几号が刻まれても不思議はないが、ぐるりと周囲を観察しても几号の線刻は見当たらない。(2006年12月2日撮影)
追分から道標や句碑などが移設された厳島神社。現在は元の場所(追分公園)へ里帰りした句碑も鳥居の左脇に写っている。(2004年9月10日撮影)
厳島神社の社殿裏手にひっそりと建つ金華山塔。正面と左側面。
正面に「金華山」「一如道人欽書」とある以外刻銘はない。肝心の台石を観察したが几号の線刻も見当たらない。そもそも、上下2段の台石はゴツゴツとした形状であり、几号を刻むのに適した場所は限られてくる。台石下段の正面幅145p、高さ68p。台石上段の正面幅110p、高さ40p。塔身の正面幅94p、高さ140p。(2013年4月27日撮影)
101 藤田
(更新 21.12.10)
点 名 |
101 藤田(ふじた) |
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当時の場所 |
福島県 藤田駅中央 大千寺境内 金華山塔 |
現在の地名 |
福島県 国見町藤田字堤下28 大千寺 |
海面上高距 |
72.9482m |
前後の距離 |
谷地 ← 3538.70m → 藤田 ← 4403.00m → 貝田 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
照合資料 6 |
伊達郡村誌 藤田村 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
『伊達郡村誌』については「099桑折」でも取り上げ解説しているが、今回の藤田に関しても興味深い記述がある。
2004年6月、私と畠山君が越河から桑折までの几号探索を行った結果、大千寺境内の供養塔台石に几号を見つけることができた。我われにとっては宮城県以外で最初となる几号の発見だっただけに喜びはひとしおであった。
最近、国見町郷土史研究会の機関誌『郷土の研究』を読む機会があった。すると、第38号(2008年)と第39号(2009年)に会員の秦宏さんによる大千寺の高低几号に関する記事が掲載されていた。 |
現地を調査した日 |
@2004年6月17日(発見) A2005年4月7・19日 |
参考文献 |
福島県史料集成編纂委員会:福島県史料集成4、福島県史料集成刊行会、1953年 |
調査回顧録 「街道 行ったり来たり」 |
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『伊達郡村誌』に記された「藤田村 地勢 陸前国宮城郡塩竈海面ヨリ高キコト二十三丈五尺五分九厘三」は、藤田村内どの地点の数値かは記されていないのが残念である。しかし、几号調査と関わり合った初期の情報としては、大変に興味をかき立てられる記述であった。 |
明治の地籍図。藤田村字「堤下」と字「南」の図を接合したもの。黄色線が字界。大千寺の境内は町家が並ぶ陸羽街道から参道ともいうべき路地を通って奥まった場所にある。(福島県歴史資料館所蔵「明治期福島県地籍帳・地籍図・丈量帳」)【掲載許可済。禁転載】
境内に入ると右手に「子育地蔵」という小さなお堂と供養塔が4基建っている。台石に几号の刻まれた地蔵菩薩塔は入口に一番近い場所にある。(2005年4月7日撮影)
地蔵菩薩塔とその台石。碑本体の高さ135p、正面幅57p、厚さ7.7p。粘板岩。画像からは確認しづらいが碑の正面には地蔵菩薩立像が線刻されている。昭和27年建立。(撮影日同上)
台石の高さ33〜36p。正面幅138p。奥行90p。几号は左寄りの場所に刻まれている。几号横棒までの地上高32p。(撮影日同上)
几号。横棒9.0cm、縦棒11.0cm、横棒の幅1.0cm。几号の周囲は13〜14pの幅で平面に加工された痕跡あり。几号の線刻は風化により輪郭がぼやけている。(2005年4月19日撮影)
102 貝田
(更新 21.12.30)
点 名 |
102 貝田(かいだ) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 貝田村 庚申供養塔台石 |
現在の地名 |
福島県 国見町貝田字百枚大沢・熊坂 |
海面上高距 |
151.6724m |
前後の距離 |
藤田 ← 4403.00m → 貝田 ← 2675.00m → 越河 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
明治10年 官省指令留 |
照合資料 6 |
伊達郡村誌 貝田村 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
貝田は陸羽街道高低几号の旅にとって福島県最北の地である。
次に貝田を訪ねたのは翌年の4月である。この間に「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」を入手し、この一覧表により几号附刻地点間の距離が判明した。貝田において前後からの距離が示す場所は前回訪れた町頭付近である。目星は的中した形だ。
その後、貝田を訪ねる機会はなかった。台石の掘り返しには地元の人の協力が必要であり、その解決策が見い出せないまま年月が過ぎたのである。
訪ねた時と同じ推定地の風景。Googleストリートビュー(2014年撮影)
現在の風景。Googleストリートビュー(2018年撮影) この最新のストリートビューで位置を変え推定地にある庚申塔を探したところ、同じ位置に現存していることが確認できた。ひとまずは安心した。 |
現地を調査した日 |
@2004年6月17日 A2005年4月7・19日 |
参考文献 |
福島県史料集成編纂委員会:福島県史料集成4、福島県史料集成刊行会、1953年 |
以下、2005年4月7日の調査
推定地。ここは貝田集落の町頭(福島市寄り)にあたる。現在、陸羽街道として車両が通行できるのは画像手前の道路であるが、地理局高低測量が行われた当時の陸羽街道は正面奥の細道へ下って行くものだった。江戸時代は伊達や南部の殿さまが、明治の御巡幸も百官とこの道をお通りになったと思うと感慨深いものがある。中央の建物は水道ポンプ小屋とのこと。
なお、右端、速度標識「30」の下には一等水準点「第2147号」の標石がある。2018年の改算で151.7240メートル。地理局の高低測量数値151.6724メートルと非常に近いものである。
旧道側に入って振り返ると右手に大きな庚申塔が建っている。碑高は147センチメートル。正面幅50センチメートル。刻銘は「庚申」「明治二巳歳三月吉祥日」とある。
さらに水道ポンプ小屋の裏手には石塔が3基並んでいる。手前から「庚申」(嘉永年間)、「湯殿山」、「庚申」。 陸羽街道の旧道はこの坂道を下り、やがて畑や果樹園にまぎれて消滅する。消え入るあたりにも庚申塔はあるが標高はすでに15メートルも低くなっている。
推定地にある石塔の台石は、いずれも埋没した状態で全容は確認できない。几号の確認には掘り返しの必要があるが、大掛かりになることが予見されるため実行できていない。
その存在感から几号附刻物と有力視している明治2年の碑(左)は、正面側に高さ20数センチの台石が露出している。しかし、見える側面は凹凸が大きく几号を刻むには適していない。
推定地から北東へ200メートルほど離れた場所にある貝田公民館隣の秋葉神社。
ご覧のように境内には庚申塔がたくさん建っている。推定地にある3基の庚申塔にこだわることなく、移設の可能性も含めて少し広い範囲の探索を行う必要もあるだろう。