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084 仁井田 (本宮市仁井田)
085 本宮 南 (本宮市本宮上町)
086 本宮 中央 (本宮市本宮大町) 几号現存
087 杉田 (二本松市薬師) 几号現存
088 大壇 (二本松市大壇)
089 二本松 (二本松市亀谷1丁目) 几号現存
090 渋川 (二本松市) 几号現存

084 仁井田

(更新 21.01.19)

点   名

084 仁井田(にいだ)

当時の場所

福島県 仁井田 富士神社華表

現在の地名

福島県 本宮市仁井田字宮下  富士神社(富士愛宕神社)

海面上高距

212.1675m

前後の距離

高倉 ← 2759.20m → 仁井田 ← 2279.40m → 本宮 南

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 安達郡 仁井田村
 212.1675m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Niyeda
 212.1675m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 仁井田 富士神社華表
 212.1675m/700.1528尺

照合資料 4

地質要報
 仁井田村
 212..0m/―

几号の現存有無

不明(亡失の可能性が高い)

解  説

仁井田の鎮守である富士神社(富士愛宕神社)は木花咲耶姫を祭神とし、天正年間にこの地に館を構えていた新田右衛門四郎によって勧請されたという。江戸時代は富士権現と称し、明治の神仏分離により富士神社と改称した。旧社格は村社。富士山を神格化した富士信仰の神社である。社殿の扁額などは「ワかんむり」の「冨」を用いた「士神社」と記されている。明治期に仁井田の古屋敷という場所にあった愛宕社(愛宕権現)を合祀したことで富士愛宕神社とも表記される。
2010年に私と畠山君は現地調査を行い、富士神社の参道および境内の鳥居・石造物をひと通り探索した。残念ながら几号の刻まれた華表(=鳥居)は見あたらず、あきらめて富士神社をあとにしようとしたところ、たまたま近所の方が屋外に出ておられたので声を掛けてみた。かくかくしかじかと説明すると、国分さんという78歳(2010年当時)の男性は次のように話してくれた。
「子どもの時分には、道路際に石鳥居があった。そんなに大きいものではなかった。戦争の前には撤去されたと思う。たぶん傾いてきていたのだと思う。その鳥居の分解された部分が神社敷地内にあったが、それもいつしか無くなってしまった」
話し上手な畠山君が一緒にいてくれたことで貴重な証言を得られた。明治9年に几号を刻んだ鳥居かは断定できないが、陸羽街道に面した参道入口にかつて石鳥居があったのである。願わくは撤去する前の写真でも出てくればなお有り難い。
地元の方の証言や境内を調査した結果として几号は亡失した可能性が高い。ただし、現存する鳥居台石や疑いのある石造物の根本・裏側の掘り起こしは行っていないので、完全に几号が「亡失した」と言い切ることもできないのである。

*********************************

仁井田には早くから知られた几号標が存在する。富士神社から陸羽街道を北へ約600メートル、「申(さる)供養塔A群」13基のなかにある弘化4年(1847)に建てられた勢至尊塔。この石塔に横9.0センチメートル、縦10.0センチメートル、横棒の幅1.2センチメートルの几号が刻まれている。線刻の様相はまさに内務省地理局(系)の几号であり、私も「福島県下陸羽街道高低几号所在并海面上高距実測数」が出てくるまでは、この勢至尊塔の几号が東京−塩竈間高低測量の几号と信じていた。しかし同史料の出現によってそれは否定されたわけであるが、それならばこの勢至尊塔の几号は「何?」という疑問が残った。安積疏水に関連したものとも推定されるが、現時点でそれを証明する史料や文献は見つかっていない。真相解明は今後の課題である。
  

【発見:1994年8月20日、田中宗男、関 義治、箱岩英一】

現地を調査した日

2010年12月19日

参考文献

曾我伝吉:本宮地方史、本宮町公民館、1961年

 


陸羽街道から見た富士神社。未舗装の参道が奥に延びる。参道入口左側の石柱は社標。
右側の建物は仁井田地区コミュニティ消防センター(本宮市消防団本宮第6分団屯所)である。
2010年12月19日撮影(以下同じ)

 


神社前を通る陸羽街道を北に見る。この先は本宮の中心部に至る。

 


参道を60メートルほど進むと神明型の鳥居に至る。これは昭和15年に皇紀2600年の記念事業として建立されたものである。

 


社殿に至る石段下には明神型の鳥居が建つ。「文政十年丁亥二月建之」「献主総村中」と刻まれている。扁額は「愛宕山」。鳥居の右側に水準点の標示板が見える。1974年(昭和49年)に設置された一等水準点「第2119号」。2018年の改算によると標高は213.9472メートル。

 


石段を登ると社殿が見えてくるが、その前に石段の両脇にある石造物に注目したい。どう見ても鳥居の台石である。穴の直径は26センチメートル。

 


境内を探索すると南側の斜面に丸い石柱が転がっていた。幸いなことに「天保二辛卯年八月建之」という刻銘が読み取れる。長さ182センチメートル、直径22センチメートル。形状から鳥居の柱部分と推定できる。石段脇に残る台石と組み物だった可能性が高い。

 


境内に建つ「奉納 鳥居 寄附者芳名」碑の台石。皇紀2600年を記念して建てられた鳥居の寄附人の名前が刻まれた石碑である。注目はその台石。これもどう見ても鳥居の台石である。それを無理やりというか大変工夫してというか、穴をつなぎ合わせて石碑の台石に転用している。
問題はこの台石の鳥居はどこにあったものかということである。この神社のものか、それとも石屋がどこからか調達してきたのか。今となってはその謎を解くのも困難である。

 

085 本宮 南

(更新 21.01.30)

点   名

085 本宮 南(もとみや みなみ)

当時の場所

福島県 本宮 駅南口誓伝寺石灯籠

現在の地名

福島県 本宮市本宮上町 薬師堂付近

海面上高距

206.1220m

前後の距離

仁井田 ← 2279.40m → 本宮 南 ← 1260.00m → 本宮 中央

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 本宮駅 南口
 206.1220m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Motomiya (Süd Ende)
 206.1220m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 本宮 駅南口誓伝寺石灯籠
 206.1220m/680.2026尺

几号の現存有無

不明

解  説

誓伝寺はかつて本宮の上町にあった浄土宗の寺院で、慶応4年(1868)戊辰戦争の兵火で本堂が焼失。昭和3年(1928)になり西へ約600メートル離れた南山神地内へ移転し本堂を再建している。移転に際しては市の文化財に指定されている樹齢約300年のキャラボクも新しい境内へ移植したと伝える。
上町の跡地にはもともと誓伝寺に付随していた薬師堂と、戊辰戦争で戦死した土佐藩士や館林藩士の墓などが残っていて、寺院のなごりを感じることができる。
さて、本点における几号の附刻物は「石灯籠」とある。2010年の暮れ、私と畠山君は仁井田方面から北上して本宮に入り薬師堂およびその周辺を見て回った。しかし、石灯籠は新旧・大小を問わず一基も見当たらない。普通なら境内の入口やお堂の前にあって当然の石灯籠がないのである。これにはお手上げである。
次に我われは可能性を求めて南山神にある現在の誓伝寺へも行ってみた。境内をひとめぐりしたが「几号があるかも」と思うような古い石灯籠は見つからなかった。時間不足でご住職にお話しを聞くことができなかったのは残念である。
誓伝寺の移転にともない調査範囲も広範囲になっている。探索が甘くて見落としているのか、それもとすでに亡失しているのか。改めて現地調査を行う必要がある。
なお「町史」には明治7年頃の上町の桝形と木戸門を描いた絵図が掲載されている。全容は不明であるが枡形と隣接する誓伝寺境内の様子も描かれていて大変に興味深い。原本は福島県庁文書となっているのでこれも要確認である。

現地を調査した日

2010年12月19日

参考文献

曾我伝吉:本宮地方史、本宮町公民館、1961年
本宮町史編纂委員会:図説 本宮の歴史(本宮町史 別巻)、本宮町、2003年

 


Googleマップの画像に街道の古い道筋を重ね合わせたもの。黄色の線が江戸時代から明治の新道ができるまでの道筋。赤色の線は誓伝寺の旧境内を示している。薬師堂の位置はほぼ変わらないと思われる。薬師堂の前に本宮宿南口の桝形があった。

 


右側の石垣は観音堂の境内。陸羽街道(奥州街道)の旧道はその裏手から出てきて、この付近で左手からきた会津街道の旧道と合流していた。最新のストリートビューを見れば街道右側の家屋2棟がなくなり、薬師堂まで見渡せるようになった。 2010年12月19日撮影(以下同じ)

 


薬師堂(誓伝寺跡)の前を通る陸羽街道。この場所に本宮宿南口の桝形があった。

 


薬師堂の堂宇。背後は阿武隈川である。境内はきれいに整備されている。

 


堂宇の脇から街道側を見た風景。境内には古い供養碑などが残されているが、肝心の石灯籠は一基も見当たらない。現在は薬師堂南隣(左側)の家屋がなくなり観音堂まで見渡せる。

 

086 本宮 中央

(更新 21.02.06)

点   名

086 本宮 中央(もとみや ちゅうおう)

当時の場所

福島県 本宮 安達太郎社門柱

現在の地名

福島県 本宮市本宮大町5番地先  安達太良(あだたら)神社参道入口

海面上高距

205.4952m

前後の距離

本宮 南 ← 1260.00m → 本宮 中央 ← 3914.00m → 杉田

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 本宮駅 中央
 205.4952m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Motomiya
 205.4952m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 本宮 安達太郎社門柱
 205.4952m/678.1342尺

照合資料 4

地質要報
 本宮駅
 205.0m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 本宮
 ―/67丈8尺

几号の現存有無

現存  【発見:1994年8月20日、関 義治、田中宗男、箱岩英一】

解  説

日本百名山の安達太良山は高村光太郎の『智恵子抄』では「阿多多羅山」と表されているが、古くは『万葉集』に「安太多良の嶺」と見えている。安達太良連峰は1700メートル前後の山々からなり、安達郡の最高峰であることから「太郎」とされ、安達太良を「安達太郎」と書き表すことも多かった。
本宮の安達太良神社は安達ケ岳(安達太良山)に鎮座していた神を久安2年(1146)に現在の菅森山へ遷座したのが始まりと伝える。これ以降、安達郡の総鎮守として崇敬され、鎮座するこの地を「本宮」と呼ぶようになったという。江戸時代は「正一位菅森安達太郎大明神」と号し(相生集)、明治2年に安達太良神社と改称された。旧社格は県社。
2005年4月9日、自転車旅行の私は本宮の宿で朝を迎えた。まだ車も人も往来の少ない午前7時に安達太良神社の参道入口に到着。早速几号の刻まれている石柱の撮影や計測を開始した。その際、北隣の「中村屋」という着物のお店のおじいさんが外に出てこられてお話しを伺うことができた。
それによれば、「子供の頃から石柱を移動した記憶はない。ただし、石柱に溝を入れる際に文字の部分を避けるため向きを回転させたと聞いている」とおっしゃられた。とは石柱の上に載っている灯籠へ通じる電線を埋め込んだものである。お話しは続きがあって「昔の水準点は石柱の目の前で道路際にあった」とも教えていただいた。
今、石柱の上に載っている灯籠は近年のものであるが、享保17年(1732)の建立当時からこれと同様の役目を担っていたと推定している。門柱としての役割も確かにあるだろうが、木製の灯籠を載せるための石柱というのが正しい見方だろう。

現地を調査した日

2005年4月9・19日

参考文献

 

 


安達太良神社の参道入口。参道を挟むように灯籠の載った石柱が建っている。左の石柱には「享保十七年」、右の石柱には「壬□二月吉□」と建立年月日が刻まれている(享保17年壬子=1732年)。ストリートビューで現状を確認しが東日本大震災でも倒壊せず残っている。
一等水準点「第2121号」はかつて赤い円の位置にあったという。昭和29年に移設され現在は参道を進み赤い矢印で示した白い車の場所にある。標高は2018年改算で208.4809メートル。
2005年4月9日撮影(以下同じ)

 


几号は右石柱の右側面に刻まれている。赤い円の中。証言どおり配線工事の際に石柱の向きを変えたとすれば、本来の几号は街道側を向いていたものと推定している。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2p。石質の割には伝存状態が良い。
ただし、撮影するにも計測するにもなかなか厄介な場所にあったことを付け加えておく。

 

石柱の寸法(単位:p、計測作図:浅野)。上に載っている灯籠部分は省略

 

087 杉田

(更新 21.03.30)

点   名

087 杉田(すぎた)

当時の場所

福島県 南杉田 薬師堂石灯籠

現在の地名

福島県 二本松市薬師  薬師堂の参道入口

海面上高距

244.2114m

前後の距離

本宮 中央 ← 3914.00m → 杉田 ← 4142.84m → 大壇

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 南杉田村 薬師坂上
 244.2114m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Sugita
 244.2114m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 南杉田 薬師堂石灯籠
 244.2114m/805.8976尺

照合資料 4

地質要報
 南杉田村
 244.2m/―

几号の現存有無

現存  【発見:1996年6月13日、石田全平、箱岩英一、関 義治】

解  説

杉田の薬師堂。「峯の薬師」とも称す。もともと堂宇の場所には中世の経塚があったと思われ、延宝5年(1677)に二本松の太郎左衛門なる者が霊夢によりこの地を掘ったところ、小さな薬師如来像と観音菩薩像を見つけたという。太郎左衛門は仏道に入り「天心」と称し、仏像を安置するお堂を建立したと伝えている。
また、この場所は懐炉の原形ともいえる温石(おんじゃく)を産出した。これに因み薬師堂の山は温石山、近くの町場を温石町とも言った。安政2年(1855)刊の『東講商人鑑』にも「奥州安達郡南杉田 当所名産温石 遠藤久治」と見える。
さて、肝心の几号の話に入ることにする。
薬師堂は長い石段を登った先にあるのだが、目標の石灯籠はわずか16段登ったところにある。左右一対、背の高い石灯籠である。几号はその左側灯籠の台石に刻まれている。石灯籠には「奉燈 武刕秩父郡本野上町 近江屋清五郎」「享和元辛酉年五月吉日」と銘がある(享和元年=1801年)。
武蔵国秩父郡本野上村は現在の埼玉県秩父郡長瀞町本野上にあたる。寛政5年(1793)当時の家数は168。そのうち村の中心である小名「町」には秩父往還に沿って60の家が並んでいて、毎月2・7の日に市が開かれ絹や煙草が取り引きされたという。
奉納者の近江屋清五郎について詳しいことはわかっていないが、恐らく絹・生糸・養蚕の関係で奥州とつながりがあったと推定している。
私が杉田の薬師堂を訪ねたのは東京へ向かって自転車旅行をしていた2005年4月8日の午後4時過ぎ。石灯籠と几号をひと通り観察し、薬師堂をお参りしようと長い石段を登ってゆくと、何やらお堂の中からにぎやかな声がしてきた。私もだがお堂の中の人達も当然「何者だろう?」と思ったに違いない。聞けば今日はお祭りであったという。また、総代の鈴木さんは偶然にも石灯籠がある石段の真向かいにお住まいの人であった。時間も時間だったので詳しいお話は聞くことができなかったが、お堂の中の皆さんに高低几号の存在をお話しし、保全に努めていただくようお願いした。
お礼を述べて去ろうとしたところ「おーいおーい」と呼び止められた。お堂の中からハイよハイよと品物を手渡されたのである。薬師堂の御札、これは道中のお守りとして有り難い。他にはお供え物とおぼしき落雁とオレンジに似た柑橘類であった。お祭りの日に訪ねたのもご縁と思い感謝して頂戴した。

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【余談】 「075 鏡沼」で常松縫殿助を供養した阿弥陀如来坐像が横浜市戸塚区のお寺にあったと紹介したのを覚えておいでだろうか。これと似たような情報をここ杉田でも見つけた。今は東京国立博物館に所蔵されている薬師如来坐像である。
東京国立博物館の『収蔵品目録』によれば、銅で作られた高さ26.4センチメートルの仏像。像の背面には「南杉田村別当典心貞享五戊辰八月四日」と刻まれているという(貞享5年=1888年)。銘にある「別当典心」とは薬師堂縁起にある「天心」と同一人物と推定している。坐像は薬師堂を建立した当時の仏像であろう。
問題はその見つかった場所である。同書には「栃木県河内郡豊田村大字芹沢新田一七一番地ニ於テ発掘」「川村善次寄贈」と記されている。この記事を見つけた時は「栃木県?」「発掘!?」と驚いてしまった。
少し調べてみたが「河内郡豊村大字芹新田」が正しいようだ。芹沼新田は日光御神領54か村のひとつで今は今市市になっている。
しかし、お薬師様はいつの間に杉田から栃木までお出掛けになったのだろうか。
そのあたりの経緯を継続して調査してみる。これもお薬師様との「ご縁」である。

現地を調査した日

2005年4月8日

参考文献

松井寿鶴斎:東国旅行談1、1789年
佃与次郎:山田音羽子とお国替絵巻、1930年、国会図書館デジコレ(49・50コマ)
東京国立博物館:収蔵品目録1、美術篇、1952年
森銑三ら編:随筆百花苑3、中央公論社、1980年
二本松市:二本松市史6、資料編4 近世3、1982年
二本松市:二本松市史9、各論編2 自然・文化・人物、1989年
国立公文書館所蔵:公文録・明治9年・第268巻・巡幸雑記1、福島県第五大区道しるべ
国立公文書館所蔵:巡幸録・明治14年巡幸雑記附属書5・福島県下御通輦沿道地図
国立公文書館所蔵:巡幸録・明治14年巡幸雑記附属書7・福島県下輦道駅村略記

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

1.東国旅行談 (松井寿鶴斎:天明9年)
杉田の薬師
本宮宿より二本松宿まで二里半余あり、其あいだに杉田宿というあり、街道より土地高き所にて本宮宿を見おろすなり、此宿の入口に小高き山あり、石だんの坂を登るおよそ壱町ばかり、薬師如来を安置し奉る堂あり、造営甚(はなはだ)結構なり、霊験あらたにして所願成就せずといふ事なし、かゝるがゆへに遠村近郷より老若男女貴賤くんじゆ(群衆)参詣の絶る間なし、春秋の彼岸には夥しき市をなす、其はんじやう(繁盛)を此所の俚諺唄(ならわしうた)に
  所がらにはすぎたの薬師はなの本宮を目のしたに
かやうに諷(うた)ひながすなり
2.浴陸奥温泉記 (小宮山楓軒:文政10年)
南杉田薬師アリ、石階甚険ナリ、階下ニ拝ス。コヽヨリ温石出ルヨシ寒ヲ防グベシ、友鴎嘗テ一枚ヲ贈レリ、コレヲ試ムルニ甚可ナリ、尋常ノ物ノ比ニアラズ。薬師縁起ハ予ガ曾祖峴嶽先生二十四歳ノ時ノ作文ナリ、コレモ友鴎写シテ贈レリ、予ガ家ニハ絶テ無カリシヲ得タルハ幸甚ナリ。
3.御国替絵巻 (山田音羽子:弘化3年)

杉田の薬師山の図

杉田のやくしは左の方に茶屋有、傍に名水有、石のきざはしをのぼり行けば、上に堂あり、傍にしゆ(鐘)楼堂有て、こつじき共十人ばかり居り、煮やきなどせしていなり。田舎なれども杉田のやくし、花の本宮目の下にとうたひしと聞しが、朝霧にて一向見えず、夫より両がわ松山、片がわは田にてほたるがつせん(蛍合戦)有といふ。
4.年代記 (本宮市松沢 菊地家蔵)
嘉永6年
二月頃杉田之薬師境内に温泉之様成水出る所見付候故風呂にわかし病人抔入て快気したる抔言ふらしける折本宮之女郎衆中風が間鋪病症にて歩行不自由成もの有夜夢に杉田之薬師之水風呂に入ならは早速快気すべきよしこまこまと見へたりとて翌日駕籠に乗て行入浴せしに帰りには歩にて帰る程に験を得たり是より追々流行出し日々群集する事夥敷中には一日千人もありといふ評説なり八月頃迄しきりに流行候風聞なり
5.福島県第五大区道しるべ (公文録・明治9年・第268巻・巡幸雑記1)
杉田薬師
阪路曲匝二戸ノ茶屋相対ス、藤棚轆轤井ヲ蔽ヘ紫白花開キ幽鳥軒ニ噪(さわ)イテ清涼風来ル、屋後ノ青山杉林竹叢蒼々トシテ緑ハ窓紗ニ映ス、亭々タル長松雲靄ヲ排メ天ニ朝ス、鐘声午ヲ報ス古詩ニ所謂林外聞鐘知寺近ト知ルベシ、杉田薬師堂ナルヲ、此堂ヤ延暦(注:延宝の誤り)年間里人某ナル者、其山下深壑中ヨリ一佛像ヲ掘出シ以テ爰ニ安置スト、往古此処ヲ温石沢ト云フ、乃チ炉火ニ焼キ懐ヒテ以テ人体ノ冷湿ヲ温メ腹痛ヲ医スル石ノ産スル所ナリ、相距ル数百歩村アリ杉田ト云フ、旧名温石町是レナリ、此山ニ攀(よじのぼ)ツテ東南ヲ臨メハ岩磐二州ノ山川悉ク引テ眼界ニ入ル、実ニ別乾坤ノ一仙界ナリ
6.福島県下輦道駅村略記 (巡幸録・明治14年巡幸雑記附属書7)
安達郡南杉田村
薬師坂   上リ壱町弐拾間、下リ壱丁三拾間、下リ少シ嶮シ
薬師立場  薬師坂ノ上ニアリ、茶屋二軒アリ
 ※「福島県下御通輦沿道地図」には「薬師茶屋立場」と記している。

 


福島県第五大区道しるべ「杉田薬師」(公文録・明治9年・第268巻・巡幸雑記第一)
明治9年の御巡幸に際し福島県の第五区会所が作成し呈上した沿道の案内記。その第一場面が「杉田薬師」である。天覧に供されることを想定し格調を高めた文章で情景を記している(上記「この付近の様子を記した紀行文や記録など」の4項目)。それに添えられた絵は少し引いた場所から見た景色を水墨画風に描いている。真景ではないが高低几号がまさに刻まれた当時の景観をうかがい知ることができる貴重な史料である。

 


陸羽街道の新道側から見た薬師堂の参道入口。石段下の舗装部分は旧道にあたる。

 


石段の下を通る旧道の風景。かつては茶屋が建ち、湧き水を温めた「薬師の湯」を提供する湯治場としても賑わったというが、今は静かな門前の家並みである。

 

 
街道から石段を16段ほど登ると霊泉の脇に石灯籠が建っている。灯籠の高さは230〜240cm。大きな欠損もなく端正な美しい形をしている。建立当時からこの位置にあったのかは不明。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.1cm。横棒の幅は計測しないでしまった。代わりに縦3本線の底部幅は11.0cmとメモに見える。乾いた苔が張り付いているがきれいな線刻を保っている。

 

088 大壇

(更新 21.03.30)

点   名

088 大壇(おおだん)

当時の場所

福島県 成田村字上ヶ羽石地内 一文字石

現在の地名

福島県 二本松市羽石 一文字石

海面上高距

203.4416m

前後の距離

杉田 ← 4142.84m → 大壇 ← 2888.24m → 二本松

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 成田村 一文字石
 203.4416m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Naritamura
 203.4416m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 成田村字上ヶ羽石地内 一文字石
 203.4416m/672.4573尺

几号の現存有無

不明

解  説

二本松の大壇といえば戊辰戦争における「大壇口の戦い」が広く知られている。慶応4年(1868)7月29日、この大壇で二本松少年隊16人をはじめ多くの若者が奮戦むなしく討ち死にした。私はその戦場跡で高低几号の探索と旧道の道筋を探し歩いたが、人に尋ねる中に「昔のことなら二本松少年隊は知っている」とおっしゃるおじいさんもいた。今でも戊辰戦争の悲話は地元の人々に語り継がれているである。
さて、1回目の現地調査は2005年である。「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」の距離および標高の数値によって几号の附刻地点は大壇坂の下と推定できた。しかし、肝心の几号を刻んだ物がわからない。移設された可能性も考え坂の上から下まで広い範囲を歩き回った。江戸時代の馬頭観音塔などが残っているが几号は見当たらない。明治中期、大壇に鉄道を敷設する際に陸羽街道をはじめ地形は大きく変わってしまったという。「几号は鉄道工事で失われたかも知れない」と考えるに至った。
その後、「福島県下高低几号所在」の確認によって大壇の几号附刻物は「一文字石」と判明した。しかし、2011年に東日本大震災が発生。地震そのものの被害と原発事故による影響により二本松訪問は延期を余儀なくされた。
2回目の現地調査は2013年に実施した。【注】
「一文字石」の存在は1回目の調査の際も把握していたが、陸羽街道から50メートルも隔たっていることから、几号附刻の可能性はないだろうと考えていた。私と地理局による「大壇口の戦い」は私の負けであった。
現地に到着し一文字石を縦から横から念を入れて見て回ったが、残念ながら几号を見つけることはできなかった。明治10年と比べ土に埋もれている部分が多いのだろうか。一文字石は花崗岩である。花崗岩は風化が進むとポロポロと砂になってしまうが(真砂化)、几号の線刻が風化によって消えてしまったのだろうか。
周囲に草木が生えている上に一文字石の石質とその大きさもあって、単純に几号の線刻を見落としている可能性も十分にあり得る。
登記簿を確認していないので一文字石が現在どなたの所有物か把握はできていない。地権者に断りもなく掘り返すことはできないし、除染が行われた保証もないので石にも触れないように注意した。そのため「一文字石」の表面観察に留まざるを得なかったが、間近で実見できただけでも数年間のモヤモヤが晴れて一応の満足を得た。

*********************************

ちなみに、福島県歴史資料館が所蔵する安達郡成田村字上羽石の「地籍簿」(明治20年)と「地籍字限絵図」を見れば、一文字石が存在する場所は、
    11番イ号    畑     19歩   民一  丹野次郎吉
    11番の内    畔     09歩   同   同人
    11番の内ロ号  根深石   28歩   民二  同人
となっている。一筆の土地全部が「畑」ではなく「根深石」という異なる地目が含まれている。これは一筆内でも土地の状況が異なる状況をあらわしている。地租を徴収するにあたって一筆内の主となる地目(ここでは「畑」)と同じ税率では公平に欠けるため、別筆とはしないで不公正を解消するための処置である。何はともあれ、この規則のお陰で一文字石の存在が立派に登記されたといえる。

*********************************

【注】 本来ならもう少し放射線量の低減を待って訪れるべきだったかも知れない。
一文字石が存在する地域の放射線量の推移(「二本松市放射線量測定マップ」より)

2011年7月  1.42 毎時マイクロシーベルト

2012年7月  1.26 毎時マイクロシーベルト

2013年7月  0.86 毎時マイクロシーベルト

2020年6月  0.09 毎時マイクロシーベルト

几号調査で放射線量を気にする必要があるとは、実にむなしくて悲しいことである。

現地を調査した日

@2005年4月8・19日 A2013年3月23日

参考文献

木内石亭:雲根志 後編1、1779年
沢元ト(平沢旭山):漫遊文草、万笈閣、1887年
増補俚言集覧、皇典講究所印刷部、1899年
岩磐史料刊行会代表釘本衛雄:岩磐史料叢書(中巻)、1917年
戸城伝七郎編:二本松藩史、二本松藩史刊行会、1926年
森銑三ら編:随筆百花苑3、中央公論社、1980年
清河八郎:西游草、岩波文庫、岩波書店、1993年
板橋耀子編、近世紀行文集成1、蝦夷編、葦書房、2002年
山崎栄作編、渋江長伯著:東游奇勝、帰路編、2006年
秦檍麻呂:大日本国東山道陸奥州駅路図1 → 国立国会図書館デジタルコレクション
国立公文書館所蔵:公文録・明治9年・第268巻・巡幸雑記1、福島県第五大区道しるべ
国立公文書館所蔵:巡幸録・明治14年巡幸雑記附属書5・福島県下御通輦沿道地図
国立公文書館所蔵:巡幸録・明治14年巡幸雑記附属書7・福島県下輦道駅村略記

 

秦檍麻呂『大日本国東山道陸奥州駅路図』(寛政12年序)より

二本松入口「大だん」坂の下に「一文字岩」と見える。城下の「亀ヶ谷町」「竹田町」まで。

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

1.奥游日録 (中山高陽:明和9年)
(本宮滞在)今日二本松に行んと欲す。上杉駿河侯通駕にて馬なし。午後途を発す。小川ありて右の方に寺あり。それより田の中アタヽラネ向に見ゆ。又小川を過、杉田入口に薬師茶屋あり。接待也。杉田(杉田には温石出づ)南北の間に小川あり。正ボウジ村を過。右の山下に大石あり。文字石と云。石面に一の字彫付たるごとし。それよりヲヽダ(注:大壇)、二本松入口也。
2.雲根志 後編 (木内石亭:安政8年)
光彩類 16 文字石
奥州二本松高越村の山上に一文字石あり、大石なり、文字鮮に見ゆ
3.北行日記 (高山彦九郎:寛政2年)
高越を経て大壇、是れ二本松の入口也。本宮より杉田迄壱里半、杉田より二本松迄壱里の馬尺也。
4.東遊奇勝 (渋江長伯:寛政11年)
二本松を出、坂を下り田畔大石あり、高六七尺、長八九尺、当中一乗を書か如し、一字三尺許、土人一文字石と云

5.俚言集覧 (太田全斎:文化文政頃)
一文字石
陸奥二本松の西宮道の側に二十歩右に入る田中に大さ屋の如き石あり、中間に一の字あり、土人一文字石と云
6.浴陸奥温泉記 (小宮山楓軒:文政10年)
二本松 二本蜒リ一里
丹羽左京太夫殿城下ナリ。(中略)
黄(大)壇坂アリ、左ノ松山ノ下ニ一文字ト云石アリ。一ノ字アル石ナリトゾ、コレヲ見ズ。
7.相生集 (大鐘義鳴編:天保12年)
巻之八 古蹟類  下成田 文字石
大橋川の辺にあり、雲根志後編に奥州高越村の山上〔村名はあやまる〕に一文字石あり大石也文字鮮明にみゆる、漫遊文草に奥西の勝也といひし文字石も是なり、土人は弘法大師筆を取て投付し蹟也といへり、こは自然に其形をなすのみ〔例すれば山川の跡に入べきなれど澳西の勝とあるにすがりてこゝに入る〕
【補注】本文に出てくる『雲根志』は上の2に掲載した。次に『漫遊文草』とあるのは沢元ト(平沢旭山)安永7年の紀行文「游奥暦」がこれに該当する。確かに「奥西之勝、其尤著者、安積山也、黒塚也、文字石也」とある。しかし、そのあとを読み進めるとここで言う「文字石」は信夫郡の「搨文石」(文字摺り石)を指しているようである。
8.福島県第五大区道しるべ (公文録・明治9年・第268巻・巡幸雑記1)
大壇阪
数千ノ長松路傍ノ孤山ヲ充蔽シ白昼尚陰々タリ、阪路極メテ険䧢、健脚ノ旅客モ隆冬汗ヲ拭ヒ筇(つえ)ヲ停メ、労ヲ号バザルナク因ヲ呼バサルナシ、此坂ヤ二本松城ノ正南ニ位シ、一人爰ニ依レハ千万ニ敵スベキ絶険ノ要地ナリ、去ル戊辰ノ乱官軍二本松城ヲ襲フ兵ヲ分ツテ二トナシ、一隊ハ供中川ノ渡ヲ越ヘ、一隊ハ此ノ阪ヲ攻ム、銃炮互ニ乱射シ苦戦スルコト良久シ、然ルニ供中渡ノ戦ヒ賊軍忽チ潰散、之レニ因テ此坂ノ賊向背敵ヲ受ケ終ニ支フル能ハス兵器ヲ損テヽ走ル

9.福島県下輦道駅村略記 (巡幸録・明治14年巡幸雑記附属書7)
大壇坂  上リ七拾六間、下リ三拾五間、嶮シ

 


2013年3月23日撮影(以下、最後の1枚を除いて同じ)
陸羽街道の眼鏡橋付近から北方向の大壇坂を見た風景。上で紹介した「福島県第五大区道しるべ」の挿絵と同じような位置取りになる。街道と並走する築堤と高架橋はJR東北本線。
几号を刻んだとされる一文字石はこの東北本線の反対側にある。

 


東北本線の東側に出た風景。羽石川の向こう側、草木の中に石が屹立しているのが確認できるだろうか。これが一文字石である。

 


一文字石の南側は大きく割れた状態で、その割れ目から笹や木の枝が伸びている。

 


西側、東北本線に向かうように漢字の「一」(のような模様)が確認できる。これが一文字石という名前の所以である。線路の築堤がなかった時代は街道をゆく人からも見えただろう。

 


この「一」は弘法大師の墨蹟という伝説もあるが、伝説は伝説としても見事な「一」である。

 

 
風化の進行は南側(左画像)が顕著である。その他の向きでも下部の剥落が確認できる。

 


2005年4月8日撮影。東日本大震災前の風景。大壇の丘から南の方向を見ている。
上で紹介してきた2013年の風景と違って手前の畑もきれいに手入れされている。花も咲いていて気持ち良い眺めのなかに一文字石が静かにたたずんでいる。
戊辰戦争当時、一文字石の近くに茶屋があった。大壇口の戦いの日、山岡栄治と青山助之丞という26歳と21歳の若者は、この付近に潜み進軍してきた西軍へ斬り込んだという。彼らの武勇は「大壇口の二勇士」と今にたたえられている。  國破れて山河在り 城春にして草木深し

 

089 二本松

(更新 21.04.03)

点   名

089 二本松(にほんまつ)

当時の場所

福島県 二本松 亀谷町坂上観音堂 馬頭尊供養塔

現在の地名

福島県 二本松市亀谷1丁目159-1 亀谷(かめがい)観音堂

海面上高距

238.1401m

前後の距離

大壇 ← 2888.24m → 二本松 ← 5015.60m → 渋川

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 二本松駅 切通上
 238.1401m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 NIHONMATSU
 238.1401m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 二本松 亀谷町坂上観音堂 馬頭尊供養塔
 238.1401m/785.8623尺

照合資料 4

地質要報
 二本松
 238.1m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 二本松
 ―/78丈5尺

几号の現存有無

現存  【発見:2005年4月8日、浅野勝宣】

解  説

2005年4月8日、自転車旅行3日目。この日は朝7時に福島市中心部を出発。丘陵地帯を越える数々のアップダウンを経て午後2時二本松の竹田坂の下に到着。目の前にそびえる観音丘陵は二本松の市街地を南北に分けている。
文化4年(1807)長沢茂好『奥羽行』
 町の中程に余程高き坂あり
明治11年(1878)西村茂樹『東奥紀行』
 此駅は中央に大なる坂ありて、一駅を南北に両断す
と街の中にある坂の印象を記している。
前後の距離と標高から几号附刻はこの坂道頂上の切り通し付近と推定してきた。
「几号は何に刻んだのか?」と竹田坂を上りながら探索する。竹田町と亀谷町との境界標を越えて亀谷坂側に入り、事前の調査で有力視していた亀谷観音堂(千壁尊)に至る。境内には大小さまざまな石碑が建ち並ぶが、一番の巨石「馬頭尊」碑を手でなでながら丁寧に観察した。その結果午後2時15分几号を発見。この日は「鹿の鳴石」に続いてふたつ目の几号発見である。
(正 面) 馬頭尊
(右側面) 于旹天保十五星躔甲辰仲冬大吉祥日
(背 面) 施主城下総駅馬牽共
       市十郎 他 (世話人・石工などの名前あり)
計測や刻銘などを調査し、次に石碑の移動有無を確認するため地元の人を探した。見渡せば観音堂の向かいに石材店があるのが目にとまる。石碑のことは石屋さんに聞くのが一番と訪ねた。幸いにも安斎石材店のご主人にお話しを聞くことができた。
 1.坂の頂部はかつてより道幅を広げ路面も切り下げている。
 2.馬頭尊の石碑は記憶にある限り移動はしていない。
 3.わが家はもともと阿部川屋という茶店だった。幸田露伴も餅を買っていった。
私も安斎さんに「馬頭尊碑に明治の水準点が刻まれている」と教えたところ、「初耳だ」と驚かれるとともに「良いことを聞いた」と喜んでおられた。
この言葉のやりとりがその後に思いもよらぬ展開をみせるのである。(後半へ続く)

現地を調査した日

@2005年4月8・19日  A2005年5月21日  B2010年8月12日

参考文献

石橋貞幹:二本松町案内、1911年
平島郡三郎:二本松寺院物語、二本松町公民館、1954年
日本弘道会編、西村茂樹全集5、著作5、思文閣出版、2007年
二本松郷土史研究会:二本松郷土史研究会資料集13、2008年
長岡市史双書55、江戸時代の旅と旅日記3、長岡市立中央図書館、2016年

ご 協 力

阿部川屋 安斎石材店 安斎賢一 様(二本松市)、松宮輝明 様(須賀川市)

 

二本松市街地の中央に緑色の帯が横たわる。観音丘陵である。越える道は急坂と切り通し。

 


亀谷坂と竹田坂の断面図 (地理院地図を加工)
グラフの比率を縦5倍にして勾配を強調している。だが実際に坂を上り下りしてみると、坂は直線で長いこともあって断面図以上の急勾配という印象を受ける。
坂の上の最高所238.7メートル。観音堂前の路上は235.5メートル。

 


2010年8月12日撮影(以下同じ) 坂の頂に近い観音堂前から見た亀谷坂

 


道路向かい安斎石材店さん側から見た観音堂。右端に巨大な馬頭尊碑が建っている。
参道の石段は17段。明治11年の仏堂明細書「観音堂(二本松町字亀谷169番所)」には「石段十八階」と記されていることから、几号を刻んだ当時も路面と境内上場との高低差は現在とほぼ同じだったと考えてよいだろう。

 


明治44年発行『二本松町案内』に掲載の「亀谷山千手閣」の写真
石段の数は少なくとも15段を確認。また、石垣を工事している様子もわかる。新しい石を積み足しているようだ。蛇足だが電柱は位置が変わらないものだと納得させられる。

 


馬頭尊碑。天保15年(1844)11月「城下総駅馬牽共」によって建立された。花崗岩。
石碑の高さ約3メートル。幅177センチメートル。台石の高さは45〜50センチメートル。

 


「尊」の字の右下に几号が刻まれている。石碑の圧倒される大きさとこの石質では几号の線刻はあまりにも目立たない。台石の上面から几号の横棒までは高さ26センチメートル。石碑の右端から几号の縦中央線までは30センチメートル。よく観察すると几号の周囲は縦20センチメートル、横16センチメートルにわたり平面に削られていることがわかる。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒9.4cm、横棒の幅1.0p。見かけ以上に線刻はしっかりしている。

 

几号の拓本(採拓:畠山未津留)

 

【後半】 ***********************************

 

亀谷観音堂 “石垣の几号” の存在について

 

2010年7月某日、畠山君からメールが届いた。「二本松亀谷観音堂でもうひとつ几号が見つかった」というのだ。情報源は二本松在住の人のブログ。これを畠山君が見つけて連絡をくれたのである。「馬頭尊塔に几号が刻まれているのにどういうこと?」と思ったが、百聞は一見に如かずである。翌8月畠山君と福島県二本松市へ向かった。
途中で須賀川の松宮輝明様と合流。さらに現地では前半の解説でも登場された安斎石材店のご主人にも再びお出ましいただいた。実は今回訪ねた几号は安斎さんが私と言葉を交わした2005年4月以降、お孫さんと散歩中に見つけられたものだという。几号情報のタネは積極的にまいておくものである。いつどこで芽が出るのかわからない。

 


几号は石垣の中の赤枠で囲んだ石に刻まれている。思いもよらぬ場所である。しかし、目線の高さであるこの位置にあったからこそ発見につながったと思われる。

 


画像は上下反転の間違いではない。このように上下逆さまの几号なのである。几号の横棒はない。石の欠けた部分に横棒が存在したと推定するのが妥当だが、現地で確認した限り横棒はそもそもなかった可能性も考えられる。

 


几号。縦中央線の長さ9.5センチメートル。三本線の交点付近で高さ123センチメートル。

 

几号の拓本(採拓:畠山未津留)

線刻の特徴から明治期における地理局系統の几号とみて間違いないだろう。

 

さて、この几号の来歴について現地で発見者の安斎さんも交えて議論した。石垣を改修した年代や規模、「水道工事」というキーワードも出てきたが謎は解けなかった。
石垣の几号を見た当初はどちらが東京塩竈間高低測量の几号か判断できなかったが、程なくして史料「福島県下高低几号所在」の存在を確認し、これにより馬頭尊碑に軍配が上がった。
では石垣の几号は何もの? 私の推理は次のようになる。
1.几号の石は他所から持ち込んだものではなく最初から観音堂の石垣に刻んだのではないか。
2.馬頭尊碑に几号があるが利用の便宜をはかり石垣にも几号を刻んだのではないか。
3.刻んだのは明治10年から陸地測量部の水準測量が到達する明治21年までの間ではないか。
4.石垣改修の際もとの位置から移動され再び石を組み直すときに反転したのではないか。

参考だが、猪苗代湖疏水(安積疏水)の設計当時、地理局の測定数値を検証するため陸羽街道の白河から福島にかけて高低測量を改めて行っている。また、宮城県内の事例だが地理局では「補点」という番外の几号を陸羽街道に設置している(未発表。今後掲載)。
石垣に刻まれた几号の素性について「馬頭尊塔の几号は路面より高い位置にあり、この几号を実際の測量に利用するにはいささか不便である。そこで街道に近い石垣に補助となる几号を刻んだのではないか」と推測してみた。 皆さんはどう推理されるだろうか?
いずれにしても、今後真相を明らかにする史料が見つかることを願っている。

090 渋川

(更新 21.04.17)

点   名

090 渋川(しぶかわ)

当時の場所

福島県 渋川村 大取上坂下 鹿鳴石

現在の地名

福島県 二本松市渋川字中取揚 鹿の鳴石

海面上高距

203.0796m

前後の距離

二本松 ← 5015.60m → 渋川 ← 2836.20m → 松川

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 安達郡 渋川村
 203.0796m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Shibukawa
 203.0796m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 渋川村 大取上坂下 鹿鳴石
 203.0796m/670.1627尺

照合資料 4

地質要報
 渋川村
 203.1m/―

几号の現存有無

現存  【発見:2005年4月8日、浅野勝宣】

解  説

ここから渋川、松川、浅川と点名の末尾に「川」の字がついた地域に入る。
“3川”の最初である「渋川」の読みは地名辞典にならって「しぶかわ」としたが、天保12年(1841)に成立した二本松藩の地誌『相生集』では「シボカハ」と訓じていて、「シブカハ」と読むのは誤りと指摘している。
几号の刻まれた「鹿の鳴石」について『安達郡誌』では次のように解説している。
塩沢村に境する旧国道内に在り、鹿の足蹤を石面に存す、其由緒伝らず。
旧国道=陸羽街道(奥州街道)の敷地内にあったのは間違いないようだ。
『郡誌』では「其由緒伝らず」としているが、安達町教育委員会(当時)が現地に設置した説明板には次のように書かれている。いささか物足りない文章だが、その全文を掲載して伝説の紹介に代えることにする。
 伝説の石 鹿の鳴石
昔、二本柳と長谷堂の中間に大きな沼があり、そこに沼の主(竜神)が住んでいた。
あるとき沼が決壊して、水がなくなり、自分の相手とはぐれてしまった。
沼の主は鹿に化身し、この自然石の上で鳴き、相手を呼んだが見つからず、山を越えて土湯の女沼に移り住んだといわれる。
この鹿の鳴き石の周囲を左に三回廻ると、鹿の鳴き声がきかれるという。

 

人々が行き交う街道内にあっただけに江戸時代の紀行文にも石の記述が散見される。
寛政11年(1799)の渋江長伯『東游奇勝』には絵も添えられている。

塩川村中取上と云所に大石あり、道傍に蹟す、石上鹿蹄跡多し、土人鹿の鳴石と云
往時の様子がうかがい知れるとても良い絵である。なお、文中に「塩川村」とあるが「渋川村」の誤りと思われる。

 

2005年4月8日、塩竈から自転車をこいで来て3日目、ここ「鹿の鳴石」に到達し、この調査旅行で最初となる几号を見つけた。同月19日、東京からの帰り道、再び渋川に至ると鳴石近くの畑に人がいたので話を聞いた。「この坂は向坂と言っている。昔の道幅は今の半分しかなかった。鳴石は少し動かしている。それとは別に庭石にしようと重機で持っていこうとした人もいた」と証言を得た。
『福島県下高低几号所在』では「大取上坂」とし、地元の人からは「向坂」と教えていただいたが、諸文献を参照すると「小取揚坂(ことりあげさか」と称される坂がこの坂に該当するようである。また、鳴石周辺の小字名が「中取揚(なかとりあげ)」ということから小取揚坂を「中取揚坂」と記す文献も少なからずあった。ちなみに「大取上坂(おおとりあげさか)」は一般に「大取揚坂」と表記され、小取揚坂の北にあって、ここよりも更に急な坂である。

 

福島県教育会『明治天皇御巡幸録』
二本柳から円東寺坂を下りて松川駅に至る間に難所がニツある。南にあるを小取揚坂と云ひ上り八十間下り百間。北にあるを大取揚坂と云ひ、上り百六十間下り二百間、北にあるのは殊に嶮しい坂である。御巡幸の御布令があつてから村民(渋川)此の難所を恐懼して、御通輦を幾分なりとも安らけくし奉らんと、一所懸命徹夜の奉仕を以て小取揚坂の最高所を二丈余も切り開いたと云ふ。

 

公文録・明治9年・第268巻・巡幸雑記1、福島県第五大区道しるべ
大取揚小取揚両坂
一坂ヲ降レハ又一坂、双坂大小ノ異ナル有ト雖トモ其険悪ニ至ツテハ福島県内最モ之レヲ巨擘(きょはく)トナス、(中略)峩々タル巨巌ヲ鑚(き)リ、絡繹(らくえき)タル樹根ヲ斥除シ、之レヲ運輸スルコト幾万簣(=もっこ)、高キヲ低フシ低ヲ高フシ高低ヲ平均セシム
 (抄録)

 ※村民が道路工事をしている様子が描かれている

現地を調査した日

2005年4月8・19日

参考文献

安達郡誌、安達郡役所、1911年
明治九年明治十四年 明治天皇御巡幸録、福島県教育会、1936年
堀江繁太郎:中取揚坂の懐旧、岩磐史談2-8、岩磐郷土研究会、1937年
板橋耀子編:近世紀行文集成1、蝦夷編、葦書房、2002年
山崎栄作編、渋江長伯著:東游奇勝、帰路編、2006年
国立公文書館所蔵:公文録・明治14年・第241巻・明治14年巡幸雑記3、 御先発第二回報告白河以北須賀川ヨリ仙台迄ノ道路并宿駅御休泊割等ノ件
国立公文書館所蔵:公文録・明治9年・第268巻・巡幸雑記1、福島県第五大区道しるべ
国立公文書館所蔵:巡幸録・明治14年巡幸雑記附属書5・福島県下御通輦沿道地図
国立公文書館所蔵:巡幸録・明治14年巡幸雑記附属書7・福島県下輦道駅村略記

 


2005年4月撮影(以下同じ) 江戸の名奉行“遠山の金さん”のお父さんである遠山景晋が文化2年(1805)に著した『未曾有後記』には、「二本柳出て、向ふ坂と云小坂の上り口、左に腰尺もある白き石に、鹿の爪跡とていくらも疵有。鹿の鳴石と云」と記している。ここがちょうど二本柳の円東寺前を北に曲がったところである。街道を進んで坂の途中、赤い矢印の先に何やら物体があるのを確認できるだろうか。これが几号の刻まれた「鹿の鳴石」である。

 


鹿の鳴石から坂の上を見る。明治9年に村民の努力で切り下げた場所である。石に近づいてみるとたくさんのくぼみが付いているのが確認できる。伝説にいうところの鹿のひづめ跡である。

 


石の背後から南の二本柳方面を望む。土台擁壁の状況から石を道の端に移動したことは明白である。現地の説明板には「石の周囲を左に三回廻ると鹿の鳴き声がきかれるという」とあるが、石のすぐ後ろが2メートルほどの絶壁になっているので実行はしなかった。

 


道路側から見た石の正面。石の全高は約105センチメートル。この角度では几号は視認できないが、向かって左側の下部に刻まれている。

 


左側面。ぼこぼこした石であるが下部の垂直で平面になっている場所に几号が刻まれている。几号が傾いていることからも石が移動されたことは明らかである。横線と縦線の接合点で地上高は27センチメートル。なお、線刻を際立たせるために水を付けて撮影している。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒9.5cm、横棒の幅1.0p。だいぶ風化が進み線刻が荒れている。