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011 瀬崎 (草加市瀬崎3丁目) 几号現存
012 草加 (草加市神明1丁目) 几号現存
013 西方 (越谷市南越谷2丁目) 
014 大沢 (越谷市大沢3丁目) 几号現存
015 大枝 (春日部市大枝) 几号現存
016 粕壁 (春日部市粕壁1丁目) 几号現存

011 瀬崎

(更新 19.10.19)

点   名

011 瀬崎(せざき)

当時の場所

埼玉県 瀬崎村浅間社石造手洗

現在の地名

埼玉県 草加市瀬崎3丁目3-24  瀬崎浅間神社

海面上高距

3.9531m

前後の距離

保木間 ← 2825.60m → 瀬崎 ← 2558.10m → 草加

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 瀬崎村
 3.9531m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Shidzuakimura
 3.9531m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 瀬崎村浅間社石造手洗
 3.9531m/13.0452尺

照合資料 4

地質要報
 瀬崎
 3.9m/―

几号の現存有無

現存

解  説

東武伊勢崎線谷塚駅の東側。慶応年間に奉納された手水石。几号部分の磨滅が著しい。

現地を調査した日

@2005年4月15日  A2015年4月19日

参考文献

浅古倉政:市域における明治初期の水準点と現況、草加市史協年報16、1997年

 


神社前を通る陸羽街道。東京方面を見る。昭和7年に国道の改修工事が行われている。

 

 
拝殿前右手にある手水舎。平成4年改修。   手水石の右側面。左下に几号が刻まれている。

 


画像の中央に几号があるのだが・・・。
2005年に訪れた時よりも摩滅が進んだように見える。几号の大きさは計測不能。

 


手水舎の脇に草加市教育委員会が設置した解説板がある。

 

012 草加

(更新 19.10.24)

点   名

012 草加(そうか)

当時の場所

埼玉県 草加駅六丁目神明社華表

現在の地名

埼玉県 草加市神明1丁目6-6  神明神社

海面上高距

4.5171m

前後の距離

瀬崎 ← 2558.10m → 草加 ← 4841.50m → 西方

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 草加駅
 4.5171m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 SOKA
 4.5171m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 草加駅六丁目神明社華表
 4.5171m/14.9064尺

照合資料 4

地質要報
 草加駅
 4.5m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 草加
 ―/1丈5尺

几号の現存有無

現存

解  説

几号の刻まれた鳥居礎石を保存。

この礎石は2003年の前半までは境内の片隅に放置されていたが、標石研究家伊藤正昭氏によって几号の現存が確認された。伊藤氏はさっそく草加市へ保存嘆願を働きかけ、それを受けた草加市の動きも早く同年の7月には保存措置が完了した。その際に几号の由来を記した石碑も建てられ、几号は線刻を際立たせようと赤く着色された。現在、赤の塗料は剥げ落ちて几号本来の美しい姿に戻った。
神明神社の「修繕等各種控」によると、几号が刻まれた当時の鳥居は嘉永4年の建立によるもので、礎石に関しては「沓石壱対代価金七両弐分」、石工は草加宿の「石屋政五郎」が請け負ったと記されている。

現地を調査した日

@2005年4月15日  A2015年4月18日

参考文献

浅古倉政:市域における明治初期の水準点と現況、草加市史協年報16、1997年

草加の社寺資料.草加市.草加市史調査報告書4.1989年
伊藤正昭氏のHP:埼玉県の几号水準点を訪ねる 草加神明神社

 


神明神社の正面入口。鳥居の右脇にかつての鳥居礎石が保存されている。

 


境内側から見た鳥居礎石。手前の地面には一等水準点(交2006号・標高3.6m)が埋設されている。背後の道路は陸羽街道である。

 


恐らく左右の礎石を積み重ねたと思われる。今となっては左右の区別は困難である。

 


几号。伝存状態は良い。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。
保存措置が行われた際に几号の線刻は赤く着色された。その痕跡が今も若干残っている。

 


解説の石碑「神明宮鳥居沓石(礎石)の高低測量几号」

 

013 西方

(更新 19.10.29)

点   名

013 西方(にしかた)

当時の場所

埼玉県 西方村字行人塚大相模不動道標

現在の地名

埼玉県 越谷市南越谷2丁目14  交差点「貨物ターミナル入口」

海面上高距

4.6676m

前後の距離

草加 ← 4841.50m → 西方 ← 2830.20m → 大沢

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 西方村
 4.6676m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Nishikata
 4.6676m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 西方村字行人塚大相模不動道標
 4.6676m/15.4031尺

照合資料 4

地質要報
 西方村
 4.6m/―

几号の現存有無

不明

解  説

交差点「貨物ターミナル入口」の南側。

越谷市相模町6丁目の大聖寺東門に移設された道標が対象物ではないかとされる。
道標 高152cm、幅39cm、奥行23.5cm
 正 面 「是より 大さがみふどうそん 十二丁」
 右側面 「文久二壬戌年五月」
 左側面 「天下太平國土安穏」
下部は惜しいことにコンクリートで固められ「ふどうそん」の「ん」、「十二丁」の「丁」は半分以上埋没している。
右側面下部は「願主 登戸村 濱野」と名字まで読めるが、名前の部分は埋没している。左側面下部と背面下部に刻まれた世話人などの名前も同様に埋没している。
本来は地上に出ていた部分がそれなりの長さ埋没している状況なので、几号を道標の竿石に刻んだのであればコンクリートの中だろうし、あるいは台石などに刻んだのであれば失われた可能性が大きい。
いつの日か掘り起こして几号の有無を確認されることを願っている。

現地を調査した日

@2005年4月15日  A2015年4月18日

参考文献

秦野秀明:幻の「西方村字行人塚大相模不動道標」を求めて、2010年

秦野秀明:越谷市内の高低測量几号、越谷市郷土研究会会報17、2014年



左は明治の迅速測図(陸軍) 右は現在の地図(国土地理院)
陸羽街道から大聖寺(大相模不動尊)までの道筋を明示した。迅速測図には「陸羽街道」「不動道」「起点」「終点」の文字と矢印を加筆した。現在の地図に示した赤い線は迅速測図における「不動道」をトレースして重ね合わせたものである。起点である場所に「4.472m」と標高が記されているが、これこそが几号の刻まれている道標の位置を示していると思われる。初期の陸軍においてはところどころで内務省地理局の測点を利用しているので、これもその一例と考えている。(国立研究開発法人農業環境技術研究所が提供している歴史的農業環境閲覧システムの比較地図を利用した)   (この画像はクリックすると拡大表示します)

 


交差点「貨物ターミナル入口」の南側。陸羽街道の春日部・栗橋方面を見る。道標は画像の中心部付近にあったと推定されるが、道路も拡幅されているので正確な位置は不明。

 


上の画像とは反対側。道標があったと思われる場所から草加・東京方面を見る。
奥に見える高架橋はJR武蔵野線。

 


上の画像の場所から北東へ2.1qの位置にある大聖寺の東門。
この門前に建つ道標が西方村字行人塚から移設されたものといわれる。

 

        
    左側面            正 面             右側面

 

 正面の下部

 

 右側面の下部

 

 左側面の下部

 

014 大沢

(更新 19.12.15)

点   名

014 大沢(おおさわ)

当時の場所

埼玉県 大沢町字天神前菅社華表

現在の地名

移設前:埼玉県 越谷市大沢2丁目4-6  照光院境内
移設後:埼玉県 越谷市大沢3丁目13-38  香取神社境内

海面上高距

6.4101m

前後の距離

西方 ← 2830.20m → 大沢 ← 5169.60m → 大枝

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 大沢町
 6.4101m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Osawa
 6.4101m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 大沢町字天神前菅社華表 ※原本には「管社華表」とあり
 6.4101m/21.1533尺

照合資料 4

地質要報
 大沢村
 6.4m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 大沢
 ―/2丈1尺2寸

几号の現存有無

現存(移設)

解  説

几号の刻まれた石鳥居は香取神社へ移設。

現地を調査した日

@2005年4月15日  A2015年4月18日

参考文献

秦野秀明:大沢香取神社の二之鳥居にある「天満宮」の扁額の謎、2010年

秦野秀明:越谷市内の高低測量几号、越谷市郷土研究会会報17、2014年

 


香取神社の参道入口。最初に見えるのが一の鳥居。昭和60年建立。神額「香取大神」

 


社殿側から二の鳥居を見る。左右の柱には「奉獻 大澤驛 中組」、「文政六癸未年九月吉日」と刻む。追刻として「大正二年一月一日 東京市日本橋區新乗物町 移轉寄附吉岡伊三郎」とあり。神額は「天満宮」と故地のゆかりを残す。奥に見えるのは一の鳥居。
※ 吉岡伊三郎。嘉永4年生まれ。埼玉県出身(おそらく大沢周辺)。東京に出て上総屋という呉服商を営む。

 


石鳥居の全景を写した上の画像における右柱の根巻石に几号が刻まれている。手前側に草が生えているので視界をやや遮っている。

 


几号。若干の欠損が見られる。横棒8.9cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。

 


照光院の参道入口。(真言宗智山派。越谷市大沢2−4−6)
移設前の石鳥居は手前の陸羽街道、もしくは照光院の参道に面して建っていた。

 


香取神社の「神社明細帳」によれば、無格社の天神社は明治44年7月4日に村社である香取神社に合祀されたが、現在でも「天満宮」と神額を掲げた小祠が照光院の山門前に鎮座している。

 

015 大枝

(更新 19.12.15)

点   名

015 大枝(おおえだ)

当時の場所

埼玉県 大枝村字屋敷前普門品供養塔

現在の地名

移設後:埼玉県 春日部市大枝767  歓喜院境内

海面上高距

6.6431m

前後の距離

大沢 ← 5169.60m → 大枝 ← 5076.00m → 粕壁

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 大枝村
 6.6431m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Oyada
 6.6431m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 大枝村字屋敷前普門品供養塔
 6.6431m/21.9222尺

照合資料 4

地質要報
 大枝村
 6.6m/―

几号の現存有無

現存(移設)

解  説

歓喜院境内にある宝筐印塔の台石。ただし、几号が刻まれた面は壁側にあり目視は困難である。

昭和29年頃、陸羽街道(国道4号線)の拡幅工事に際し歓喜院の境内に移設されたといわれる。

現地を調査した日

@2005年4月15日  A2015年4月18日

参考文献

加藤幸一:旧大枝村歓喜院の明治の水準点「高低測量几号」、2012年

 


歓喜院の門前。手前は陸羽街道で春日部方面を見る。

 


几号の刻まれた石塔は歓喜院の境内に移設されている。
背が一番高いのが寛永4年建立の宝筐印塔。その手前(右隣)は安政4年建立の普門品供養塔。
几号の附刻物は地理局雑報に「普門品供養塔」とあるが、現存する几号は宝筐印塔の台石に刻まれている。

 


几号は台石の背面にある。しかし、背後のブロック塀との間隔は30cm、鉄柵とはわずか18cmのすき間しかなく、頭をこじ入れて目視することも困難な状況である。

 


几号。すき間にカメラを差し入れて撮影。
おおよその計測で横棒9.0cm、縦棒9.5cm、横棒の幅1.2cm。

 

本来の姿を推定復元。(完成度の低さはお許しいただきたい)

宝筐印塔の一番下の台石は、本来右隣の普門品供養塔の台石だったと推定。さらに背後にある几号を正面に持ってきてみた構図である。台石の横幅は82.5cm。これに対し几号の縦棒は左端から26cmの位置にあるので、几号は左側に寄っていることがわかる。このような形で陸羽街道沿いに建っていたと推定される。

 

016 粕壁

(更新 19.12.18)

点   名

016 粕壁(かすかべ)

当時の場所

埼玉県 粕壁駅上宿神明道標

現在の地名

移設前:埼玉県 春日部市粕壁1丁目と2丁目の境界
移設後:埼玉県 春日部市粕壁1丁目8-3  神明社境内

海面上高距

9.6696m

前後の距離

大枝 ← 5076.00m → 粕壁 ← 3376.10m → 堤根

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 粕壁駅
 9.6696m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 KASUKABE
 9.6696m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 粕壁駅上宿神明道標
 9.6696m/31.9097尺

照合資料 4

地質要報
 粕壁駅
 9.6m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 粕壁
 ―/3丈2尺

几号の現存有無

現存(移設)

解  説

几号の刻まれた道標は神明社境内へ移設されている。ただし移設時期は不明である。

神社そのものも土地区画整備事業の際にビルの屋上に移転する計画も出されたが、それでは伝統の「酉の市」が開けなるということで、境内を少し南側に移動することで落ち着いた。
ところで、境内には神社までの距離が記された道標が2基残されている。几号の刻まれた道標(全高259p。弘化3年=1846年)には「24丈3尺」とあり、別の小振りな道標(高さ73cm。天保3年=1832年)には「40間3尺」とある。この刻まれた距離をメートルに換算すると両方とも73.6mとなる。移転前の神社は現在よりも陸羽街道に近かったことが道標に刻まれた距離からも明らかである。
春日部の「神明道標」ついては、押しボタン式信号機「粕壁東一丁目」付近にある「東江戸・西南いハつき・北日光」と刻まれた道標がそれではないかという説もあり、諸氏の探索にもかかわらず几号の発見報告が出なかった。自転車で塩竈を出発した私が春日部にたどり着いたのは2005年4月14日の午後5時半過ぎ。急ぎ神明社付近で探索を行い夕暮れ迫る5時55分几号発見に至った。その夜は奮発してビールと少し高い弁当を買って神明社にほど近い安宿で食べた記憶が今も残る。

現地を調査した日

@2005年4月14日(几号発見)  A2015年4月18日

参考文献

※※※

 


几号附刻地近くから陸羽街道を西に見る。このあたりは粕壁宿の上宿(上町)にあたる。

 


陸羽街道から南に入る小道を「神明道」という。几号を刻んだ「神明道標」はこの入口に建っていたと推定される。

 


明治35年発行の『埼玉県営業便覧』より「粕壁町略図」
上町・仲町とある通りが陸羽街道。そこから南に入る小道に「神明道」とあり、その奥に鳥居のマークと「神明社」が記されている。

 


陸羽街道から分かれて神明道を160メートルほど進むと神明社に至る。
かつての社殿はもう少し陸羽街道に近い場所(商業看板が乗ったマンション附近)にあったが、春日部駅東口の駅前土地区画整備事業により昭和62年頃に現在地へ移転した。

 


境内の一隅にある石造物。庚申塔や歌碑、力石(ぼた餅のような2つの丸い石)などが残されている。すらりと背の高い標石が几号の刻まれている「神明道標」である。

 

      

左側面             正 面             右側面

左側面 「神明道長廿四丈三尺廣八尺」 (一番下に几号)
正 面 「散留當火己乃神」 (さるたひこの神)
右側面 「弘化三年丙午三月庚申立」 (=1846年)
本塔の高さ232p。幅34p。奥行25.5p。
台石の高さ27p。幅64p。奥行63.3p。
台石には建立に関わった人々の名前が多数刻まれている。

 


几号。左側面の絶妙なスペースに刻まれていて、もともとの刻銘と一体化している。
横棒9.2cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。