057 越堀 (那須塩原市) 几号現存
058 寺子 (那須塩原市)
059 寺子黒川 (那須町)
060 芦野 (那須町) 几号現存
061 横岡 (那須町) 几号現存
062 寄居 (那須町)
063 境の明神 (那須町) 几号現存
057 越堀
(更新 20.06.20)
点 名 |
057 越堀(こえぼり) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 越堀那珂川東岸村界標 |
現在の地名 |
移設前:栃木県 那須塩原市越堀 那珂川左岸
移設後:栃木県 那須塩原市越堀116 浄泉寺 |
海面上高距 |
224.1902m |
前後の距離 |
鍋掛 ← 500.00m → 越堀 ← 3331.00m → 寺子 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
現存(移設) |
解 説 |
越堀の那珂川渡し跡から浄泉寺境内に移設された「従此川中東黒羽領」と刻まれた境界石の台石に几号は刻まれている。
現地にある市指定文化財「黒羽領境界石」の解説板には次のように記されている。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月10日 A2015年2月8日 |
参考文献 |
佃与次郎:山田音羽子とお国替絵巻、1930年、 国会図書館デジコレ
児玉幸多校訂、近世交通史料集6、吉川弘文館、1972年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
---|
1.蝦夷の嶋踏 (福居芳麿:享和元年) |
昭明橋の鍋掛側から越堀側を見る。越堀の渡し跡は100メートルほど下流である。
この付近の那珂川は那須野ケ原の火山性台地を浸食し、河道は深く掘り込まれた地形になっている。両岸の台地から河原までの高低差は14〜15メートルもある。
鍋掛−越堀間の街道地図 (地図情報検索サイト「マピオン」の地図を加工)
赤の実線は街道の確定経路、赤の点線は推定経路。几号附刻物は赤丸で示している。
鍋掛側は現在の位置を不動のものと仮定し、越堀側は几号の標高をもとに位置を推定。
浄泉寺境内に移設された境界石。文化財としての解説板が設置されている。
境界石の正面 標石の寸法(単位:p、計測作図:浅野)
刻銘の「従此川中東黒羽領」は「この川中より東 黒羽領」と読む。
那珂川の中央から東側(左岸)は黒羽領であることを示している。
台石に刻まれた几号。台石は乾燥した苔と砂粒がびっしりと張り付いている状態である。
几号。横棒8.8cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。若干風化現象が見られる。
058 寺子
(更新 20.06.20)
点 名 |
058 寺子(てらご) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 寺子村街道中央大黒天台石 |
現在の地名 |
栃木県 那須塩原市寺子 |
海面上高距 |
262.5389m |
前後の距離 |
越堀 ← 3331.00m → 寺子 ← 3158.00m → 寺子黒川 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
照合資料1の『陸羽街道高低測量直線図』では「寺子村余笹川西方」と表現しているので余笹川右岸の会三寺などがある寺子の集落であることは間違いない。しかし、『地理局雑報』の「寺子村街道中央」という表現がわからない。小字という可能性もあるかと調べてみたが、寺子には「街道下」「街道東」「街道西」という小字はあるが「街道中央」は見当たらない。何をもって「街道中央」と表現したのだろう。集落の中央に大黒天が祀られていたのか? それとも往来の真ん中に大黒天が置かれていたのか? 几号の刻まれた大黒天が実在していればその謎も解明できるのだが、大黒様がいらっしゃらないのではどうしようもない。大黒天は別に石像とは限らない。文字塔という可能性もある。推定される場所をゆっくり歩いてみたがいずれも見つからなかった。現地で3人のおばあさん達に出会ったので念のため尋ねたが「このあたりで大黒天は見たことがない」という。
今のところ、皆さんが指摘する温泉神社の大黒天石像が有力候補と言える。しかし、この石像の台石には几号が見当たらないので簡単に確定と言うわけにもいかない。 |
現地を調査した日 |
2005年4月10日 |
参考文献 |
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況1、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究27、1989年 |
寺子の集落。(2005年撮影。現在もほとんど変化はない)
越堀からの距離(3331.00m)と、本点几号の標高(262.5389m)からこの付近が几号の附刻地と推定している。
推定地から越堀側へ約300メートル戻ると高台に温泉神社がある。その境内には2基の大黒天像があって、1基は明治24年建立。残る1基がこの大黒天像である。建立年は不明。移設の有無も不明。素人判断であるが、石像部と台石では作成年代が異なるように見える。なんらかの事情で台石を新しく作り替えた可能性も考えられる。
059 寺子黒川
(更新 20.06.23)
点 名 |
059 寺子黒川(てらごくろかわ) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 寺子村字黒川壺里程標 |
現在の地名 |
栃木県 那須町寺子 黒川右岸 |
海面上高距 |
252.3874m |
前後の距離 |
寺子 ← 3158.00m → 寺子黒川 ← 1991.00m → 芦野 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
亡失 |
解 説 |
『陸羽街道高低測量直線図』では「寺子村黒川西岸」と表現しているので黒川右岸の黒川集落であることは間違いない。『地理局雑報』には「寺子村字黒川壺」とあるが、「壺(つぼ)」は一般的に「坪」と表記され、「集落」と同等の意味で用いられている。栃木の史料を読んでいるとよく目にする用語である。
『地質要報』の「寺子村黒川端」は「くろからばた」と読む。江戸時代は寺子村の枝村的な存在であり「黒川端村」と表記されている。 |
現地を調査した日 |
2005年4月10日 |
参考文献 |
川田剛:随鑾紀程1、太政官、1885年
高山彦九郎:北行日記、日本庶民生活史料集成3、三一書房、1969年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
---|
1.北行日記 (高山彦九郎:寛政2年) |
黒川の流れと黒川集落の全景。右端に見えるのが集落を迂回して作られた黒川橋。
平成10年(1998)8月の豪雨による被害を受けて護岸の大規模な改修が行われている。
黒川集落の中央を下ってくるのが陸羽街道である。かつてはそのまま黒川に架かる橋に至っていたのであるが、今はその痕跡はどこにもない。
集落内にある昭和5年5月に建てられた道標。「右新田ヲ経テ黒羽ニ至」「左芦野町ヲ経テ白河ニ至」とある。道標前の街道を下って行くと黒川の岸に突き当たる。
060 芦野
(更新 20.06.26)
点 名 |
060 芦野(あしの) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 芦野駅奈良川高橋際石地蔵 |
現在の地名 |
栃木県 那須町芦野 川原町 奈良川左岸 |
海面上高距 |
249.0696m |
前後の距離 |
寺子黒川 ← 1991.00m → 芦野 ← 1810.00m → 横岡 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
芦野集落の南口(東京側)、奈良川に架かる橋の東詰に石地蔵がある。几号はその台石に刻まれている。
昔の橋は今より低い位置にあったので、橋改修の際に石地蔵もかさ上げしているという。隣接する川上集会施設利用組合の建物も1.5メートル高くしたとのこと。昔の地形が今一つ理解できないが、聞いた証言はそのまま載せておこう。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月10日 A2015年2月8日 |
参考文献 |
三森長七郎:芦野小誌、1922年
中山高陽:奥游日録、日本庶民生活史料集成3、三一書房、1969年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
---|
1.奥游日録 (中山高陽:明和9年) |
奈良川に架かる橋を渡ると芦野の集落である。『地理局雑報』の表現どおり橋のきわにお地蔵様がおいでである。橋には銘板が見当たらないが、大正11年に刊行された『芦野小誌』では芦野七橋のひとつとして「下高橋」と記している。現在は「芦野橋」と称するようである。なお、橋のたもとに住む人は「奈良川橋です」とおっしゃっていた。
通称「川原町の地蔵様」と呼ばれ、北口(仙台側)にある「新町の地蔵様」とともに、芦野の町に災いや疫病が入ってこないように見守ってきたという。石地蔵を覆う鞘堂は平成8年(1996)の完成。
調査不足であり公表されているデータを引用するが、地蔵尊像は享保12年(1727)9月の建立にして、高さ208p、幅120p、奥行き90pという。ただしこの数値は台石を含めているのか不明である。写真を見て推し量っていただきたい。お像は蓮華の上に腰掛けて左足を前に垂らしている半跏式の地蔵菩薩である。
几号は下台石の左端寄りに刻まれている。台石はだいぶ風化が進んでいるようである。
几号。横棒9.0cm、横棒の幅1.0cm。縦棒の下部はモルタルに埋もれている。確認高は8.0cm。線刻には若干の欠損が見られる。なお、几号の周囲は幅にして13〜14pほど平らに削られている。台石の表面はそもそも荒削りの仕上げだったのかも知れない。
061 横岡
(更新 20.07.02)
点 名 |
061 横岡(よこおか) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 横岡村字峯岸地内牛石 |
現在の地名 |
栃木県 那須町横岡154 べこ石の碑 |
海面上高距 |
274.5721m |
前後の距離 |
芦野 ← 1810.00m → 横岡 ← 6562.34m → 寄居 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
峯岸公民館向かいの山すそに那須町文化財「べこ石の碑」がある。几号はその側面に刻まれている。べこ石の碑とは大きな横長の一枚岩で、儒教の教えにもとづいて人の正しく生きる道を論す文言が、全文で3500文字という長文で記されている。
この文章を書いたのは芦野宿で酒造業を営み駅逓事務の問屋をつとめた戸村右内・忠恕(ただひろ)である。彼は地域の篤志家であり学識と財力を持ち合わせていた。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月10日 A2015年2月8日 |
参考文献 |
布施辰治:徳川末期年貢納の苦難を描いた江戸紀行1、社会経済史学7-4、1937年
明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
---|
1.江戸紀行用留日記 (大沼孫兵衛:慶応3年) |
べこ石の前を通る陸羽街道を南に見る。この区間は旧道で車の往来は極めて少ない。
べこ石の入口。街道よりやや高い位置にあることがわかる。奥にべこ石が見える。
べこ石の全体。左側の平らな面が正面で、3500字に及ぶ人の道の教えが記されている。
一字一字読むのは難しいが、これだけの長文が記されていることを知っていただきたい。
几号は横側のなんとも言えない場所に刻まれている。几号横棒までの地上高は66p。自然に欠けていた場所なのか、それとも几号を刻むために削ったのか。真相はわからない。几号右の四角いところには建立に協力した人々の名前が記されている。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.1cm。線刻に若干の欠損が見られる。
062 寄居
(更新 20.07.01)
点 名 |
062 寄居(よりい) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 寄居村字大久保壺瓢箪石 |
現在の地名 |
栃木県 那須町寄居 山中大久保 瓢(ふくべ)石 |
海面上高距 |
352.2523m |
前後の距離 |
横岡 ← 6562.34m → 寄居 ← 2636.00m → 境の明神 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
几号が刻まれた本来の瓢石(瓢箪石)は道路の改修工事により破壊されたと考えられる。残念であるが几号はすでに失われた可能性が大きい。
寄居村の小字に「瓢(ふくべ)石」あり。 |
現地を調査した日 |
2005年4月10日 |
参考文献 |
今井金吾:今昔三道中独案内、日本交通公社、1978年
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況1、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究27、1989年 |
陸羽街道を南に見た風景。この先は芦野に至る。Googleが2013年5月に撮影したもの。
右から順に瓢(ふくべ)石の崖、ひょうたんの石像、陸羽街道の旧道とその新道である。
上と同じ場所から振り返って北を見た風景。この先は栃木・福島の県境に至る。
2005年4月に撮影したひょうたんの石像とその周辺。この時はまだ春先とはいえ枯れ枝や枯れ草が背後の崖に覆いかぶさり、岩壁の観察はなかなか難しい状態であった。
現在、この場所で瓢(ふくべ)石と言えばひょうたんの形をした1メートル余の石像が有名である。しかし、これは新しく建てられたものであり、台石には平成5年(1993)寄贈と記されている。それ以前は左隣に建つ「瓢石・勝五郎旧跡」と刻まれた石塔が唯一の目印であった。ただし、これも大正9年(1920)に建てられたものである。左端の石塔は馬頭観音塔。
3基の石塔から10メートルほど北側の岩肌に彫られたひょうたんと杯。几号が刻まれた瓢石との関連性は不明である。
063 境の明神
(更新 20.07.07)
点 名 |
063 境の明神(さかいのみょうじん) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 寄居村両国界標石崖 |
現在の地名 |
栃木県 那須町大字寄居字唐門 |
海面上高距 |
411.5115m |
前後の距離 |
寄居 ← 2636.00m → 境の明神 ← 1481.80m → 白坂 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
几号は、まさに栃木県と福島県の境界線、道路西側の古い石垣に刻まれている。
江戸時代、奥州道中の下野と陸奥の国境は現在よりも急勾配であった。その後、たび重なる道路の改修工事によって路面は切り下げられている。几号の調査において重要視しなければならないのは、明治9年(1876)の巡幸前に行われた大規模な改修工事である。県境の坂路を緩やかなものにするために路面を6尺程(約180p)切り下げている。県境を挟み栃木県側は長さ20間(約36m)、福島県側は30間(約55m)を担当し、いずれも街道の西側に石垣を積む工事が行われたとされる。道路脇には年代の異なる2段の石垣を見ることができるが、明治9年に構築された石垣は上段にある切石積みの石垣とみて間違いないだろう。 |
現地を調査した日 |
@2004年10月24日 A2005年4月10日(几号発見)・同18日
B2006年4月9日 C2015年2月8日 |
参考文献 |
川田剛:随鑾紀程1、太政官、1885年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など
※ 境の明神に関する記述は枚挙にいとまがないので、掲載範囲は幕末から明治前期のものとする。 |
---|
1.御国替絵巻 (山田音羽子:弘化3年) |
県境の標識が見えてきた。標高は400メートルを超え、ここが栃木県最後の上り坂。
東京から几号探索の道しるべ役を果たした『地理局雑報』もここが最終地点となる。
那須町寄居、玉津島神社の前。道路両側の地形から判断して、この辺りから路面の切り下げが行われていると思われる。
栃木県側から見た県境の風景。明治9年の巡幸前に切り下げられて完成した路面は赤の破線の高さと推定される。現在はそれよりもさらに切り下げられている。
福島県側から見た県境の風景。上下2段の石垣が組まれていることがよくわかる。
几号は赤の破線円で囲んだ場所に刻まれている。下段の石垣があるのは福島県側であり、栃木県側は土の斜面となっている。
几号は矢印の先。石垣の直上にあるのは昭和3年に建てられた県界標。
(2015年2月8日撮影)
落ち葉や土を除けて現れた几号。几号の周囲は縦横20p四方が平面に削られている。
(2006年4月9日撮影)
2006年4月9日、相棒の畠山氏が採ってくれた拓本。場所が場所だけに採拓は面倒した。
几号。横棒10.5cm、縦棒12.0cm、横棒の幅1.5cm。線刻は太くていびつである。
右:几号の直上にある県界標。「堺 福島縣西白河郡・栃木県那須郡」「御大典記念 昭和三年十一月十日 芦野町青年團上郷支部建之」と刻まれている。左:街道を挟んでその正面にある藩界標。「従是北白川領」「従是北白坂町境杭迄弐拾九丁四拾五間」とある。
最後の調査から5年が過ぎ、現在の現地はどうなっているのかと気に掛かり、福島県の県南建設事務所が設置しているライブカメラを見てみた。すると几号がある石垣とは反対側を工事している様子が確認できた。工事の内容は不明である。右の画像は栃木県側、左は福島県側。(2020年7月3日現在)
以上で栃木県は終了です。次は福島県に入ります。