045 喜連川 南 (さくら市)
046 喜連川 北 (さくら市)
047 下河戸 (さくら市下河戸引田) 几号現存
048 佐久山 南 (大田原市佐久山) 几号現存
049 佐久山 北 (大田原市佐久山) 几号現存
050 浅野六本松 (大田原市)
045 喜連川 南
(更新 20.04.28)
点 名 |
045 喜連川 南(きつれがわ みなみ) |
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当時の場所 |
栃木県 喜連川荒川旧馬頭観世音台石 |
現在の地名 |
栃木県 さくら市喜連川 |
海面上高距 |
127.3991m |
前後の距離 |
狹間田 ← 2810.20m → 喜連川 南 ← 1340.00m → 喜連川 北 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
旧喜連川町、連城橋北側と推定。周囲を探索したが発見には至っていない。
地理局雑報では廃仏毀釈の影響だろうか「旧馬頭観世音台石」と記している。 |
現地を調査した日 |
2005年4月17日 |
参考文献 |
寿鶴斎:奥州街道名所記(東国旅行談)、1787年序
佃与次郎:山田音羽子とお国替絵巻、1930年、 国会図書館デジコレ |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.奥州街道名所記(東国旅行談) (寿鶴斎:天明7年序)
喜連川の駅にかゝる。入口に川あり。水はやく川幅見わたし三十余間と見ゆ。橋あり。鉄の大きなる釻鎖を付て左右へ繋あり。橋杭たゞ壱本にして鉦木のごとし。洪水いづれば橋に大綱を付て往来自由なりといふ。実に珍しき橋なり。 3.御国替絵巻 (山田音羽子:弘化3年) |
陸羽街道は弥五郎坂を下って喜連川の荒町という小集落に至る。この北端を右折すると荒川が見えてくる(A点)。この場所には大小7基ほどの供養塔が祀られている。一番大きのは大正9年(1920)建立の勝善神塔である。
街道は荒川の右岸にそって東進し連城橋で川を渡る(B点)。現在のような護岸堤上の道が完成するまでは、渡河地点を中心に道筋の変遷があったようである。
荒川に沿って進んできた陸羽街道は連城橋を渡って喜連川市街地に入る。現在の連城橋は昭和31年(1956)の竣功。元々は「荒川橋」と呼ばれていたものを改称したとのこと。
法務局保管の旧公図(和紙公図) ※明治20年前後の作成。のちに分筆・合筆などの加筆あり。
前点の「狭間田村弥五郎坂下一ノ堀橋際」から進んでくると、距離的に本点「喜連川荒川旧馬頭観世音台石」は赤線(道=陸羽街道)が途切れている場所と推定している。ここは喜連川宿南口の木戸があった場所である。現在はさらに南側に家並が続いているが、旧公図に記された6402番、6403番、さらに6477番は後年に追加された地番となる。
赤線(街道)が途切れた場所の両側、すなわち薄い緑色の土地は荒川の旧堤塘、もしくは木戸の土塁跡と推定できる。街道の東側に張り出した狭小な4284番は掲示場などの敷地だろうか。また、4284番の裏側にある4285番も気になるところであるがよくわからない。木戸の番小屋跡とも想像できる。
このように推定する地点は立地的に荒川に面した町の入口であることから、馬頭観世音塔など供養塔があっても不思議はない場所といえる。
旧公図に示した範囲をGoogleマップで確認してみる。
現在、連城橋北詰となっている6402番と6403番にも家が建ち並んでいるが、その昔は家がなく、町の入口は4284番、4285番と4561番であった。
その入口付近に几号を刻んだ馬頭観世音塔があったと推定しているのだが、現在では供養塔のたぐいや、そのような痕跡も確認できない。
周囲の神社や小祠にも足を運んだが手掛かりは見つからなかった。
調査回顧録 「街道 行ったり来たり」 |
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2005年4月11日の正午、高低几号をめぐる自転車旅行は喜連川に到達した。しかし、非情にも雨が降り出すとともに、那須の坂道を登り降りした自転車のブレーキは異音を発するようになっていた。自転車屋を探したが見つからず、喜連川郊外のコンビニで立ったまま昼食を済ませ、雨のなか重いペダルをこいで先に進んだ。
帰路、4月17日の夕方、再び喜連川に至る。日暮れが迫るなか数か所の神社・寺院を駆け足で見て回り、5時町立図書館に到着。郷土資料を数点閲覧し外に出てみると自転車はパンクで走行不能。幸い店じまいに取りかかっていた自転車屋を見つけ間一髪でパンクの修理。待っている間にコーヒーをご馳走になるとともに、修理代金を値引きしてもらう。この日は自転車屋さんの紹介で喜連川の旅館大正館に宿泊。泊り客は私1人。急なことゆえ晩ご飯は弁当、お風呂は喜連川温泉の公衆浴場を利用する。翌朝6時過ぎ出発。喜連川北口周辺を調査してから引田原を目指した。 |
046 喜連川 北
(更新 20.05.01)
点 名 |
046 喜連川 北(きつれがわ きた) |
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当時の場所 |
栃木県 喜連川北口内川南岸 字河原町東供養塚 |
現在の地名 |
栃木県 さくら市喜連川 |
海面上高距 |
132.5816m |
前後の距離 |
喜連川 南 ← 1340.00m → 喜連川 北 ← 5593.54m → 下河戸 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
旧喜連川町、金竜橋の南側。
現地調査と文献調査の両方を念入りに行う必要がある。特に新道の開鑿にともなう土地利用の変遷とフタバ食品喜連川工場の入口にある供養塔の移転有無などをしっかり確認する必要がある。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月18日 A2015年2月7日(喜連川専念寺境内調査) |
参考文献 |
佃与次郎:山田音羽子とお国替絵巻、1930年、 国会図書館デジコレ
明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.東遊奇勝 (渋江長伯:寛政11年)
喜連川の駅を出、内川の流土橋、川左に四五十間程。 2.蝦夷蓋開日記 (谷元旦:寛政11年) |
五海道其外分間絵図並見取絵図「奥州道中分間延絵図」巻1 (文化3年完成)
奥州街道は河原町でクランク状に屈曲する桝形道路を経て内川にさしかかる。注目は内川に架かる橋の南詰西側に「供養」と明示した石塔が描かれていることである。
法務局保管の旧公図(和紙公図) ※明治20年前後の作成。のちに分筆・合筆などの加筆あり。
図中右側、河原町の短冊状に屋敷が並ぶ間を通る赤い線が陸羽街道の旧道で、左側は河原町西裏の土地を押しならして開通させた新道である。
旧道の北端にさしかかる一歩手前、地番ひとつ分南側に水路が流れている。これは奥州道中分間延絵図でも供養碑の右側に描かれている水路と思われる。この水路には長さ1間、横幅3間の板橋が架かっていた。延絵図の供養碑はこの水路と内川の間、すなわち、和紙公図の劣化で読み取りにくいが「三千三百三番」の土地がそれに該当する。
地理局雑報では几号を刻んだのは「喜連川北口内川南岸 字河原町東供養塚」と記されている。この表現に従えばAの範囲で示した付近に供養塚はあることになる。しかし、現地を探索してみたが石塔のたぐいは見つからない。奥州道中分間延絵図で供養碑があるとしているのはBの地点である。だが、この場所にも石塔のたぐいは現存していない。現在この周辺で供養碑などの石塔が見られるのは新道西側のCの場所である。
2005年撮影。内川の北側から見た河原町北端の様子。昔の街道は直進して内川を越えていた。
Aは地理局雑報が示す供養塚の場所(推定)。Bは延絵図で供養碑が描かれている場所。
金竜橋の北詰から見たA・B・Cそれぞれの位置取り。(Googleマップのストリートビューを加工) 現在の金竜橋は昭和40年(1965)の竣功。
Cの場所。新道の西側、フタバ食品喜連川工場の入口にある供養塔。(2005年撮影)
奥に見えるのは金竜橋。道路敷は盛り土をしているので高い位置にある。
右に見える二十三夜塔は文政元年の建立。「河原町」という文字も刻まれている。ほかに文政5年銘の馬頭観世音塔など数基あり。どれも台石があるのかどうか確認できない。
047 下河戸
(更新 20.05.06)
点 名 |
047 下河戸(しもこうど) |
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当時の場所 |
栃木県 下河戸村字引田御野立場(新設) |
現在の地名 |
栃木県 さくら市下河戸 明治天皇引田原御小休所跡 |
海面上高距 |
186.5581m |
前後の距離 |
喜連川 北 ← 5593.54m → 下河戸 ← 4139.36m → 佐久山 南 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
下河戸(しもこうど:Shimokodo)明治天皇引田原御小休所跡。
2003年12月10日、標石研究家の池澤重幸氏(故人)によって現存が確認された。 |
現地を調査した日 |
2005年4月11日 |
参考文献 |
文部省:史蹟調査報告11、明治天皇聖蹟、1938年
明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.御巡幸記(侍従日記) (宮内庁書陵部所蔵)
明治9年6月11日 (以下4まで同日の記事) |
赤の点線で囲んだ範囲が「明治天皇引田原御小休所阯」の史蹟指定地。1段2畝19歩。
史蹟調査報告11「明治天皇史蹟」附図が示す縦26間、横15間の区域に該当する。敷地奥には「明治天皇御休輦之處」の碑が建っている。 (Googleマップ3Dを加工)
2005年当時、陸羽街道側から見た几号標石。(赤の矢印の先) 道路端から8mほど奥。
現在は沿道の植栽が拡大しこのように道路から標石を見ることは難しい。
几号標石の正面。30番の喜沢に続いて内務省布達に規定された標石が設置され現存している希少な事例である。しかし、ご覧のように柱石は大変に痛々しい姿である。恐らくたき火などの炎を直に浴びたと思われる。盤石は本来土中に埋め込まれているものであるが、現在は完全に地上に露出している。
標石の正面と左側面 標石の右側面
下半分は荒削りの仕上げで本来なら土中に埋め込まれている部分である。よく観察するとその四隅は1.0〜1.5pの幅で角が切り出されている。
几号。横棒7.9cm、縦棒8.8cm、横棒の幅1.0cm。やや小振りな几号である。
標石の寸法 (単位:p、計測作図:浅野)
図を作成していて気がついたのであるが、尖頭部の高さや盤石に掘られた溝の深さなど計測していない箇所があった。再訪し補完を期したい。ちなみに頭頂は若干欠損している。
048 佐久山 南
(更新 20.05.10)
点 名 |
048 佐久山 南(さくやま みなみ) |
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当時の場所 |
栃木県 佐久山駅南口 百五拾番地 観音堂境内 |
現在の地名 |
栃木県 大田原市佐久山 |
海面上高距 |
191.6691m |
前後の距離 |
下河戸 ← 4139.36m → 佐久山 南 ← 1087.75m → 佐久山 北 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
几号は観音堂の石垣に刻まれている。境内には几号の所在を示す看板あり。
幕末に編まれた日光道中宿村大概帳には佐久山宿「観音堂 別当長宗寺 但、右堂往還ゟ弐拾間程引込有レ之」と記されている。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月11日 A2015年2月7日 |
参考文献 |
児玉幸多校訂:近世交通史料集6、日光・奥州・甲州道中宿村大概帳、1972年
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況2、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究30、1991年 |
陸羽街道から見た観音堂。2005年撮影
几号は画像ほぼ中央の石垣に刻まれている。街道からは28mほど奥まっている。
観音堂の前には几号と几号水準点があることを示す看板が建っている。
手作りの看板。「水準点191.6691M 観音堂境内」と書かれている。1990年頃に佐藤栄一氏が訪ねてきたときには看板はなかったことから、その後10年の間に設置されたものである。詳しいことは確認していないが、行政が建てた案内板とはまた違って味わい深い趣がある。
几号が刻まれた石はそもそも石垣寄進の銘を刻んだものと思われる。モルタルで周囲を補強し崩落を防ごうとする努力はありがたいが、多少造作が雑でありいささか気にかかる。
几号。横棒8.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.0cm。全体に風化が進んでいる。
標石の寸法 (単位:p、計測作図:浅野)
049 佐久山 北
(更新 20.06.16)
点 名 |
049 佐久山 北(さくやま きた) |
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当時の場所 |
栃木県 佐久山駅北口正浄寺門前 川越阿弥陀ノ女来石塚 |
現在の地名 |
栃木県 大田原市佐久山1301 正浄寺 |
海面上高距 |
175.1421m |
前後の距離 |
佐久山 南 ← 1087.75m → 佐久山 北 ← 4426.64m → 浅野六本松 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存(移設) |
解 説 |
地理局雑報には「浄正寺」とあるが「正浄寺」が正しい。
几号が刻まれた「川越阿弥陀如来の石塚」は現在本堂前に移設されている。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月11日 A2015年2月7日 |
参考文献 |
布施辰治:徳川末期年貢納の苦難を描いた江戸紀行1、社会経済史学7-4、1937年
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況2、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究30、1991年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.東游奇勝 (渋江長伯:寛政11年9月23日)
作山に至る、旅館に着す、ホウキ川、其源衆流落合之所、箒頭の如し故名く、川岸に川越如来の堂新に立つ、昔時一遊僧民家に宿す、翌日川を越て行く、民家の老婆僧を以異となし、紙を持川を隔て書を乞、僧擲筆弥陀の号を書す、後其所にて川越の弥陀と呼。 |
陸羽街道から見た正浄寺の山門と本堂の風景。門前の坂は盛り土をして傾斜を緩やかにしたというが、ご覧のように今でもなかなかの坂道をなしている。
現在、寺入口に設置されている「川越阿弥陀如来」の石塔。高低測量が行われた5年後の明治15年建立。台石もその際に新造されたと思われる。几号は刻まれていない。ちなみに石塔の太さ(縦横)は48×47pである。
明治10年当時に石碑の台石を務めていた石は、現在本堂前の植え込みで余生を送っている。写真は2015年に再訪した際の様子であるが、前回2005年に訪ねたときとは石の場所が変わっていたため、一瞬「亡失!?」という文字が頭に浮かんだ。落ち着いて周囲を見渡したところ本堂前に見つけた。
現在は石碑の代わりになぜか松の盆栽を頭に載せている。
几号は本堂の正面側を向いて安置されている。
これは2005年に訪ねたときの様子。石碑を据えるための溝が上面に刻まれている。溝の縦横は37×44p。石の全高は52p、幅は90p余り。几号横棒までの高さは33pである。(再訪時は計測していない)
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.1cm。
佐藤栄一氏の報告にしたがい本堂裏に残る昔の石碑を確認。苔むして文字の判読も困難であるが「川越阿弥陀如」と読み取れる。それより下の部分は欠損している。石碑の太さ(縦横)は34×40p程度。下に向かって少しずつ太くなっていく形状のようである。石碑の太さは几号が刻まれた台石の溝とも合致する。
050 浅野六本松
(更新 20.06.06)
点 名 |
050 浅野六本松(あさのろっぽんまつ) |
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当時の場所 |
栃木県 浅野村字六本松妙法供養塔 |
現在の地名 |
栃木県 大田原市富士見2丁目・浅香4丁目 |
海面上高距 |
200.7041m |
前後の距離 |
佐久山 北 ← 4426.64m → 浅野六本松 ← 1876.76m → 大田原 南 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
「妙法供養塔」とは「南無妙法蓮華経と刻んだ供養塔」ということであり、すなわち日蓮宗の題目塔を指している。
佐藤栄一氏の調査により六本松にあった題目塔は、推定地点から直線で2キロメートルも離れた大田原市中心部の日蓮宗正法寺(中央1丁目1-11)に移設されたことが明らかになっている。 |
現地を調査した日 |
2005年4月11・18日 |
参考文献 |
風山広雄:下野神社沿革史8、1903年
那須郡教育会:那須郡誌、1924年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.江戸紀行用留日記 (大沼孫兵衛:慶応3年6月18日)
(大田原)出口より並杉、夫より並松、道平地にしてよし、作山(佐久山)入口に川有之、橋也、 |
几号を附刻した前後の距離から推定された地点。陸羽街道を北に大田原の中心部方面を望む。この辺りは六本松でも南端の地域に当たる。両側には歩道が整備されていて道幅が広がっていることは明らかである。街道を境に右側が富士見2丁目、左側が浅香4丁目。現在、浅野という名称は公民館などに残されているのみである。
上の画像の位置から少し北上し六本松バス停から南を望む。2005年の撮影。現在のバス停はさらに北側へ移動しているようである。
昭和8年発行「栃木県史」第2巻・交通編の巻頭に収録された六本松の街道風景。
六本松から移設されたと伝えられる正法寺山門脇の題目塔。2005年撮影。
題目塔の全景。正面に「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」と刻む。
「天保二辛卯歳十月十三日建之」 石柱部の高さ141p、正面幅36.5p。
上台石:高さ28p、正面幅61p。 下台石:高さ18p、正面幅87p。
石塔底部および線香立て・花立てなどもコンクリートで固定されている。
なお、上台石には世話人など建立当時の人名が刻まれている。