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045 喜連川 南 (さくら市)
046 喜連川 北 (さくら市) 
047 下河戸 (さくら市下河戸引田) 几号現存
048 佐久山 南 (大田原市佐久山) 几号現存
049 佐久山 北 (大田原市佐久山) 几号現存
050 浅野六本松 (大田原市)

045 喜連川 南

(更新 20.04.28)

点   名

045 喜連川 南(きつれがわ みなみ)

当時の場所

栃木県 喜連川荒川旧馬頭観世音台石

現在の地名

栃木県 さくら市喜連川

海面上高距

127.3991m

前後の距離

狹間田 ← 2810.20m → 喜連川 南 ← 1340.00m → 喜連川 北

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 喜連川駅 南口
 127.3991m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kitsuregawa (Sudseite)
 127.3991m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 喜連川荒川旧馬頭観世音台石
 127.3991m/420.4170尺

照合資料 4

地質要報
 喜連川
 127.3m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 喜連川 荒川北岸
 ―/42丈

几号の現存有無

不明

解  説

旧喜連川町、連城橋北側と推定。周囲を探索したが発見には至っていない。

地理局雑報では廃仏毀釈の影響だろうか「旧馬頭観世音台石」と記している。

現地を調査した日

2005年4月17日

参考文献

寿鶴斎:奥州街道名所記(東国旅行談)、1787年序

佃与次郎:山田音羽子とお国替絵巻、1930年、 国会図書館デジコレ
明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年
児玉幸多校訂、近世交通史料集6、吉川弘文館、1972年
山崎栄作編、渋江長伯著、東游奇勝、日光・奥州街道編、2003年
日本弘道会編、西村茂樹全集5、著作5、思文閣出版、2007年

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など
1.奥州街道名所記(東国旅行談) (寿鶴斎:天明7年序)

喜連川の駅にかゝる。入口に川あり。水はやく川幅見わたし三十余間と見ゆ。橋あり。鉄の大きなる釻鎖を付て左右へ繋あり。橋杭たゞ壱本にして鉦木のごとし。洪水いづれば橋に大綱を付て往来自由なりといふ。実に珍しき橋なり。
2.東遊奇勝 (渋江長伯:寛政11年)
荒川つゝみ、山水画の如く喜連川の山絶壁をなし、石杙(くい)を川端へ重ね、洲内之水弐た(ふた)流れになり、そた(粗朶)橋弐ツかゝり堤通りは石わくを附、橋を渡ると喜連川入口の木戸なり。

3.御国替絵巻 (山田音羽子:弘化3年)
6月1日、(喜連川の本陣に宿泊)。2日、天晴明々出立、渡場有、すさまじくじや籠(蛇籠)つみかさね有
4.奥州道中宿村大概帳 (安政年間)
喜連川宿 雑之部
一、字荒川有、平水川幅拾八間、出水之節は百五拾間程に相成、橋渡り也
5.東北御巡幸記 (岸田吟香:明治9年)
(弥五郎)坂を下りて喜連川に至る、川には仮橋あり
6.東奥紀行 (西村茂樹:明治11年)
喜連川入口に渡船場あり、荒川といふ
7.公文録・巡幸雑記・道路点検概略表 (国立公文書館所蔵:明治14年)
喜連川駅前早乙女村ニ坂路アリ弥五郎坂ト云、仝坂下リテ川流アリ、荒川ト云ヒ板橋ヲ架ス

 


陸羽街道は弥五郎坂を下って喜連川の荒町という小集落に至る。この北端を右折すると荒川が見えてくる(A点)。この場所には大小7基ほどの供養塔が祀られている。一番大きのは大正9年(1920)建立の勝善神塔である。
街道は荒川の右岸にそって東進し連城橋で川を渡る(B点)。現在のような護岸堤上の道が完成するまでは、渡河地点を中心に道筋の変遷があったようである。

 


荒川に沿って進んできた陸羽街道は連城橋を渡って喜連川市街地に入る。現在の連城橋は昭和31年(1956)の竣功。元々は「荒川橋」と呼ばれていたものを改称したとのこと。

 


法務局保管の旧公図(和紙公図) ※明治20年前後の作成。のちに分筆・合筆などの加筆あり。
前点の「狭間田村弥五郎坂下一ノ堀橋際」から進んでくると、距離的に本点「喜連川荒川旧馬頭観世音台石」は赤線(道=陸羽街道)が途切れている場所と推定している。ここは喜連川宿南口の木戸があった場所である。現在はさらに南側に家並が続いているが、旧公図に記された6402番、6403番、さらに6477番は後年に追加された地番となる。
赤線(街道)が途切れた場所の両側、すなわち薄い緑色の土地は荒川の旧堤塘、もしくは木戸の土塁跡と推定できる。街道の東側に張り出した狭小な4284番は掲示場などの敷地だろうか。また、4284番の裏側にある4285番も気になるところであるがよくわからない。木戸の番小屋跡とも想像できる。
このように推定する地点は立地的に荒川に面した町の入口であることから、馬頭観世音塔など供養塔があっても不思議はない場所といえる。

 


旧公図に示した範囲をGoogleマップで確認してみる。
現在、連城橋北詰となっている6402番と6403番にも家が建ち並んでいるが、その昔は家がなく、町の入口は4284番、4285番と4561番であった。
その入口付近に几号を刻んだ馬頭観世音塔があったと推定しているのだが、現在では供養塔のたぐいや、そのような痕跡も確認できない。
周囲の神社や小祠にも足を運んだが手掛かりは見つからなかった。

 

調査回顧録 「街道 行ったり来たり」
2005年4月11日の正午、高低几号をめぐる自転車旅行は喜連川に到達した。しかし、非情にも雨が降り出すとともに、那須の坂道を登り降りした自転車のブレーキは異音を発するようになっていた。自転車屋を探したが見つからず、喜連川郊外のコンビニで立ったまま昼食を済ませ、雨のなか重いペダルをこいで先に進んだ。

帰路、4月17日の夕方、再び喜連川に至る。日暮れが迫るなか数か所の神社・寺院を駆け足で見て回り、5時町立図書館に到着。郷土資料を数点閲覧し外に出てみると自転車はパンクで走行不能。幸い店じまいに取りかかっていた自転車屋を見つけ間一髪でパンクの修理。待っている間にコーヒーをご馳走になるとともに、修理代金を値引きしてもらう。この日は自転車屋さんの紹介で喜連川の旅館大正館に宿泊。泊り客は私1人。急なことゆえ晩ご飯は弁当、お風呂は喜連川温泉の公衆浴場を利用する。翌朝6時過ぎ出発。喜連川北口周辺を調査してから引田原を目指した。
このような感じで喜連川では何かと難儀が起こり調査の鬼門のような場所であるが、そういう出来事があったからこそ一層思い出深い場所でもある。喜連川南北2か所の几号も見つかっていないこともあり、ほかのどこよりも再訪の思いも強い。

 

046 喜連川 北

(更新 20.05.01)

点   名

046 喜連川 北(きつれがわ きた)

当時の場所

栃木県 喜連川北口内川南岸 字河原町東供養塚

現在の地名

栃木県 さくら市喜連川

海面上高距

132.5816m

前後の距離

喜連川 南 ← 1340.00m → 喜連川 北 ← 5593.54m → 下河戸

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 喜連川駅 北口
 132.5816m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kitsuregawa (Nord Seite)
 132.5816m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 喜連川北口内川南岸 字河原町東供養塚
 132.5816m/437.5193尺

几号の現存有無

不明

解  説

旧喜連川町、金竜橋の南側。

現地調査と文献調査の両方を念入りに行う必要がある。特に新道の開鑿にともなう土地利用の変遷とフタバ食品喜連川工場の入口にある供養塔の移転有無などをしっかり確認する必要がある。

現地を調査した日

@2005年4月18日  A2015年2月7日(喜連川専念寺境内調査)

参考文献

佃与次郎:山田音羽子とお国替絵巻、1930年、 国会図書館デジコレ

明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年
児玉幸多校訂、近世交通史料集6、吉川弘文館、1972年
板橋耀子編、近世紀行文集成1、蝦夷編、葦書房、2002年
山崎栄作編、渋江長伯著、東游奇勝、日光・奥州街道編、2003年
日本弘道会編、西村茂樹全集5、著作5、思文閣出版、2007年
東博 研究情報アーカイブズ、五海道其外延絵図 奥州道 巻1 喜連川宿

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など
1.東遊奇勝 (渋江長伯:寛政11年)

喜連川の駅を出、内川の流土橋、川左に四五十間程。

2.蝦夷蓋開日記 (谷元旦:寛政11年)
喜連川を出て内川の流れ、土橋あり、川は四五間斗りなり。
3.蝦夷の嶋踏 (福居芳麿:享和元年)
(喜連川)宿の入口なる宇知川(内川)は河原いとひろう、けふ(今日)のもう(設)けとて仮橋かけわたせり。
4.御国替絵巻 (山田音羽子:弘化3年)
6月1日、喜連川入口に渡し場あり、じや籠(蛇籠)すさまじくふせ有、本陣に宿どる。
5.奥州道中宿村大概帳 (安政年間)
喜連川宿并間之村々往還通道・橋・樋類・川除等
内川  一、板橋  長拾弐間  横壱間
喜連川宿 雑之部
一、字内川有、平水川幅拾八間、出水之節は百弐拾四間程に相成、橋渡り也
6.東奥紀行 (西村茂樹:明治11年)
(喜連川)駅の外に川あり、舟渡しなり

 


五海道其外分間絵図並見取絵図「奥州道中分間延絵図」巻1 (文化3年完成)
奥州街道は河原町でクランク状に屈曲する桝形道路を経て内川にさしかかる。注目は内川に架かる橋の南詰西側に「供養」と明示した石塔が描かれていることである。

 


法務局保管の旧公図(和紙公図) ※明治20年前後の作成。のちに分筆・合筆などの加筆あり。
図中右側、河原町の短冊状に屋敷が並ぶ間を通る赤い線が陸羽街道の旧道で、左側は河原町西裏の土地を押しならして開通させた新道である。
旧道の北端にさしかかる一歩手前、地番ひとつ分南側に水路が流れている。これは奥州道中分間延絵図でも供養碑の右側に描かれている水路と思われる。この水路には長さ1間、横幅3間の板橋が架かっていた。延絵図の供養碑はこの水路と内川の間、すなわち、和紙公図の劣化で読み取りにくいが「三千三百三番」の土地がそれに該当する。

 


地理局雑報では几号を刻んだのは「喜連川北口内川南岸 字河原町東供養塚」と記されている。この表現に従えばAの範囲で示した付近に供養塚はあることになる。しかし、現地を探索してみたが石塔のたぐいは見つからない。奥州道中分間延絵図で供養碑があるとしているのはBの地点である。だが、この場所にも石塔のたぐいは現存していない。現在この周辺で供養碑などの石塔が見られるのは新道西側のCの場所である。

 


2005年撮影。内川の北側から見た河原町北端の様子。昔の街道は直進して内川を越えていた。
Aは地理局雑報が示す供養塚の場所(推定)。Bは延絵図で供養碑が描かれている場所。

 


金竜橋の北詰から見たA・B・Cそれぞれの位置取り。(Googleマップのストリートビューを加工) 現在の金竜橋は昭和40年(1965)の竣功。

 


Cの場所。新道の西側、フタバ食品喜連川工場の入口にある供養塔。(2005年撮影) 
奥に見えるのは金竜橋。道路敷は盛り土をしているので高い位置にある。

 


右に見える二十三夜塔は文政元年の建立。「河原町」という文字も刻まれている。ほかに文政5年銘の馬頭観世音塔など数基あり。どれも台石があるのかどうか確認できない。

 

047 下河戸

(更新 20.05.06)

点   名

047 下河戸(しもこうど)

当時の場所

栃木県 下河戸村字引田御野立場(新設)

現在の地名

栃木県 さくら市下河戸  明治天皇引田原御小休所跡

海面上高距

186.5581m

前後の距離

喜連川 北 ← 5593.54m → 下河戸 ← 4139.36m → 佐久山 南

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 下河戸村
 186.5581m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Shimokoba
 186.5581m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 下河戸村字引田御野立場(新設)
 186.5581m/615.6417尺

照合資料 4

地質要報
 下河戸
 186.6m/―

几号の現存有無

現存

解  説

下河戸(しもこうど:Shimokodo)明治天皇引田原御小休所跡。

2003年12月10日、標石研究家の池澤重幸氏(故人)によって現存が確認された。
布達の規定標石。柱石とともに盤石も現存している。現状から察すると、もともとは陸羽街道脇にあったものがいつの時にか抜き取られ、移動、放置という状況を経てきたと思われる。標石全体は大変に痛々しい姿になっているが、これは火が当たったことによる剥離が主な原因と考えている。
2003年に池澤氏が見つけたときには現在の形になっていたようだが、それより前に佐藤栄一氏が訪ねている。佐藤氏は「記念の碑が建っており、その前は広い敷地で老人クラブのゴルフ練習場になっている。新設ということであるが近辺をふくめ見当たらない」と報告している。(佐藤:1991年)
そう考えると1990年頃から2003年までの間に、誰かが柱石と盤石とを組み合わせてゲートボール場の片隅に置いたことになる。
私はこれを行った人は高低測量に使用した几号標石ということを知っていたと想像しているが、そのあたりの詳しいことは判明していない。

現地を調査した日

2005年4月11日

参考文献

文部省:史蹟調査報告11、明治天皇聖蹟、1938年

明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況2、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究30、1991年
我部政男ほか編:太政官期地方巡幸史料集成8、柏書房、1997年
岩壁義光ほか編:太政官期地方巡幸研究便覧、柏書房、2001年

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など
1.御巡幸記(侍従日記) (宮内庁書陵部所蔵)

明治9年6月11日 (以下4まで同日の記事)
午後二時、喜連川、御小休、旅人宿永井喜三郎
午後三時三十三分、下河戸村ノ内匹(引)田原、御野立
午後四時二十分、佐久山駅御着、御泊、御在所、印南金三郎宅
2.東北巡幸 扈従日誌 (金井之恭)
千島橋信楽橋ヲ過キ下河戸村ニ至ル、広原ノ中衡茅仮堂ヲ営ス、云フ、村民等謀リテ宸憩ヲ待ツモノナリト、大嘗会ノ悠紀主基ノ宮ニ類似スルモノアリ、上特ニ其志ヲ嘉シ村民ニ物ヲ賜フ
3.東巡録 (金井之恭ら編集)
下河戸村ニ至ル。農民預メ原野ノ高処ニ於テ茅ヲ以テ小屋ヲ葺キ、宸臨ニ候ス。上、特ニ其志ヲ嘉シ、就テ憩ハセラル。
4.東北御巡幸記 (岸田吟香)
喜連川より南(北の誤りか)の山上に、広き原あり、此辺は、那須郡のうちにして、例の那須野が原の続きなり、此山上に、新たに萱葺丸木建の亭を設けて、御小休所とせり、(左右に国旗を建たり)
5.明治天皇聖蹟 (文部省:史蹟調査報告11)
明治九年奥羽巡幸の際六月十一日御小休所となり。仝十四年山形秋田両県及北海道巡幸の際八月五日及び還幸の砌十月八日御野立所となりたる処なり。喜連川町より佐久山町に通ずる旧陸羽街道沿ひの眺矚甚だ佳なる地にして俗に御巡幸原と称せらる。九年巡幸の際には、茅葺丸木建の仮屋を設けて、御小休所に充てられたり。十四年御巡幸の際も亦前年の例によりて仮屋を設けらる。而して此の所は還幸の時迄保管せられ後取除かれたり。 (下図は同書の附図。敷地は縦26間、横15間と記載がある)

 


赤の点線で囲んだ範囲が「明治天皇引田原御小休所阯」の史蹟指定地。1段2畝19歩。
史蹟調査報告11「明治天皇史蹟」附図が示す縦26間、横15間の区域に該当する。敷地奥には「明治天皇御休輦之處」の碑が建っている。 (Googleマップ3Dを加工)

 


2005年当時、陸羽街道側から見た几号標石。(赤の矢印の先) 道路端から8mほど奥。
現在は沿道の植栽が拡大しこのように道路から標石を見ることは難しい。

 


几号標石の正面。30番の喜沢に続いて内務省布達に規定された標石が設置され現存している希少な事例である。しかし、ご覧のように柱石は大変に痛々しい姿である。恐らくたき火などの炎を直に浴びたと思われる。盤石は本来土中に埋め込まれているものであるが、現在は完全に地上に露出している。

 

           
     標石の正面と左側面                   標石の右側面
下半分は荒削りの仕上げで本来なら土中に埋め込まれている部分である。よく観察するとその四隅は1.0〜1.5pの幅で角が切り出されている。

 


几号。横棒7.9cm、縦棒8.8cm、横棒の幅1.0cm。やや小振りな几号である。

 

標石の寸法 (単位:p、計測作図:浅野)

図を作成していて気がついたのであるが、尖頭部の高さや盤石に掘られた溝の深さなど計測していない箇所があった。再訪し補完を期したい。ちなみに頭頂は若干欠損している。

 

048 佐久山 南

(更新 20.05.10)

点   名

048 佐久山 南(さくやま みなみ)

当時の場所

栃木県 佐久山駅南口 百五拾番地 観音堂境内

現在の地名

栃木県 大田原市佐久山

海面上高距

191.6691m

前後の距離

下河戸 ← 4139.36m → 佐久山 南 ← 1087.75m → 佐久山 北

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 佐久山 南口
 191.6691m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Sakuyama (Sudseite)
 191.6691m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 佐久山駅南口 百五拾番地 観音堂境内
 191.6691m/632.5080尺

照合資料 4

地質要報
 佐久山駅 南端
 191.6m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 佐久山
 ―/60丈5尺

几号の現存有無

現存

解  説

几号は観音堂の石垣に刻まれている。境内には几号の所在を示す看板あり。

幕末に編まれた日光道中宿村大概帳には佐久山宿「観音堂 別当長宗寺 但、右堂往還ゟ弐拾間程引込有之」と記されている。
そのほか観音堂の詳しいことは調査不足で不明である。

現地を調査した日

@2005年4月11日  A2015年2月7日

参考文献

児玉幸多校訂:近世交通史料集6、日光・奥州・甲州道中宿村大概帳、1972年

佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況2、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究30、1991年

 


陸羽街道から見た観音堂。2005年撮影
几号は画像ほぼ中央の石垣に刻まれている。街道からは28mほど奥まっている。

 


観音堂の前には几号と几号水準点があることを示す看板が建っている。

 


手作りの看板。「水準点191.6691M 観音堂境内」と書かれている。1990年頃に佐藤栄一氏が訪ねてきたときには看板はなかったことから、その後10年の間に設置されたものである。詳しいことは確認していないが、行政が建てた案内板とはまた違って味わい深い趣がある。

 


几号が刻まれた石はそもそも石垣寄進の銘を刻んだものと思われる。モルタルで周囲を補強し崩落を防ごうとする努力はありがたいが、多少造作が雑でありいささか気にかかる。

 


几号。横棒8.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.0cm。全体に風化が進んでいる。

 

標石の寸法 (単位:p、計測作図:浅野)

 

049 佐久山 北

(更新 20.06.16)

点   名

049 佐久山 北(さくやま きた)

当時の場所

栃木県 佐久山駅北口正浄寺門前 川越阿弥陀ノ女来石塚

現在の地名

栃木県 大田原市佐久山1301  正浄寺

海面上高距

175.1421m

前後の距離

佐久山 南 ← 1087.75m → 佐久山 北 ← 4426.64m → 浅野六本松

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 佐久山 北口
 175.1421m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Sakuyama  (Nordseite)
 175.1421m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 佐久山駅北口浄正寺門前 川越阿弥陀ノ女来石塚
 175.1421m/577.9689尺

照合資料 4

地質要報
 佐久山駅 北端
 175.1m/―

几号の現存有無

現存(移設)

解  説

地理局雑報には「浄正寺」とあるが「正浄寺」が正しい。

几号が刻まれた「川越阿弥陀如来の石塚」は現在本堂前に移設されている。
ちなみに川越阿弥陀如来とは、鎌倉時代の建保2年(1214)に浄土真宗の宗祖親鸞聖人が、東国巡錫の折に佐久山へ差し掛かった。その際、箒川は洪水のため橋が落ちて渡ることができず、川のほとりの孫八という農家に一宿した。その夜、親鸞は孫八に教えを説くと、孫八は深く帰依し、翌朝親鸞が出発する際に孫八は形見の品を願い出た。親鸞はその篤い信心を喜び、阿弥陀如来の尊像を描き孫八に与えたという。これが「川越の阿弥陀如来」と呼ばれるもので、その尊像を安置するために建てた御堂が正浄寺の起源となったと伝えられている。
  文政3年(1820)  火災により大半が焼失
  文久元年(1861)  佐久山大火で類焼。堂宇財宝すべて焼失
  明治2年(1869)  堂宇の再建開始
  明治12年(1879)  本堂再建
正浄寺のホームページでも几号水準点のことを紹介している。 境内のご案内

現地を調査した日

@2005年4月11日  A2015年2月7日

参考文献

布施辰治:徳川末期年貢納の苦難を描いた江戸紀行1、社会経済史学7-4、1937年

佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況2、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究30、1991年
岩壁義光ほか編:太政官期地方巡幸研究便覧、柏書房、2001年
山崎栄作編、渋江長伯著:東游奇勝、帰路編、2006年

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など
1.東游奇勝 (渋江長伯:寛政11年9月23日)

作山に至る、旅館に着す、ホウキ川、其源衆流落合之所、箒頭の如し故名く、川岸に川越如来の堂新に立つ、昔時一遊僧民家に宿す、翌日川を越て行く、民家の老婆僧を以異となし、紙を持川を隔て書を乞、僧擲筆弥陀の号を書す、後其所にて川越の弥陀と呼。
2.江戸紀行用留日記 (大沼孫兵衛:慶応3年6月18日)
(大田原)出口より並杉、夫より並松、道平地にしてよし、作山(佐久山)入口に川有之、橋也、又川越阿弥陀如来蓮如上人之旧跡立石有之
3.東北巡幸 扈従日誌 (金井之恭:明治9年6月)
11日(中略)(引田原で小休ののち)時ニ天漸暗黒驟雨(にわかあめ)盆ヲ傾ケテ至ル、則一鞭佐久山駅ニ入ル、渾身皆湿フ、上印南某ノ宅ニ御着。
12日。駅端ノ渓流ヲ箒川(一名伯耆川)ト云フ、行数里行松路ヲ夾ム、悉ク赤幹翠葉一望整然タリ
4.公文録・巡幸雑記・道路点検概略表 (国立公文書館所蔵:明治14年)
佐久山駅出口ニ川流アリ箒川ト云フ、二派ニ分ル、今回板橋ヲ架ス、即チ南ノ分六間ニシテ、北ノ方拾ニ間ナリ

 


陸羽街道から見た正浄寺の山門と本堂の風景。門前の坂は盛り土をして傾斜を緩やかにしたというが、ご覧のように今でもなかなかの坂道をなしている。

 


現在、寺入口に設置されている「川越阿弥陀如来」の石塔。高低測量が行われた5年後の明治15年建立。台石もその際に新造されたと思われる。几号は刻まれていない。ちなみに石塔の太さ(縦横)は48×47pである。

 


明治10年当時に石碑の台石を務めていた石は、現在本堂前の植え込みで余生を送っている。写真は2015年に再訪した際の様子であるが、前回2005年に訪ねたときとは石の場所が変わっていたため、一瞬「亡失!?」という文字が頭に浮かんだ。落ち着いて周囲を見渡したところ本堂前に見つけた。

 


現在は石碑の代わりになぜか松の盆栽を頭に載せている。

 


几号は本堂の正面側を向いて安置されている。

 


これは2005年に訪ねたときの様子。石碑を据えるための溝が上面に刻まれている。溝の縦横は37×44p。石の全高は52p、幅は90p余り。几号横棒までの高さは33pである。(再訪時は計測していない)

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.1cm。

 


佐藤栄一氏の報告にしたがい本堂裏に残る昔の石碑を確認。苔むして文字の判読も困難であるが「川越阿弥陀如」と読み取れる。それより下の部分は欠損している。石碑の太さ(縦横)は34×40p程度。下に向かって少しずつ太くなっていく形状のようである。石碑の太さは几号が刻まれた台石の溝とも合致する。

 

050 浅野六本松

(更新 20.06.06)

点   名

050 浅野六本松(あさのろっぽんまつ)

当時の場所

栃木県 浅野村字六本松妙法供養塔

現在の地名

栃木県 大田原市富士見2丁目・浅香4丁目

海面上高距

200.7041m

前後の距離

佐久山 北 ← 4426.64m → 浅野六本松 ← 1876.76m → 大田原 南

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 浅野六本松
 200.7041m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Asanomura
 200.7041m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 浅野村字六本松妙法供養塔
 200.7041m/662.3235尺

几号の現存有無

不明

解  説

「妙法供養塔」とは「南無妙法蓮華経と刻んだ供養塔」ということであり、すなわち日蓮宗の題目塔を指している。

佐藤栄一氏の調査により六本松にあった題目塔は、推定地点から直線で2キロメートルも離れた大田原市中心部の日蓮宗正法寺(中央1丁目1-11)に移設されたことが明らかになっている。
それによると、六本松には大田原藩の刑場があり、そこにあった供養塔を明治時代に正法寺入口の街道沿いに移し、さらに戦後になって山門脇の現在地に移しかえたという。私が2005年に正法寺を訪ねた際もご住職の奥様から同様のお話を伺った。
正法寺の題目塔を丹念に見たが几号は確認できない。そもそも、下段の台石が建立当時のものかどうか判断できないでいる。古い写真などが出てくれば判断材料となるのであるが、今後の解明に待ちたい。
「浅野」という地名にも触れておく。天保12年(1841)米沢藩士(故あって追放)加勢友助、大坂堂島の穀商浅野定次郎、阿波の富豪山口又兵衛の3人が大田原藩に城下南側の原野開墾を願い出て許された。浅野定次郎と山口又兵衛は開墾費用を出資。加勢友助は現地で開墾事業を支配し、その役宅を六本松に置いたとされる。彼らは安政2年(1855)八幡宮を勧請して鎮守とした。しかし、事業は困難の連続で完成を見ることはなかった。
明治4年(1871)六本松周辺がわずか10戸ながら1村をなすにあたり、開墾に夢をかけた浅野定次郎にちなんで浅野村と名付けられた。同6年に宇都宮県から栃木県に管轄が変わる際に大田原宿へ合併され大字浅野となった。ただし、市街地から離れていることもあり「浅野村」という通称はしばらく使われたと思われる。
明治17年(1884)成立の『那須野略誌』には次のように記している。
(加勢友助の)子加勢信四郎又能ク親ノ志ヲ継ギ、奮テ此業ニ従事シ、樹ヲ植ヒ地ヲ開キ一時六十余戸ノ民家ヲ移セシモ、当時世運ノ趣カザル或ハ亡ビ、或ハ脱シ、今日ニ至テハ僅カニ十余戸ヲ存スルノミ。則チ今大田原宿ノ南十町許ノ所ニアル一小村是ナリ。前年此村ヲ名ヅケテ浅野村ト云フ。蓋シ、浅野定次郎ノ徳ヲ記スルガ為ナリ。

現地を調査した日

2005年4月11・18日

参考文献

風山広雄:下野神社沿革史8、1903年

那須郡教育会:那須郡誌、1924年
田代善吉:栃木県史2、交通編、下野史談会、1933年
大田原尋常高等小学校:大田原読本、1935年
布施辰治:徳川末期年貢納の苦難を描いた江戸紀行1、社会経済史学7-4、1937年
田代善吉:栃木県史14、文化編、下野史談会、1939年
栃木県史編さん委員会:栃木県史、史料編近現代5、1975年
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況2、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究30、1991年

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など
1.江戸紀行用留日記 (大沼孫兵衛:慶応3年6月18日)

(大田原)出口より並杉、夫より並松、道平地にしてよし、作山(佐久山)入口に川有之、橋也、
2.(旧版)栃木県史・第2巻・交通編 (昭和8年発行)
(一里塚の項目)那須郡大田原町大字六本松の内なる浅野と称する処にあつたが、明治維新の頃破壊した。此の辺は松の並木の大木繁茂、昼猶ほ暗きと形容すべき地である。明治二十七八年頃までは、追剥などの出る所として物凄き地であつた。
3.大田原読本 (昭和10年発行)
(大田原)薬師堂から県道を約三四百メートル南に足を運ぶと松の並木に入る。街道の両側にすくすくと何のわだかまりもなく伸びた六百余本の松は、往来の人々に何時もすがすがしい気持を与へてゐる。樹下を流れる二筋の小川のせせらぎは、この松並木に一段の風致を添へてゐる。昔から名高い六本松も此の並木の中にある。(中略) 那須野原の処々に松の並木はあるけれど、数からしても、樹齢からいつても、樹姿から見ても、此の松並木に勝る並木はない。六本松の松並木こそ那須野原唯一の名並木である。
4.(旧版)栃木県史・第14巻・文化編 (昭和14年発行)
(刑罰の項目)(太田原藩における)死刑の如きは大田原六本松又は荻野目の処刑場にて行ふたものである。(中略)六本松が打首場で荻野目原は磔場であつた。

 


几号を附刻した前後の距離から推定された地点。陸羽街道を北に大田原の中心部方面を望む。この辺りは六本松でも南端の地域に当たる。両側には歩道が整備されていて道幅が広がっていることは明らかである。街道を境に右側が富士見2丁目、左側が浅香4丁目。現在、浅野という名称は公民館などに残されているのみである。

 


上の画像の位置から少し北上し六本松バス停から南を望む。2005年の撮影。現在のバス停はさらに北側へ移動しているようである。

 


昭和8年発行「栃木県史」第2巻・交通編の巻頭に収録された六本松の街道風景。

 


六本松から移設されたと伝えられる正法寺山門脇の題目塔。2005年撮影。

 


題目塔の全景。正面に「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」と刻む。
「天保二辛卯歳十月十三日建之」 石柱部の高さ141p、正面幅36.5p。
上台石:高さ28p、正面幅61p。 下台石:高さ18p、正面幅87p。

 


石塔底部および線香立て・花立てなどもコンクリートで固定されている。
なお、上台石には世話人など建立当時の人名が刻まれている。