078 笹川 (郡山市安積町笹川)
079 笹原 (郡山市安積町日出山3丁目)
080 郡山 (郡山市大町2丁目) 几号現存
081 富久山 (郡山市富久山町福原) 几号現存
082 日和田 (郡山市日和田町) 几号現存
083 高倉 (郡山市日和田町高倉)
078 笹川
(更新 20.11.05)
点 名 |
078 笹川(ささがわ) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 永盛村 旧笹川 里程標 |
現在の地名 |
福島県 郡山市安積町笹川字篠川33番地 |
海面上高距 |
232.5969m |
前後の距離 |
森宿 ← 4245.00m → 笹川 ← 2088.31m → 笹原 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
笹川村の里程標に関しては『岩代国安積郡笹川村地誌』(明治15年1月成立)に所在地を示す記述がある。里程の項目に次のように記されている。 ********************************* 安積疏水の流路選定のため明治10年10月から翌年2月にかけて安積郡の諸原野から猪苗代湖までの高低測量が行われたのはご存知だろうか。諸史料を検証した結果、その測量には地理局が塩竈を北の起点として行っていた高低測量の成果を利用し、尚かつ陸羽街道の本点を起点として猪苗代湖まで測量が行われたことが明らかになった。当時公表の猪苗代湖の海抜は塩竈湾の平均潮位が基準面であったのである。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月9日 A2010年8月12日 |
参考文献 |
安積疏水事務所:安積疏水志 天、1905年 |
ご 協 力 |
安積疏水土地改良区 様 |
2005年4月9日撮影。
陸羽街道を北に郡山中心部方面を見る。左側の塀をめぐらしたお宅が篠川33番地の河原家である。几号が現存する「080郡山」からの距離もこの付近を示している。この場所に里程標があったと推定している。
昭和6年頃の河原家
河原家は明治9年に屋敷が焼失し、同年6月の巡幸時は隣家の平栗家(米屋という旅館)が御小休所に充てられた。その後、河原家の屋敷は明治10年に新築され、明治14年巡幸の際は往路・復路ともに御小休所として使用された。(昭和9年、史蹟「明治天皇笹川御小休所」に指定)
報告 安積疏水 計画・設計当時の高低測量について
安積疏水(注)の計画から現在に至るまでの歴史は数々の文献で語り尽くされているので省略するが、本項に関係する明治初期の事柄のみ年表としてみた。
(注)明治後期まで「猪苗代湖疏水」と称していた。ここでは「安積疏水」で統一する。
明治09年08月 内務省地理寮、東京から塩竈までの沿道に高低几号を鐫刻
明治09年12月 内務卿大久保利通が開墾の適地を求め、内務属高畠千畝と南一郎平を東北地
明治10年05月 方の諸原野調査に派遣
明治10年04月 内務属南一郎平、安積諸原野を開墾最適地として復命
明治10年05月 内務省地理局、前年設置の几号に沿って一等綱紀高低測量を開始
明治10年08月 内務属南一郎平、福島県属(測量係)伊藤直記、猪苗代湖より通水可能な場
明治10年05月 所を調査(山薄き所諸々実測)。南一郎平帰京
明治10年10月 内務属南一郎平、猪苗代湖疏水開鑿工事の難易を調査
明治10年10月 東京より測量師2名派出し、福島県属伊藤直記とともに高低測量を実施
明治11年02月 「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」となる高低測量終了
明治11年00月 南一郎平「疏水工事ノ難易ヲ検案スル復命書」(仮題)提出
明治11年03月 内務卿大久保利通、「原野開墾之儀ニ付伺」を太政官に建議
明治11年07月 福島県官員、安積郡・岩瀬郡・西白河郡・石川郡の地形と高低を測量
一等道路(陸羽街道)の高低も再確認 (開始と終了の時期は不明)
明治11年11月 内務省御雇長工師ファン・ドールン、現地を視察し計画を指導
明治12年03月 内務省、猪苗代湖疏水事業を太政官に稟議
明治12年05月 政府、内務省の原野開墾事業、猪苗代湖疎通の開始を許可
明治12年10月 猪苗代湖疎鑿起業式
明治15年10月 猪苗代湖疏水通水式
安積疏水の開鑿事業に関しては日本人技術者やファン・ドールンの役割、さらには安積郡諸原野への入植などに関心が集まるが、この時期の文献を読んでいると次のような記述があるのにお気付きだろうか。
○ 南一郎平「疏水工事ノ難易ヲ検案スル復命書」(仮題)(明治11年)
湖面ノ海面ヲ抜ク一千六百九十二尺一寸
○「猪苗代湖疏水第一着工事一覧表」(明治14年)
猪苗代湖ノ海面ヲ抽ク千六百九十二尺一寸
猪苗代湖の湖面は海面から1692尺1寸の高さにあるということを記している。高低几号と高低測量を調査している私にとっては驚きの文言であった。初めて目にして以来、安積疏水においては他の何よりも最大の関心事として注視してきた。
さらに調査を進めると「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」(縦48p×横172p)と「猪苗代湖疏水線実測全図」(縦220p×横320p)といういずれも安積疏水土地改良区が所蔵する図面に行きついた。
○「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」(明治11年)
海面ヲ岫ク事湖面迄ノ高サ壱千六百九拾弐尺壱寸〇三厘
笹川 767尺569
○「猪苗代湖疏水線実測全図」内の「安積疏水工事明細表」(明治13年頃)
猪苗代湖水面ハ海面上 (但仙台塩釜干満平均) 百六拾九丈弐尺壱寸零壱厘
この2点の史料によって海抜表記の謎は解けた。「仙台塩釜干満平均」とあるので地理局が塩竈を北の起点として行っていた陸羽街道高低測量の成果を利用し、猪苗代湖までは「笹川」を測量の起点としたのであった。
猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図(画像は同一別図)
高低測量の起点となった笹川部分の拡大図
測点番号 測点 | 猪苗代湖からの距離 | 海面より上がる | 湖面より下がる |
---|---|---|---|
1 (猪苗代湖々岸) | 0:000 |
1:692:103 |
0:000 |
(中略) |
: |
: |
: |
494 牛庭原松ノ根 | 24746:60 |
0:857:322 |
834:781 |
502 牛庭原松 | 25437:60 |
0:860:813 |
831:290 |
510 松山 | 26021:60 |
0:836:574 |
855:529 |
517 人家 | 26311:30 |
0:791:301 |
900:802 |
521 松山 | 26525:30 |
0:816:535 |
875:568 |
527 笹川裏 | 26797:30 |
0:788:686 |
903:417 |
535 笹川![]() |
27024:30 |
0:767:569 |
924:534 |
実は「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」はだいぶ以前より広く活用されているものである。図面の全容を確認するには福島県立博物館調査報告15『安積開拓と安積疏水総合調査報告』(1986年)の附録である活字に翻刻された図面を利用するとよい。
また、「猪苗代湖疏水線実測全図」は郡山市開成館でパネル展示されている。
このように安積疏水の計画・設計当時の猪苗代湖の海抜表記は、数多くの文献や展示などで紹介され目にする機会はあった。しかし、そこからもう一歩踏み込んで「海抜の基準面」となると、私が確認した限り誰も考証を行った様子は見られない。
2005年に私と畠山が『宮城の標石』第4集で「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」(クニッピング報告)を紹介し、地理局高低測量による福島・宮城両県の標高数値を明らかにした。今回新たに福島県庁文書の「福島県下陸羽街道高低几号所在并海面上高距実測数」(福島県下高低几号所在)の紹介を行いつつ、一地点ごとにそれなりの検証を行っている(素人の独断と偏見の解説ですが)。これらの情報が几号の研究者や探索者だけでなく、土木史、地域史などの研究者にも広く活用されることを願っている。
「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」の詳細については別項に記す。(編集途中)
→ 猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図
079 笹原
(更新 20.11.25)
点 名 |
079 笹原(ささはら) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 永盛村 旧笹原 弐百二十番地土蔵 |
現在の地名 |
福島県 郡山市安積町日出山3丁目 |
海面上高距 |
227.3421m |
前後の距離 |
笹川 ← 2088.31m → 笹原 ← 4106.00m → 郡山 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明(亡失の可能性が極めて大きい) |
解 説 |
江戸時代の笹原村は東西3丁(約327m)、南北4丁(約436m)という小村であった。このため北隣日出山村の枝村のように扱われていた。 |
現地を調査した日 |
2005年4月9日 |
参考文献 |
郡山市:郡山市史9、資料 中、1970年 |
ご 協 力 |
郡山市文化スポーツ部 文化振興課 文化財保護係 様 |
秦檍麻呂作「大日本国東山道陸奥州駅路図」より笹原村とその周辺
成立は寛政12年(1800)頃とされる江戸中期の街道絵図である。笹原に関してはあまり情報がないので参考までに掲載する。
私が現地を調査した2005年では前後の距離しか判明していなかった。このため陸羽街道に沿って歩いただけで終了している。あまりにも平凡な通りゆえ撮影も行っていない。今回はGoogleさんが2015年に撮影したストリートビューをそのまま掲載する。(手抜きで申し訳ない)
このあたりが本点の推定地である。笹原(篠原)において古くから人家があった場所である。家々はどちらさまも新しくなり、残念ながら古い土蔵が残っている様子はない。※ 360度を見回すには、マウスをドラッグするか、コンパスの左右にある矢印を使ってください。
080 郡山
(更新 20.11.28)
点 名 |
080 郡山(こおりやま) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 郡山駅北口忠通神社華表 |
現在の地名 |
福島県 郡山市大町2丁目14−1 阿邪詞根(あさかね)神社 |
海面上高距 |
224.7471m |
前後の距離 |
笹原 ← 4106.00m → 郡山 ← 2280.00m → 富久山 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
照合資料 6 |
猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図 |
几号の現存有無 |
移設現存 【発見:1994年8月20日、関 義治、箱岩英一、田中宗男】 |
解 説 |
几号は阿邪詞根神社の西側入口の石鳥居に刻まれている。 ********************************* 次に標高の数値に関して私見を2点述べる。 ********************************* 実は几号の刻まれた石鳥居は東日本大震災の前に解体撤去の危機に直面したことがあった。几号亡失の寸前から救ったのは松宮輝明氏の素早い行動とご尽力によることを特筆しなければならない。その詳しい顛末は後日追加して説明する。 ********************************* 最後に、この石鳥居がたどった歴史を簡単に記せば「建立→几号附刻→移転→解体(撤去寸前)→改修→大震災→分解保管→補強→現在」となるのであろう。几号が失われる可能性は何度かあったと思われる。現在は阿邪詞根神社でも几号の保存と啓発に努められているので心強い限りである。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月9・19日 A2013年11月16日 B2016年12月10日 |
参考文献 |
板橋耀子編:近世紀行文集成1、蝦夷編、葦書房、2002年 |
ご 協 力 |
松宮輝明 様(須賀川市)、安積疏水土地改良区 様 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
---|
1.集古十種 (松平定信編:寛政12年序) 碑銘部巻之八 陸奥国安積郡大重院碑
2.未曾有後記 (遠山景晋:文化2年) |
2013年11月16日撮影。東側参道が面する陸羽街道を北に見る。参道に建つ白い鳥居には「奉納 逢瀬川鉱泉浴場 竹内吉次郎」「昭和五年五月五日建之」と刻まれている。
2005年4月19日撮影。境内の西側にある入口。東参道から移設された石鳥居が建っている。柱には奉納された「文政十一戊子年九月」(=1828年)と地元の人々の名前が刻まれている。
2016年12月10日撮影。2011年の東日本大震災で台石に亀裂が入ったため一度全体を解体。台石を新しく作り直したうえで再建した。左側の柱に几号が刻まれている。扁額は「御霊宮」。
2005年4月9日撮影 2016年12月10日撮影
作り直す前の台石は高さ18cm。その上面から几号の横棒までは19cm。合計すると横棒までの地上高は37cmとなる。ちなみに几号付近の柱は周囲98cmである。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。線刻も深く伝存状態は良い。
「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」 郡山町忠通神社前 (コピー厳禁)
黒線で今泉裏−渋川−愛宕池−耕地中−野田標杭−牛庭原入口と結ぶのがこの実測図の主線である第一高低線。赤線で郡山町忠通神社前に至るのは第一高低線から各原野に分岐した高低線である。神社前の数値が「228尺234」とあるが、これは明らかな誤記だと考えている。
実測図の詳細については別項へジャンプ → 猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図
境内に設置された案内板。神社の由緒とともに鳥居に刻まれた高低几号についても説明されている。この影響だろう、ネットには本点の几号に関する投稿も多い。啓発活動は大切である。
081 富久山
(更新 20.12.03)
点 名 |
081 富久山(ふくやま) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 富久山村 本栖寺門内阿弥陀碑 |
現在の地名 |
福島県 郡山市富久山町福原字福原11 本栖寺 |
海面上高距 |
230.5936m |
前後の距離 |
郡山 ← 2280.00m → 富久山 ← 3167.00m → 日和田 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存 【発見:1996年6月13日、石田全平、箱岩英一、関 義治】 |
解 説 |
最初に「富久山町福原」の変遷を記す。
本栖寺は陸羽街道の西側に位置する臨済宗妙心寺派の寺院である。 |
現地を調査した日 |
2005年4月9・19日 |
参考文献 |
|
ご 協 力 |
本栖寺 様 |
2005年4月19日撮影。本栖寺の門前を通る陸羽街道を北に見る。参道敷石の脇に小さな突起物があるのを確認できるだろうか(画像の手前側)。一等水準点「第2115号」標石の球分体である。明治21年の設置以来観測を続け、2018年の改算では標高231.8849mとなっている。
一等水準点の付近から本栖寺の山門内を望む。門内の中央奥に白く細長い石柱が建っている。これが几号の刻まれた「本栖寺門内阿弥陀碑」である。(特記以外2005年4月9日撮影)
本堂に続くゆるやかな坂道の脇に建つ「南無阿弥陀佛」と刻まれた供養碑。「無」なんぞ凡人には読めないほどの雄渾達筆さである。右側面には「文政十三年歳宿庚寅閏三月吉旦 総村中」とあり、画像にある左側面の下部には世話人7人と石工の名前が刻まれている。
碑高212p、幅56p、奥行き43p余。台石の全容は確認が困難であるが、正面側の高さは20p、奥側の高さは12cmと計測できた。
石碑の正面下部に刻まれた几号。台石上面から几号の横棒までは高さ22p。石碑右端から几号の縦棒までは10cm。なお、中央に刻まれているのは「南無阿弥陀佛」と揮毫した人物の花押である。名号と花押ともに浮かし彫り。
ご覧のように確かに几号なのであるが、ほかの几号とは線刻がまったく異なる。2005年4月9日の午前11時頃に撮影した画像(左)と同月19日の朝7時前に撮影した画像(右)を並べた。光の当たり具合でそれぞれ筆書きのような影や模様が見えている。通常の几号の彫り方である薬研彫りの痕跡はどこにも見受けられない。
横棒10.8cm、横棒の幅は最大で1.5cm。縦棒10.0cm。横棒と縦棒とには5mmのすき間。
082 日和田
(更新 20.12.17)
点 名 |
082 日和田(ひわだ) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 山ノ井駅 字日和田蛇骨地蔵堂前古碑 |
現在の地名 |
福島県 郡山市日和田町字日和田125 蛇骨(じゃこつ)地蔵堂 |
海面上高距 |
241.4653m |
前後の距離 |
富久山 ← 3167.00m → 日和田 ← 2973.00m → 高倉 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存 【発見:1994年8月20日、箱岩英一、関 義治、田中宗男】 |
解 説 |
最初に「日和田町」の変遷を記す。
江戸時代の日和田村には寺院として天台宗広沢山西方寺と天台宗羽黒寂光寺末の安積山東勝寺があった。このうち東勝寺は安永7年頃から無住となり、明治9年に廃寺となって蛇骨地蔵堂を残して取り壊されたという。東勝寺の旧境内は北隣の西方寺の境内に組み込まれていて、蛇骨地蔵堂も現在は西方寺が管理している。
几号も無事に現存していて普通ならこれで「めでたし、めでたし」と筆をおくのであるが、ここにはそう行かない事情がある。「四神碑」のある現地に立ってみるとわかるのであるが、「街道から奥まったこんな小高い場所に几号を刻むだろうか?」という地理的な違和感があるのである。
日和田は和歌の名所や伝説のたぐいが多く伝わることから、江戸時代の紀行文などにも数々記されている。その中のひとつ江戸後期の農民指導者、大原幽学の旅日記(天保13年)にいささか気になる記述がある。 ********************************* なお、西方寺の敷地にはもう一つ几号の刻まれた供養塔が存在する。これに関しては当座私が以前に作成した資料をもって報告の代わりとする。 |
現地を調査した日 |
2005年4月9日 |
参考文献 |
岩磐史料刊行会代表釘本衛雄:岩磐史料叢書(下巻)、1918年 |
2005年4月9日撮影(以下同じ) 陸羽街道から緩やかな坂道となって蛇骨地蔵堂に至る。距離は75メートル。標高差4.5メートル。参道の左脇に石碑が建ち並んでいることにも注目。
地蔵堂の前庭にある松の老木。枝ぶりも見事で「西方寺の傘マツ」として市指定天然記念物になっている。推定樹齢250年のアカマツ。「ねずみ除けの松」とも呼ばれるという。
松の木の下に鎮座する「四神碑」。松が石碑にもたれかかるように見えることから「ひじかけの松」とも言うらしい。地蔵堂に隣接する寺務所におられた年配の男性は「私が子どもの頃は松と石碑のあいだが30センチくらいあいていた」と証言する。
右図は石碑の寸法(単位:p、計測作図:浅野)。刻銘はイメージである。
石柱の下部に刻まれた几号。台石は現状5cm程しか見えていないが、昭和53年発行『道ばたの文化財』(福島民報社)に掲載された画像を見ると、台石の右側は10数cm露出している。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。ところどころに風化現象が見られる。
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
---|
1.大日本国東山道陸奥州駅路図 (秦檍麻呂)
2.蝦夷の嶋踏 (福居芳麿:享和元年)
3.奥游日録 (中山高陽:明和9年)
4.(江戸から弘前)行程記 (中川某:安永3年頃)
5.東遊雑記 (古河古松軒:天明8年)
6.北行日記 (高山彦九郎:寛政2年)
7.未曾有後記 (遠山景晋:文化2年)
8.積達大概録 (文政2年)
9.相生集 (大鐘義鳴編:天保12年)
10.道の記 (大原幽学:天保13年) |
083 高倉
(更新 20.12.30)
点 名 |
083 高倉(たかくら) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 山ノ井駅 字峯岸馬頭観音供養塔 |
現在の地名 |
福島県 郡山市日和田町高倉(推定地:字海道下38) |
海面上高距 |
225.4255m |
前後の距離 |
日和田 ← 2973.00m → 高倉 ← 2759.20m → 仁井田 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
明治10年 官省指令留 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
近接する一等水準点「第2118号」はゴミ集積小屋の南側にあって鉄板蓋の下に埋設されている。2018年の改算によると標高は226.2589m。
馬頭観音塔に関する解説は、どうしても確認しなければならない事柄がある関係で、掲載までは少しお時間をいただきます。 |
現地を調査した日 |
2005年4月9日 |
参考文献 |
|
2005年4月9日撮影。几号が刻まれたと推定される馬頭観音塔(左)。その前を通る陸羽街道。
この場所は日和田の丘陵部から抜け出たところで、この先は本宮に至る。
草書体で「馬頭観世」と刻まれている。観世音の「音」の字は埋没しているものと推定する。
台石も埋没しているのかは不明である。確認できる碑高127cm、正面幅最大64cm。
左側面には「安政五午年十月吉日」とあり。(安政5年=1858年)