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078 笹川 (郡山市安積町笹川)
079 笹原 (郡山市安積町日出山3丁目)
080 郡山 (郡山市大町2丁目) 几号現存
081 富久山 (郡山市富久山町福原) 几号現存
082 日和田 (郡山市日和田町) 几号現存
083 高倉 (郡山市日和田町高倉)

078 笹川

(更新 20.11.05)

点   名

078 笹川(ささがわ)

当時の場所

福島県 永盛村 旧笹川 里程標

現在の地名

福島県 郡山市安積町笹川字篠川33番地

海面上高距

232.5969m

前後の距離

森宿 ← 4245.00m → 笹川 ← 2088.31m → 笹原

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 安積郡永盛村旧笹川村
 232.5969m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Sasagawa
 232.5969m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 永盛村 旧笹川 里程標
 232.5969m/767.5798尺

照合資料 4

地質要報
 長盛村 笹川
 232.6m/―

照合資料 5

猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図
 笹川
 ―/767.569尺

几号の現存有無

不明

解  説

笹川村の里程標に関しては『岩代国安積郡笹川村地誌』(明治15年1月成立)に所在地を示す記述がある。里程の項目に次のように記されている。
 本村ノ里程字篠川三十三番地ニ設ク、本庁ヲ去ルコト十三里三町四十四間五尺
 ※「本庁」とは福島の県庁を指している。
また同書、掲示場の項目にも参考になる記述がある。
 本村中程篠川ノ三十三番地ヲシテ国道ノ西頰建、南境ェ八町、北境ェ十六町 
 ※「頰:ほお・つら」は「側」という意味だろうか。
さて、里程標および掲示場が設置された「篠川三十三番地」であるが、明治から現在まで地番の変更もなく河原家のお屋敷となっている。河原家は江戸時代は代々庄屋として、明治5年以降は戸長などを務めた笹川きっての旧家である。
几号の刻まれた里程標はこの河原家の前にあったとみている。
ただし、高低測量が行われたこの時期、笹川村は合併と分村が行われているので注意が必要である。その経過を示すと次のようになる。
 明治09年 笹川村・笹原村・日出山村と小原田村の一部が合併し永盛村が成立
 明治12年 永盛村は笹川村・日出山村・小原田村に分村し解消
 明治22年 笹川村、日出山村、荒井村が合併し再び永盛村が成立
明治22年の第2次永盛村が成立した時点で笹川の里程標は役目を終え撤去されたと思われる。(大正期の「永盛村道路元標」が永盛村役場跡の笹川字篠川59-3に現存)
では役目を終えた里程標はどのように処分されたのだろうか? 几号が刻まれたであろう台石部分が組石なら解体されたであろうし、単体石ならどこかで何かの台石に転用されている可能性も考えられる。(毎度毎度のかすかな願望)
推定地の近くにある熊野神社や東舘稲荷神社、東北本線西側に建ち並ぶ墓石群をひと通り見て回ったが、几号の刻まれた石は見当たらなかった。見落としも考えられる。また、灯台下暗しで河原家の敷地内にある可能性もまったくないとは言い切れない。ちなみに河原家の庭先には明治14年巡幸の折に御小休所にあてられた記念碑と史蹟の標柱が建っている。明治42年に建てられた記念碑の台石は河原家の記録に「台石ハ青木葉ヨリ山石ヲ求メ附石ニテ美麗ニ建碑竣功ス」と記されている。

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安積疏水の流路選定のため明治10年10月から翌年2月にかけて安積郡の諸原野から猪苗代湖までの高低測量が行われたのはご存知だろうか。諸史料を検証した結果、その測量には地理局が塩竈を北の起点として行っていた高低測量の成果を利用し、尚かつ陸羽街道の本点を起点として猪苗代湖まで測量が行われたことが明らかになった。当時公表の猪苗代湖の海抜は塩竈湾の平均潮位が基準面であったのである。
地理局の東京−塩竈間高低測量は那須西原基線へ標高を与える目的で行われた。しかし、それ以外の事業にも測量成果が利用された可能性はあると考えていたが、それを裏付ける史料が見つからず推測の域を出ないでいた。今回、安積疏水の史料を検証した結果、地理局の測量成果が他の事業に活用された例として初めて確認することができた。
猪苗代湖の十六橋や疏水の土木遺構に注目が集まりがちだが、本点は安積疏水と原野開墾にとって記念碑とも呼べる測量の出発点である。その重要性を認識するとき笹川の几号が見つかっていないのはつくづく残念でならない。発見は困難と感じているが諦めきれない気持ちが残る。(下の別項で詳しく解説)

現地を調査した日

@2005年4月9日  A2010年8月12日

参考文献

安積疏水事務所:安積疏水志 天、1905年
明治天皇聖蹟保存会:明治天皇聖蹟、東北北海道御巡幸 上、1931年
福島県教育会:明治天皇御巡幸録、1936年
文部省:指定史蹟名勝天然紀念物、文部省、1937年
郡山市:郡山市史9、資料 中、1970年
安積疏水百年史編さん委員会:安積疏水百年史、安積疏水土地改良区、1982年
福島県教育委員会:安積開拓と安積疏水総合調査報告、福島県立博物館調査報告15、1986年
安積町郷土史研究会:岩代国安積郡笹川村 地誌、1987年
矢部洋三:安積開墾政策史、日本経済評論社、1997年
蜿タ文英:生きている笹川宿、2000年
根本博:みずのみち 安積疏水と郡山の発展、歴史春秋社、2002年
狩野勝重:「鳥取開墾社」広谷原入殖に関する基礎史料 その1 入殖予備調査史料について、日本建築学会技術報告書18、2003年
那須塩原市那須野が原博物館、近代を潤す 三大疏水と国家プロジェクト、2009年
小泉明正:福島県の道路元標、歴史春秋出版社、2015年

ご 協 力

安積疏水土地改良区 様

 


2005年4月9日撮影。
陸羽街道を北に郡山中心部方面を見る。左側の塀をめぐらしたお宅が篠川33番地の河原家である。几号が現存する「080郡山」からの距離もこの付近を示している。この場所に里程標があったと推定している。

 


昭和6年頃の河原家
河原家は明治9年に屋敷が焼失し、同年6月の巡幸時は隣家の平栗家(米屋という旅館)が御小休所に充てられた。その後、河原家の屋敷は明治10年に新築され、明治14年巡幸の際は往路・復路ともに御小休所として使用された。(昭和9年、史蹟「明治天皇笹川御小休所」に指定)

 

 

 

報告 安積疏水 計画・設計当時の高低測量について

 

安積疏水(注)の計画から現在に至るまでの歴史は数々の文献で語り尽くされているので省略するが、本項に関係する明治初期の事柄のみ年表としてみた。
(注)明治後期まで「猪苗代湖疏水」と称していた。ここでは「安積疏水」で統一する。

 

明治09年08月  内務省地理寮、東京から塩竈までの沿道に高低几号を鐫刻
明治09年12月  内務卿大久保利通が開墾の適地を求め、内務属高畠千畝と南一郎平を東北地
明治10年05月  方の諸原野調査に派遣
明治10年04月  内務属南一郎平、安積諸原野を開墾最適地として復命
明治10年05月  内務省地理局、前年設置の几号に沿って一等綱紀高低測量を開始
明治10年08月  内務属南一郎平、福島県属(測量係)伊藤直記、猪苗代湖より通水可能な場
明治10年05月  所を調査(山薄き所諸々実測)。南一郎平帰京
明治10年10月  内務属南一郎平、猪苗代湖疏水開鑿工事の難易を調査
明治10年10月  東京より測量師2名派出し、福島県属伊藤直記とともに高低測量を実施
明治11年02月  「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」となる高低測量終了
明治11年00月  南一郎平「疏水工事ノ難易ヲ検案スル復命書」(仮題)提出
明治11年03月  内務卿大久保利通、「原野開墾之儀ニ付伺」を太政官に建議
明治11年07月  福島県官員、安積郡・岩瀬郡・西白河郡・石川郡の地形と高低を測量
         一等道路(陸羽街道)の高低も再確認
  (開始と終了の時期は不明)
明治11年11月  内務省御雇長工師ファン・ドールン、現地を視察し計画を指導
明治12年03月  内務省、猪苗代湖疏水事業を太政官に稟議
明治12年05月  政府、内務省の原野開墾事業、猪苗代湖疎通の開始を許可
明治12年10月  猪苗代湖疎鑿起業式
明治15年10月  猪苗代湖疏水通水式

 

安積疏水の開鑿事業に関しては日本人技術者やファン・ドールンの役割、さらには安積郡諸原野への入植などに関心が集まるが、この時期の文献を読んでいると次のような記述があるのにお気付きだろうか。

 

 ○ 南一郎平「疏水工事ノ難易ヲ検案スル復命書」(仮題)(明治11年)
   湖面ノ海面ヲ抜ク一千六百九十二尺一寸
 ○「猪苗代湖疏水第一着工事一覧表」(明治14年)
   猪苗代湖ノ海面ヲ抽ク千六百九十二尺一寸

 

猪苗代湖の湖面は海面から1692尺1寸の高さにあるということを記している。高低几号と高低測量を調査している私にとっては驚きの文言であった。初めて目にして以来、安積疏水においては他の何よりも最大の関心事として注視してきた。
さらに調査を進めると「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」(縦48p×横172p)と「猪苗代湖疏水線実測全図」(縦220p×横320p)といういずれも安積疏水土地改良区が所蔵する図面に行きついた。

 

 ○「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」(明治11年)
   海面ヲ岫ク事湖面迄ノ高サ壱千六百九拾弐尺壱寸〇三厘
   笹川 767尺569

 ○「猪苗代湖疏水線実測全図」内の「安積疏水工事明細表」(明治13年頃)
   猪苗代湖水面ハ海面上 (但仙台塩釜干満平均) 百六拾九丈弐尺壱寸零壱厘

 

この2点の史料によって海抜表記の謎は解けた。「仙台塩釜干満平均」とあるので地理局が塩竈を北の起点として行っていた陸羽街道高低測量の成果を利用し、猪苗代湖までは「笹川」を測量の起点としたのであった。

 

猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図(画像は同一別図)

 

高低測量の起点となった笹川部分の拡大図

 

測点番号 測点 猪苗代湖からの距離 海面より上がる 湖面より下がる
1 (猪苗代湖々岸)

0:000

1:692:103

0:000

(中略)

494 牛庭原松ノ根

24746:60

0:857:322

834:781

502 牛庭原松

25437:60

0:860:813

831:290

510 松山

26021:60

0:836:574

855:529

517 人家

26311:30

0:791:301

900:802

521 松山

26525:30

0:816:535

875:568

527 笹川裏

26797:30

0:788:686

903:417

535 笹川

27024:30

0:767:569

924:534

 

実は「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」はだいぶ以前より広く活用されているものである。図面の全容を確認するには福島県立博物館調査報告15『安積開拓と安積疏水総合調査報告』(1986年)の附録である活字に翻刻された図面を利用するとよい。
また、「猪苗代湖疏水線実測全図」は郡山市開成館でパネル展示されている。
このように安積疏水の計画・設計当時の猪苗代湖の海抜表記は、数多くの文献や展示などで紹介され目にする機会はあった。しかし、そこからもう一歩踏み込んで「海抜の基準面」となると、私が確認した限り誰も考証を行った様子は見られない。
2005年に私と畠山が『宮城の標石』第4集で「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」(クニッピング報告)を紹介し、地理局高低測量による福島・宮城両県の標高数値を明らかにした。今回新たに福島県庁文書の「福島県下陸羽街道高低几号所在并海面上高距実測数」(福島県下高低几号所在)の紹介を行いつつ、一地点ごとにそれなりの検証を行っている(素人の独断と偏見の解説ですが)。これらの情報が几号の研究者や探索者だけでなく、土木史、地域史などの研究者にも広く活用されることを願っている。

 

「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」の詳細については別項に記す。(編集途中)
  → 猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図

079 笹原

(更新 20.11.25)

点   名

079 笹原(ささはら)

当時の場所

福島県 永盛村 旧笹原 弐百二十番地土蔵

現在の地名

福島県 郡山市安積町日出山3丁目

海面上高距

227.3421m

前後の距離

笹川 ← 2088.31m → 笹原 ← 4106.00m → 郡山

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 永盛村 旧笹原村
 227.3421m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Nagamori
 227.3421m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 永盛村 旧笹原 弐百二十番地土蔵
 227.3421m/750.2289尺

照合資料 4

地質要報
 長盛村 笹原
 227.3m/―

几号の現存有無

不明(亡失の可能性が極めて大きい)

解  説

江戸時代の笹原村は東西3丁(約327m)、南北4丁(約436m)という小村であった。このため北隣日出山村の枝村のように扱われていた。
 日出山村  村高498石、幕末の家数64軒、 明治9年 家数53戸、314人
 笹原村   村高125石、幕末の家数06軒、 明治9年 家数09戸、056人
さて、几号の刻まれた「永盛村 旧笹原 弐百二十番地土蔵」であるが、これはなかなか厄介な表記である。まず所有者の名前がないのがなにより残念である。地番も「永盛村の220番地」なのか、それとも「永盛村のうち旧笹原の220番地」なのか判然としない。見方の一つとして、地籍の地番ではなく戸籍(明治5年式戸籍)における屋敷にふられた番号ということも考えられる。
そもそも前点「笹川」でも解説したが、高低測量が行われた当時の永盛村は明治9年に合併成立したばかりの第1次永盛村である。しかし、この永盛村は明治12年に合併を解いて笹川村・日出山村・小原田村に分立し、旧笹原村は日出山村に吸収されてしまうのである。このあたりのいきさつが地番の特定を複雑にしている。
これまでに本点で調査を行えたのは明治16年頃に作成されたと思われる日出山村の「地籍帳」「地籍図」(福島県歴史資料館所蔵)だけである。旧笹原にあたる日出山村字篠原において、陸羽街道沿いには1番地、2番地、5番地、6番地、8〜13番地まで計10軒の宅地が確認できた。私はこのどこかの家が「永盛村 旧笹原 220番地」に該当すると推定している。(「篠原」と書いて「ささはら」と読むそうだが、これは「笹原」の古い表記とも伝わる。なお、住居表示が「安積町日出山3丁目」になったのは昭和57年のことである)
ここから先は地元の戸長役場文書が残っていれば解明につながると考えているが、はたして現存しているのか確認できていない。また、その他の手段として福島県の行政文書なども丹念に調査する必要が残されている。
本点は前点・後点からの距離によりおおよその位置は絞り込めているので、「永盛村 旧笹原 220番地」の特定は気長に構えて解明を待つことにしたい。

現地を調査した日

2005年4月9日

参考文献

郡山市:郡山市史9、資料 中、1970年
郡山市:郡山市史8、資料 上、1973年
安積町郷土史研究会:岩代国安積郡日出山村 地誌、1989年
秦檍麻呂:大日本国東山道陸奥州駅路図1 → 国立国会図書館デジタルコレクション(8コマ目)

ご 協 力

郡山市文化スポーツ部 文化振興課 文化財保護係 様

 


秦檍麻呂作「大日本国東山道陸奥州駅路図」より笹原村とその周辺
成立は寛政12年(1800)頃とされる江戸中期の街道絵図である。笹原に関してはあまり情報がないので参考までに掲載する。

 

私が現地を調査した2005年では前後の距離しか判明していなかった。このため陸羽街道に沿って歩いただけで終了している。あまりにも平凡な通りゆえ撮影も行っていない。今回はGoogleさんが2015年に撮影したストリートビューをそのまま掲載する。(手抜きで申し訳ない)
このあたりが本点の推定地である。笹原(篠原)において古くから人家があった場所である。家々はどちらさまも新しくなり、残念ながら古い土蔵が残っている様子はない。※ 360度を見回すには、マウスをドラッグするか、コンパスの左右にある矢印を使ってください。

 

080 郡山

(更新 20.11.28)

点   名

080 郡山(こおりやま)

当時の場所

福島県 郡山駅北口忠通神社華表

現在の地名

福島県 郡山市大町2丁目14−1  阿邪詞根(あさかね)神社

海面上高距

224.7471m

前後の距離

笹原 ← 4106.00m → 郡山 ← 2280.00m → 富久山

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 郡山駅
 224.7471m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kuoriyama
 224.7471m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 郡山駅北口忠通神社華表
 224.7471m/741.6654尺

照合資料 4

地質要報
 郡山駅
 224.7m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 郡山
 ―/74丈1尺6寸

照合資料 6

猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図
 郡山町忠通神社前
 (熱海より下がる 228尺234)

几号の現存有無

移設現存  【発見:1994年8月20日、関 義治、箱岩英一、田中宗男】

解  説

几号は阿邪詞根神社の西側入口の石鳥居に刻まれている。
本点ではいろいろと述べる必要があるのだが、まず最初に神社の由緒を記す。
創建は平安時代に伊勢の阿邪詞(阿坂=あざか)より猿田彦命の分霊を迎えて「道祖神社」を祀ったことに始まる。その後、前九年・後三年の役に源義家の副将として出征した平忠通が亡くなると道祖神社に合祀。2柱の神を祀る「御両宮」と称され、のちに「御霊宮」と書き表わすようになったという。江戸時代の別当は修験大重院である。明治維新を迎え明治2年(1869)4月に「忠通神社」と改称。さらに明治22年(1889)からは現社号の「阿邪詞根神社」と称するようになった。
古い時代のことは神話と同じでもやもやとして定まりがないものである。しかし、同社は明治2年から同22年までは『福島県下高低几号所在』にも記されたように「忠通神社」と称していたことは間違いないようである。

*********************************

次に標高の数値に関して私見を2点述べる。
まず、各標高資料に共通する数値「海面上高距224.7471m」は誤りではないかという疑問である。几号が刻まれた石鳥居はかつて東側参道の入口にあったのであるが、まさにその場所には国土地理院の一等水準点「第交2114号」が設置されている。現在は地下埋設となっているがその標高は「226.7014m」である。明治25年の観測でも「226.957m」となっている。地理局の数値とは2メートルあまりもの差が生じていることになる。
ここからは推測である。地理局実測の早い段階から数字に誤りが生じていたのではないかと考えている。測量原簿はすでに失われていると思われるので確かなことはわからないが、「224.7471m」のたった一文字を置き換えて「226.7471m」とすれば標高数値もしっくりとくる。標高の誤差はこのような単純な“誤字(写し間違い)”が原因ではないかと思われる。
標高数値の問題では『猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図』に記載されている「郡山町忠通神社前(熱海より下がる)228尺234」も誤りとみている。実はこの数値は同図に記された「開成山北鳥居台石」と同じなのである。
   熱海1034尺514−228尺234=806尺280
   806尺280÷3.3=244m3272727
現在の地形図では開成山大神宮の北側は246m台となっている。このことから「228尺234」という数値は「開成山北鳥居台石」のものと推定できる。仮に前章の仮説にもとづき忠通神社の標高を「226.7471m」とした場合、実測図には「286尺」余と記されていなければならないことになる。
計算の苦手な私が恐れも知らず私見を述べたが、この説はそもそもが間違っている可能性もある。実測図における数値の謎解きには皆さんにもご協力いただきたい。

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実は几号の刻まれた石鳥居は東日本大震災の前に解体撤去の危機に直面したことがあった。几号亡失の寸前から救ったのは松宮輝明氏の素早い行動とご尽力によることを特筆しなければならない。その詳しい顛末は後日追加して説明する。

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最後に、この石鳥居がたどった歴史を簡単に記せば「建立→几号附刻→移転→解体(撤去寸前)→改修→大震災→分解保管→補強→現在」となるのであろう。几号が失われる可能性は何度かあったと思われる。現在は阿邪詞根神社でも几号の保存と啓発に努められているので心強い限りである。

現地を調査した日

@2005年4月9・19日 A2013年11月16日 B2016年12月10日

参考文献

板橋耀子編:近世紀行文集成1、蝦夷編、葦書房、2002年
松平定信編:集古十種、碑銘部巻之8、陸奥国安積郡大重院碑 → 国立国会図書館デジタルコレクション(49〜52コマ)
国立公文書館所蔵、巡幸録・明治14年巡幸雑記附属書・其の7、福島県下輦道駅村略記 → 国立公文書館デジタルアーカイブ(12〜14コマ)

ご 協 力

松宮輝明 様(須賀川市)、安積疏水土地改良区 様

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

1.集古十種 (松平定信編:寛政12年序) 碑銘部巻之八  陸奥国安積郡大重院碑

 

2.未曾有後記 (遠山景晋:文化2年)
閏8月21日。(須賀川を出立) 郡山休。宿出て二町許、路傍の左に大重院と云、修験有。其入口の地に、横四尺、竪六尺ほどの古碑有。中は円形の内に梵字、妙法蓮華経、左に治暦三年丁未二○○○〔摩滅〕と有て、下には、ひしひしと〔びっしりと〕沙門の名有。至而古く缺廃して字形分明ならず。白川侯の、古碑を搨(すり)あつめらるゝとて根を掘りたるに、地底に四五尺も埋て、沙門の名、いま地上にみゆるともに三段に有由。近来経力にて病災を呪(まじな)ふとて、頑民等、石をかきとる故に、愈(いよいよ)益(ますます)、磨滅し、修験も搨(する)ことを堅く禁じて許さずと云。遂には減絶すべし。惜き事也。六字の名号ならで題目を彫たる碑、日蓮以前には甚(はなはだ)珍らし。
3.福島県下輦道駅村略記 (巡幸録・明治十四年巡幸雑記附属書・其の七)
安積郡郡山村  ○戸数千八十七戸 ○人口五千五百五十二人 ○神社八 ○寺院三
曼陀羅碑
駅ノ西方大重院門前ニアリ治暦三丁未二月トアリ其他文字剥落読ムベカラス源頼義安倍頼時ヲ追討ノ為メ東下セシ時一千ノ僧侶ヲ集メ万部ノ法華経ヲ誦シ朝敵降服ヲ祷ル平定ノ後誓願ノ秘文幷諸将ノ姓名ヲ刻シ之ヲ建ツト云フ
忠通神社
駅ノ中央ヨリ下左側大重ニアリ式外小社祭神平忠通霊寛治三年勧請忠通ハ永保二年副将軍ノ宣旨ヲ奉シ清原武衡ヲ討ツ寛治三年九月十九日七十一歳ヲ以羽州ノ陣中ニ卒ス其州郡ニ功アルヲ以此ニ崇祭スト云フ

 


2013年11月16日撮影。東側参道が面する陸羽街道を北に見る。参道に建つ白い鳥居には「奉納 逢瀬川鉱泉浴場 竹内吉次郎」「昭和五年五月五日建之」と刻まれている。

 


2005年4月19日撮影。境内の西側にある入口。東参道から移設された石鳥居が建っている。柱には奉納された「文政十一戊子年九月」(=1828年)と地元の人々の名前が刻まれている。

 


2016年12月10日撮影。2011年の東日本大震災で台石に亀裂が入ったため一度全体を解体。台石を新しく作り直したうえで再建した。左側の柱に几号が刻まれている。扁額は「御霊宮」。

 

  
      2005年4月9日撮影             2016年12月10日撮影
作り直す前の台石は高さ18cm。その上面から几号の横棒までは19cm。合計すると横棒までの地上高は37cmとなる。ちなみに几号付近の柱は周囲98cmである。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。線刻も深く伝存状態は良い。

 


  「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」 郡山町忠通神社前  (コピー厳禁)
黒線で今泉裏−渋川−愛宕池−耕地中−野田標杭−牛庭原入口と結ぶのがこの実測図の主線である第一高低線。赤線で郡山町忠通神社前に至るのは第一高低線から各原野に分岐した高低線である。神社前の数値が「228尺234」とあるが、これは明らかな誤記だと考えている。
 実測図の詳細については別項へジャンプ →  猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図

 


境内に設置された案内板。神社の由緒とともに鳥居に刻まれた高低几号についても説明されている。この影響だろう、ネットには本点の几号に関する投稿も多い。啓発活動は大切である。

 

081 富久山

(更新 20.12.03)

点   名

081 富久山(ふくやま)

当時の場所

福島県 富久山村 本栖寺門内阿弥陀碑

現在の地名

福島県 郡山市富久山町福原字福原11  本栖寺

海面上高距

230.5936m

前後の距離

郡山 ← 2280.00m → 富久山 ← 3167.00m → 日和田

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 富久山村
 230.5936m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 HUKUYAMA
 230.5936m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 富久山村 本栖寺門内阿弥陀碑
 230.5936m/760.9589尺

照合資料 4

地質要報
 富久山村
 230.6m/―

几号の現存有無

現存  【発見:1996年6月13日、石田全平、箱岩英一、関 義治】

解  説

最初に「富久山町福原」の変遷を記す。
明治09年  福原村、久保田村、八山田村の3か村が合併して富久山村が成立
明治12年  合併解消。福原村、久保田村、八山田村の3か村に分村
明治22年  再び福原村、久保田村、八山田村の3か村が合併して富久山村が成立
昭和12年  町制施行。富久山町となる
昭和40年  郡山市と合併

 

本栖寺は陸羽街道の西側に位置する臨済宗妙心寺派の寺院である。
几号に到達する前に門前にある一等水準点について触れておく。現在は標石の球分体(俗にいう「でべそ」)しか見えていないが、明治21年に選点・設置されて以来観測を続けている由緒正しき標石である。しかもなお、その選点者は森本義倶となっている。森本に関しては「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」の解説で登場しているが、内務省地理局から安積疏水の測量に出向し、明治14年からは陸地測量部に移って終始測量に従事した人物である。陸軍の水準点を設置するにあたっては、本栖寺境内に地理局の高低几号があることも重々承知していたことだろう。
几号を刻んだ「阿弥陀碑」とは「南無阿弥陀佛」と記されたいわゆる名号碑を指している。早くより先行諸氏により几号の現存は報告されていたが、筆書き風の線刻から几号ならぬ“号”として問題を提起していた。
私も2005年4月の自転車旅行の際に往きと戻りの2回本栖寺に立ち寄ったが、あいにくご住職とはお会いすることができず、両度とも寺族の方に対応していただいた。住職夫人からは「境内整備の際に石碑の表面を磨いた」という証言を得たが、研磨作業とこの線刻とは関係があるのかないのか謎を残したままである。ちなみに山門建立と境内の拡張整備が完了したのは平成6年(1994)である。
碑文の雄渾な筆致に合わせて筆書き風の几号にしたという可能性も無いではないが、これまで人名の上に問答無用で几号を刻んできた内務省地理局がそのような計らいをするだろうか。はなはだ疑問である。
まずは石碑を磨いた石屋さんを訪ね、研磨前の状況を聴くのが解明への一歩になりそうである。

現地を調査した日

2005年4月9・19日

参考文献

 

ご 協 力

本栖寺 様

 


2005年4月19日撮影。本栖寺の門前を通る陸羽街道を北に見る。参道敷石の脇に小さな突起物があるのを確認できるだろうか(画像の手前側)。一等水準点「第2115号」標石の球分体である。明治21年の設置以来観測を続け、2018年の改算では標高231.8849mとなっている。

 

一等水準点の付近から本栖寺の山門内を望む。門内の中央奥に白く細長い石柱が建っている。これが几号の刻まれた「本栖寺門内阿弥陀碑」である。(特記以外2005年4月9日撮影)

 

 
本堂に続くゆるやかな坂道の脇に建つ「南無阿弥陀佛」と刻まれた供養碑。「無」なんぞ凡人には読めないほどの雄渾達筆さである。右側面には「文政十三年歳宿庚寅閏三月吉旦 総村中」とあり、画像にある左側面の下部には世話人7人と石工の名前が刻まれている。
碑高212p、幅56p、奥行き43p余。台石の全容は確認が困難であるが、正面側の高さは20p、奥側の高さは12cmと計測できた。

 


石碑の正面下部に刻まれた几号。台石上面から几号の横棒までは高さ22p。石碑右端から几号の縦棒までは10cm。なお、中央に刻まれているのは「南無阿弥陀佛」と揮毫した人物の花押である。名号と花押ともに浮かし彫り。

 

 
ご覧のように確かに几号なのであるが、ほかの几号とは線刻がまったく異なる。2005年4月9日の午前11時頃に撮影した画像(左)と同月19日の朝7時前に撮影した画像(右)を並べた。光の当たり具合でそれぞれ筆書きのような影や模様が見えている。通常の几号の彫り方である薬研彫りの痕跡はどこにも見受けられない。
横棒10.8cm、横棒の幅は最大で1.5cm。縦棒10.0cm。横棒と縦棒とには5mmのすき間。

 

 

082 日和田

(更新 20.12.17)

点   名

082 日和田(ひわだ)

当時の場所

福島県 山ノ井駅 字日和田蛇骨地蔵堂前古碑

現在の地名

福島県 郡山市日和田町字日和田125  蛇骨(じゃこつ)地蔵堂

海面上高距

241.4653m

前後の距離

富久山 ← 3167.00m → 日和田 ← 2973.00m → 高倉

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 山ノ井村字日和田
 241.4653m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 HUKUYAMA
 241.4653m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 山ノ井駅 字日和田蛇骨地蔵堂前古碑
 241.4653m/796.8355尺

照合資料 4

地質要報
 山ノ井村 日和田
 241.4m/―

几号の現存有無

現存  【発見:1994年8月20日、箱岩英一、関 義治、田中宗男】

解  説

最初に「日和田町」の変遷を記す。
明治09年  日和田、高倉、八丁目、梅沢の4か村が合併して山ノ井村が成立
明治12年  合併解消。日和田、高倉、八丁目、梅沢の4か村に分村
明治22年  日和田、高倉、八丁目、梅沢の4か村が合併して山野井村が成立
大正14年  山野井村は日和田町と改称し町制を施行
昭和40年  郡山市と合併

 

江戸時代の日和田村には寺院として天台宗広沢山西方寺と天台宗羽黒寂光寺末の安積山東勝寺があった。このうち東勝寺は安永7年頃から無住となり、明治9年に廃寺となって蛇骨地蔵堂を残して取り壊されたという。東勝寺の旧境内は北隣の西方寺の境内に組み込まれていて、蛇骨地蔵堂も現在は西方寺が管理している。
几号はその「日和田蛇骨地蔵堂前古碑」に刻まれた。現状でも記述のとおり蛇骨地蔵堂の斜め前の「四神碑」なる石碑に几号は現存している。
「四神碑」とは江戸中期に安積郡荒井村出身の書道家、荒井貞立(橘貞立、あるいは定立とも)(1733−1790)が天明6年(1786)に建てた碑で、大筆を携え全国を行脚しその筆づかいで一世を風靡したという彼が、文房四宝とされる筆・墨・紙・硯への感謝をあらわしたものである。撰文は淡路島出身の儒者原公逸になる。

 

几号も無事に現存していて普通ならこれで「めでたし、めでたし」と筆をおくのであるが、ここにはそう行かない事情がある。「四神碑」のある現地に立ってみるとわかるのであるが、「街道から奥まったこんな小高い場所に几号を刻むだろうか?」という地理的な違和感があるのである。
現在石碑がある場所は街道から直線距離で75メートルも奥まっている。
標高は街道際で242.5メートル、石碑がある場所は247.0メートル。実に4.5メートルも高い小丘の上に位置している。(計測は地理院地図・電子国土Webを使用)
地理局の几号測定値は241.4653メートルであることから、現在の位置を明治9年から不動の几号附刻地とするには無理があるだろう。双方の数値に若干の誤差があったとしても、街道に近い場所に石碑があったと考えるのが自然である。

 

日和田は和歌の名所や伝説のたぐいが多く伝わることから、江戸時代の紀行文などにも数々記されている。その中のひとつ江戸後期の農民指導者、大原幽学の旅日記(天保13年)にいささか気になる記述がある。
 日和田宿、入口右に松浦佐保姫の像有り。其前より左へ取り、蛇骨地蔵の前を又
 左りへ登り、釣鐘堂より右へ入る事凡三丁余り、此山の裏に蛇冠石有り。

この道のりを想像していただきたい。「蛇骨地蔵堂の脇から上り坂になり登ったところには釣鐘堂がある」と解釈できないだろうか。この史料だけでは断定することはできないが、地蔵堂は今の場所より低い位置にあった可能性も考えられる。
明治9年以降に地蔵堂および「四神碑」を移設したのか、していないのか。現状の“もやもや”を解決するためにも移設の有無をはっきりさせなければならない。

*********************************

なお、西方寺の敷地にはもう一つ几号の刻まれた供養塔が存在する。これに関しては当座私が以前に作成した資料をもって報告の代わりとする。
  → 「宮城の標石」雑報・第5号(2008/07/07)

現地を調査した日

2005年4月9日

参考文献

岩磐史料刊行会代表釘本衛雄:岩磐史料叢書(下巻)、1918年
千葉県教育会編:大原幽学全集、1943年
日本庶民生活史料集成3、三一書房、1969年
中山義秀:「青葉の恋」収録「狂法師」、東方社、1955年
郡山市:郡山市史8、資料 上、1973年
福島民報社編集局:道ばたの文化財、福島民報社、1978年
中川某著・森山嘉蔵解説:行程記、1980年
二本松市:二本松市史6、資料編4・近世3、1982年
板橋耀子編:近世紀行文集成1、蝦夷編、葦書房、2002年
秦檍麻呂:大日本国東山道陸奥州駅路図1 → 国立国会図書館デジタルコレクション(9コマ目)

 


2005年4月9日撮影(以下同じ) 陸羽街道から緩やかな坂道となって蛇骨地蔵堂に至る。距離は75メートル。標高差4.5メートル。参道の左脇に石碑が建ち並んでいることにも注目。

 


地蔵堂の前庭にある松の老木。枝ぶりも見事で「西方寺の傘マツ」として市指定天然記念物になっている。推定樹齢250年のアカマツ。「ねずみ除けの松」とも呼ばれるという。

 

  
松の木の下に鎮座する「四神碑」。松が石碑にもたれかかるように見えることから「ひじかけの松」とも言うらしい。地蔵堂に隣接する寺務所におられた年配の男性は「私が子どもの頃は松と石碑のあいだが30センチくらいあいていた」と証言する。
右図は石碑の寸法(単位:p、計測作図:浅野)。刻銘はイメージである。

 


石柱の下部に刻まれた几号。台石は現状5cm程しか見えていないが、昭和53年発行『道ばたの文化財』(福島民報社)に掲載された画像を見ると、台石の右側は10数cm露出している。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。ところどころに風化現象が見られる。

 

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

1.大日本国東山道陸奥州駅路図 (秦檍麻呂)

 

2.蝦夷の嶋踏 (福居芳麿:享和元年)
日和田宿東勝教寺といふてらに蛇骨地蔵とて寺守のほうし(法師)、えんぎ(縁起)といふもの見すれど、いとうけがたきことのみしるしたるものなりけり。

 

3.奥游日録 (中山高陽:明和9年)
4月4日 サゝ川、小川有て、日出山・小原田を過。又小川あり。此あたりより大隈川所々右に見ゆ。申刻郡山に着く。酒や庄左衛門に宿す。橘定立(名好文・字黄庭)来游して居る。主人と三人談話す。
6日 午前に出。定立同行す。(中略) 大瀬川あり。久保田村を過、福原・ホウザ・日和田と行。この所にさよ姫の祠有。さよ姫の木像あり。浅香の沼、蛇かぶり石、片葉の芦など旧跡有。それより安積山あり。

 

4.(江戸から弘前)行程記 (中川某:安永3年頃)
比和田村   家八十軒位
宿中、左リ方、松浦佐保姫堂あり。蛇骨の地蔵堂あり。養老七亥年と言あり。千五百年程成、月日不詳。別当、宿中、左リ方、安積山要正院東福寺、天台宗。佐保姫と言人、大蛇退治の後、此地蔵の内へ蛇の骨を納し故、蛇骨の地蔵と言よし。要正院寺中に佐保姫の備たる棚桉有。大蛇の住たる池、右の方、今、三百石位の田地となり。石田の内に大石あり。昔、蛇の柱石と言は池の中に有しが、今田の中にあり。

 

5.東遊雑記 (古河古松軒:天明8年)
日和田村に安積山□□(寺名欠)寺と称す小院あり。真言宗にて、蛇骨地蔵と称して、松浦佐用姫の蛇骨をもつて彫刻せしと云地蔵仏あり。長二尺、街道の側に佐用姫の木像あり。是も古仏とはみえし。住僧いろいろの縁記をいふ。予が信ぜざる怪説故に爰に記さず。按るに肥前国松浦の郷唐津の南、ひれふる山といふ山中に、望夫石と称する石あり。是、佐夜姫の事跡なり。松浦佐用姫二人ありしにや。四百里と隔し東西に、同人の事跡を云も不審の事なり。

 

6.北行日記 (高山彦九郎:寛政2年)
未明に笹川宿を立つ。右にあふくま川を見る。秀の山こわらだを過き壱里八丁にして郡山宿家八百軒斗り、大住(大重)・久保田を経て福原宿、秀の山より壱里半の馬尺とぞ、郡山より二十六丁の所也。なたらかなる芝山を経て比和田(日和田)出口左リに蛇骨地蔵堂・松浦佐世姫堂あり、碑有り五尺二三寸に横二尺三寸斗り也。
  四神碑。二本松荒井貞立善草書載一大筆遊。天下鬻技爲資莫有不到之地將報其。𢛳祭四材神之盡餘資建
  碑繋以銘曰。結縄之政息纘之世其職扁研嫓九墨。楮毛維羽翼百爾與有力斯功及斯𢛳。大乎無極矣神乎不
  測矣銘言石勒之。天明六年丙午春正月淡路原公逸識
とぞ。此人八十余にして越後新潟旅中に没するというふ。蛇骨地蔵堂の西に安積の沼の跡、今は田となりて僅に残る、安積山はなたらかなる芝山也。

 

7.未曾有後記 (遠山景晋:文化2年)
日和田村の宿中、左に安積山東勝寺といへる小寺有。地蔵堂有。「蛇骨地蔵」と唱ふ。後の長丘を二三町行ば、田圃を見下す。其向ひは山続也。田圃のあたりは沼にて有けらし。(中略) 東勝寺の入口に、松浦佐様姫の像をあんず。夫につきたる地蔵のいわれを先払(案内役)の爺が竹杖にすがつて懸河瀉水(とうとうとしゃべる)と語りつくす。妄説附会(こじつけのでたらめ)、捧腹(大笑い)に堪ず。東勝寺は無住也。縁起の梓行(出版)有といふ。誠にとりて見れば彼爺は此縁起を暗誦する也。是を典墳(古書)と尊信し、精神こめて強記(暗記)する、爺が爺たる所以也。

 

8.積達大概録 (文政2年)
日和田村  東西弐拾七町、南北弐拾町
古跡 安積山、日和田宿之道端東之小山也
   安積沼、東勝山之後山陰の洞安積沼の跡也と言
寺  安積山宝珠院東勝寺、天台宗、羽黒寂光寺之末寺也、往古之開基不知、権賀太夫佐用姫等之古跡有、
    本尊延命地蔵也、但蛇骨之地蔵と言
   広沢山正覚院西方寺、天台宗、守山善法院之末寺也
堂社 蛇骨地蔵堂、三間四面、三月廿四日、八月廿四日縁日也

 

9.相生集 (大鐘義鳴編:天保12年)
◎巻之十七稿 人物類  歌人 貞立
荒井氏幼名喜八黄庭山人又積山人と号す、安積郡荒井村の産なり、(中略) 昔都下に在りし時源師道に従て運筆を学べり、師道は烏石に刻意せしが、渠(彼)は放縦腕白の書法を造立し尤夜学に妙を得たり、老て後、彼上太田の里正に遺骨を高野山に籠りて万恩を報ぜん事を発起して回国頭陀となりて六十余州を経歴せしが、別に貯ふる路費に乏しければ一大筆を携て聯額様の物を書て行く先々の衣食の資とす、(中略) 五六年を経て帰り来りし時安積郡日和田の里に一大碑を建て筆墨紙硯の恩に報ず、四神の碑と篆書もて題し、其文は金峨の徒なる原公逸仲蔵の撰し書する処也、是ぞ渠(彼)が不朽とはなりぬ、(後略)
◎巻之十八稿 物異類  積沼怪
(前略) さて義鳴過し頃四月朔日の日本邑(日和田)を通りしとき、人あまた地蔵堂へ詣ずるをあやしみて何故ぞやと問たるに、五六十年前に失はれたる地蔵尊の古像寺中にてゆくりなく見出たる故それ拝見せんとてかくむれ立て詣する也といふ、さらばとておれも其像を見しに新しきと古きと二躯あり、古は正しく石と見えて其形も定かならず、新しきは其さまも明らかにて𤺞疾に験ありといひつたへしとて背を削りたる跡をみるに骨にはあらで鹿の角やうのもの也。そはとまれ其像のあたらしきをいぶかりて向なる茶店の主に聞たゞす、彼こたへていへらく、そは四五年前須賀川に移転して遷化したる先住謙堂とかやいひし僧の名右衛門といふものをして密に作らせて寺内に籠置たるを此頃見出したるにてはへる也。実の像は我幼き頃見し事ありしに其色白く少し青を帯たるが木ならず石ならず誠に骨の曝たるが如し也しとかたりき(後略)

 

10.道の記 (大原幽学:天保13年)
高倉より二十九丁来りて、茶店松屋に中食して、(中略) 時に此宿を立つて、一丁程たどれば、左に安積山有り。(中略) 時に此山に登れば、八方の嶽々見へて、実に美景也。(中略) 夫れより四五丁来りて日和田宿、入口右に松浦佐保姫の像有り。其前より左へ取り、蛇骨地蔵の前を又左りへ登り、釣鐘堂より右へ入る事凡三丁余り、此山の裏に蛇冠石有り。夫れより元に帰り、此宿を通り抜け、福原駅の入口、右に安積と言へる有り。

083 高倉

(更新 20.12.30)

点   名

083 高倉(たかくら)

当時の場所

福島県 山ノ井駅 字峯岸馬頭観音供養塔

現在の地名

福島県 郡山市日和田町高倉(推定地:字海道下38)

海面上高距

225.4255m

前後の距離

日和田 ← 2973.00m → 高倉 ← 2759.20m → 仁井田

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 安積郡 山ノ井村
 225.4255m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Yamanoi
 225.4255m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 山ノ井駅 字峯岸馬頭観音供養塔
 225.4255m/743.9042尺

照合資料 4

地質要報
 山ノ井村 峯岸
 225.4m/―

照合資料 5

明治10年 官省指令留
 安積郡山ノ井村馬頭観世音台石
 ―/―

几号の現存有無

不明

解  説

近接する一等水準点「第2118号」はゴミ集積小屋の南側にあって鉄板蓋の下に埋設されている。2018年の改算によると標高は226.2589m。

 

馬頭観音塔に関する解説は、どうしても確認しなければならない事柄がある関係で、掲載までは少しお時間をいただきます。

現地を調査した日

2005年4月9日

参考文献

 

 


2005年4月9日撮影。几号が刻まれたと推定される馬頭観音塔(左)。その前を通る陸羽街道。
この場所は日和田の丘陵部から抜け出たところで、この先は本宮に至る。

 


草書体で「馬頭観世」と刻まれている。観世音の「音」の字は埋没しているものと推定する。
台石も埋没しているのかは不明である。確認できる碑高127cm、正面幅最大64cm。

 


左側面には「安政五午年十月吉日」とあり。(安政5年=1858年)