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023 中田 (古河市中田) 几号現存
024 古河 (古河市中央町1丁目)

023 中田

(更新 20.01.28)

点   名

023 中田(なかだ)

当時の場所

茨城県 中田町香取八幡社華表

現在の地名

移設前:茨城県 古河市中田地先 (利根川左岸河川敷)
移設後:茨城県 古河市中田1337-6  鶴峯八幡宮

海面上高距

15.4711m

前後の距離

栗橋 ← 536.86m → 中田 ← 6207.40m → 古河

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 中田町
 15.4711m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Nakada
 15.4711m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 中田町香取八幡社華表
 15.4711m/51.0546尺

照合資料 4

地質要報
 中田町
 15.4m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 中田
 ―/5丈1尺

几号の現存有無

現存(移設)

解  説

日光駅程見聞雑記、中田の条に「宿の入口東の方に八幡香取両社合殿あり、往来の鳥居より一町余も入れは社有、神さひていとたふとし」と記している。

社殿は古墳と伝わる小高い丘に鎮座していたが、明治44年から始まった利根川の河川改修にともない、中田町の南半分とともに神社は現在地に移転した。
鶴峯八幡宮の神社明細帳には由緒として「口碑伝来当鶴峯八幡神社ハ養和元年八月創立、香取宮を天福二年配亨(中略)明治四十四年九月字寺ヶ谷稲荷神社ヘ合祀シ鶴峯八幡神社ト改称ス(中略)明治四十四年内務省起業利根川河川改修工事ニ際シ河幅線ニ属シ字大道西ノ地ニ移転シタルモノナリ」とある。

現地を調査した日

@2005年4月14日  A2015年5月24日

参考文献

東博 研究情報アーカイブズ、五海道其外延絵図 日光道 巻2 中田宿

国立公文書館デジタルアーカイブ、日光道中絵図 巻4

 


東京国立博物館所蔵「五海道其外延絵図」日光道 巻2 (文化3年・1806年)
中田宿、香取八幡社の周辺。

 


国立公文書館所蔵「日光道中絵図」巻4 (天保14年・1843年)
中田宿。「香取八幡合社」と記され、石鳥居も描かれている。

 

左は明治の迅速測図(陸軍) 右は現在の地図(国土地理院)
が「022栗橋」、が「023中田」の推定位置。さらに神社とともに移動した石鳥居の現在地がである。迅速測図には八幡祠の文字を赤枠で囲い、現在の地図には迅速測図に記された神社を示す鳥居記号の位置に「祠」と注記した。(国立研究開発法人農業環境技術研究所が提供している歴史的農業環境閲覧システムの比較地図を利用し加筆したものである)

 


Googleマップの3D機能を用いて加筆
:022栗橋  :023中田  :石鳥居の現在地  :かつての社殿位置

 


内務省土木局『大正三年度 直轄工事状況』(1915年発行)から「利根川第三期改修 栗橋工区平面図」の一部(凡例の部分を別途挿入)
八幡宮と石鳥居は新堤塘の内側にあたるため現在地へ移動となった。

 


かつての中田町があった場所は広々とした河川敷となり利根川橋が架かっている。河川敷の東側は栗橋国際カントリー倶楽部となっていて、赤の線で囲んだあたり(15番ホール付近)に石鳥居があったと思われる(上の図の点)。

 


陸羽街道から見た現在の鶴峯八幡宮
街道側にある一の鳥居の右柱には明治の几号と「奉造立 享保十七壬子歳 下総國」と刻まれている。(享保17年=1732年) よく見ていただくと分かるが左柱は若干色が異なっている。この柱は比較的新しいもので右柱と対となる刻銘も何も記されていない。扁額は「正一位香取宮」と「正八幡宮」の2枚。

 


右柱の根本。基底部はコンクリートで固められていて高さ15p、次の台石は基底部に入っている部分もあるが現状の高さ6.5p。几号の横棒は柱部の高さ31pに位置している。

 


几号。伝存状態は比較的良い。横棒8.8cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。

 

024 古河

(更新 20.01.12)

点   名

024 古河(こが)

当時の場所

茨城県 古河駅中央掲示場石崖

現在の地名

茨城県 古河市中央町1丁目

海面上高距

22.0606m

前後の距離

中田 ← 6207.40m → 古河 ← 2933.65m →野木

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 古河駅
 22.0606m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 KOGA
 22.0606m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 古河駅中央掲示場石崖
 22.0606m/72.8000尺

照合資料 4

地質要報
 古河町
 22.0m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 古河
 ―/7丈2尺8寸

几号の現存有無

亡失

解  説

調査不足により「中央掲示場」の確たる位置は判明していない。時あたかも地理寮の高低測量が行われていた明治9年、落語家の三遊亭円朝が東京を出立して日光・沼田方面を旅したときの記録「上野下野道の記(沼田の道の記)」に「古河駅(中略)向横町 高札場あり」と記している。「向横町」という表現も考察中であるが、今のところ江戸時代からあった二丁目の高札場付近を「中央掲示場」の疑定地とする。

現地を調査した日

@2005年4月14日  A2015年5月24日

参考文献

東博 研究情報アーカイブズ、五海道其外延絵図 日光道 巻第三 古河宿

 


東京国立博物館所蔵「五海道其外延絵図」日光道 巻第三   古河宿 高札場周辺

 


「本町二丁目」交差点から陸羽街道を南に見る。この先は中田・栗橋に至る。
:史蹟古河城下高札場址の碑  :古河町道路元標

 

      
 史蹟古河城下高札場址の碑              古河町道路元標

 


高札場址の碑の脇に建つ解説板

 

 

 

以上で茨城県は終了です。次は栃木県に入ります。