039 今泉 (宇都宮市今泉町)
040 海道新田 (宇都宮市海道町) 几号現存
041 白沢 (宇都宮市白沢)
042 上阿久津 (さくら市上阿久津) 几号現存
043 氏家 (さくら市)
044 狹間田 (さくら市狹間田) 几号現存
039 今泉
(更新 20.04.02)
点 名 |
039 今泉(いまいずみ) |
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当時の場所 |
栃木県 今泉村字高尾神六拾六部塚 |
現在の地名 |
栃木県 宇都宮市今泉町 |
海面上高距 |
118.9961m |
前後の距離 |
宇都宮 中央 ← 3058.00m → 今泉 ← 4432.40m → 海道新田 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
明治10年代後半に成立した『河内郡村誌材料』(地誌編輯材料取調書)における今泉村の記述内容によれば、小字の中に「高尾神」があって広さは東西17間、南北500間と大変細長い形をしていることがわかる。戸数は明治17年1月現在で31戸。また高尾神には地名の由来となったと思われる神社があり、社号を高靇神(たかおかみ)としている。祭神も同じく高靇神、境内の面積は3畝14歩、社殿の大きさは縦2尺、横1尺5寸、社格は無格社、氏子信徒は34名と記されている。
この小さな神社について法務局保管の土地台帳を確認したところ現在の今泉町446番地にあったと推定される。神社は明治40年代に今泉地区内の富士山(ふじやま)神社に合祀され、旧境内地は個人に売却されている。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月11日 A2014年3月29・30日 |
参考文献 |
河内郡村誌材料3、栃木県立図書館所蔵 |
御用川に架かる高尾橋(銘板「たかをはし」)。信号機のある通りは陸羽街道。
六十六部塚があったと思われる場所は前後の距離や字高尾神の境域などから考えて、東は陸羽街道(県道125号・氏家宇都宮線)、西は御用川、北は高尾橋、南は学橋の範囲内と推定している。(Googleマップの3D機能を利用して加工)
040 海道新田
(更新 20.04.28)
点 名 |
040 海道新田(かいどうしんでん) |
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当時の場所 |
栃木県 海道新田十三番地供養塔台石 |
現在の地名 |
栃木県 宇都宮市海道町535−1 小林様宅前 |
海面上高距 |
138.7446m |
前後の距離 |
今泉 ← 4432.40m → 海道新田 ← 4221.80m → 白沢 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
海道町、陸羽街道西側の小林様宅前に建つ感恩報徳碑台石に几号が刻まれている。
感恩報徳碑とは海道新田に水路を築き水田を開いた小林清次郎翁の徳に感謝して慶応2年(1866)に建てられた顕彰碑である。 |
現地を調査した日 |
2005年4月17日 |
参考文献 |
※※※ |
調査回顧録 「街道 行ったり来たり」 |
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2005年、自転車で東京を目指していた私は4月11日の夕方この報徳碑の前に至った。しかし、あいにく霧雨が降り出したので石碑と几号を目視しただけで通過せざるを得なかった。
東京から折り返して同月17日、この日は朝からぽかぽかの陽気。沿道は桜やスイセンなどが花盛りである。早朝に古河を出発し昼過ぎ再び報徳碑の前に到達した。調査のお許しをいただきに小林様のお宅に伺うとコーヒーをすすめられ、有難くご馳走になりながらいろいろお話を伺った。台石に測量の記号が刻まれていることは、たびたび写真を撮りに訪ねてくる人があるということでご存じであったが、「でも、詳しいことは何も知らないのです」とおっしゃるので、几号探索用のチラシを請われるまま数枚差し上げたことを思い出す。(その節は美味しいコーヒーご馳走さまでした) |
2005年に撮影した感恩報徳碑。台石の正面に几号が刻まれている。
石碑の裏手から陸羽街道側を見る。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.0cm。
固い石材なのだろう、線刻の彫りが浅い。そして何より特徴的なのは斜めになった面に刻まれていることである。垂直に近い角度で下を向いて撮影している。
2005年の調査時に小林様から「数年後、歩道ができるので石碑は移動すると思います」と伺った。今日まで再訪の機会がなかったのでGoogleマップのストリートビューで確認してみた。歩道の設置で多少は移動したのであろうが、小林様宅の門前に堂々と鎮座する姿を見て安心した。この道の先は白沢に至る。
石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※碑文はイメージ
041 白沢
(更新 20.05.19)
点 名 |
041 白沢(しらさわ) |
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当時の場所 |
栃木県 白沢駅西鬼怒川西岸勝善神塚 |
現在の地名 |
栃木県 宇都宮市白沢町 |
海面上高距 |
144.0886m |
前後の距離 |
海道新田 ← 4221.80m → 白沢 ← 3072.33m → 上阿久津 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
西鬼怒川の西岸、すなわち右岸であることは分かっているのだが几号を刻んだ「勝善神塚」は確認できていない。
「勝善神塚」の勝善神とは、馬の保護神である蒼前(そうぜん)神のことで、この神を祀る習俗は東北から関東、中部地方に分布している。名馬の誕生を祈願するとともに、馬を売買するときはこの神に神酒を供える風習があった。 |
現地を調査した日 |
2005年4月11・17日 |
参考文献 |
明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年
児玉幸多校訂、近世交通史料集6、吉川弘文館、1972年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.東遊奇勝 ※ 渋江長伯著。幕府の蝦夷地調査隊の一員。奥詰医師。
寛政11年(1799)3月27日
ここから下は明治時代。高低測量が行われた時期とほぼ同じ頃のものである。
8.東奥紀行 ※ 西村茂樹著。啓蒙思想家、教育者。文学博士。 |
奥州道中分間延絵図 巻1 白沢・上阿久津間 西鬼怒川と鬼怒川の流れ
鬼怒川渡船場の河原にあった一里塚は「度々出水にて変地いたし、当時塚形無之、杉之古木有之所を一里塚跡と言」(宿村大概帳)とあるように、この付近は河川氾濫の常襲地帯であり、街道の位置も大水のたびに変わったことも考えられる。
西鬼怒川橋の東詰から白沢方面を望む。供養碑などは何も見当たらない。
現地の案内板によると橋のやや下流が昔の渡河地点という。
現在の橋は昭和38年(1963)に竣功したものだが、それまでの橋も約70m下流に架かっていた。ちょうど背の高い木がある辺りになる。ここにお住いの磯さんという年配のご婦人にお話しを聞いたが「石碑などはわからない」というお答えだった。
042 上阿久津
(更新 20.04.18)
点 名 |
042 上阿久津(かみあくつ) |
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当時の場所 |
栃木県 上阿久津村字大坂二十三夜塔 |
現在の地名 |
栃木県 さくら市上阿久津1905 高尾神社境内 |
海面上高距 |
155.0291m |
前後の距離 |
白沢 ← 3072.33m → 上阿久津 ← 2802.96m → 氏家 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
埋没 |
解 説 |
地理局雑報には「大坂」とあるが「逢坂」が正しいようである。
二十三夜塔の几号は2003年12月5日、標石研究家の池澤重幸氏(故人)によって発見された。 正面「二十三夜塔」 右側面「文化十二乙亥年正月吉日」 左側面「村講中」
2015年になりGoogleマップやストリートビューを使い現状を確認してみたところ、以前の「寂しげな空き地」は資材置場になり周辺には真新しい住宅が建ち並んでいるのである。二十三夜塔をはじめ石塔群はどうなったのか気掛かりになり、同じ方法で周囲を調べてみたところ、高尾神社の北西に石塔群のようなものが確認できた。私はこのようないきさつがあって同年の2月7日再訪するに及んだ。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月11日 A2015年2月7日 |
参考文献 |
ミュージアム氏家編集:開宿400年記念 奥州道中 氏家宿、2001年 |
2005年の調査時に上阿久津第二歩道橋の上から陸羽街道を撮影。この先は氏家に至る。
几号が刻まれた二十三夜塔は右側(東側)の高台に移設されている。
撮影点のほぼ真下には一等水準点「第004-122号」(標高154.5510m)の金属標が設置されている(上阿久津100番地先)。
なお、画像を掲載することはできないが、宝暦5年(1755)成立の「諸街道延絵図」(三春町歴史民俗資料館寄託資料。ミュージアム氏家発行「奥州道中氏家宿」26ページ掲載)阿久津河岸の場面では、現在、一等水準点があるあたりに「千日供養石塔」なるものが描かれている。標高の数値なども考えあわせて、二十三夜塔(文化12年建立)も恐らくこの付近にあったと推定している。
桜花の下、高台のへりにたたずむ石塔群。後方フェンスの下は陸羽街道である。
左:二十三夜塔の正面。台石の高さ32p、幅140p。碑塔の高さ122p、幅40p。
右:右側面。台石の奥行88p。碑塔の奥行50p。几号は台石裏側の地表部に見える。
几号。横棒8.8cm、横棒の幅1.0cm。縦棒はこの時確認できた長さ5cm。
几号の周囲は厚さにして1cmほど削り取って平らにしている。
手前のコンクリートは二十三夜塔のものではなく、その背後(几号の手前)に建つ馬頭観世音塔を固定するためのもので、几号自体は半分しか見えないがコンクリートでは固められていない状態である。真上からのぞき込むと線刻のもう少し下まで見えていた。
2015年に再訪した際の石塔群。高台のへりのフェンスに沿って南へ100m移動した。
雑草が生えないようぴっしりとコンクリートが敷き詰められている。
2005年の写真と比較しても特徴ある横の穴から同じ台石であることがわかる。
台石の裏側。 (私としては絶句と失望の光景である)
わずかに見える横棒の一部。これが見えるだけでも幸いと思うべきであろうか。
几号は亡失ではなく埋没しているのである。いつの日か掘り出されることを願っている。
043 氏家
(更新 20.04.18)
点 名 |
043 氏家(うじいえ) |
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当時の場所 |
栃木県 氏家駅中央里程標 |
現在の地名 |
栃木県 さくら市氏家 氏家交差点付近 |
海面上高距 |
160.8321m |
前後の距離 |
上阿久津 ← 2802.96m → 氏家 ← 4442.70m → 狹間田 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
亡失 |
解 説 |
「氏家駅中央里程標」は几号が刻まれた前後の距離から推定して、氏家交差点と平石本陣跡(平石歯科医院)の間、約100mの範囲内にあったと思われる。大きな建物である黒須病院の西側と言ったほうがわかりやすいかも知れない。この付近は伝馬町と呼ばれ氏家宿の中心的役割を担っていた。
里程標は木柱に駅々の距離を記したものであるので几号は台石に刻まれたと思われる。その台石であるが大きな単独石かそれとも組石構造かは不明である。いずれにしても現地にはそのような石造物は見当たらない。 |
現地を調査した日 |
2005年4月11・17日 |
参考文献 |
ミュージアム氏家編集:開宿400年記念 奥州道中 氏家宿、2001年 |
2005年に撮影した氏家交差点。左奥に入る道が陸羽街道で上阿久津に至る。
氏家交差点の黒須病院側から平石本陣跡を見る。街道の先は喜連川に至る。
写真左端から1軒南側の歩道脇には一等水準点「第2061号」(標高160.1108m)が埋設されている(氏家2579番11地先)。
044 狹間田
(更新 20.04.18)
点 名 |
044 狹間田(はさまだ) |
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当時の場所 |
栃木県 狹間田村弥五郎坂下一ノ堀橋際 大黒塚 |
現在の地名 |
栃木県 さくら市狹間田3251-13 佐藤自動車店前 |
海面上高距 |
158.0866m |
前後の距離 |
氏家 ← 4442.70m → 狹間田 ← 2810.20m → 喜連川 南 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
「大黒塚」とは「大黒天の石塔」にして、狹間田の佐藤自動車店の前に現存する。現地には几号の解説板が設置されている。
幕末に編まれた日光道中宿村大概帳の氏家宿并間之村々往還通道・橋・樋類・川除等には「狹間田新田 字一ノ堀 一、角木橋」と記されている。 |
現地を調査した日 |
2005年4月17日 |
参考文献 |
明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年
児玉幸多校訂:近世交通史料集6、日光・奥州・甲州道中宿村大概帳、1972年 |
現地で撮影した写真がものすごい手ぶれ画像だったのでここはGoogleマップのストリートビューのお力を拝借。佐藤自動車店の前にたたずむ2基の大黒天石塔。市の堀用水に架かる橋の先は氏家に至る。
市の堀用水に架かる橋の上から喜連川方面を見る。現在、国道293号は佐藤自動車店を過ぎると右にカーブしているが、かつての街道は直進し奥に見える丘陵の弥五郎坂を登るルートである。
右は立体的なお姿の大黒天像。大正13年(1924)建立。
左は円形石に陽刻(浮き彫り)した大黒天像。像容も文字も風化。建立年不明。
その脇には「明治時代の水準点」と題した立派な解説板が設置されている。
大黒天像を刻んだ円形石は高さ・正面幅ともに58p。台石の高さ32p、正面幅62p。几号の刻まれた土台石の正面幅は約77pである。なお、土台石の高さは砂利に埋もれているので計測不能。画像でわかるように2本の石材を用いているようである。
常に几号が見えるように砂利が除けられているようである。(訪ねて来た人達がその都度掘り起こしているのかも知れないが) あえて言わせていただけば、砂利よりも高い位置に石塔全体を持ち上げていただくとありがたいところである。
几号。横棒8.9cm、縦棒9.8cm、横棒の幅1.3cm。線刻は深く横棒の幅が少し太い。