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039 今泉 (宇都宮市今泉町)
040 海道新田 (宇都宮市海道町) 几号現存
041 白沢 (宇都宮市白沢)
042 上阿久津 (さくら市上阿久津) 几号現存
043 氏家 (さくら市) 
044 狹間田 (さくら市狹間田) 几号現存

039 今泉

(更新 20.04.02)

点   名

039 今泉(いまいずみ)

当時の場所

栃木県 今泉村字高尾神六拾六部塚

現在の地名

栃木県 宇都宮市今泉町

海面上高距

118.9961m

前後の距離

宇都宮 中央 ← 3058.00m → 今泉 ← 4432.40m → 海道新田

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 今泉村
 118.9961m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Imaidzumi
 118.9961m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 今泉村字高尾神六拾六部塚
 118.9961m/392.6871尺

照合資料 4

地質要報
 今泉駅
 118.9m/―

几号の現存有無

不明

解  説

明治10年代後半に成立した『河内郡村誌材料』(地誌編輯材料取調書)における今泉村の記述内容によれば、小字の中に「高尾神」があって広さは東西17間、南北500間と大変細長い形をしていることがわかる。戸数は明治17年1月現在で31戸。また高尾神には地名の由来となったと思われる神社があり、社号を高靇神(たかおかみ)としている。祭神も同じく高靇神、境内の面積は3畝14歩、社殿の大きさは縦2尺、横1尺5寸、社格は無格社、氏子信徒は34名と記されている。

この小さな神社について法務局保管の土地台帳を確認したところ現在の今泉町446番地にあったと推定される。神社は明治40年代に今泉地区内の富士山(ふじやま)神社に合祀され、旧境内地は個人に売却されている。
さて、几号を刻んだ「六十六部塚」とはなんぞや? これは大乗妙典とよばれる経典を66部書き写し、これを持って日本全国66か国の霊場に1部ずつ奉納して回ることを六十六部廻国供養といい、この難事業を果たした者の中には、その記念として供養塔を建立する者もあったという。すなわち「六十六部塚」とはこの供養塔である六十六部廻国供養塔であると理解している。
廻国供養塔は宇都宮市内でも何基か確認されているが、今泉周辺での現存報告は見当たらない。私も推定地点を複数回歩き回ったが廻国供養塔ならず石塔は何一つ確認できなかった。
(附言) 字高尾神ではないが今泉村の域内にあたるとある場所で廻国供養塔を見つけた。刻銘「奉納大乗妙典六十六部供養塔」。ただし台石が失われていて、移設の有無も時間不足で確認できなかったので、今のところは「?」という存在である。機会を見つけて再調査に赴きたい。

現地を調査した日

@2005年4月11日  A2014年3月29・30日

参考文献

河内郡村誌材料3、栃木県立図書館所蔵

 


御用川に架かる高尾橋(銘板「たかをはし」)。信号機のある通りは陸羽街道。

 


六十六部塚があったと思われる場所は前後の距離や字高尾神の境域などから考えて、東は陸羽街道(県道125号・氏家宇都宮線)、西は御用川、北は高尾橋、南は学橋の範囲内と推定している。(Googleマップの3D機能を利用して加工)

 

040 海道新田

(更新 20.04.28)

点   名

040 海道新田(かいどうしんでん)

当時の場所

栃木県 海道新田十三番地供養塔台石

現在の地名

栃木県 宇都宮市海道町535−1 小林様宅前

海面上高距

138.7446m

前後の距離

今泉 ← 4432.40m → 海道新田 ← 4221.80m → 白沢

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 海道新田
 138.7446m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kaidoshinden
 138.7446m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 海道新田十三番地供養塔台石
 138.7446m/457.8572尺

照合資料 4

地質要報
 海道新田
 138.7m/―

几号の現存有無

現存

解  説

海道町、陸羽街道西側の小林様宅前に建つ感恩報徳碑台石に几号が刻まれている。

感恩報徳碑とは海道新田に水路を築き水田を開いた小林清次郎翁の徳に感謝して慶応2年(1866)に建てられた顕彰碑である。
石碑には次のように刻まれている。
感恩報徳碑
海道新田村自古溝洫狭隘水田乏少不足充半年之食居民常苦之郷之小林清次郎翁深憂之百方盡力安政年間請于領主而新開溝道爾後水田大闢闔郷悉受其利而得不乏于食翁之為恩也甚大矣故我輩協力募一郷立碑以不朽其恩云  慶應二年丙寅春二月

現地を調査した日

2005年4月17日

参考文献

※※※

 

調査回顧録 「街道 行ったり来たり」
2005年、自転車で東京を目指していた私は4月11日の夕方この報徳碑の前に至った。しかし、あいにく霧雨が降り出したので石碑と几号を目視しただけで通過せざるを得なかった。

東京から折り返して同月17日、この日は朝からぽかぽかの陽気。沿道は桜やスイセンなどが花盛りである。早朝に古河を出発し昼過ぎ再び報徳碑の前に到達した。調査のお許しをいただきに小林様のお宅に伺うとコーヒーをすすめられ、有難くご馳走になりながらいろいろお話を伺った。台石に測量の記号が刻まれていることは、たびたび写真を撮りに訪ねてくる人があるということでご存じであったが、「でも、詳しいことは何も知らないのです」とおっしゃるので、几号探索用のチラシを請われるまま数枚差し上げたことを思い出す。(その節は美味しいコーヒーご馳走さまでした)

 


2005年に撮影した感恩報徳碑。台石の正面に几号が刻まれている。

 


石碑の裏手から陸羽街道側を見る。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.0cm。
固い石材なのだろう、線刻の彫りが浅い。そして何より特徴的なのは斜めになった面に刻まれていることである。垂直に近い角度で下を向いて撮影している。

 


2005年の調査時に小林様から「数年後、歩道ができるので石碑は移動すると思います」と伺った。今日まで再訪の機会がなかったのでGoogleマップのストリートビューで確認してみた。歩道の設置で多少は移動したのであろうが、小林様宅の門前に堂々と鎮座する姿を見て安心した。この道の先は白沢に至る。

 

石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※碑文はイメージ

 

041 白沢

(更新 20.05.19)

点   名

041 白沢(しらさわ)

当時の場所

栃木県 白沢駅西鬼怒川西岸勝善神塚

現在の地名

栃木県 宇都宮市白沢町

海面上高距

144.0886m

前後の距離

海道新田 ← 4221.80m → 白沢 ← 3072.33m → 上阿久津

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 白沢駅
 144.0886m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Shirasawa
 144.0886m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 白沢駅西鬼怒川西岸勝善神塚
 144.0886m/475.4924尺

照合資料 4

地質要報
 白沢駅
 144.0m/―

几号の現存有無

不明

解  説

西鬼怒川の西岸、すなわち右岸であることは分かっているのだが几号を刻んだ「勝善神塚」は確認できていない。

「勝善神塚」の勝善神とは、馬の保護神である蒼前(そうぜん)神のことで、この神を祀る習俗は東北から関東、中部地方に分布している。名馬の誕生を祈願するとともに、馬を売買するときはこの神に神酒を供える風習があった。
宇都宮方面から来て白沢の南口にも大きな勝善神塔が建っているが、これは大正10年(1921)の建立になるものである。
勝善神塔が西鬼怒川の川岸にあったとすればたび重なる大水で流失した可能性が考えられる。しかし、移設という可能性もあるので少し範囲を広げて周辺の神社小祠などを丹念に見て回る必要がある。

現地を調査した日

2005年4月11・17日

参考文献

明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年

児玉幸多校訂、近世交通史料集6、吉川弘文館、1972年
板橋耀子編、近世紀行文集成1、蝦夷編、葦書房、2002年
山崎栄作編、渋江長伯著、東游奇勝、日光・奥州街道編、2003年
日本弘道会編、西村茂樹全集5、著作5、思文閣出版、2007年
国立公文書館所蔵、公文録・明治14年・第241巻・明治14年巡幸雑記3、御先発第一回報告奥州白河マテノ道路并宿駅御休泊割等ノ件
東博 研究情報アーカイブズ、奥州道中分間延絵図 巻1 白沢・上阿久津間

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など
1.東遊奇勝 ※ 渋江長伯著。幕府の蝦夷地調査隊の一員。奥詰医師。

寛政11年(1799)3月27日
(宇都宮→今泉村→)白沢宿、昼休み、此より歩行、河原色々の石あり、きぬ川の流三筋になりて流るゝ、そた(粗朶)橋かゝり流急に水清し、左右共山々見へる、風色甚佳なり、冬十月より三月迄は橋なり、夫より船流し。石を拾て輿の内に入、壱弐丁程行、又大なる流、船渡し、此あくつ川、河原広し、きぬ川もあくつ川も壱ツにて其洲内の上之方は村林もあるよし、川向はあくつ村
2.蝦夷蓋開日記 ※ 谷元旦著。渋江長伯と同じ調査隊の一員。谷文晁の末弟。
寛政11年(1799)3月27日
(宇都宮→海道新田→)白沢駅に至りて休む。行々(ゆきゆき)て河原に出。色々の石あり。鬼怒川の流れ、三流にながる。是に橋かゝる。中に左橋、道橋といふ有。流急にして水清し。此川冬十月より三月迄は橋を懸渡し其余は舟渡しのよし、所のもの物語り也。左右遠山の景色甚だ佳也。行て又川あり。舟渡し。あくつ川といふ。川原甚だ広し。きぬ川とあくつ川も一流にて、其洲のうちに村林もありといふ。川向はあくつ村也。
3.蝦夷の嶋踏 ※ 福居芳麿著。江戸の国学者。
享和元年(1801)2月28日
明わたるほどに宇都宮のうまやを出たつ。この道のほど、左り右にすこしのつゝみ(堤)をつき(築)て、なか(中)道は、ひき(低)く、つくりなせり。今泉村、竹林村、海道新田村などいふ、さとさとを過て、白沢を出はなれて鬼怒川をわたる。橋は瀬にしたがひて、いつところ(五所)ばかりかけ(架)たり。この川にそひて十七八町ゆく。この道はひろう、たひらかにて、小松ところどころにおひたる、しもと(楉)原なり。こゝを過て阿久津村といふ里にいづ。
4.奥州道中宿村大概帳 ※安政年間に道中奉行所で作成されたと思われる。
白沢宿 雑之部
一、鬼怒川有、常水川幅三拾間程、出水之節は八町程に相成、舩渡し也
一、右川毎年三月朔日より十月晦日迄渡舩いたし、十一月朔日より二月晦日迄仮橋掛渡し通路いたす、尤右渡舩西川之儀は渡舩・仮橋とも白沢宿にて取計、東川渡舩之儀は上阿久津村より舩頭差出、仮橋之儀は氏家宿より相掛通路いたし候処、天保十二丑年氏家宿と熟談の上、上阿久津村にて仮橋掛渡候様相成

 

ここから下は明治時代。高低測量が行われた時期とほぼ同じ頃のものである。
5〜7の3点は明治9年東北巡幸の記録で、日付はいずれも明治9年(1876)6月11日。
5.東巡録 ※ 権少史金井之恭ら編集。公的報告書の性格を持つ。
七時宇都宮啓蹕。分営兵駅口ニ於テ奉別ス。九時十分白沢駅宸憩。区務所福田源六郎ノ宅ナリ。駅尽クル処鬼怒川分流シテ数岐ヲ為ス。白沙黄葦、間又碧流通ス。仮橋アリ、二(漢数字の2)、新ニ架スル所。土人橋下ニ於テ漁網ヲ設ケ宸覧ニ供ス。十時後、阿久津駅御小休。
6.東北御巡幸記 ※ 東京日日新聞の掲載記事。記者は岸田吟香。
午前七時宇都宮御発輦にて、白沢駅へお小休みあり、此駅の北はづれにて、田植を御覧あらせらる、(中略) 宇都宮以北は、道も悪く、殊に十日の雨にて、車の歯は土にねばり、人馬ともに困却せり、白沢駅よりは、御車を止めさせ、板輿に召させ玉ひ、新に毛野(きぬ)川へ架し二ケ所の橋を御通行にて、阿久津駅若目田久吾方へ御小休みあり
7.従駕日記 十符の菅薦 ※ 筆者は宮内省文学御用係近藤芳樹。
けふもてけ(天気)よし、(中略) き怒川をわたるに、久しく雨降らで、水はおほくもあらねど、河原いと広く、橋いく所もかゝれり、(中略) この川のみならずいさゝかなるながれにも、こたびはみな橋かけたり

 

8.東奥紀行 ※ 西村茂樹著。啓蒙思想家、教育者。文学博士。
明治11年(1878)9月19日
(宇都宮)駅を出れば左の方に日光高原の諸山見ゆ、是より白沢駅迄の間は大抵野原にして、其風景猶宇都宮以西に似たり、此間に児坂といへる小坂あり、東京以北最初の坂なり、白沢駅の絹川屋といふ家にて午飯す、駅を出れば程なく西鬼怒川に至る、此川は一名大谷川といふ、源を日光中禅寺の湖水に発し、本州河内郡大渡村に至りて、東鬼怒川と合するものなり、先日来の大雨にて川の瀬替り、是が為に渡船場を十町程上の方に移せり、夫より少し行きて東鬼怒川あり、或は単に鬼怒川と呼ぶ、源を本州塩谷郡の山中(或は高原山ともいふ)に発し、下総に至り利根川に合するものなり、川を渡れば阿久津駅なり
(帰路・同年)11月18日
(太田原から白沢へ)来時は道路泥濘甚しかりしが、今時は連日の晴にて道路至てよろし、途中の諸川も来時は多く舟渡しなりしが、今時は橋を架するもの多し、東西鬼怒川の渡船場も旧に復して迂回の患なし
9.公文録・巡幸雑記・道路点検概略表 ※ 明治14年東北巡幸の際の事前確認書。
明治14年(1881)7月報告
白沢駅 仝駅ト阿久津駅ノ間、東西鬼怒川ノ二流アリ。西ハ仮橋(平日ハ渡船)、東ハ長サ七十間ノ船橋(賃銭橋)ヲ架ス。
〇西鬼怒川ハ従来渡船ノ処、先年(9年)ノ旧例ニ依テ長サ廿四間ノ仮橋ヲ架ス。
〇東鬼怒川ハ既ニ七十間ノ船橋ヲ架設セリ、白沢阿久津両駅ノ間廿九丁余ハ大半河原ニ属シ砂礫多シト雖モ、前行架橋ノ上巨礫ヲ取除ケ仮道敷ヲ開設セシメ御馬車通御差閊(つかえ)ナキ見込ナリ、尤仮橋船橋御通行ノ節ハ供奉ノ騎兵ニハ単列徐行シ御輦前後ニ多人数供奉セサル方然ルヘシ、但去九年御巡幸ノ節ハ白沢駅ヨリ阿久津駅ノ間御板輿乗御ノ趣ナレトモ船橋モ出来ノコト故、今度ハ御馬車ニテ然ルベシト考フ、尚ホ御通行前日馭者点検ノ上御決定アリタシ。

 


奥州道中分間延絵図 巻1 白沢・上阿久津間 西鬼怒川と鬼怒川の流れ
鬼怒川渡船場の河原にあった一里塚は「度々出水にて変地いたし、当時塚形無之、杉之古木有之所を一里塚跡と言」(宿村大概帳)とあるように、この付近は河川氾濫の常襲地帯であり、街道の位置も大水のたびに変わったことも考えられる。

 


西鬼怒川橋の東詰から白沢方面を望む。供養碑などは何も見当たらない。

 


現地の案内板によると橋のやや下流が昔の渡河地点という。
現在の橋は昭和38年(1963)に竣功したものだが、それまでの橋も約70m下流に架かっていた。ちょうど背の高い木がある辺りになる。ここにお住いの磯さんという年配のご婦人にお話しを聞いたが「石碑などはわからない」というお答えだった。

 

042 上阿久津

(更新 20.04.18)

点   名

042 上阿久津(かみあくつ)

当時の場所

栃木県 上阿久津村字大坂二十三夜塔

現在の地名

栃木県 さくら市上阿久津1905  高尾神社境内

海面上高距

155.0291m

前後の距離

白沢 ← 3072.33m → 上阿久津 ← 2802.96m → 氏家

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 上阿久津村
 155.0291m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Akutsu
 155.0291m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 上阿久津村字大坂二十三夜塔
 155.0291m/511.5960尺

照合資料 4

地質要報
 上阿久津
 155.0m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 阿久津 鬼怒川東岸
 ―/51丈2尺

几号の現存有無

埋没

解  説

地理局雑報には「大坂」とあるが「逢坂」が正しいようである。

二十三夜塔の几号は2003年12月5日、標石研究家の池澤重幸氏(故人)によって発見された。
私もこれを確認すべく自転車で現地に到着したのが2005年4月11日である。
陸羽街道の拡幅工事(年代不明)に際し東側の高台に移設されたというが、10数基の石塔が寂しげな空き地の隅に寄せ集められていた。
几号の刻まれた二十三夜塔もその中にあったが、肝心の几号はなんとも確認しづらい位置にある。几号は台石の裏側に刻まれているのだが本来はこちら側が正面にあたると思われる。移設の際に意味不明の几号を隠すように裏側にしたと考えている。
池澤氏はよくこれを見つけたものだと感心しつつ、小雨の止み間をみて急ぎ調査を行い次の白沢方面へ向かった。

正面「二十三夜塔」 右側面「文化十二乙亥年正月吉日」 左側面「村講中」

 

2015年になりGoogleマップやストリートビューを使い現状を確認してみたところ、以前の「寂しげな空き地」は資材置場になり周辺には真新しい住宅が建ち並んでいるのである。二十三夜塔をはじめ石塔群はどうなったのか気掛かりになり、同じ方法で周囲を調べてみたところ、高尾神社の北西に石塔群のようなものが確認できた。私はこのようないきさつがあって同年の2月7日再訪するに及んだ。
現地に着くと、以前あった場所はやはり資材置場になっていて石塔群は見当たらない。そこで高尾神社に行ってみたところ、西側の開けた場所にきれいに整備された石塔群があるのを見つけた。旧位置からは南へ100m、高尾神社社殿の西30mの場所である。西方には日光連山が望める見晴らしの良い場所である。
はやる気持ちで二十三夜塔の裏に回り込んだところ、「・・・うん?はぁ?」 私は言葉を失ってしまった。
なぜなら几号は完全にコンクリートに埋没していたのである。
間違って別の石塔の台石とすり替わっていないかと確かめたが、やはり大きさ・形ともこの台石で間違いない。
地面にはいつくばって几号の線刻をさがしたところ、几号の横棒である直線の一部が確認できたのである。残念で仕方ないが几号は「埋没」したと判定する。
現地の看板にはこう記されている。
 奉祀
荒び損へるを憂いて行政区、氏子一同ひとつ心にして高尾神社境内のこの一場所に遷して心あらたに祀るもの也
 平成二十五年五月吉日移設
  上阿久津行政区 区長
  高尾神社氏子総代表

移設が行われたのは私が再訪する2年前の出来事である。移設に携わった方々は高低几号というものの存在も、そしてそれが二十三夜塔に刻まれていることも微塵も知らなかっただろうし、何より重んじなければならないのは、この方々はこの方々の熱心な信仰心で善行を施されたということである。
しかし、几号を探索している者としては、もっと早くこの方々とコンタクトが取れていたらと思うと残念でならないのである。

現地を調査した日

@2005年4月11日  A2015年2月7日

参考文献

ミュージアム氏家編集:開宿400年記念 奥州道中 氏家宿、2001年

 


2005年の調査時に上阿久津第二歩道橋の上から陸羽街道を撮影。この先は氏家に至る。
几号が刻まれた二十三夜塔は右側(東側)の高台に移設されている。
撮影点のほぼ真下には一等水準点「第004-122号」(標高154.5510m)の金属標が設置されている(上阿久津100番地先)。
なお、画像を掲載することはできないが、宝暦5年(1755)成立の「諸街道延絵図」(三春町歴史民俗資料館寄託資料。ミュージアム氏家発行「奥州道中氏家宿」26ページ掲載)阿久津河岸の場面では、現在、一等水準点があるあたりに「千日供養石塔」なるものが描かれている。標高の数値なども考えあわせて、二十三夜塔(文化12年建立)も恐らくこの付近にあったと推定している。

 


桜花の下、高台のへりにたたずむ石塔群。後方フェンスの下は陸羽街道である。

 

  
左:二十三夜塔の正面。台石の高さ32p、幅140p。碑塔の高さ122p、幅40p。
右:右側面。台石の奥行88p。碑塔の奥行50p。几号は台石裏側の地表部に見える。

 


几号。横棒8.8cm、横棒の幅1.0cm。縦棒はこの時確認できた長さ5cm。
几号の周囲は厚さにして1cmほど削り取って平らにしている。
手前のコンクリートは二十三夜塔のものではなく、その背後(几号の手前)に建つ馬頭観世音塔を固定するためのもので、几号自体は半分しか見えないがコンクリートでは固められていない状態である。真上からのぞき込むと線刻のもう少し下まで見えていた。

 


2015年に再訪した際の石塔群。高台のへりのフェンスに沿って南へ100m移動した。
雑草が生えないようぴっしりとコンクリートが敷き詰められている。

 

 
2005年の写真と比較しても特徴ある横の穴から同じ台石であることがわかる。

 


台石の裏側。 (私としては絶句と失望の光景である)

 


わずかに見える横棒の一部。これが見えるだけでも幸いと思うべきであろうか。
几号は亡失ではなく埋没しているのである。いつの日か掘り出されることを願っている。

 

043 氏家

(更新 20.04.18)

点   名

043 氏家(うじいえ)

当時の場所

栃木県 氏家駅中央里程標

現在の地名

栃木県 さくら市氏家  氏家交差点付近

海面上高距

160.8321m

前後の距離

上阿久津 ← 2802.96m → 氏家 ← 4442.70m → 狹間田

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 氏家駅
 160.8321m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Ujiya
 160.8321m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 氏家駅中央里程標
 160.8321m/530.7459尺

照合資料 4

奥州街道ノ高低
 氏家
 ―/53丈1尺

几号の現存有無

亡失

解  説

「氏家駅中央里程標」は几号が刻まれた前後の距離から推定して、氏家交差点と平石本陣跡(平石歯科医院)の間、約100mの範囲内にあったと思われる。大きな建物である黒須病院の西側と言ったほうがわかりやすいかも知れない。この付近は伝馬町と呼ばれ氏家宿の中心的役割を担っていた。

里程標は木柱に駅々の距離を記したものであるので几号は台石に刻まれたと思われる。その台石であるが大きな単独石かそれとも組石構造かは不明である。いずれにしても現地にはそのような石造物は見当たらない。
せめて里程標が置かれた具体的な場所だけでも解明したい。

現地を調査した日

2005年4月11・17日

参考文献

ミュージアム氏家編集:開宿400年記念 奥州道中 氏家宿、2001年

 


2005年に撮影した氏家交差点。左奥に入る道が陸羽街道で上阿久津に至る。

 


氏家交差点の黒須病院側から平石本陣跡を見る。街道の先は喜連川に至る。
写真左端から1軒南側の歩道脇には一等水準点「第2061号」(標高160.1108m)が埋設されている(氏家2579番11地先)。

 

044 狹間田

(更新 20.04.18)

点   名

044 狹間田(はさまだ)

当時の場所

栃木県 狹間田村弥五郎坂下一ノ堀橋際 大黒塚

現在の地名

栃木県 さくら市狹間田3251-13  佐藤自動車店前

海面上高距

158.0866m

前後の距離

氏家 ← 4442.70m → 狹間田 ← 2810.20m → 喜連川 南

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 狹間田村
 158.0866m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Yazamada
 158.0866m/―

照合資料 3

地理局雑報 第14号
 狹間田村弥五郎坂下一ノ堀橋際 大黒塚
 158.0866m/521.6858尺

照合資料 4

地質要報
 狹間田村
 158.0m/―

几号の現存有無

現存

解  説

「大黒塚」とは「大黒天の石塔」にして、狹間田の佐藤自動車店の前に現存する。現地には几号の解説板が設置されている。

幕末に編まれた日光道中宿村大概帳の氏家宿并間之村々往還通道・橋・樋類・川除等には「狹間田新田 字一ノ堀 一、角木橋」と記されている。
「一ノ堀橋の際」なのか「一ノ堀の橋際」なのか判然としないのであるが、用水路の名称は「市の堀」である(史料的には市ノ堀、市之堀)。この市の堀用水は水不足を解消すべく宇都宮藩が明暦2年(1656)に完成させた。
現在は大小2基の大黒天石塔が立派な基壇(高さ約60p)の上に柵に囲まれ保護されているが、明治時代は小さい方の石塔のみが橋の際にたたずんでいたのだろう。
なお、弥五郎坂は「千住宿よりこのわたりまで、すべてたひらなる道にて、こゝにはじめて坂路あり」(福居芳麿:蝦夷の嶋踏)、「氏家を出れば弥五郎坂といへるあり、東京以来第一の高き坂なり」(西村茂樹:東奥紀行)、「夫より北は坂道なり、是は、陸羽道中、四十八坂の初なりといふ」(岸田吟香:東北御巡幸記)と人々が記すように、那須の山々に分け入る最初の坂道となる。

現地を調査した日

2005年4月17日

参考文献

明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年

児玉幸多校訂:近世交通史料集6、日光・奥州・甲州道中宿村大概帳、1972年
板橋耀子編、近世紀行文集成1、蝦夷編、葦書房、2002年
日本弘道会編、西村茂樹全集5、著作5、思文閣出版、2007年

 


現地で撮影した写真がものすごい手ぶれ画像だったのでここはGoogleマップのストリートビューのお力を拝借。佐藤自動車店の前にたたずむ2基の大黒天石塔。市の堀用水に架かる橋の先は氏家に至る。

 


市の堀用水に架かる橋の上から喜連川方面を見る。現在、国道293号は佐藤自動車店を過ぎると右にカーブしているが、かつての街道は直進し奥に見える丘陵の弥五郎坂を登るルートである。

 


右は立体的なお姿の大黒天像。大正13年(1924)建立。
左は円形石に陽刻(浮き彫り)した大黒天像。像容も文字も風化。建立年不明。
その脇には「明治時代の水準点」と題した立派な解説板が設置されている。

 


大黒天像を刻んだ円形石は高さ・正面幅ともに58p。台石の高さ32p、正面幅62p。几号の刻まれた土台石の正面幅は約77pである。なお、土台石の高さは砂利に埋もれているので計測不能。画像でわかるように2本の石材を用いているようである。

 


常に几号が見えるように砂利が除けられているようである。(訪ねて来た人達がその都度掘り起こしているのかも知れないが) あえて言わせていただけば、砂利よりも高い位置に石塔全体を持ち上げていただくとありがたいところである。
几号。横棒8.9cm、縦棒9.8cm、横棒の幅1.3cm。線刻は深く横棒の幅が少し太い。