051 大田原 南 (大田原市)
052 大田原 中央 (大田原市) 几号現存
053 中田原 (大田原市) 几号現存
054 市野沢 (大田原市) 几号現存
055 練貫 (大田原市) 几号現存
056 鍋掛 (那須塩原市) 几号現存
051 大田原 南
(更新 20.05.27)
点 名 |
051 大田原 南(おおたわら みなみ) |
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当時の場所 |
栃木県 大田原南口日光街道示道標傍(新設) |
現在の地名 |
栃木県 大田原市 明神町交差点 |
海面上高距 |
207.5376m |
前後の距離 |
浅野六本松 ← 1876.76m → 大田原 南 ← 757.80m → 大田原 中央 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
現在の明神町交差点、昔は新田町と言って大田原宿(城下)の江戸方面入口であった。示道標とは明治時代に入って設置された木製の道標と思われる(指道標)。その傍らに新設標石が設置されたのである。現地調査は限られた時間であったが十字路交差点の四隅、さらには周辺の神社や寺院、墓地なども探索したが標石は見つからなかった。いつの日か見つかることを願っている。
本点は東京塩竈間の高低測量において重要な場所でもある。東京霊巌島と塩竈、双方からの測量がここで連結し、その成果が那須西原に設定された大三角測量那須基線の標高算定に用いられた。
「洋式日本測量野史」(陸地測量部「三交会誌」21、1915年)
東京・大田原間 2回の平均 685.6463尺
そもそも東京塩竈間の高低測量は那須基線の標高算定のために実施されたのであるから、測点「大田原南」は那須基線の南端点、北端点と同様に、測量史の記念すべきポイントとして認識するべきである。しかし、返す返すも残念なのは肝心の標石が見つかっていないことである。 |
現地を調査した日 |
2005年4月11・18日 |
参考文献 |
内務省:内務省第2回年報(明治9年7月〜10年6月)、1877年
明治14年11月改正、神風講社・一新講社(定宿付き道中記)、1881年 |
五海道其外分間絵図並見取絵図 奥州道中分間延絵図 巻之2
右側、杉並木の道は佐久山・六本松から至る奥州街道。中央でくの字に折れて大田原宿(城下)に入る地点が日光北街道の追分(分岐点)である。この絵図では日光北街道は右下に細く描かれ、途中で霞に消え入るように省略されている。
五海道其外分間絵図並見取絵図 会津道見取絵図 巻之2
上の図とほぼ同じ範囲の絵図になるが、こちらは日光北街道に主眼を置いているので奥州街道の方が簡略化されている。しかし、追分の様子を伝える情報はより詳細である。この場所には「道しるべ地蔵」と呼ばれた石仏が建てられていた。正確には観音菩薩立像の供養塔である。文化9年(1812)建立。光背部分に「右 佐久山みち、左 日光みち」と刻む。現在は近くの墓地に移設されている。※刻銘に合致するように供養碑の建っていた場所を推定するのは頭を悩ませる作業である。とりあえず棚上げ。
会津道見取絵図とほぼ同じように見た空中写真。(Googleマップを加工)
この追分における道を選択する主点は「北から来た人が日光への近道を選ぶか選ばないか」にあったと思われる。確かに残されている多くの道中日記を見てみると、奥州方面から来た巡礼者や代参の人々は吸い込まれるように日光北街道へと進んでいる。そう考えた場合、少なくとも明治時代に建てられた道標は赤丸で示した地点に置くのが妥当なところである。
赤丸で示した場所の風景。(Googleマップ) 現在は明神町交差点と呼ばれている。右が日光北街道、左が奥州街道(陸羽街道)である。とても標石が残っているような環境ではないことは一目瞭然である。
明治14年(1881)11月改正、神風講社・一新講社の定宿付き道中記(判取帳)の一部。
大田原のところに道標が描かれている。ただし、一新講社の道中記における道標の表記は、あくまでも旅行者の利便性を図り掲載されているものであって、実際に現地にある道標を再現しているとは言えないところがある。参考までにこの道標の絵には「右 日光廻りうつのみや道、左 うつの宮東京みち」と記されている。ここで分岐した日光北街道は矢板、今市と経由して日光に至り(上段)、陸羽街道は佐久山、喜連川、氏家と経て宇都宮に至る(下段)。
明治16年(1883)「古峯山講中道中記」の一部。(編者所蔵)
この道中記は岩手県西磐井郡弥栄村(一関市)の佐々木市郎右エ門なる農民が、栃木県の日光と古峯ヶ原に鎮座する古峯神社(鹿沼市)を参拝し、東京・横浜方面を見物する様子が書かれている。紹介した部分は宮城、福島と陸羽街道を南下し大田原に到達したところである。ここに道標が描かれている。はたしてこの道標の表記が正しいのか判断することは難しいが、実際に旅をした人物が書き記したものという史料的評価はできる。道標部分は「右 日光古峯山社道、左 東京道うつのみや道」と記している。ここから彼は日光北街道に入り「栃木県那須野原ト云大原アリ」と眺めながら日光・古峯山を目指した。
052 大田原 中央
(更新 20.06.06)
点 名 |
052 大田原 中央(おおたわら ちゅうおう) |
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当時の場所 |
栃木県 大田原上町金燈籠台石 |
現在の地名 |
栃木県 大田原市中央1丁目1−1 |
海面上高距 |
208.2886m |
前後の距離 |
大田原 南 ← 757.80m → 大田原 中央 ← 1167.60m → 中田原 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
金燈籠は文政2年(1819)の建立。太平洋戦争のいわゆる「金属供出」により昭和17年(1942)に献納されたが、昭和54年に旧態復元で再建されている。台石には「江戸」「白川」と大文字で刻まれ道しるべを兼ねている。かつては十字路中心に置かれていたが現在は北西角に移設されている。
ちなみに大田原市の都市計画図では十字路中心の標高を208.5mと記している。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月11・18日 A2015年2月7日 |
参考文献 |
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況1、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究27、1989年 |
その名も「金燈籠交差点」。金燈籠は昭和40年代まではこの交差点の真ん中に鎮座していた。近所の方に聞いたが「その当時は金灯籠に車がぶつかりそうで危なかった」という。実際に衝突する事故も発生していたようである。初代の金燈籠は金属供出により献納されたことで頭部の涼しい日々が続いたが、昭和30年に形の似ていた金燈籠を旧三斗小屋宿から譲り受け、大田原の金燈籠として代用することになった。やがて初代の金燈籠を模したものを再建する運びとなり、仮の金燈籠はもともとあった場所に返却され、昭和54年、交差点の北西角に新たに鋳造された金燈籠が設置された。現在では周辺も「金燈籠ポケット公園」としてきれいに整備されている。
ポケット公園側から金燈籠を見る。かつて南北の道は陸羽街道に対してクランク状に交差していたが、現在は道路の改良工事が行われ正十字の広々とした交差点となっている。
台石は3段である。上台石の高さ32p、中台石の高さ30p、下台石の高さ30p。
ご覧のように中台石と下台石は新しい。昭和54年の再建時に新造されたと思われる。
古写真を数点確認してみたが、几号を刻んだ当時の台石の構造はよくわからない。
文政2年(1819)の建立当時から変わらないのはこの上台石のみである。200年の風化現象とともに、数々の傷や欠損も見受けられ、なかなか痛々しい姿である。
几号。横棒8.8cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。
台石の損傷が目立つ割には几号は大変きれいな形を保っている。
上台石の展開図と几号を刻んだ面の寸法 (単位:p、計測作図:浅野)
金燈籠ポケット公園に建つ記念碑。昭和54年の金燈籠再建を記念して設置された。
053 中田原
(更新 20.06.06)
点 名 |
053 中田原(なかだわら) |
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当時の場所 |
栃木県 中田原村蛇尾川北方黒羽道 旧供養塔台石 |
現在の地名 |
栃木県 大田原市中田原802 |
海面上高距 |
202.4867m |
前後の距離 |
大田原 中央 ← 1167.60m → 中田原 ← 3480.00m → 市野沢 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
松本とうふ店の裏。二十三夜塔の台石。調査不足で断定はできないが、もともと陸羽街道に面して建っていたものを移設したと推定される。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月11日 A2015年2月7日 |
参考文献 |
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況1、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究27、1989年 |
左手奥の瓦葺の建物が松本とうふ店の店舗。その前を走るのが陸羽街道である。
石塔群は陸羽街道から17メートルほど奥まった場所にある。
中央に几号が刻まれている二十三夜塔。右は庚申塔。左は十九夜塔とその奥に馬頭碑。
正面から見た二十三夜塔の全体
台石左端から几号の縦棒まで33.5p。地表から横棒まで約24p。
几号がやや傾いているが、これは石塔を移動した際の変動と思われる。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.0cm。
石の表面を幾分平らにしてから几号を刻んだように見受けられる。
石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※碑文はイメージ
054 市野沢
(更新 20.06.10)
点 名 |
054 市野沢(いちのさわ) |
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当時の場所 |
栃木県 市野沢村界標傍新設石標 |
現在の地名 |
栃木県 大田原市市野沢417-2 |
海面上高距 |
224.1296m |
前後の距離 |
中田原 ← 3480.00m → 市野沢 ← 2374.80m → 練貫 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
大田原市市野沢と富池の境界。布達の規定標石。
近所の人の話では、この標石がある空き地は「首切り山」と呼ばれる場所であるという。山と言っても平坦である。20年ほど前まで(2005年当時)は鬱蒼とした杉林だった。道路脇の歩道を作る時だったか標石は一度抜かれて南側の畑に投げ捨てられた。空き地の所有者が不明だったので市役所(?)に連絡し元の場所に戻させたという。ただし厳密に同じ所ではないようである。喜沢や下河戸にあるような盤石は見た記憶がないというので、明治9年の設置場所には盤石が埋もれている可能性がある。 測量標石の保護について(回答) 大田原市といたしましても、標石については現在のところ文化財の指定はしておりませんが、測量史上重要なものとして保護に努めているところであります。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月10日(発見)・同18日 A2006年4月9日 |
参考文献 |
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況1、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究27、1989年 |
調査回顧録 「街道 行ったり来たり」 |
---|
2005年4月10日、自転車で白河を出発した私は夕方4時25分、大田原の市野沢に入った。前後に置かれた几号の距離からある程度範囲は絞られていたが、少し手前から丹念に見て回った。点在する供養塔も手掛かりになるかも知れないと近寄ってみる。しばし自転車を押しながらきょろきょろと歩いていると、空き地の片隅に枯草の小山があるのが目に入ってきた。無駄骨でもと思いつつ枯草の山を除けてみると頭のとんがった石が出てきた。几号標石の発見! しかも新設標石である。 一日中坂道を登り降りした疲れが吹き飛ぶほどの喜びであった。発見時間、午後4時38分。撮影と計測などをしていると近くに人影が見えた(街道を行き交う車は多いのだが歩いている人は少ない)。幸運にも近くの土地の所有者ということで標石に関する話も聞くことができた。昔のことで記憶があいまいと仰っていたが、大変貴重な証言を得た。5時25分調査終了。夕暮れの道を近くの温泉旅館に直行した。
4月18日、東京からの帰路、再び市野沢の几号標石にたどり着いた。何枚か追加で写真を撮影する。その後少し北上したところに郵便局があったので立ち寄る。市野沢郵便局。局員が3,4名という小さな郵便局である。私はここから不要になった手荷物を実家に送ろうと考えた。外で荷物をまとめてから窓口で送り状の届け先欄と依頼主欄に「宮城県・・・・」と住所を書いていると、「さっき自転車で来ましたよね?」と局員に尋ねられた。見るからに不審者であることは自分でも重々承知しているのだが、「東京まで行った帰りです」と話したら、局員が入れ替わり立ち替わり外へ出ていくではないか。やがて局長という名札を付けた人が「いやー、あの自転車で宮城県から東京まで行って来たの!?」、窓口の若い女性には「え〜〜!」と驚かれてしまった。小さなゆうパック1つお願いしただけであるが局員の皆さんから激励を頂いた。来客の少ない郵便局ならではの思い出に残る一コマである。 |
市野沢「新設石標」前の陸羽街道を南に見る。この先は大田原の中心部に至る。
2005年4月10日、標石発見直後の撮影。道路右手(西側)に標石の頭が見える。
街道側から標石の正面を見る。標石がある敷地は街道より50〜60p高い。
手前の歩道の下は用水路となっている。標石はその歩道端から1.5m先にある。
正面から見た几号標石。発見時は枯れた植物が蓋のように覆いかぶさっていた。それらをすべて取り除くと布達に規定された標石が姿を現した。欠損や傷が目立つも全体に保存状態は良い。線状に付いた傷は刈払機(草刈り機)の金属刃によるものと思われる。
左側から見た標石 右側から見た標石
裏側から見た標石 拓本(縮小。採拓:畠山未津留)
几号。横棒8.0cm、縦棒9.0cm、横棒の幅1.0cm。横棒と縦棒に若干の欠損あり。
標石の裏手から街道側を見る。右手の細い水路が市野沢村と富池村(明治8年成立)の境界線。かつては標石と水路の間に大きなコブシの木があったという。
標石の寸法 (単位:p、計測作図:浅野)
欠損部分などは省略している。寸法は地表に出ている分だけであるが、標石に沿って土中へ定規を差し込んでみたところ、地下に20p以上は埋まっているのが確かめられた。
法務局備え付けの地籍図(地図に準ずる図面)に赤文字部分を加筆。
「村界標」は市野沢と富池の境界に建っていたと思われる。現在、両地名ともに大田原市の大字となっている。下のGoogleマップを拡大し地籍図と見比べてもらいたい。
055 練貫
(更新 20.06.17)
点 名 |
055 練貫(ねりぬき) |
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当時の場所 |
栃木県 練貫村字下町観音坂下十九夜塔 |
現在の地名 |
栃木県 大田原市練貫 |
海面上高距 |
243.3418m |
前後の距離 |
市野沢 ← 2374.80m → 練貫 ← 5073.20m → 鍋掛 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
十九夜塔は観音坂の登り口、練貫公民館南側の石塔群の中にある。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月10日 A2015年2月8日 |
参考文献 |
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況1、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究27、1989年 |
練貫の集落を過ぎて坂にさしかかる手前に供養塔が数基建ち並んでいる。この先は越堀に至る。中央の奥に見える建物は練貫公民館。左側奥の赤い鳥居は愛宕神社である。
振り返って練貫の家並みを見る。ここが町場の終わりで坂の入り口ということがわかる。
左端は宝暦6年(1756)建立の永代常夜灯。火袋などの部分が失われ竿石と笠石だけである。その竿石には「右 奥州海道」「左 原方那須湯道」と刻まれている。他は享保20年(1735)の名号碑、寛政12年(1800)の青面金剛碑、無縫塔、平成5年(1993)に大田原市が建てた旧奥州道中の案内標、それに几号の刻まれている十九夜塔である。
十九夜塔。建立は「万延二酉年一月十九日」(=1861年)。※1か月後に文久と改元。
台石正面には「当所女人中」とあるが、十九夜講は出産と育児の安全を願って女性だけで集まることが多い。几号は台石の右側面に刻まれている。
几号。横棒8.8cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。伝存状態は良い。
石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野)
056 鍋掛
(更新 20.06.19)
点 名 |
056 鍋掛(なべかけ) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 鍋掛那珂川西岸馬頭観音(石塚) |
現在の地名 |
栃木県 那須塩原市鍋掛 |
海面上高距 |
234.1315m |
前後の距離 |
練貫 ← 5073.20m → 鍋掛 ← 500.00m → 越堀 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
馬頭観音塔は那珂川に架かる昭明橋西詰、北側の杉木立の中にある。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月10日 A2015年2月8日 |
参考文献 |
児玉幸多校訂、近世交通史料集6、吉川弘文館、1972年
佐藤栄一:旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況1、明治初期内務省地理局水準測量遺構、那須野ケ原開拓史研究27、1989年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.東遊奇勝 (渋江長伯:寛政11年)
鍋掛之宿。中川之流急湍両岸絶壁、壁下に庵室あり、左右より瀧落て風色ますます佳なり。洲之上そた橋を渡り折曲り岸を上りて越堀の宿なり。 2.蝦夷蓋開日記 (谷元旦:寛政11年) |
奥州道中分間延絵図 巻2 鍋掛・越堀間 那珂川の流れ
街道は鍋掛宿を出ると大きく折れ曲がって那珂川の河原に下りていることがわかる。
河原までの高低差は14〜15メートルもある。
鍋掛宿の出口で枡形になっていた場所である。現在の街道は画像の左から右へ横切って昭明橋に至り真っすぐ越堀に渡ることができる。上の図で見た河原に下りるU字の急坂に向かう道の一部が、現在の街道から北側に入る小道として残っている。道を少し入った場所、杉木立の中に几号の刻まれている馬頭観音塔がうっすらと見える。
馬頭観音塔は当時から同じ場所にあるのか、また、この地点から具体的にどう河原へ下りて行ったのか、どちらも調査不足で説明ができない。『今昔三道中独案内』(今井金吾、1978年)には「橋の西詰を北へ10mばかり、森の入口めいていて、多くの道祖神が並んでいる。そこから右の崖下へ下って行く道の跡が、わずかに残っていて、橋の下をくぐり橋の南へと叢の中をぬけているが、今はここを通る人とてない」と記している。40年も前のことなので今はどうなっているのだろうか。
石塔の全景。雄渾な筆致で「馬頭観世音」と大書されている。
右側面には「安政六己未年二月大吉日」と建立年を記す(=1859年)。
全高は計測していないが2メートル80センチ程はあろうか。
几号は中台石の正面ほぼ中央に刻まれている。
几号。横棒8.8cm、縦棒9.9cm、横棒の幅1.2cm。
台石全体が風化し表面が粗くなっている。
台石部分の寸法 (単位:p、計測作図:浅野)