071 踏瀬 (泉崎村踏瀬) 几号現存
072 大和久 (矢吹町大和内)
073 矢吹 (矢吹町北町) 几号現存
074 久来石 (鏡石町久来石)
075 鏡沼 (鏡石町鏡沼) 几号現存
076 須賀川 (須賀川市北町)
077 森宿 (須賀川市森宿) 几号現存
071 踏瀬
(更新 20.08.05)
点 名 |
071 踏瀬(ふませ) |
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当時の場所 |
福島県 踏瀬 字三ツ家愛宕社石華表 |
現在の地名 |
福島県 泉崎村踏瀬池ノ入山 愛宕神社境内 |
海面上高距 |
304.0458m |
前後の距離 |
小田川 ← 3561.80m → 踏瀬 ← 2729.00m → 大和久 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
照合資料 6 |
明治10年 官省指令留 |
几号の現存有無 |
現存 【発見:1994年8月20日、関 義治、箱岩英一、田中宗男】 |
解 説 |
2011年に未曽有の東日本大震災が発生。それから程なくして須賀川市の松宮輝明様が福島県内の几号標石の被災状況を確認に回られた。本点の石鳥居も地震で倒壊してしまったが、松宮様は几号の保存にもご尽力され、現在では鳥居の一部ではあるが撤去されず目にすることができる。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月18日 A2015年2月8日 |
参考文献 |
国文学研究資料館 史料館:史料館所蔵史料目録54、陸奥国白河郡踏瀬村箭内家文書目録1、1991年 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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江戸時代、踏瀬村の庄屋・問屋・検断を世襲し、明治維新後も副戸長、用掛兼什長、戸長などを歴任した箭内(やない)家には数多くの文書が伝わった。現在その文書は国文学研究資料館に寄贈されている。 |
2015年2月8日撮影。陸羽街道から見た愛宕神社の入口。供養塔が建ち並ぶ。
2005年4月18日撮影。震災で倒壊する前の石鳥居。全高はおおよそ2.5メートル。
2011年6月、震災後に松宮様が訪れた時の状態。(画像:松宮様提供)
2015年2月8日撮影。震災後に建て直された鳥居。その手前に古い鳥居の一部が残る。
(左)几号の刻まれた右柱の下部だけ撤去せず残された。台石を含めない几号横棒までの地上高は29センチメートル。 (右)倒壊前の鳥居、右柱裏側には「安政六己未六月吉日 惣村氏子中」と刻まれていた。(安政6年=1859)
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。石柱全体に風化現象が見られる。
072 大和久
(更新 20.08.06)
点 名 |
072 大和久(おおわぐ) |
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当時の場所 |
福島県 大和久 里程標傍掲示場石崖 |
現在の地名 |
福島県 矢吹町大和内(やまとうち) |
海面上高距 |
291.9658m |
前後の距離 |
踏瀬 ← 2729.00m → 大和久 ← 2631.00m → 矢吹 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
昭和55年3月、矢吹町は大字名を廃止したため「大和久」の地名表記はなくなった。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月18日 A2015年2月8日 |
参考文献 |
山岡光治:地図読み人になろう、地図の上で旧街道を歩く(白河−矢吹)、2009年 |
2005年4月18日撮影。火の見櫓とポンプ小屋。「矢吹町消防団第一分団第四部」
福島県の火の見櫓は銀色でデザインも洗練されていて見つけるたびに嬉しくなった。
2019年5月にGoogleさんが撮影。角の新しい建物は「第一分団第四部消防屯所」。
火の見櫓は消えてしまった。右側の樹木もなくなり同じ場所とは思えないくらいだ。
073 矢吹
(更新 20.09.01)
点 名 |
073 矢吹(やぶき) |
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当時の場所 |
福島県 矢吹新田 会田勘左エ門所有地石地蔵 |
現在の地名 |
福島県 矢吹町本町 |
海面上高距 |
287.4985m |
前後の距離 |
大和久 ← 2631.00m → 矢吹 ← 2480.00m → 久来石 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
現存 【発見:1994年3月11日、箱岩英一、関 義治】 |
解 説 |
几号の刻まれているお地蔵様は「下の地蔵」と呼ばれている。 |
現地を調査した日 |
@2004年9月10日 A2015年2月8日 |
参考文献 |
西白河郡役所:西白河郡誌、1915年 |
ご 協 力 |
山形県米沢市 市立米沢図書館 様 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.白河風土記 巻11 矢吹村 |
江戸後期成立『江戸道中絵図』(市立米沢図書館所蔵。堀尾家文書22)の矢吹宿
江戸から米沢までの道中を描いた絵図帳で、矢吹宿の北口外に石地蔵が描かれている。
全編は同館のデジタルライブラリーで閲覧できる。 ※ 資料掲載許可済
2004年9月10日撮影。陸羽街道から見た「下の地蔵」。手前の車と比較してもその大きさがおわかりと思う。この付近に矢吹宿の下の枡形があったと思われる。
2004年9月10日撮影。お地蔵様の台石に立てかけてある石は、それぞれの台石を失った供養塔。ここでも常にきれいなお花がお地蔵様に供えられている。
2015年2月8日撮影。几号の位置は赤円で示した。上台石のやや右寄りに刻まれている。
2015年2月8日撮影。几号。横棒9.0cm、縦棒10.5cm。台石全体に風化が見られる。
石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野)
図面を書く段階になって唖然としたがなんとも雑な計測で恥じ入るばかりである。
『歴史の道 奥州道中』には全高3.2メートル、本尊2.1メートルと記載がある。
074 久来石
(更新 20.08.18)
点 名 |
074 久来石(きゅうらいし) |
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当時の場所 |
福島県 久来石 鈴木文之助土蔵石崖 |
現在の地名 |
福島県 鏡石町久来石 |
海面上高距 |
283.9045m |
前後の距離 |
矢吹 ← 2480.00m → 久来石 ← 4106.86m → 鏡沼 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
本点は前点「073矢吹」石地蔵(現存)からの距離と、後点「075鏡沼」供養塔(移設現存)からの距離により、几号附刻地点は久来石集落のやや北寄りと範囲を絞り込めている。 |
現地を調査した日 |
@2004年9月10日 A2005年4月9日 B2013年11月16日 |
参考文献 |
|
2005年4月9日撮影。陸羽街道の北側から見た几号附刻の推定範囲。
2013年11月16日撮影。街道の南側から見た几号附刻の推定範囲。(画像の一部を加工)
075 鏡沼
(更新 20.09.12)
点 名 |
075 鏡沼(かがみぬま) |
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当時の場所 |
福島県 鏡田村 常松縫殿之介義久ノ墓 |
現在の地名 |
移設前:福島県 鏡石町鏡沼147番地付近
移設後:福島県 鏡石町鏡沼76番地 西光寺(境内墓域) |
海面上高距 |
273.5965m |
前後の距離 |
久来石 ← 4106.86m → 鏡沼 ← 4294.00m → 須賀川 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
明治10年 官省指令留 |
几号の現存有無 |
移設現存 |
解 説 |
『福島県下高低几号所在』の原本には「常松縫殿之允義久」と記されている。「縫殿之允」の「允」を「すけ」と読まないわけではないが、「介(すけ)」の字が転写の過程で「允」に変化したのではないかと想像している。なお、本項では一般的な表現である「縫殿助(ぬいのすけ)義久」で統一する。
郷士 常松与左衛門
ここで大庄屋を務めた常松家の歴史を論考する余地はないので省略するが、天正17年(1589)10月、伊達政宗の須賀川城攻略戦により城主二階堂家は滅亡。二階堂家の家臣であった縫殿助義久も郎党18人とともに須賀川城の北東、阿武隈川の江持河原で戦死したと伝えられる。享年31歳。鏡沼の常松家ではこの縫殿助義久を初代としている(「常松家譜考」『鏡石町史1』)。 |
現地を調査した日 |
@2004年9月10日(発見) A2005年4月9・18日 B2015年2月8日 |
参考文献 |
岩瀬郡役所:岩瀬郡誌、1923年 |
ご 協 力 |
常松健夫 様(鏡石町)、西光寺 様(鏡石町)
大善寺 様(横浜市戸塚区)、神奈川県立図書館 様 |
調査回顧録 「街道 行ったり来たり」 |
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2004年9月10日、私と畠山君は昼前に電車で矢吹駅に降り立った。駅前の食堂で腹ごしらえをし陸羽街道を北に向かって歩き出した。最初に矢吹の石地蔵に刻まれている几号を調査。次は久来石へ。久来石では「几号は何に刻んだのだろう?」と丹念に見て回ったが結局手掛かりをつかめずに通過。そのまま歩いて歩いて午後4時過ぎ鏡沼へ入る。ここでは明治10年『官省指令留』に記された「鏡田村 豎通三界横括九居台石」という呪文のような石造物を探さねばならない。この呪文も当時は原本に書き記された「豎通三東横祐九居」が正しいものと思っていた。
「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記された距離により割り出された推定地に到着。しかしそこは普通の住宅が建ち並ぶだけで石造物がありそうな雰囲気はまったくない。移設された可能性もあるので近くの西光寺に行ってみる。お寺さんの入口から石碑類を見て回るが呪文のような文言が刻まれたものは見つからない。本堂前に到達して万事休す。 |
『鏡石町史』第1巻・通史編(p.815)に掲載の「鏡田地籍図による常松家位置」
常松家初代墓地、西光寺、常松家屋敷の位置関係がよくわかる図である。
2005年4月9日撮影。この付近に常松家初代墓地があった。最新のGoogleストリートビューを確認したところ中央に写る家屋はなくなり更地となっていた。
2005年4月18日撮影。西光寺境内に移設された石碑。
【お願い】几号の刻まれた石碑は個人の墓所内にあります。調査見学の際は汚したり傷つけたりしないよう十分注意を払ってください。よろしくお願いします。 Web管理人(浅野)
2005年4月18日撮影。下台石の左寄りに刻まれた几号。
2005年4月18日撮影。几号。横棒9.5cm、縦棒10.0cm。台石全体に風化や欠損が見られる。几号横棒の上部にも石の欠損があり、その影響は横棒の線刻にまで及んでいる。
石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※刻銘はイメージ
新発見 常松縫殿助義久供養の阿弥陀如来坐像 |
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常松縫殿助義久のことを調べていたら思いもよらぬ情報が見つかった。 |
076 須賀川
(更新 20.09.09)
点 名 |
076 須賀川(すかがわ) |
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当時の場所 |
福島県 須賀川 福島県病院門標石礎 |
現在の地名 |
福島県 須賀川市北町 |
海面上高距 |
254.7545m |
前後の距離 |
鏡沼 ← 4294.00m → 須賀川 ← 2202.80m → 森宿 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
亡失(の可能性が大きい) |
解 説 |
『福島県下高低几号所在』には「福島県病院門標石礎」と記されている。
では几号を刻んだ「門標石礎」とはいかなるものであったのか。病院世話役を務めた橋本伝右衛門の書留帳『老のくり言(ごと)』には次のように記されている。
2012年秋、この「大石」の行方を捜して岩瀬病院の敷地内や周辺を見て回ったが見つけることはできなかった。
これが事実とすれば几号が刻まれた門標台石は失われたことになる。残念である。 |
現地を調査した日 |
@2005年5月21日 A2012年10月20日 |
参考文献 |
渡辺硣:公立岩瀬病院史、公立岩瀬病院組合、1962年 |
ご 協 力 |
松宮輝明 様(須賀川市)、須賀川市立博物館 様 |
この付近の様子を記した紀行文や記録など |
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1.東北御巡幸記 (岸田吟香:明治9年) |
明治9年作成、須賀川の地籍図。かぎ型の赤い線が陸羽街道。そこから西側の病院に至る通路に門標が描かれている。地番は「大病院壱番」。門標の文字を拡大してみると「福嶋縣病院」と記されている。(松宮様提供の画像を一部加工)
古写真。現在の岩瀬病院と同じ場所に新築された福島県病院と東門の外に建つ門標。
2012年10月20日撮影。地籍図と古写真を参考に門標の場所を推定し合成してみた。
軽自動車の脇に「かすてら」という小さな看板が見える。この建物は慶応2年(1866)創業の「かぎ浜菓子店」という。かぎ浜さんと言えば「かすてら」が有名とのこと。
大正13年(1924)に松井天山が描いた須賀川の鳥瞰図。かぎ浜さんの脇に小さな門標(らしきもの)が描かれている。これが事実とすればもとの場所から東へ20メートルほど移動したことになる。
@ 明治10年当時の陸羽街道 A 明治16年に開鑿された道 B 現在の国道355号線
明治14年巡幸時の道路点検概略表には「須賀川駅ノ北下リ坂頗ル急ナリ」と記している。
現在の須賀川橋は2001年に架け替えられた4代目である。 (地理院地図の白地図を加工)
077 森宿
(更新 20.09.22)
点 名 |
077 森宿(もりじゅく) |
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当時の場所 |
福島県 森宿村 字白石坂大乗妙典供養塔台石 |
現在の地名 |
移設前:福島県 須賀川市森宿字道久 (道の向かい側は字白石坂)
移設後:福島県 須賀川市森宿字海道西 |
海面上高距 |
260.8822m |
前後の距離 |
須賀川 ← 2202.80m → 森宿 ← 4245.00m → 笹川 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
明治10年 官省指令留 |
几号の現存有無 |
移設現存 |
解 説 |
2005年4月、塩竈−東京間の自転車旅行を終えて自宅に帰りついたが、森宿の大乗妙典供養塔を見つけかねたことが心残りであった。事前に几号が現存する「075 鏡沼」から距離を計測し、森宿白石坂の上を本点の推定地と見定めて、往きと帰りの2回探してみたのだがどこにも石碑らしきものは見当たらなかった。範囲を広げ推定地の前後でも探索を行ったが結局几号を発見することはできなかったのである。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月9・18日 A2005年5月21日(几号発見) B2016年12月10日 |
参考文献 |
須賀川市教育委員会:須賀川市史3、近世、1980年 |
ご 協 力 |
須賀川市立博物館 様、松宮輝明 様(須賀川市) |
左:1981年測量、福島県都市計画図 右:現在の地図。地図マピオン (それぞれ加工)
都市計画図では白石坂の上に地図記号「:路傍祠」が見える。(赤円内に拡大表示)これが大乗妙典供養塔を指していると思われる。現在の地図ではその位置を@で示した。現在、供養塔はAの位置に移設されている。@からは400メートル以上も離れている。
また、都市計画図では路傍祠付近の標高が260.8mとあるが、これは「福島県下高低几号所在」に記された260.8822mと極めて近い数値であることも推定地として有益な証拠である。ちなみにAの近傍路面の標高は244.9mであり、この数値の差は移設の事実を物語っている。
2016年12月10日撮影(以下同じ)
大乗妙典供養塔があったと思われる付近の現状。街道の左側は工業団地として造成され昔の地形は失われている。この敷地は日本工営株式会社福島事業所にあたる。
移設されアパート(サンライズ白石坂)の裏手にたたずむ大乗妙典供養塔。場所はスルハチ池の堤塘でありアパートの2階床面とほぼ同じ高さにある。夏場は草木が繁茂し見つけるのが一層難しくなる。しかし、何ゆえこんな場所に移設したのだろう? 詳しいいきさつは不明であるが、移設当時において地権や開発などの関連で問題がなかった場所なのだろう。
左側の石碑が几号の刻まれている大乗妙典供養塔。右側の小振りな石碑は四国西国秩父坂東 百八十八番供養塔。両方とも「文政十三寅年十月吉祥日」(=1830年)に下宿村の木食行者法道が建立したものである。(明治9年に下宿村と中宿村が合併して森宿村が成立した)
台石の左寄りに刻まれた几号。いつも思うのだが、几号を刻む位置を決めるのは測量官だろうか。それとも実際に几号の線を彫る石工さんに任せられていたのだろうか。謎である。
几号。横棒8.9cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.1cm。底辺幅11.0cm。
台石全体に風化も見られるが几号の伝存状態はおおむね良い。
几号の拓本(採拓:畠山) 石塔の寸法 (単位:p、作図:浅野)