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071 踏瀬 (泉崎村踏瀬) 几号現存
072 大和久 (矢吹町大和内)
073 矢吹 (矢吹町北町) 几号現存
074 久来石 (鏡石町久来石)
075 鏡沼 (鏡石町鏡沼) 几号現存
076 須賀川 (須賀川市北町)
077 森宿 (須賀川市森宿) 几号現存

071 踏瀬

(更新 20.08.05)

点   名

071 踏瀬(ふませ)

当時の場所

福島県 踏瀬 字三ツ家愛宕社石華表

現在の地名

福島県 泉崎村踏瀬池ノ入山  愛宕神社境内

海面上高距

304.0458m

前後の距離

小田川 ← 3561.80m → 踏瀬 ← 2729.00m → 大和久

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 踏瀬
 304.0458m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Jumase
 304.0458m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 踏瀬 字三ツ家愛宕社石華表
 304.0458m/1337.1194尺

照合資料 4

地質要報
 踏瀬
 304.0m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 踏瀬
 ―/100丈3尺

照合資料 6

明治10年 官省指令留
 踏瀬村愛宕神社石鳥居 現今祠ナシ
 ―/―

几号の現存有無

現存  【発見:1994年8月20日、関 義治、箱岩英一、田中宗男】

解  説

2011年に未曽有の東日本大震災が発生。それから程なくして須賀川市の松宮輝明様が福島県内の几号標石の被災状況を確認に回られた。本点の石鳥居も地震で倒壊してしまったが、松宮様は几号の保存にもご尽力され、現在では鳥居の一部ではあるが撤去されず目にすることができる。
明治9年8月、内務省地理寮によって石鳥居に几号が刻まれ、その翌月、踏瀬村を管轄する矢吹の区会所から村役に几号保存の徹底を指示する通達が伝えられた。本来ならすべての地点に同様の通達が出されたと推定されるが、現在確認できるのは本点のみである。また、文中の但し書きで「小児等障碍」がないように「竹矢来」を作り廻らすよう指示しているのも興味深い。

現地を調査した日

@2005年4月18日  A2015年2月8日

参考文献

国文学研究資料館 史料館:史料館所蔵史料目録54、陸奥国白河郡踏瀬村箭内家文書目録1、1991年
国文学研究資料館 史料館:史料館所蔵史料目録55、陸奥国白河郡踏瀬村箭内家文書目録2、1992年
山岡光治:地図読み人になろう、地図の上で旧街道を歩く(白河−矢吹)、2009年
福島民友新聞社:「几号」水準点 大震災で無残 −貴重な史跡 調査保存を−、福島民友、2011年6月29日

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

江戸時代、踏瀬村の庄屋・問屋・検断を世襲し、明治維新後も副戸長、用掛兼什長、戸長などを歴任した箭内(やない)家には数多くの文書が伝わった。現在その文書は国文学研究資料館に寄贈されている。
1.明細差出帳 (弘化5年)(文書番号447‐1)
一、愛宕権現  石室    別当 真言宗慈眼寺
   但境内壱丁四方村除キ
2.(仮題)第九区会所からの通達等綴 (明治9年)(文書番号433)
内務省地理寮ニ於テ海面ヨリ高低測量表スル記号ヲ該地在来之不朽物ニ附刻之旨兼而御達相成候処今般係員出張其村愛宕社石鳥居ニ附刻致候以右示談有之候真右保存之義厚ク注意別而□□等障碍不致然以前無洩掲示可申□□□達候也
 但小児等障碍無候□□□竹矢来作廻し可申候事
  九年九月廿日                        第九区会所
     踏瀬□(村カ) 用掛・什長 中

 


2015年2月8日撮影。陸羽街道から見た愛宕神社の入口。供養塔が建ち並ぶ。

 


2005年4月18日撮影。震災で倒壊する前の石鳥居。全高はおおよそ2.5メートル。

 


2011年6月、震災後に松宮様が訪れた時の状態。(画像:松宮様提供)

 


2015年2月8日撮影。震災後に建て直された鳥居。その手前に古い鳥居の一部が残る。

 

  
(左)几号の刻まれた右柱の下部だけ撤去せず残された。台石を含めない几号横棒までの地上高は29センチメートル。 (右)倒壊前の鳥居、右柱裏側には「安政六己未六月吉日 惣村氏子中」と刻まれていた。(安政6年=1859)

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.2cm。石柱全体に風化現象が見られる。

 

072 大和久

(更新 20.08.06)

点   名

072 大和久(おおわぐ)

当時の場所

福島県 大和久 里程標傍掲示場石崖

現在の地名

福島県 矢吹町大和内(やまとうち)

海面上高距

291.9658m

前後の距離

踏瀬 ← 2729.00m → 大和久 ← 2631.00m → 矢吹

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 大和久村
 291.9658m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Owaku
 291.9658m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 大和久 里程標傍掲示場石崖
 291.9658m/963.4871尺

照合資料 4

地質要報
 大和久
 291.9m/―

几号の現存有無

不明

解  説

昭和55年3月、矢吹町は大字名を廃止したため「大和久」の地名表記はなくなった。
ただし点名としては奥州街道の宿駅名でもあった「大和久」の名称を採用する。
明治14年当時の大和久村は、戸数48戸、人口299人、神社1、寺院1。
神社は鎮守の日吉神社。寺院は真言宗豊山派の山王寺。
前点「071踏瀬」(几号現存)からの距離と、後点「073矢吹」(几号現存)からの距離は、どちらも大和久(大和内)集落のほぼ中央にある消防屯所の前後に到達している。几号附刻の位置はこのあたりと見て間違いない。
私は現地調査を2回行ったが、この2回とも家の外を歩いている人や畑仕事などをしている人と出会うことがなかった。なにか話を聞きたくても人がいないのではどうしようもない。陸羽街道も新しい道ができてからは車通りが少なくなり大和久(大和内)は静かな集落となっている。
以前「070小田川」でも同様のことを記したが、掲示場の土台石組がどこかの家の石垣や建物の土台石などに再利用されていることも考えられる。集落のどこかで人知れずひっそりと生き残っている可能性もゼロとは言えない。几号の現存有無はあえて「不明」と記しておく。

現地を調査した日

@2005年4月18日  A2015年2月8日

参考文献

山岡光治:地図読み人になろう、地図の上で旧街道を歩く(白河−矢吹)、2009年

 


2005年4月18日撮影。火の見櫓とポンプ小屋。「矢吹町消防団第一分団第四部」
福島県の火の見櫓は銀色でデザインも洗練されていて見つけるたびに嬉しくなった。

 


2019年5月にGoogleさんが撮影。角の新しい建物は「第一分団第四部消防屯所」。
火の見櫓は消えてしまった。右側の樹木もなくなり同じ場所とは思えないくらいだ。

 

073 矢吹

(更新 20.09.01)

点   名

073 矢吹(やぶき)

当時の場所

福島県 矢吹新田 会田勘左エ門所有地石地蔵

現在の地名

福島県 矢吹町本町

海面上高距

287.4985m

前後の距離

大和久 ← 2631.00m → 矢吹 ← 2480.00m → 久来石

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 磐城白河郡 矢吹新田
 287.4985m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Yabuki Shinden
 287.4985m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 矢吹新田 会田勘左エ門所有地石地蔵
 287.4985m/948.7451尺

照合資料 4

地質要報
 矢吹新田
 287.4m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 矢吹
 ―/94丈8尺

几号の現存有無

現存  【発見:1994年3月11日、箱岩英一、関 義治】

解  説

几号の刻まれているお地蔵様は「下の地蔵」と呼ばれている。
お地蔵様に刻まれた銘文は私の断片的なメモで申し訳ないが、「寛延二年四月、会田太郎左衛門正信、造立、為先祖代々之霊、町内安全、衆童之息災」などと刻まれている(寛延2年=1749)。さらに「昭和十年三月□繕、会田宗太郎」と追刻もある。不明の文字は「修」と推定。会田宗太郎は会田病院の初代院長である。
お地蔵様の造立者であり土地の所有者であった会田氏に関する伝記は『白河風土記』に見える。詳しくは下に記した「この付近の様子を記した紀行文や記録など」をご覧になっていただきたい。参考までに幕末・嘉永年間の会田家当主は会田勘左衛門正信といい、矢吹新田村の庄屋を務めていた。街道に面した間口は28間もあったらしく、現在の会田病院敷地と同じ間口をすでに所有していたことがわかる。
寛永10年(1633)に矢吹村から分離独立した矢吹新田村であるが、矢吹村の北に位置し街道沿いの家並みはつながっていた。会田病院から3軒南側にある細い道路がかつての境界とされている。明治10年3月、矢吹新田村は矢吹村に併合された。
さて、本点の発見談は箱岩英一氏と関義治氏の『奥州街道と明治水準点追跡6』(1996年)に記されている。お二方は福島市の県立図書館で歴史的な遺跡物に関する調査報告書なども調べてみようとなり、福島県教育委員会発行の『歴史の道 奥州道中』を見つけページをめくってみると、「矢吹町北町、下の地蔵の台石に、かすかに不几号らしき物が写っている写真が目に入った。現地で確認の結果、それはまさしく高低几号標であった」と記している。
なお、お地蔵様から65メートルほど北に進むと一等水準点 第2102号(標高288.2016m)がある。地理局の測定結果もこれに近い数値である。

現地を調査した日

@2004年9月10日  A2015年2月8日

参考文献

西白河郡役所:西白河郡誌、1915年
広瀬典:白河風土記、地之巻、堀川古楓堂、1932年
矢吹町:目で見る矢吹町史、1975年
矢吹町:矢吹町史3、資料編2、1978年
矢吹町:矢吹町史1、通史編、1980年
福島県教育委員会:歴史の道 奥州道中 白坂境明神−貝田、1983年
箱岩英一・関義治:奥州街道と明治水準点追跡6、測量、日本測量協会、1996年
江戸道中絵図(江戸から米沢)、市立米沢図書館所蔵、堀尾家文書22、江戸後期

ご 協 力

山形県米沢市 市立米沢図書館 様

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

1.白河風土記 巻11 矢吹村 
本陣 会田宗左衛門
先祖佐久間靱負天文年中矢吹中森ト云フ所ニ居住ス、永禄年中小野仁井町会田遠江守男源藤太ノ養子トナル故ニ姓ヲ会田ト改ム、又野武士ト成テ中森ニ再住ス、石川昭光代会田宗左衛門ヲ矢吹村ノ庄屋トス、寛永年中新田開発ノ功ニヨリテ次男太郎左衛門矢吹新田村ノ庄屋トナル、宗左衛門ハ代々本陣ナリ
2.白河風土記 巻11 矢吹新田村
矢吹村家続キ丹羽五郎左衛門長重代寛永十酉年新田開発シテ一村トナル
農夫 勘左衛門
勘左衛門ハ元来本郷矢吹村会田惣左衛門ノ分家、寛永十酉年丹羽五郎左衛門長重ノ代新田高八十五石余開発、其後貞享・元禄・宝永年中三ケ度ニ高拾六石余開発、新田高合セテ百二石余墾菑ノ功ニヨツテ会田惣左衛門次男太郎左衛門右地所ノ庄屋トナル、貧窮ニ泥ミテ是ヲ辞シ今勘左衛門農夫トナレリ

 


江戸後期成立『江戸道中絵図』(市立米沢図書館所蔵。堀尾家文書22)の矢吹宿
江戸から米沢までの道中を描いた絵図帳で、矢吹宿の北口外に石地蔵が描かれている。
全編は同館のデジタルライブラリーで閲覧できる。 ※ 資料掲載許可済

 


2004年9月10日撮影。陸羽街道から見た「下の地蔵」。手前の車と比較してもその大きさがおわかりと思う。この付近に矢吹宿の下の枡形があったと思われる。

 


2004年9月10日撮影。お地蔵様の台石に立てかけてある石は、それぞれの台石を失った供養塔。ここでも常にきれいなお花がお地蔵様に供えられている。

 


2015年2月8日撮影。几号の位置は赤円で示した。上台石のやや右寄りに刻まれている。

 


2015年2月8日撮影。几号。横棒9.0cm、縦棒10.5cm。台石全体に風化が見られる。

 

石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野)

図面を書く段階になって唖然としたがなんとも雑な計測で恥じ入るばかりである。
『歴史の道 奥州道中』には全高3.2メートル、本尊2.1メートルと記載がある。

 

074 久来石

(更新 20.08.18)

点   名

074 久来石(きゅうらいし)

当時の場所

福島県 久来石 鈴木文之助土蔵石崖

現在の地名

福島県 鏡石町久来石

海面上高距

283.9045m

前後の距離

矢吹 ← 2480.00m → 久来石 ← 4106.86m → 鏡沼

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 岩代岩瀬郡 久来石村
 283.9045m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kiuraishi
 283.9045m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 久来石 鈴木文之助土蔵石崖
 283.9045m/936.8849尺

照合資料 4

地質要報
 久来石村
 283.9m/―

几号の現存有無

不明

解  説

本点は前点「073矢吹」石地蔵(現存)からの距離と、後点「075鏡沼」供養塔(移設現存)からの距離により、几号附刻地点は久来石集落のやや北寄りと範囲を絞り込めている。
また、現地調査および福島県歴史資料館が所蔵する明治期の地籍帳・地籍図、さらには須賀川市の松宮輝明様からの情報により、「久来石 鈴木文之助」の居住地もほぼ特定できた。
2013年秋、几号附刻地と推定されるお宅を訪ねたがあいにくお留守でお話しを伺うことはできなかった。「ここ」という最終確認ができていない状態で個人宅を公表することは控えなければならないだろう。
本Web公開までに現地の再訪は叶わなかったが、いずれの日にか補完を期したい。

現地を調査した日

@2004年9月10日  A2005年4月9日  B2013年11月16日

参考文献

 

 


2005年4月9日撮影。陸羽街道の北側から見た几号附刻の推定範囲。

 


2013年11月16日撮影。街道の南側から見た几号附刻の推定範囲。(画像の一部を加工)

 

075 鏡沼

(更新 20.09.12)

点   名

075 鏡沼(かがみぬま)

当時の場所

福島県 鏡田村 常松縫殿之介義久ノ墓

現在の地名

移設前:福島県 鏡石町鏡沼147番地付近

移設後:福島県 鏡石町鏡沼76番地  西光寺(境内墓域)

海面上高距

273.5965m

前後の距離

久来石 ← 4106.86m → 鏡沼 ← 4294.00m → 須賀川

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 鏡田村
 273.5965m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Kagamida
 273.5965m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 鏡田村 常松縫殿之允義久ノ墓
 273.5965m/902.8685尺

照合資料 4

地質要報
 鏡田村
 273.5m/―

照合資料 5

明治10年 官省指令留
 鏡田村 豎通三界横括九居台石
 ―/―

几号の現存有無

移設現存

解  説

『福島県下高低几号所在』の原本には「常松縫殿之允義久」と記されている。「縫殿之允」の「允」を「すけ」と読まないわけではないが、「介(すけ)」の字が転写の過程で「允」に変化したのではないかと想像している。なお、本項では一般的な表現である「縫殿助(ぬいのすけ)義久」で統一する。
岩瀬郡鏡沼村の常松家に関しては『白河風土記』にその概略が記されている。

 

郷士 常松与左衛門
先祖ハ保土原村ノ住保土原主水所士ト成リテ常陸国松川ノ郷ニ居住シテ弘治年中保土原村ヘ帰住シテ保土原江南斎ノ弟縫殿之助ヲ養子トシテ天正元年須賀川ノ城主二階堂家ニ属シテ田数廿丁ヲ采地トシテ岩淵村ノ舘ニ住ス、天正年中二階堂家落城ノ折縫殿之助義久主従十九人江持村阿武隈川端ニテ戦死ス、嫡子義次死ヲ遁レ仁井田村ニ潜居シテ農夫トナル、義次ノ男元重鏡沼村仁井田村ノ庄屋トナル、其孫次郎右衛門郷士トナツテ相次ク

 

ここで大庄屋を務めた常松家の歴史を論考する余地はないので省略するが、天正17年(1589)10月、伊達政宗の須賀川城攻略戦により城主二階堂家は滅亡。二階堂家の家臣であった縫殿助義久も郎党18人とともに須賀川城の北東、阿武隈川の江持河原で戦死したと伝えられる。享年31歳。鏡沼の常松家ではこの縫殿助義久を初代としている(「常松家譜考」『鏡石町史1』)。
踏み込んだ調査ができていないため、几号の刻まれている「豎通三界横括九居」塔が初代義久の墓であるという確証は得られていないが、几号が刻まれた直後の史料である『明治10年 官省指令留』の「豎通三界横括九居」塔と、『福島県下高低几号所在』の「義久の墓」は同一の石碑を指していることは疑う余地はない。少なくとも地理局の測量官は「豎通三界横括九居」塔が「義久の墓」と認識していたことになる。
石碑はかつての鏡田宿の南口外にあたる場所にあったが、現在は西光寺境内に移設されている。几号は旧位置にあった時点に刻まれたものである。
最後に「豎通三界横括九居」の解説を付け加える。これは中国浄土宗の善導大師の著作『安楽行道転経願生浄土法事讃』の出てくる文言で、「豎(しゅ)には三界に通じ横(おう)には九居(くこ)を括(くく)る」と読むそうである。難しい解釈は私自身もわからないのであるが、縦と横の線をそれぞれ2本ずつ引くと9つの区割りができる。これが九居(くこ)なるもので、生きとし生けるものが存在できる9つの領域ということになるという。また「豎通三界横括九居」は塔婆の裏に記される経典要文ともされ、三界万霊施餓鬼供養の意味もあわせ持つ。几号の刻まれている石碑は延宝7年(1679)建立の追善供養塔と見ることができる。(この件については本項末尾に掲載した「新発見 常松縫殿助義久供養の阿弥陀如来坐像」もお読み頂きたい)

現地を調査した日

@2004年9月10日(発見)  A2005年4月9・18日  B2015年2月8日

参考文献

岩瀬郡役所:岩瀬郡誌、1923年
広瀬典:白河風土記、地之巻、堀川古楓堂、1932年
須賀川市教育委員会:須賀川市史2、中世2 二階堂領時代 本編、1973年
鎌倉市教育委員会・鎌倉国宝館:鎌倉地方造像関係資料6、1973年
鏡石町:鏡石町史1、通史編、1985年
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石4、特別付録 新たに確認した高低几号、2005年

ご 協 力

常松健夫 様(鏡石町)、西光寺 様(鏡石町)

大善寺 様(横浜市戸塚区)、神奈川県立図書館 様

 

調査回顧録 「街道 行ったり来たり」
2004年9月10日、私と畠山君は昼前に電車で矢吹駅に降り立った。駅前の食堂で腹ごしらえをし陸羽街道を北に向かって歩き出した。最初に矢吹の石地蔵に刻まれている几号を調査。次は久来石へ。久来石では「几号は何に刻んだのだろう?」と丹念に見て回ったが結局手掛かりをつかめずに通過。そのまま歩いて歩いて午後4時過ぎ鏡沼へ入る。ここでは明治10年『官省指令留』に記された「鏡田村 豎通三界横括九居台石」という呪文のような石造物を探さねばならない。この呪文も当時は原本に書き記された「豎通三九居」が正しいものと思っていた。

「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記された距離により割り出された推定地に到着。しかしそこは普通の住宅が建ち並ぶだけで石造物がありそうな雰囲気はまったくない。移設された可能性もあるので近くの西光寺に行ってみる。お寺さんの入口から石碑類を見て回るが呪文のような文言が刻まれたものは見つからない。本堂前に到達して万事休す。
最後はご住職に話を聞いてみようと呼び鈴を押す。対応に出てこられたのはご住職の奥様であった。訪問した経緯を述べる。呪文のような「豎通三九居」という石碑には心当たりがないという。藁にもすがる思いで「少し南側の場所にあったと思われるのですが?」と聞いてみると、「2,3百メートル南側から移設した石碑ならありますよ」と驚きの言葉が返ってきた。はやる思いでその場所へご案内いただいた。本堂裏に広がる墓地を進み「これです」と示されたのは背の高い石碑であった。私と畠山君は目を皿のようにしてその石碑を凝視した。「???」「あったーー!!!」 われわれの歓声が静かな墓地に響き渡る。台石の端に消え入りそうな几号を見つけたのである。案内してくださった奥様も「良かったですね」と喜んでくださった。時刻は午後5時。石碑の計測や刻銘の調査を終えた時には薄暗くなっていた。
帰りぎわにお礼と報告かたがたお寺さんに再び声をかけると、外出しておられたご住職がお帰りになっており、われわれが正しく判読した「豎通三九居」の意味をご説明いただいた。すっかり日も暮れてしまったが、几号を発見し上機嫌の二人は鏡石駅前の中華屋さんでご飯を食べ帰路についた。

 


『鏡石町史』第1巻・通史編(p.815)に掲載の「鏡田地籍図による常松家位置」
常松家初代墓地、西光寺、常松家屋敷の位置関係がよくわかる図である。

 


2005年4月9日撮影。この付近に常松家初代墓地があった。最新のGoogleストリートビューを確認したところ中央に写る家屋はなくなり更地となっていた。

 

2005年4月18日撮影。西光寺境内に移設された石碑。
【お願い】几号の刻まれた石碑は個人の墓所内にあります。調査見学の際は汚したり傷つけたりしないよう十分注意を払ってください。よろしくお願いします。 Web管理人(浅野)

 


2005年4月18日撮影。下台石の左寄りに刻まれた几号。

 


2005年4月18日撮影。几号。横棒9.5cm、縦棒10.0cm。台石全体に風化や欠損が見られる。几号横棒の上部にも石の欠損があり、その影響は横棒の線刻にまで及んでいる。

 

石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※刻銘はイメージ

 

新発見 常松縫殿助義久供養の阿弥陀如来坐像

常松縫殿助義久のことを調べていたら思いもよらぬ情報が見つかった。
鎌倉国宝館発行の『鎌倉地方造像関係資料6』(1973年)に横浜市戸塚区の大善寺にある木造阿弥陀如来坐像頭部内側墨書銘が紹介されていた。その銘文には「常松義久」の名前があるほかに、豎通三界横括九居の刻銘と多くの共通点があるのである。1の墨書銘は紹介の本の文字を転記、2は碑面から判読できた文字。

常松家と大善寺の関係を解明するため早速大善寺に問い合わせの手紙を書き、後日ご住職様からお電話を頂いた。それによると、ご住職様も檀家役員も常松家や墨書銘のことは初めて聞く話だという。
さらに神奈川県立図書館にも調査依頼をしたが、大善寺の墨書銘については他に文献が見つからないとのことであった。2020年9月10日現在、調査で判明したことはここまでである。
私と畠山君が薄暗くなってきた墓地で書きとめた文字に誤読がないとは言い切れない。しかし、1と2の双方に誤読があったとしても男女の戒名や「善阿法師」などの記述は同一と見なせることから、延宝年間に常松義久の追善供養として共通の人物によって仏像の制作と供養碑の建立が行われたことは間違いない。
そうなると次の謎解きは石碑を建立した岩淵村の常松家だろうか。義久の館があった村である。
しかし、何ゆえ横浜市戸塚区のお寺さん ???
高低几号とは違う分野になってしまうが、乗り掛かった舟である。今後も調査を継続することにする。

 

076 須賀川

(更新 20.09.09)

点   名

076 須賀川(すかがわ)

当時の場所

福島県 須賀川 福島県病院門標石礎

現在の地名

福島県 須賀川市北町

海面上高距

254.7545m

前後の距離

鏡沼 ← 4294.00m → 須賀川 ← 2202.80m → 森宿

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 須賀川駅
 254.7545m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Sukagawa
 254.7545m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 須賀川 福島県病院門標石礎
 254.7545m/840.6899尺

照合資料 4

地質要報
 須賀川駅
 254.7m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 須加川
 ―/84丈

几号の現存有無

亡失(の可能性が大きい)

解  説

『福島県下高低几号所在』には「福島県病院門標石礎」と記されている。
ここで簡単に公立岩瀬病院に至る変遷を記しておく。
明治5年2月   白河の県立仮病院を須賀川の旧本陣に移す。「福島県病院」誕生
明治6年4月   県令の方針により県立病院を廃される
明治6年5月   私立須賀川病院として診察を継続
   10月   県令の交代により再び県立病院となる。病院新築へ動き出す
明治6年1月   現在の場所を適地として病院建設の上棟式
明治6年4月   落成式
明治15年6月   県立病院が廃止され私立須賀川病院として継続する
明治16年5月   岩瀬郡公立病院となる
明治30年    岩瀬郡立病院と改める
大正12年4月   公立岩瀬病院と改める

 

では几号を刻んだ「門標石礎」とはいかなるものであったのか。病院世話役を務めた橋本伝右衛門の書留帳『老のくり言(ごと)』には次のように記されている。
長禄寺ノ杉ヲ切、大工ハ白川ヨリ引上ケ建築落成ス、東門ノ前ニ福島県立病院ト票杭ヲ立、台ハ大石ヲ用ユ
「台ハ大石ヲ用ユ」とあるので複数の石を積んだ組石ではなく1個の大きな石を切り出して台石にしたものと思われる。当時の病院を撮影した写真にその門標が写っている。鮮明さは欠くがこれによりおおよその形状がつかめる。
病院前で鍵の手に屈曲していた陸羽街道は明治16年に改修されている。新たに北町坂が開鑿され釈迦堂川には新しい橋が掛けられた。これにより病院の門標は新道から奥まる位置となってしまった。大正時代の鳥瞰図を見れば門標(らしきもの)の位置は、この新道に面した場所に建っていることから、いつかの時点で移設されたと思われる。現在はさらに釈迦堂坂が開通し道路の変遷が激しい場所である。

 

2012年秋、この「大石」の行方を捜して岩瀬病院の敷地内や周辺を見て回ったが見つけることはできなかった。
そこで須賀川市在住の松宮輝明様に門標の行方探索をお願いした。松宮様はさっそく岩瀬病院のすぐ近くにお住まいという須賀川市の元文化財審議委員の先生(昭和10年生)から証言を得られ、その貴重な情報が私にもたらされた。それによると、
1.岩瀬病院の標柱台石は昭和39年の道路拡張工事の際に石工が壊してしまった。
2.台石の大きさは3尺位で正方形の形をしていた。
3.もともとは須賀川の釈迦堂(藩境)にあったものを明治5年に移設した。
4.記憶にある当時の標柱は木製であった。

 

これが事実とすれば几号が刻まれた門標台石は失われたことになる。残念である。
昭和39年(1964)まで門標台石が残っていたとすれば、門標を主体に写した写真、もしくは門標が写りこんだ写真がどこかに残っているはずである。その写真で几号が確認できれば幸運であるが、たとえ見えなくてもよいので門標を写した鮮明な写真が見つかることを願っている。

現地を調査した日

@2005年5月21日  A2012年10月20日

参考文献

渡辺硣:公立岩瀬病院史、公立岩瀬病院組合、1962年
明治文化研究会編、明治文化全集17、皇室編、日本評論社、1967年
渡辺硣:公立岩瀬病院百年史、公立岩瀬病院組合、1972年
須賀川市教育委員会:須賀川市史4、近代・現代1、1975年
須賀川市教育委員会:須賀川市史写真集 須賀川の歴史と文化財、1984年
橋本伝右衛門:老のくり言 一代事務取扱日誌、福島県立図書館所蔵複製本
国立公文書館所蔵、公文録・明治14年・第241巻・明治14年巡幸雑記3、 御先発第二回報告白河以北須賀川ヨリ仙台迄ノ道路并宿駅御休泊割等ノ件

ご 協 力

松宮輝明 様(須賀川市)、須賀川市立博物館 様

 

この付近の様子を記した紀行文や記録など

1.東北御巡幸記 (岸田吟香:明治9年)
6月14日
福島県下の道路は、至て清潔にて、高き坂も五六ケ所ありしが、何れも崕の上には扶手(てすり)を造りて危難を予防し、往来は、去年直せしものと見えて好く固り、車の走りもよく、(中略) 午後二時二十分過に、須賀川の行在所に入御あらせ玉ふ。(中略)須賀川町の行在所は、本町一丁目の区会所なり。(中略) 午後四時ころ、岩倉公、木戸公、杉公は、宮内の大少丞、侍従医官の諸君と共に、勅を奉して、此駅の北はづれなる病院を御巡見なされ、病院は福島に一ケ所、この処に一ケ所あり(後略)
6月16日
天気朗晴、午前七時須賀川駅を御発輦に成り、駅の北の出はつれに福島第二病院あり、御輦の内より御覧に成る、此駅は、南の入口に長き登り坂あり、又北の出口に下り坂ありて、小高き処なり、病院は、坂の上に在り、下には安積郡より流れ出る川あり、此病院は、気色も宜しく、建物も西洋風にて、中々立派なる物なり、最初は、土地の者も不馴れにて、病人も入院する者なかりしが、近頃は、来りて治を乞ひ、入院するもの多きよし、川を渡りて森宿村に至らんとする辺には、須賀川小学校の生徒が、六七百人列を正して道の両側に立ならび、鳳輦を見送り奉る、

 


明治9年作成、須賀川の地籍図。かぎ型の赤い線が陸羽街道。そこから西側の病院に至る通路に門標が描かれている。地番は「大病院壱番」。門標の文字を拡大してみると「福嶋縣病院」と記されている。(松宮様提供の画像を一部加工)

 


古写真。現在の岩瀬病院と同じ場所に新築された福島県病院と東門の外に建つ門標。

 


2012年10月20日撮影。地籍図と古写真を参考に門標の場所を推定し合成してみた。
軽自動車の脇に「かすてら」という小さな看板が見える。この建物は慶応2年(1866)創業の「かぎ浜菓子店」という。かぎ浜さんと言えば「かすてら」が有名とのこと。

 


大正13年(1924)に松井天山が描いた須賀川の鳥瞰図。かぎ浜さんの脇に小さな門標(らしきもの)が描かれている。これが事実とすればもとの場所から東へ20メートルほど移動したことになる。

 


@ 明治10年当時の陸羽街道  A 明治16年に開鑿された道   B 現在の国道355号線
明治14年巡幸時の道路点検概略表には「須賀川駅ノ北下リ坂頗ル急ナリ」と記している。
現在の須賀川橋は2001年に架け替えられた4代目である。   (地理院地図の白地図を加工)

 

077 森宿

(更新 20.09.22)

点   名

077 森宿(もりじゅく)

当時の場所

福島県 森宿村 字白石坂大乗妙典供養塔台石

現在の地名

移設前:福島県 須賀川市森宿字道久 (道の向かい側は字白石坂)

移設後:福島県 須賀川市森宿字海道西

海面上高距

260.8822m

前後の距離

須賀川 ← 2202.80m → 森宿 ← 4245.00m → 笹川

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 岩瀬郡 森宿村
 260.8822m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Morijiku
 260.8822m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 森宿村 旧森下 字白石坂大乗妙典供養塔
 260.8822m/860.9113尺

照合資料 4

地質要報
 森宿村
 260.8m/―

照合資料 5

明治10年 官省指令留
 森宿村 奉納大乗妙典供養塔台石
 ―/―

几号の現存有無

移設現存

解  説

2005年4月、塩竈−東京間の自転車旅行を終えて自宅に帰りついたが、森宿の大乗妙典供養塔を見つけかねたことが心残りであった。事前に几号が現存する「075 鏡沼」から距離を計測し、森宿白石坂の上を本点の推定地と見定めて、往きと帰りの2回探してみたのだがどこにも石碑らしきものは見当たらなかった。範囲を広げ推定地の前後でも探索を行ったが結局几号を発見することはできなかったのである。
ここは観念して須賀川市立博物館に大乗妙典供養塔の所在確認をお願いすることにした。程なくして博物館から「供養塔が見つかった」との返事が届いた。
自転車旅行から1か月後、今度は畠山君と一緒に須賀川へ赴き、博物館から教えられた場所へ不安と確信の両方をいだいて向かった。
そこは推定地と見定めた白石坂の上からは400メートル以上も南であった。陸羽街道に面しているとはいえ2階建てアパートの裏手で、しかも少し高くなった場所にひっそりと石碑が鎮座していたのである。自転車旅行の際も白石坂の下までは自転車から降りて見て回ったのであるが、アパートの少し手前にある一里塚跡供養塔群を最後にあきらめたのが運の尽きであった。また、白石坂の上と下では標高が約16メートルも違う。この高低差も探索のまなこをにぶらせたのかも知れない。
その後、都市計画図の確認や須賀川市在住の松宮輝明様の聞き込み情報などにより、大乗妙典供養塔は移設されたことが確かめられている。
時間を経れば私自身で移設先の大乗妙典供養塔にたどり着いたかも知れないが、今回は須賀川市立博物館のご協力があって発見することができた。なお、博物館とのやりとりは2007年の「広報すかがわ」4月号・5月号に紹介されている。→ 広報すかがわ

現地を調査した日

@2005年4月9・18日  A2005年5月21日(几号発見)  B2016年12月10日

参考文献

須賀川市教育委員会:須賀川市史3、近世、1980年
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石4、特別付録 新たに確認した高低几号、2005年

ご 協 力

須賀川市立博物館 様、松宮輝明 様(須賀川市)

 


左:1981年測量、福島県都市計画図  右:現在の地図。地図マピオン (それぞれ加工)
都市計画図では白石坂の上に地図記号「:路傍祠」が見える。(赤円内に拡大表示)これが大乗妙典供養塔を指していると思われる。現在の地図ではその位置を@で示した。現在、供養塔はAの位置に移設されている。@からは400メートル以上も離れている。
また、都市計画図では路傍祠付近の標高が260.8mとあるが、これは「福島県下高低几号所在」に記された260.8822mと極めて近い数値であることも推定地として有益な証拠である。ちなみにAの近傍路面の標高は244.9mであり、この数値の差は移設の事実を物語っている。

 


2016年12月10日撮影(以下同じ)
大乗妙典供養塔があったと思われる付近の現状。街道の左側は工業団地として造成され昔の地形は失われている。この敷地は日本工営株式会社福島事業所にあたる。

 


移設されアパート(サンライズ白石坂)の裏手にたたずむ大乗妙典供養塔。場所はスルハチ池の堤塘でありアパートの2階床面とほぼ同じ高さにある。夏場は草木が繁茂し見つけるのが一層難しくなる。しかし、何ゆえこんな場所に移設したのだろう? 詳しいいきさつは不明であるが、移設当時において地権や開発などの関連で問題がなかった場所なのだろう。

 


左側の石碑が几号の刻まれている大乗妙典供養塔。右側の小振りな石碑は四国西国秩父坂東 百八十八番供養塔。両方とも「文政十三寅年十月吉祥日」(=1830年)に下宿村の木食行者法道が建立したものである。(明治9年に下宿村と中宿村が合併して森宿村が成立した)

 


台石の左寄りに刻まれた几号。いつも思うのだが、几号を刻む位置を決めるのは測量官だろうか。それとも実際に几号の線を彫る石工さんに任せられていたのだろうか。謎である。

 


几号。横棒8.9cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.1cm。底辺幅11.0cm。
台石全体に風化も見られるが几号の伝存状態はおおむね良い。

 

  
几号の拓本(採拓:畠山)     石塔の寸法 (単位:p、作図:浅野)