032 下石橋 (下野市)
033 石橋 (下野市石橋) 几号現存
034 鞘堂新田 (上三川町鞘堂)
035 雀宮 (宇都宮市雀の宮)
036 台新田 (宇都宮市台新田町) 几号現存
037 宇都宮 南 (宇都宮市花房3丁目) 几号現存
038 宇都宮 中央 (宇都宮市)
032 下石橋
(更新 20.01.25)
点 名 |
032 下石橋(しもいしばし) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 小金井 下石橋 両村界標向 新設石標 |
現在の地名 |
栃木県 下野市小金井と下石橋の境界 |
海面上高距 |
62.3926m |
前後の距離 |
小金井 ← 2824.48m → 下石橋 ← 2430.66m → 石橋 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
もとの国分寺町小金井と石橋町下石橋の境界。現在は合併してともに下野市となっている。地理局雑報では「村界標向」と記しているので、街道を挟んで一方に村の境界標があり、その向かい側に几号標石を新設したと解釈できる。
現在、小金井側は宅地になり、下石橋側は雑木林になっている。標石の設置が小金井寄りであれば現存の望みはほぼないが、仮に下石橋寄りであれば雑木林の中に転がっている可能性もある。道端から覗き込んだ限りでは見つけることができなかった。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月12日 A2015年5月23日 |
参考文献 |
※※※ |
下野市小金井の陸羽街道を北上。2005年4月は自前の自転車で、10年後の2015年5月はレンタサイクルで調査を行った。真っすぐ延びる街道脇では麦の穂が風になびいている。交通量の多い幹線道路と違ってまことにのどかである。
栃木といえば干瓢の産地である。特に下野市の干瓢は有名である。そこかしこにユウガオ畑が広がる。水稲単作である自分の地域との違いを感じつつ目的地へ向かう。
麦畑やユウガオ畑を見ながら真っすぐな道を進んでゆくと赤の円で記した場所に突き当たる。ここが地理局雑報に記す「小金井 下石橋 両村界」である。(国立研究開発法人農業環境技術研究所が提供している歴史的農業環境閲覧システムを利用した明治の迅速測図(陸軍)と、マピオンを利用した現代の地図を同縮尺にしてそれぞれ加筆した)
明治の地図ではこの先の下石橋分にも旧道の道筋が描かれているが、現在はご覧のように鬱蒼とした雑木林になっている。しかし、現在の地図を見ると街道跡と重なるように下石橋の区割りが細長く(約390m)入り込んでいるのがわかる。(ただし国土地理院の地図は若干異なっているので公図などで検証が必要である) なお、この消えた街道跡には一里塚(西側のみ)が現存していることも付け加えておく。
東側(新道側)から旧道の突き当りを見る。はたして「村界標向 新設石標」はこの藪の中に眠っているのか、それともすでに撤去・廃棄されてしまったか。今後の探索にかすかな希望を持っている。布達規定の標石、ぜひ探し当てていただきたい。
2005年に撮影した突き当りの場所。この時ご近所に住むお二方に話を聞いている。どちらも石碑のようなものは見た記憶がないという。秋には栗拾いに入っていくと言っていたが、2015年の再訪時は一層と木々が生い茂ったような気がする。
033 石橋
(更新 20.01.30)
点 名 |
033 石橋(いしばし) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 石橋駅南口字花ノ木妙法供養塔 |
現在の地名 |
移設前:栃木県 下野市石橋 / 花の木1丁目
移設後:栃木県 下野市石橋364 愛宕神社 |
海面上高距 |
67.5011m |
前後の距離 |
下石橋 ← 2430.66m → 石橋 ← 3244.70m → 鞘堂新田 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
現存(移設) |
解 説 |
「南無妙法蓮華経」と諸仏名を刻んだ題目曼荼羅塔。愛宕神社境内に移設。もともとあった場所も移設の年代も不明である。地理局雑報に「字花ノ木」とあるので「本町交差点」の南側と推定される。現在、その付近の街道西側は住居表示により花の木1丁目となっている。
(参考)愛宕神社の故地である下石橋愛宕塚古墳について |
現地を調査した日 |
@2005年4月12日 A2015年5月23日 |
参考文献 |
国立公文書館デジタルアーカイブ、日光道中絵図 巻6 |
国立公文書館所蔵「日光道中絵図」巻6 (天保14年・1843年) 石橋宿
宿入口にあたる中央の上に「花木権現」と見える。供養塔はこの近辺の街道沿い(字花ノ木)にあったと考えられる。移設先である愛宕神社はこの当時右上の場所(字白山。古墳の上)にあって、大正元年(1912年)に左下に見える「石橋大明神」(稲荷神社)の地へ遷座した。(日光道中略記に「稲荷社 宿内惣鎮守、花表に石橋大明神の額を掲くれとも其様をしらすと云」とある)。村社である愛宕神社の遷座に際し、愛宕神社が社格上位であることから、もともとあった稲荷神社(石橋大明神)は合祀された。
現在の愛宕神社境内に建ち並ぶ供養塔群。街道からは70mほど奥まった場所にある。この中央にある石塔に几号が刻まれている。
日蓮宗の題目「南無妙法蓮華経」を中心にして、周囲には如来・菩薩・明王・四天・日本の神々などの諸仏名を配置した題目曼荼羅塔である。右側面に「天下泰平宿内安全」、左側面に「文久二壬戌年十月大安日」(=1862年)と刻む。
几号は下から2段目の台石に刻まれている。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.1cm。縦棒に少し欠損が見られる。
石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※碑文はイメージ
034 鞘堂新田
(更新 20.02.07)
点 名 |
034 鞘堂新田(さやどうしんでん) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 銷堂新田字西裏星宮神社華表 |
現在の地名 |
栃木県 上三川町鞘堂128 星宮神社 |
海面上高距 |
76.9756m |
前後の距離 |
石橋 ← 3244.70m → 鞘堂新田 ← 4172.00m → 雀宮 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
亡失 |
解 説 |
現在の鳥居は2011年の東日本大震災後に再建されたものである。その以前、2005年の調査において近所の方に聞いた話では「古い石鳥居に車が衝突し鳥居は大破した。それで新しい鳥居を建てた」とのこと。これは昭和45年銘の鳥居建立のいきさつであると思われる。その大破した石鳥居に几号が刻まれていたのかは不明である。
地理局雑報に記す小字の「西裏」は、正しくは「西浦」と表記するようである。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月12日 A2015年5月23日 |
参考文献 |
国立公文書館デジタルアーカイブ、日光道中絵図 巻6
ご協力:上三川町教育委員会事務局 生涯学習課 |
国立公文書館所蔵「日光道中絵図」巻6 (天保14年・1843年)
「星宮 鞘堂新田の鎮守なり」と記す。
星宮神社の社頭、陸羽街道を北に見る。この先は宇都宮に至る。
星宮神社の社頭、陸羽街道を南に見る。この先は石橋に至る。
現在の鳥居。銘は「平成二十三年十月吉日建」とある。この年の3月に発生した東日本大震災で上三川町は震度5強の揺れを観測した。その際に石鳥居が倒壊してしまい建て直したものである。
東日本大震災の前、2005年に訪ねた際の鳥居。銘は「昭和四十五年一月吉日 氏子一同建之」とあった。
鳥居前にある栃木県が設置した地盤沈下調査用の水準点(55-120)
平成30年度の水準測量成果表によると標高は76.0378m。
035 雀宮
(更新 20.02.07)
点 名 |
035 雀宮(すずめのみや) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 雀宮駅北口馬頭観世音供養塔 |
現在の地名 |
栃木県 宇都宮市雀の宮1丁目2 / 雀の宮2丁目7 周辺 |
海面上高距 |
91.5611m |
前後の距離 |
鞘堂新田 ← 4172.00m → 雀宮 ← 2557.32m → 台新田 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
雀宮神社に隣接して馬頭観世音塔があるが几号は確認できない。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月12日 A2015年5月23日 |
参考文献 |
国立公文書館デジタルアーカイブ、日光道中絵図 巻6 |
国立公文書館所蔵「日光道中絵図」巻6 (天保14年・1843年)
雀宮宿北口の東側には赤い鳥居の雀宮大明神が鎮座する。その向かい側に「馬頭観音」と記された建物が描かれている。同じ場所を分間延絵図(文化3年・1806年)で見てみると「石観音」と記されている。この場所に馬頭観音の石塔があったことは確かなようだ。
「東京まで100q」と表示されたキロポストから陸羽街道を南に見る。江戸時代後期に馬頭観音の石塔があったと思われる場所は現在100円ショップとなっている。その向かい側は雀宮神社の参道入口である。
上の画像の位置から70mほど南側、かつて雀宮宿北口だった場所から北を見る。この先は宇都宮に至る。道路の向かい側は北から雀宮神社の石鳥居、白い建物は雀の宮上町公民館、木造の小屋は馬頭観世音塔の覆堂である。
覆堂の中に納まる馬頭観世音塔の全景と柱石の拡大画像。正面「馬頭観世音」、右側面「安政五年戊午三月吉日」(=1858年)と刻む。この石塔は分間延絵図(1806年)や日光道中絵図(1843年)が作成されたあとの建立になる。この石塔が最初からこの場所に建てられたのか、それとも移設されたものかは不明である。
幾人もが几号を探してこの覆堂の中に入り台石の周囲を観察したが、それらしい線刻は見つかっていない。ご覧のように台石は風化がだいぶ進み2段目に刻まれた「馬〇講中」という文字も判読が難しくなってきている。もろくなった部分に亀裂が入り層として剥離しているようだ。この台石に几号を刻んだとしたらすでに剥離し失われたと考えられる。
036 台新田
(更新 20.02.13)
点 名 |
036 台新田(だいしんでん) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 台新田字掘越妙法供養塔 |
現在の地名 |
栃木県 宇都宮市台新田町178-1 |
海面上高距 |
103.0256m |
前後の距離 |
雀宮 ← 2557.32m → 台新田 ← 3058.60m → 宇都宮 南 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
2005年4月12日朝、宇都宮の宿を自転車で出発し9時過ぎ台新田に入る。TOKIO-SENDAI NIVELLEMENTに掲載された前後の距離により几号が置かれた位置は「トヨタレンタカーの近辺」と絞り込めていた。目的地に着いたので最初に覗いてみたのがトヨタレンタカー(当時)の北隣「マンション島」さんであった。その敷地の片隅に目をやると古い石塔が建っているではないか。「ん!?」 駆け寄って確かめると台石に刻まれた几号が目に飛び込んできた。まさにドンピシャリである。
調査の許しと詳しいお話を聞きたかったのでアパートの奥の方にお住いの大家さんを訪ねた。(アパートの名前は「マンション島」、大家さんは「大島」さん) 大家さんのお婆さん曰く「石碑の詳しい由来はわからないが昔からある。20年ほど前に一度移動したが、石碑を移動するのは良くないということになり幾日かで元の場所に戻した」とのことである。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月12日(几号発見) A2015年5月23日 |
参考文献 |
※※※ |
2005年に訪れた際のマンション島。供養塔は敷地隅に建つ電柱の真下である。
この時はすでに街道を背にして東側を向いて建っていたが、几号を刻んだ当時の正面は街道側を向いていたと考えるの自然であろう。
現在の風景。2014年に建築されたアパートによって景色が変わり同じ場所かと疑うほどである。しかし、電柱の真下には10年前と変わらず供養塔がたたずんでいた。
「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔である。 嘉永6年(1853年)建立
右図は石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※碑文はイメージ
台石は風化現象も確認できるが明らかな欠損も見受けられる。几号の線刻にもその影響が及んでいる。
几号。横棒8.9cm、縦棒10cm(推定)、横棒の幅1.2cm。縦棒と右斜線の一部が欠損している。
037 宇都宮 南
(更新 20.02.27)
点 名 |
037 宇都宮 南(うつのみや みなみ) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 宇都宮南口蒲生君平里碑 |
現在の地名 |
栃木県 宇都宮市花房3丁目3-36 蒲生君平勅旌碑 |
海面上高距 |
117.2606m |
前後の距離 |
台新田 ← 3058.60m → 宇都宮 南 ← 1850.84m → 宇都宮 中央 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
几号の現存有無 |
現存 |
解 説 |
蒲生君平は明和5年(1768)宇都宮の新石町(現在の小幡1丁目)で油商の家に生まれた。名は秀実(ひでざね)、君平は字。蒲生君平の生涯で特筆すべきは荒廃した天皇陵を調査して『山陵志』を出版したことであろう。その書の中で「前方後円墳」という名称が初めて使われたとされる。文化10年(1813)江戸で没する。46歳。
王政復古となった明治2年12月20日、蒲生君平の遺業をたたえる旨の沙汰書が宇都宮藩に伝えられた。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月12日 A2015年5月23日 |
参考文献 |
国立公文書館デジタルアーカイブ「公文録」蒲生君平追賞御達并旌表ノ儀ニ付伺
小泉墨城:敷島美観、帝国地史編纂所、1905年 |
勅旌碑前の陸羽街道を南に見る。高架橋は東武宇都宮線。
明治3年に建立(推定)されて以来、碑および周辺に幾度かの改修や整備が加えられ現在の景観になっている。 注:明治2年の銘が刻まれているが、上の解説に記したように建立の許可は明治3年に出ている。
正面「勅旌 忠節蒲生君平里」、右側面「宇都宮藩知事戸田忠友奉行」、左側面「明治二秊己巳冬十二月 藩文學教授戸田誠謹書」と刻む。正面は誤った拓本手法により墨が染み込み汚れているのが残念である。また、いつ、なぜ破断したのかは不明であるが接合した跡も痛々しく残る。現在、几号は街道とは反対の裏側を向いている。
上段台石に刻まれた几号。台石の下部には風化現象が見られるが、これは覆堂がない時代にできたものと考えられ、今後これ以上の風化は進行しないと思われる。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.0cm。線刻にやや欠損が見られる。
明治38年発行「敷島美観」 大正7年発行「蒲生君平」
明治44年発行「蒲生君平全集」 昭和12年発行「宇都宮読本 前編」
明治38年発行「敷島美観」は日本各地の名勝旧跡の写真を収録した豪華本であるが、それぞれの写真を確認すると撮影年代にばらつきがあることがわかる。中には明治ひとけたのものも含まれているようである。掲載した「蒲生君平の里」と題されたこの写真には几号が写っていない。これはこの写真が明治3年の石碑建立から明治9年(もしくは10年)に几号を刻むまでの間に撮影されたと考えられる。このことは「敷島美観」が発行されて僅か6年後に出された「蒲生君平全集」の写真と比較しても、石碑の経年変化や周囲の状況が大きく異なることから妥当な判断と思える。
この4点の画像はいずれも国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。ただしデジタルコレクションで公開されている「敷島美観」は画質が極めて悪いことから、この1点に限っては原物を図書館で閲覧し複写したものを掲載している。
石塔の寸法 (単位:p、計測作図:浅野) ※碑文はイメージ
古写真の確認により几号は台石の正面に刻まれたことが明らかになったことから、その当時の姿に復した図である。なお、現在は2段の台石の下には玉石が敷き詰められた高さ32.5pの基壇があることを付け加えておく。
038 宇都宮 中央
(更新 20.04.08)
点 名 |
038 宇都宮 中央(うつのみや ちゅうおう) |
---|---|
当時の場所 |
栃木県 宇都宮駅中 奥州 日光 追分道標台石 |
現在の地名 |
栃木県 宇都宮市泉町6-25地先 |
海面上高距 |
126.7211m |
前後の距離 |
宇都宮 南 ← 1850.84m → 宇都宮 中央 ← 3058.00m → 今泉 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
地理局雑報 第14号 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
亡失 |
解 説 |
道標は伝馬町交差点付近にあったが失われている。その道標であるが諸資料を総合すると「左 日光道 右 奥州道」と記されていたようである。
『五街道取締書物類寄』弐拾之帳には、宇都宮宿の道標設置に関する史料が収録されている。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月12日 A2015年5月22日 |
参考文献 |
児玉幸多校訂、近世交通史料集2、吉川弘文館、1968年
国立公文書館デジタルアーカイブ、日光道中絵図 巻6 |
ご 協 力 |
筑波大学中央図書館 参考調査担当 様
宇都宮市教育委員会事務局 文化課文化財保護グループ 様 |
宇都宮御城内外絵図の一部 (宇都宮市教育委員会所蔵)
この絵図は慶応年間に描かれたとされ、宇都宮市の指定有形文化財になっている。
新石町から来て伝馬町、池上町へと東進する道筋は奥州街道。伝馬町から北へ折れて本郷町に入るのが日光街道。この奥州街道と日光街道の分岐点がすなわち“追分”である。
国立公文書館所蔵「日光道中絵図」巻6 (天保14年・1843年)
宇都宮城下の奥州街道と日光街道の追分付近。奥州・日光・江戸の各方向を加筆した。
追分という文字の左側に何か起立したものが描かれている。おそらく道標と思われる。
『宇陽略記』から「問屋場」の場面(文久4年・1864年) ※ 『宇陽略記』は宇都宮の江戸期を知る貴重な地誌として各書に紹介されている。(手書き。個人蔵)
問屋場と題されたこの場面には「西ハ新石丁、東ハ傳馬丁、北ハ本郷町、日光道ナリ」と注釈が添えられている。注目は追分の北東角に立つ道標である。几号が刻まれた道標の位置を推定するには又とない史料である。
また、筑波大学附属図書館所蔵の古地図の中にも好史料がある。この絵図には宇陽略記と同じ場所に「日光道」と記された道標が描かれている。(下をクリック)
天保十四夘年四月十五日宇都宮城江御成同十八日還御共頭御目見場所并旅宿繪圖面
上の絵と同じ場所における現在(2005年)の風景 (伝馬町交差点)
宇陽略記にならい本郷町の入口に道標の絵を合成してみた。伝馬町側の道幅が広がっているので厳密に同じ位置とは言いがたいが、当時の道標が現存していればこのような感じだったと思う。ちなみに江戸時代の道幅は新石町4間、伝馬町4間半、本郷町4間であった。