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091 松川 (福島市松川町) 几号現存
092 浅川 (福島市松川町浅川)
093 清水町 (福島市清水町) 几号現存
094 伏拝 (福島市伏拝) 几号現存
095 福島 南 (福島市柳町)
096 福島 中央 (福島市本町・大町)

091 松川

(更新 21.05.12)

点   名

091 松川(まつかわ)

当時の場所

福島県 松川駅 南口菅原神社華表

現在の地名

福島県 福島市松川町字八丁目41 天満宮

海面上高距

192.8058m

前後の距離

渋川 ← 2836.20m → 松川 ← 2721.20m → 浅川

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 信夫郡 松川駅
  191.8058m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Matsukawa
 192.8058m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 松川駅 南口菅原神社華表
  191.8058m/632.9591尺

照合資料 4

地質要報
 松川駅
 191.8m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 松川
 ―/63丈3尺

几号の現存有無

現存  【発見:1994年3月11日、箱岩英一、関 義治】

解  説

松川村は明治9年に八丁目(はっちょうめ)、鼓岡(つつみがおか)、天明根(てんみょうね)の3か村が合併してできた村である。昭和11年に町制を施行。周辺の村々を併合しながら存続し、昭和41年に福島市と合併して現在に至っている。
天満宮は八丁目村と天明根村の鎮守社で、元禄年間、現在の場所から見て南側の場所(古天神)にあった小祠を移してきた。今ある社殿は正徳4年(1714)に建てられたもので、神仏分離までの別当は西光寺が務めた。
江戸時代、天満宮が鎮座する辺りを南の入口として奥州街道の「八丁目宿」が設けられ、小さな宿駅ながら多くの「酒館」「青楼」で賑わったと伝えられる。また、江戸後期には多くの文人墨客を輩出したことから「八丁目文化」と称される。
弘化3年(1846)に山田音羽が記した「お国替絵巻」でもそのことがうかがえる。
 八丁の目を昼の休らいとす。茶屋のわきに大な天神の社有、内に大きながく(額)
 かゝれり、狂歌の様子にて、よみ人と見え男女遊女なぞ大勢画書たれ共、内くら
 く歌はわからず、

「八丁目文化」の中でも狂歌は盛んに行われ、地方狂歌の一大拠点となっていた。

 

さて本題に入るとする。高低測量が行われた直後の明治11年12月に提出された「神社明細帳」には次のように記されている。(摘録)
  村 社  岩代国信夫郡松川村字八丁目鎮座  菅原神社
  祭 神  菅原道真
  石鳥居  明一丈三尺五寸・高一丈三尺五寸  一基
  石燈籠  四基
  敷 石  縦十七間・横一間
几号はここに記された石鳥居に刻まれている。
なお、社号は江戸時代も現在も「天満宮」としているが、明治時代の文献では「菅原神社」と見える。これは神仏分離政策の影響により改称されたものである。

現地を調査した日

2005年4月8・19日

参考文献

岩磐史料刊行会:岩磐史料叢書(上)、信達一統志、1916年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書46、福島の神社明細帳2、1985年
佃与次郎:山田音羽子とお国替絵巻、1930年、国会図書館デジコレ(48コマ)

 


Googleストリートビュー(2018年撮影)
かつての八丁目宿南口にあたる天満宮の前から陸羽街道を北に見る。通りのところどころに宿駅の名残が感じられる。

 


2005年4月撮影(以下同じ) 明治11年の「神社明細帳」に記された石燈籠、敷石、石鳥居が今に残る。社頭の「伊勢大神宮」と刻まれた常夜灯は安永7年の建立である。石鳥居の建立年は残念ながら確認することができなかった。街道から石鳥居までの距離は約6メートル。

 


几号は街道から見て右の柱に刻まれている。この柱、台石や根巻などない状態で地面から直接出ている。几号の刻まれた位置が地表面に近いことから、几号が刻まれた当時はもう少し下部が出ていたと想像される。境内は天神様ゆかりの飛梅(とびうめ)と満開の桜が咲き香る。

 

 


上の写真は何も細工をしないで見たままの几号。下は線刻に水を付けて撮影したもの。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒までの地上高は13cm。
鳥居の石質や泥はねなどで線刻は確認しづらいが大きな欠損などは見受けられない。

 

092 浅川

(更新 21.05.20)

点   名

092 浅川(あさがわ)

当時の場所

福島県 浅川村字西地蔵岡 道北畑中 自然石

現在の地名

福島県 福島市松川町浅川字辻(付近)

海面上高距

159.7840m

前後の距離

松川 ← 2721.20m → 浅川 ← 3616.00m → 清水町

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 浅川村
 159.7840m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Ashagawa
 159.7840m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 浅川村字西地蔵岡 道北畑中 自然石
  159.7840m/527.2872尺

照合資料 4

地質要報
 浅川村
 159.8m/―

几号の現存有無

不明

解  説

最初に浅川の変遷を記そう。
江戸期〜  浅川村
明治22年  沢・関・浅の3か村が合併。1字ずつを採って金谷川村と命名。
昭和30年  松川町・水原村と合併して松川町となる
昭和41年  福島市に合併。大字は「松川町浅川」となる。

 

さて、本点の前と後ろである「091松川」と「093清水町」は、ともに1994年に当時国土地理院におられた箱岩英一氏と関義治氏によって几号が発見されている。その各点間に「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記された距離を当てはめることにより、本点の几号附刻地点はおおよその位置が絞り込めることになる。私が地図上で計測した結果、東北本線の「浅川踏切」付近と推定した。
そこで2005年の自転車旅行を皮切りに、2006年には標石グループの皆さんと、さらには「福島県下高低几号所在」の発見を受けて2010年に畠山君と訪ね、何度も何度も「浅川踏切」の周辺を行ったり来たりしたのである。しかし、その甲斐もなく几号の発見には至らなかった。
実は2010年の調査時でもいささか疑問に感じていたことがある。現在の住宅地図を見ると、浅川の小字として「地蔵岡」と「地蔵岡前」というのはあるのだが、「福島県下高低几号所在」に記された「西地蔵岡」という小字は見あたらないのである。
『信達二郡村誌・浅川村』(明治12年稿成)や福島県小字一覧(明治15年現況調査「角川日本地名大辞典7福島県」収録)を確認したがやはり見あたらない。
後日、明治期の「地籍帳」や「地籍図」を所蔵している福島県歴史資料館へ出向いた。浅川村の「地籍帳」や「地籍図」を閲覧したところ、「西地蔵岡」という小字は存在しないことを確認した。
しかし、資料館を訪ねたことで謎解きのヒントも得られた。現在は字「辻」となっている区画に、明治15年当時は「地蔵岡」が舌状に入り込み、現在の浅川踏切の南側で陸羽街道と接触する地点があったのである。しかも、その場所は街道を挟んで隣村の金沢村と接しており、その金沢村の小字も「地蔵岡」なのである。
街道を挟んでそれぞれの村に「地蔵岡」があるわけである。「福島県下高低几号所在」に記された「西地蔵岡」という表記は、正式な小字名ではなく、「街道の西側にある浅川村の地蔵岡」と理解するのが自然ではないだろうか。
私と畠山君は几号の附刻物が「道北畑中 自然石」と判明したことで、「現地に行けばなんとかなるさ」という感覚で飛び出して行ったのである。今にして思えば準備不足の勇み足であった。その後、2011年の大震災などもあって再訪(厳密には再々々訪)の機会はない。
3度の現地調査でも街道脇にそれらしき石を見た記憶はないので、几号の刻まれた自然石はすでに失われている可能性がある。しかし、それでも現地の人に聞き取りを行うなど、できることは行わなければならないと思っている。
※このような事情で今回の画像はGoogleさんに頼ったものが多い。何卒ご了承を。

現地を調査した日

@2005年4月8・19日  A2006年12月2日  B2010年12月19日

参考文献

福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書36、信達二郡村誌1、1982年

 


2005年撮影。浅川踏切を通る陸羽街道を北に見る。線路向こうの家並みは丸石の集落。明治12年当時は人家1軒(『信達二郡村誌』)、明治15年頃は宅地3軒(地籍簿)とある。

 


丸石の集落側から見た浅川踏切。几号附刻の推定地はこの先になる。この区間の鉄道は明治20年12月に開業。長らく単線であったが昭和39年9月東京オリンピックの会期を目前に複線化が完了した。この辺りは急勾配区間であったため、ここ浅川踏切を含む従来からの線路を下り勾配の下り専用線とし、上り線は勾配を改良するため少し離れた場所に新設されている。

 


現在の浅川「地蔵岡」は県道114号線を境にして西の区域であるが、明治15年頃の地籍図を見ると黄色の点線の部分も「地蔵岡」であった。鉄道が敷設され、さらに県道が開通したことで字界の変更が行われたと推定される。陸羽街道に接する場所は「地蔵岡1番、田、4畝7歩」と地籍簿に記されている。この地点を几号附刻の有力な推定地と見ているが、この場所はどちらかと言うと街道の西であり、「道中」という条件に合致しない気掛かりもある。

 


浅川「地蔵岡」が舌状に張り出していた場所。現在の道幅は昔に比べて恐らく広くなっているだろう。「道北畑中」とは田圃から畔と水路、更には白い車がある道路の部分まで該当するのかも知れない。現地の再確認、及び聞き取りや法務局での調査など慎重な検証が必要である。

 

093 清水町

(更新 21.05.26)

点   名

093 清水町(しみずまち)

当時の場所

福島県 清水町出雲大神社石灯籠

現在の地名

福島県 福島市清水町字西裏89 出雲大神宮

海面上高距

163.0402m

前後の距離

浅川 ← 3616.00m → 清水町 ← 2481.40m → 伏拝

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 清水町
 163.0402m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Shimidzumachi
 163.0402m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 清水町出雲大神社石灯籠
 163.0402m/538.0327尺

照合資料 4

地質要報
 清水町駅
 163.0m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 清水町
 ―/53丈8尺

几号の現存有無

現存  【発見:1994年3月11日、箱岩英一、関 義治】

解  説

清水町村は江戸期から明治22年まで存続した村で、奥州街道の宿駅「清水町宿」が置かれていた。地名は街道沿いにあったケヤキの根元から清水が湧いていたことに由来するという。また、江戸期の文献には「根子(ねっこ)町」「根子町宿」とも見える。これは宿駅を整備したばかりの頃(天正年間)は、道路上に多くの松の根が残ったままで、歩くのに難儀したことから伊達政宗が名付けたと伝えられる。清水町と記すようになったのは延宝年間からという。
 中川某『行程記』(安永3年頃)  根子松。家八十軒位。同所、清水町共言。
 高山彦九郎『北行日記』(寛政2年)  根子町、一つに清水町共いふ。
 渋江長伯『東遊奇勝』(寛政11年)  出雲大明神之社。根子町。
 小宮山楓軒『浴陸奥温泉記』(文政10年)  清水。道中記ニハネコ町トアリ。
明治22年に清水町村、伏拝村など7か村が合併して「杉妻(すぎのめ)村」となり、昭和22年福島市と合併した。同市の大字として清水町は存続している。

『武奥増補行程記』6(写本)(寛延4年頃)「根子町、清水町トモ」とある。

 

出雲大神宮は明治11年12月提出の「神社明細帳」に次のように見える。(摘録)
  村 社  岩代国信夫郡清水町村字西裏鎮座  出雲大神宮
  祭 神  素戔嗚命・大己貴命
  木鳥居  明七尺・高壱丈  一基
       明壱丈壱尺・高壱丈弐尺  一基
  石燈籠  四基
2基ある鳥居はいずれも木製。街道に近接していた石灯籠に几号が刻まれた。

現地を調査した日

@2005年4月8日  A2006年12月2日

参考文献

岩磐史料刊行会:岩磐史料叢書(上)、信達一統志、1916年
高山彦九郎:北行日記、日本庶民生活史料集成3、三一書房、1969年
小宮山楓軒:浴陸奥温泉記、随筆百花苑3、中央公論社、1980年
森山嘉蔵解説、中川某著:行程記、1981年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書36、信達二郡村誌1、1982年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書44、福島の神社明細帳1、1985年
山崎栄作編、渋江長伯著:東游奇勝、日光奥州街道編、2003年
清水秋全:武奥増補行程記6、国会図書館デジコレ(4コマ)

 


2005年4月撮影(以下同じ) 街道から見た出雲大神宮の正面。参道の左右に石灯籠が建つ。
東隣(画像右端)の鈴木さん(男性)にお話しを伺った。几号の存在はご存じで、これまでに若い人も含めて何人か訪ねてきたとのこと。肝心の灯籠だが記憶にある限り移動はしていないという。ただし、昔の街道部分は今より1メートルほど低かったと教えていただいた。

 


右側の石灯籠。竿部に「常夜燈」と刻む。この灯籠に建立年は見当たらないが、対となる左側の灯籠には「安政三丙辰年四月吉日」とある。
几号は下から2段目の台石、正面中央に刻まれている。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm。1段目台石は高さ17cm。2段目台石の底辺から几号の横棒までは18.5cm。几号も含めて台石全体に風化が見られる。

 

 
几号の刻まれた石灯籠の背後には一等水準点「第2133号」が埋設されている。昭和49年選点・設置。土をはらうと金属標が顔を出す。平成23年の改測で標高は163.8820メートル。

 

094 伏拝

(更新 21.06.12)

点   名

094 伏拝(ふしおがみ)

当時の場所

福島県 伏拝村 坂上道側自然石

現在の地名

福島県 福島市伏拝字行人下 共楽公園内

海面上高距

123.9434m

前後の距離

清水町 ← 2481.40m → 伏拝 ← 3117.60m → 福島 南

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 伏拝坂上
 123.9434m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Fushiogami
 123.9434m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 伏拝村 坂上道側自然石
 123.9434m/409.0132尺

照合資料 4

地質要報
 伏拝村 旧道坂上
 123.0m/―

几号の現存有無

現存  【発見:2005年4月19日、浅野勝宣】

解  説

伏拝(ふしおがみ)という地名譚はスペースの都合で省略するが、日本各地に散在する「伏拝」の所在地は、いずれも信仰に関わるところで、神仏が鎮座する地を「伏して拝む」場所だったとされる。福島の伏拝もそうだったと思われるが、この地には急で長い坂道があり、坂を上るには「伏し拝む」ような姿勢にならざるを得ない場所であったということも念頭に置いておきたい。
さて、伏拝における明治9年の巡幸ならびに高低測量の折は、江戸期と同じ尾根づたいの道筋を通った。しかし、街道随一の難所「伏拝坂」は活発になってきた人と物の流れを妨げる障害となり、明治11年に福島県は伏拝坂を避けて街道の東側、すなわち丘陵の中腹に新道を開削する案を内務省に提出し認めらた。
伏拝坂を理解するため、国立公文書館の公文録(明治11年・第53巻・明治11年9月・内務省伺3)「福島県下陸羽街道ノ内換線伺」の一部を次に掲載する。
  陸羽街道之内換線開修之儀ニ付上申
当管下国道一等相当陸羽街道岩代国信夫郡清水町村地内ヨリ伏拝村ニ係ル伏拝坂ト称スルハ該路線中最峻坂ニシテ其長八百六十余間硬岩ノ地多ク且地勢偏高狭逼シテ削平迂回ノ術ナク故ニ現道ヲ修築スルモ雨水ノ為メ破壊シ易ク且最険ノ場所ハ十度ニ垂々タル地形ニシテ到底車路ニ難相成実ニ運輸不便ヲ極メ候ニ付該線ノ修費ヲ以テ現道ノ東山腹ヲ開鑿シ新線ヲ設クルトキハ高度四度ニ上ラスシテ彼ノ険峻ヲ避ケ運搬ノ便ヲ得ルノミナラス道路保存ノ為メ将来修費モ相減候 (略)
  明治十一年八月五日                福島県権令山吉盛典
    内務卿伊藤博文殿

(付図)  信夫郡伏拝村地内国道換線伏拝坂平面高低実測図

  
       在来道                換線
表題には「平面高低実測図」とあるのだが、公文録の付図は平面図のみで在来道・換線の高低実測図が欠落している。そこで福島県歴史資料館所蔵の県庁文書、明治11年・土木係『官省上申案決議』(F1860)、「陸羽街道之内伏拝坂換線開修之儀上申」にある付図をトレースして掲載する。坂下のポイント甲が在来道と換線の分岐点であり、ポイント乙で再び合流することを示している。換線によって「十度ニ垂々タル」在来道の急坂が「四度」以下に解消されることになった。
伏拝地内ではその後も国道の改良が行われている。まず昭和10年に丘陵の中腹を通る明治新道の一部を廃止し、丘陵部を掘削および迂回する経路が開削された。これが現在「旧4号国道」と呼ばれる道である(市道南町・浅川線)。
  国道四号線(福島)改良工事
信夫郡杉妻村大字清水町から同村大字伏拝まで、延長3120メートル
「本改良区間ハ郡山市及福島市ヲ連ヌル重要ナル幹線ナルモ概ネ山間部ニ属シ勾配急峻、加フルニ屈曲多ク見透シ不良ナルヲ以テ工事起点ヨリ延長一千八百六十米ハ路線ヲ変更シ、其他ハ大体旧路線ニ従ヒ勾配及屈曲ヲ緩和シ (略) 
昭和九年十二月十七日ニ着手シ (略) 昭和十一年一月十五日全部竣功セリ」

(内務省土木局『昭和十年度直轄工事年報』)

さらに自動車普及の拡大にともない、昭和40年代から50年代にかけて順次開通した国道4号福島南バイパス(全長19.6キロメートル)は、江戸古道・明治新道・昭和新道とも完全に分離され、高速道路並みの高規格道路となっている。
江戸期以来の伏拝坂は早くも明治14年に旧道となり、以来、その険道ゆえに大きな改修や開発も免れることになった。昭和53年に至り福島市は伏拝坂上の2.3ヘクタールを共楽公園として整備した。公園内を蛇行しながら貫通する市道赤根坂・大杉線は、まさしく往時の幅員そのままの陸羽街道(奥州街道)である。そして、その道端には埋もれかけた几号がひっそり現存している。

現地を調査した日

@2005年4月8・19日  A2006年4月8日  B2006年12月2日

参考文献

岩磐史料刊行会:岩磐史料叢書(上)、信達一統志4、1916年
内務省土木局:昭和九年度直轄工事年報、1936年
内務省土木局:昭和十年度直轄工事年報、1937年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書36、信達二郡村誌1、1982年
鐵貞雄:共楽園記回想、すぎのめ18、福島市杉妻地区史跡保存会、1995年
村山広治:馬頭観世音塔の説明、すぎのめ19、福島市杉妻地区史跡保存会、1996年
鐵貞雄:明治天皇の東北御巡幸と杉妻村(明治九年)、すぎのめ21、福島市杉妻地区史跡保存会、1998年
清水秋全:武奥増補行程記6、国会図書館デジコレ(4・5コマ)
公文録・明治11年・第53巻・明治11年9月・内務省伺3、福島県下陸羽街道ノ内換線伺、国立公文書館デジタル
福島県歴史資料館所蔵:県庁文書(F1860)、明治11年・土木係『官省上申案決議』、陸羽街道之内伏拝坂換線開修之儀上申

 

『武奥増補行程記』6(写本)(寛延4年頃) 伏拝坂周辺の様子

 


2005年4月撮影(以下同じ) 福島市中心部方面から見た伏拝坂の入口。上の『武奥増補行程記』で「伏拝坂」という文字がある辺りになるだろうか。画像の左側に平成8年設置の道標が写っている。「左・旧四号国道・明治十年代より数次の改良工事により現在に至る。一部旧道が残っている」。「右・旧奥州道(陸羽街道)・天正年間(1573〜1593)伊達政宗公により開設されたという。清水町仲興寺前に通じる」とある。ここから高低差45メートルを300メートルの距離で上るという急坂になる。大名も駕籠から下りて歩いたと伝えられる難所である。

 

 
伏拝坂の途中にある「舟繋ぎ石(ビッタラ石)」【画像左】と、急坂を上り切って共楽公園の入口に建つ馬頭観世音塔(文化2年、飛脚問屋島屋建立)【画像右】。
2005年4月に自転車旅行をした当時は「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記された距離と標高、および『地質要報』の「伏拝村 旧道坂上」という情報だけが頼りであった。
往路で伏拝の推定地に到達したものの、ごく普通の公園然とした風景に「これが本当に陸羽街道?」とあっけにとられる思いがした。とにもかくにも共楽公園にある馬頭観世音塔を有力視していたので丹念に観察した。しかし、几号は見当たらない。

 


東京からの帰路は次第に天気が崩れて雨になると予報されていたので、じっくり調査する余裕がないまま北を目指してペダルを漕いでいた。雨雲にあわせるように桜の見ごろも北上し、10日前の往路ではつぼみだった伏拝の桜も復路では満開になっていた。
共楽公園は桜の名所である。いつまで天気が持つか心配だったが、ここは花見を楽しもうと自転車を押しながらゆっくり公園の通路(陸羽街道)を歩いた。馬頭観世音塔が見えてきたので公園も終わりである。「しかし伏拝の几号は何に刻んだのだろう?」と改めて周囲を見渡し視線を下に落とした。すると路肩の斜面に顔を出した石の面に何やら人工的な横線が。「ん?」

 


あまりの驚きに慎重な検証を行わず表土を除けてしまったので、慌てて発見した瞬間の状態に戻して撮影したものである。几号発見のときはこのように1本の横棒しか見えない状態だった。満開の桜に誘われて自転車から下りゆっくり歩いたからこそ見つけられたと思われる。

 


几号の刻まれた石は見える範囲の高さ約50センチメートル、横幅約90センチメートル。まさに街道脇(というか公園の散策路脇)で人知れず埋もれていたのである。辺りの風景は変わり多少土も被ってしまったが、恐らく明治9年当時から動くことなく同じ場所にあると思われる。

 


几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.1cm。大半が地中に埋もれていただけあって線刻は良好な状態である。几号の周囲は少し平面に加工されているように見受けられる。

 

095 福島 南

(更新 22.04.09)

点   名

095 福島 南(ふくしま みなみ)

当時の場所

福島県 福島駅南口 信夫橋際 五柱神社

現在の地名

福島県 福島市柳町85番2  柳稲荷神社

海面上高距

65.0016m

前後の距離

伏拝 ← 3117.60m → 福島 南 ← 1077.55m → 福島 中央

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 信夫橋際
 65.0016m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 FUKUSHIMA (Shinobubashi)
 65.0016m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 福島駅南口 信夫橋際 五柱神社
 65.0016m/214.5053尺

照合資料 4

地質要報
 福島南口 橋際
 65.0m/―

几号の現存有無

不明(亡失の可能性が高い)

解  説

思えば杉田(087)から坂道を上り下りしてきた街道も、伏拝の急坂を下ると福島盆地の底に到達である。ここから福島市街地を経て桑折(099)付近まではほぼ平坦な道となる。
福島市街地の入口には阿武隈川の支流である荒川が流れ、江戸時代は東側を北流する阿武隈川とともに福島城下を防御する天然の堀として機能していた。
現在、阿武隈川の合流点まで荒川と呼ばれているが、1964年に河川法が改正されるまでは「須川」と呼ばれていた。火山由来の「酸性の強い川」を意味する須川の名称は荒川の支流として上流部に残っている。
さて、荒川(かつての須川)の最下流に架かる橋が「信夫橋」である。その北詰東側に几号が刻まれた「五柱神社」はあった。現在、同じ北詰東側の場所には「柳稲荷神社」という神社が鎮座している。本点における県庁文書(神社関係文書)が未調査なのではっきりしたことは言えないが、社号は柳稲荷大明神→五柱神社→柳稲荷神社と移り変わったと推定している。

 

地理局が公表した情報には几号を五柱神社の何に刻んだのか具体的な記述はない。石垣なのか鳥居なのか常夜燈なのか。前例のない珍しい表記であり、大変に困った表記でもある。五柱神社に関する史料としては明治11年稿成の『信達二郡村誌』に記述がある。その全文は次のようになっている。
岩代国信夫郡福島町
小社 五柱神社  
通一(官有地)ニ南面鎮座ス、社地東西五間二分、南北六間一分一厘、面積一畝廿一歩七厘、本殿東西三尺、南北二尺五寸、祭神素戔嗚尊、倉稲魂命、保倉姫命、厳島命、火具津智命、由緒勧請年月詳ナラス、祭日七月廿八日

祭神が5柱なので五柱神社と称したのだろう。福島市史資料叢書に収録の『神社明細帳』には五柱神社の記述はない。

 

五柱神社を理解するには信夫橋の架け替えの歴史を把握する必要があるだろう。江戸時代までさかのぼって橋とその周辺の歴史を整理しておく。
江戸時代は「須川橋」と称して常々は二つ三つとある中州に土橋を架けて通行していた。落橋した場合は簡易的な板橋を架け渡し、この板橋は増水時に取り外せる構造であったという。増水時や橋の流失時は舟や川人足で渡る場合もあり、柳町には渡しに用いる舟が2艘常備されていた。また、架橋に関する費用は藩が受け持っており、柳町の桝形には橋の材木御蔵があったと記録に見える。また、落橋した際、暗くなってからの渡河は町の入口が分からず難儀していたことから、安永4年に柳町枡形前に常夜燈が設置された。この常夜燈の明かりは伏拝の坂からも見えたという。

 

(武奥増補行程記より)

 

元禄年間   須川橋。中州の両側に長さ45mと40m、幅3.8mの木橋
       川幅は約126m。洪水の際の渡し舟として柳町に2艘常備
寛延の頃   長さ43mの土橋。流れの幅約36m、河原を含めた幅約180m
安永初年   卯年(明和8年か)に架けた大土橋あり
安永04年  柳町枡形前に常夜燈が設置される
寛政02年  7月、須川橋は落ちていて徒渡り。舟の場合もあった
文化04年  8月、須川における本来の橋は落ちていて仮橋
文化11年  柳町太田屋・冨士屋の南側が石垣になる
文化13年  柳町枡形石垣が崩れ積み替え。石は御山村より運ぶ
文政05年  8月、大風雨で須川橋落ちる。常夜燈の前まで水が上がる
文政07年  6月、大雨で柳町の枡形に被害が出る。常夜燈の地面も半分流失
文政10年  板橋あり。その前後は百余間の河原
天保02年  7月、大水で須川橋落ちる。柳町には3尺ほど水が上がる
天保04年  8月、大水で須川橋落ちる。川除普請で籠に石詰め作業をする
天保11年  10月、大風大雨で須川橋落ちる。常夜燈前の駒寄せ下まで水が上がる
天保14年  閏9月、大雨で須川橋落ちる。柳町の町中まで舟が入る
嘉永03年  8月、大雨で須川橋落ちる。9月にも再び落ちる
嘉永03年  当時の橋は、常夜燈のところより板9枚で長さ81m、中州を挟んで向
嘉永03年  こう側の橋は板6枚で長さ51m。これまでにない長さの橋であった  
江戸末期   仮設の板橋を渡る際にガタゴトと音がすることからガンタラ橋と通称
安政02年  9月、近頃須川橋が落ちて舟渡し
慶応02年  「(世直し一揆の勢力は)須川河原橋へ押掛り、鯨波をあげ、柳町口へ
       差し掛り候」 ※須川の河原はたびたび農民騒動の集合場所になった
明治02年  須川橋。時として架橋は2か所または3か所の場合あり
       洪水のたびに川幅は変わる。洪水の際の渡し舟として柳町に2艘常備
明治04年  中州の両側に長さ18mと36m、幅1.8mの板橋
明治06年  初代信夫橋着工
 この頃   陸羽街道沿いは柳町から通り一丁目、二丁目と改称。十七丁目まで
       ※後年、通り一丁目という表記を通一と改正し、通八までに整理
明治07年  竣工。木造。長さ195m、幅6m
明治09年  内務省地理寮において五柱神社へ高低几号を附刻
明治10年  東京−塩竈間の高低測量を実施
明治14年  通り一丁目(柳町)の湯屋から出火。福島町の大半を焼き尽くす
  同年   信夫橋北詰西側に巡査駐在所が設置される
明治16年  老朽化が進み、秋の大水により落橋
明治17年  2代目信夫橋着工
明治18年  竣工。石造13連アーチ橋。長さ189m、幅7.2m。十三めがね橋と通称
明治23年  8月の大水により一部損壊
明治24年  6月の大水により3連が崩落
明治25年  5月の大水により北側2連が崩落
明治28年  3代目信夫橋着工
明治30年  竣工。木鉄混交トラス橋。長さ178m、幅5.4m
 この頃   字名の改正が行われ再び「柳町」と冠するようになる
明治42年  木製トラスを鉄製に交換
昭和05年  腐食が進行し通行禁止。仮橋架設
昭和06年  4代目信夫橋着工
昭和07年  竣工。鉄筋コンクリート造7連アーチ橋。長さ185m、幅11m
昭和46年  歩道用の橋を付け足す。現在の形になる

 

明治6年に初代信夫橋が建設されるにともない、江戸時代より城下の入口として警固していた桝形は解体された。その際、枡形付近にあったと推定される小祠が五柱神社として神域の整備が行われたと見ている。
明治16年の地籍丈量図および同17年の地籍簿(いずれも福島県歴史資料館蔵)を見れば、初代信夫橋の北詰東側に川側へ突き出すような土地があり、「通一、45番、社地、1畝1歩7合7勺、官1」と登録されている。興味深いことに現在法務局で交付される地図(公図)でも通一45番に該当する柳町85番2はこの地形を踏襲している。しかし、上の年表で示したように現在の4代目まで橋の架け替えが行われており、それにあわせて道路の拡幅や堤防のかさ上げも当然行われているはずである。そう考えたとき、現在ある柳稲荷神社の神域を明治9・10年当時の神域と同じと見ることは難しい。当時の神域にあっただろう石垣や石段などの石造物は撤去されたか土中に埋没していると見ている。
2005年の調査では柳稲荷神社のある橋北詰の東側、および西側、さらには橋近くの常徳寺境内の石碑類も見て回ったが几号は見当たらなかった。のちに「信夫橋際 五柱神社」と几号附刻の場所は絞られたが、具体的な物が示されていないうえに、地形も変化しているので几号の発見は極めて難しいだろう。
なお、柳稲荷神社の社殿と街道のあいだに一等水準点「第2136号」がある。点の記によれば1954年選点設置。2018年の改算で標高は66.3882メートルとなっている。

現地を調査した日

@2005年4月8日  A2006年12月2日

参考文献

野村兼太郎:経済全書4、維新前後、日本評論社、1941年
建設省東北地方建設局:福島県直轄国道改修史、1965年
庄司吉之助:戊辰戦争前後の農民闘争、東北経済48、福島大学東北経済研究所、1968年
高山彦九郎:北行日記、日本庶民生活史料集成3、三一書房、1969年
福島市史編纂委員会:福島市史4、通史編4、近代1、1974年
中川某著・森山嘉蔵解説:行程記、1980年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書36、信達二郡村誌1、1982年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書48、福島のいしぶみ、1986年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書52、穀三文書1、1988年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書54、穀三文書2、1989年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書60、政事集覧、1992年
清河八郎:西游草、岩波文庫、岩波書店、1993年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書64、小川家文書、1994年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書72、小川家文書2、1998年
長岡市史双書55、江戸時代の旅と旅日記3、長岡市立中央図書館、2016年
清水秋全:武奥増補行程記6、国会図書館デジコレ

 


明治16年、地籍丈量図「信夫郡福島町字通一」(一部)
(福島県歴史資料館所蔵「明治期福島県地籍帳・地籍図・丈量帳」)【掲載許可済。禁転載
信夫橋北詰西側が通一の1番で、地番は西側を北に進み通二(荒町)境の44番まで行ったところでZ(ゼット)字に折り返し、次の45番は信夫橋北詰東側、すなわち五柱神社に移ってきている。(註:「四十五番」を赤囲み)

法務局備え付けの地図(地図に準ずる図面:旧土地台帳附属地図)(加筆)
明治の地籍丈量図とほぼ同じ範囲。信夫橋北詰西側が柳町1番で、地番が西側を北に進むのも地籍丈量図と同じであるが、現在は荒町境でU(ユー)の字に折り返して信夫橋北詰東側が85番2となっている。(註:85番2の範囲を赤囲み)
明治と現在では信夫橋北詰の地形は確実に変化しているはずだが、神社敷地という特質もあってか地図の更正が不完全であり、柳稲荷神社のある85番2は明治時代の地籍丈量図における45番とほぼ同じ形状の範囲となっている。

 


2005年4月8日撮影(次も同じ) 信夫橋の北詰東側、柳稲荷神社付近の風景
左側は信夫橋と荒川の河川敷。右側は柳町の入口。この場所に江戸口枡形と木戸があった。

 


柳稲荷神社の全景。神域はこれですべてである。
社殿右側の石碑は明治31年建立「古峯神社」碑。古峯神社は火伏せ・防火の神として栃木県鹿沼市にある。明治14年の大火後に「古峯講」という講がつくられた。画像では陰になっているが社殿左側には「柳稲荷神社御来歴」碑がある。参考までにその銘文を下に記す。

  柳稲荷神社御来歴
抑当稲荷神社ノ御由緒ハ詳ナラズト雖 伝承スル所ニ拠レバ 往昔当地方大洪水ノ際 吾ガ柳町ハ殆(あやう)ク流失ニ瀕セシヲ 河岸ニ有リシ柳ノ大樹能ク其水勢ヲ避ケ 以テ其難ヲ免レ得シメキ 然ルニ減水後奇シクモ其大樹ノ基ニ稲荷ノ小祠ノ懸レルヲ見ル 里人之偏ニ神霊ノ加護ノ然ラシムルモノトナシ 柳稲荷神社ト称シ 当市南方ノ守護神トシテ厚ク之ヲ祀リシト云フ
而シテ当町ハ 元東側ヲ鍛冶町 西側ヲ大学町ト称セシモ 元禄四年十月当社ニ因ミテ両町ヲ合併シ 柳町ト改称スルニ至レリ 当時ハ神域五拾四坪其内ニ壮麗ナル社殿在リシモ 明治十四年ノ大火ニ炎上ノ厄ニ遭ヒテヨリ石ノ小祠ヲ建テ 毎年旧初午ヲ以テ祭礼ヲ営ミ来タレリ
而シテ昭和七年十二月一日信夫橋ノ架替ヲ機トシ 有志ノ奉賽ヲ募リ 以テ再建シ 当地ノ守護神ト仰ギタリ 今茲紀元二千六百年ヲ卜シ愈皇国ノ隆昌ト出征将士ノ武運長久ヲ祈念シ 氏子一同相謀リ建碑以テ神慮ニ応ヘントス
  昭和十五年十月十日              高野平次郎撰   斎藤道行書

(碑高120p)

 


Googleストリートビュー(2019年撮影) 
現地調査を行ったのは「五柱神社」と判明する前であるが、信夫橋際にある柳稲荷神社の周囲もひと通り観察しているので、画像に写っている石材類も当然見ているはずである。しかし、改めてGoogleさんの画像を見てみると確認した自信も揺らいでくる。現地を再調査する必要があるようだ。なお、歩道際に繁茂する植栽の陰に一等水準点「第2136号」がある。

 

096 福島 中央

(更新 21.08.07)

点   名

096 福島 中央(ふくしま ちゅうおう)

当時の場所

福島県 福島 湯野村道 湯殿山供養塚

現在の地名

福島県 福島市本町・大町

海面上高距

68.7373m

前後の距離

福島 南 ← 1077.55m → 福島 中央 ← 3340.00m → 五十辺

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 福島駅
 68.7373m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Hukushima
 68.7373m/―

照合資料 3

福島県下高低几号所在
 福島 湯野村道 湯殿山供養塚
 68.7373m/224.6431尺

照合資料 4

地質要報
 福島 市街中央
 68.0m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 福島
 ―/22丈4尺

几号の現存有無

不明

解  説

前点「福島 南」から県都福島の市街地を1077.55メートル進む。到達したところは江戸時代以来、町人町の中心地といえる場所である。現在、この付近の陸羽街道(市道本町・上町線)はレンガ通りと通称され、さらには金融機関が多く存在することから“福島のウォール街”とも呼ばれている。作曲家古関裕而の生家「喜多三(きたさん)呉服店」跡もこの一角にある。
福島中心部の高低几号は「福島 湯野村道 湯殿山供養塚」に刻まれた。実に興味深い表記である。町の真ん中に石塔が残っていれば何も問題なく決着するのであるが、残念ながら石塔は残っていない。ただ問題解決の謎だけが残されている。

 

第一の謎は「湯野村道」である。湯野村とはかつて伊達郡にあった村で、福島からは北へ8.5キロメートル離れた場所に位置する。飯坂温泉の東隣と言ったほうが分かりやすいだろうか。現在は福島市飯坂町湯野となる。
信夫橋北詰からの距離が示す「湯野村道」の場所は、日本銀行福島支店(本町6-24)と秋田銀行福島支店(大町3-30)の間にある小道、かつての米沢街道(庭坂街道・板谷街道)がこれに該当すると思われる。ここの分岐点の一般的な表記である「米沢口」あるいは「庭坂口」と記されていれば頭をひねる必要はないのであるが、「湯野村道」という表記は他ではお目にかかったことがない。
米沢街道は奥州街道(陸羽街道)から分岐し、庭坂宿、板谷峠を経て米沢に達する道であるが、飯坂温泉や湯野村に至る道も米沢街道の途中から分かれることから、広く解釈すれば湯野村道の起点も福島の米沢口にあると言えるだろう。福島の地理的知識が乏しく、現在のところはこのような解釈で納得するしかない。
なお、明治11年稿成の『信達二郡村誌』福島町・道路の項には「通九町目ヨリ北ニ支スルヲ置賜道(羽前国置賜郡米沢ニ赴ク道ナリ)ト称ス、是モ亦市街ナリ、六町三十間ニシテ北隣曾根田村ニ入ル、幅三間」と記す。ここでは「置賜道」としているが「米沢道」と同じ意味合いである。

 

第二の謎は「湯殿山供養塚」である。はっきり申し上げてこれはお手上げである。
これまでに『福島市史』など刊行されたものを中心に、それなりの数の郷土資料に目を通したが、ヒントとなる情報はいまだに得られていない。
また、福島県歴史資料館や県立図書館に行った帰りなど、米沢口周辺の神社や寺院などを訪ね、移設されたかも知れない「湯殿山塔」を探してみたが、手掛かりは何も得られなかった。
米沢街道の分岐点から道を進んで行けば、米沢、山形、やがては出羽三山の湯殿山へ至ることができる。江戸時代、房総半島など関東でも出羽三山信仰は盛んであった。三山参詣のため関東方面から奥州街道(陸羽街道)を北上してきた人々のために、追分となる米沢口に湯殿山の供養塔があっても不思議ではないだろう。
明治9年12月、教部省は達書第37号をもって山野路傍に散在する小祠石塔の社寺境内への移設を命じたが、翌10年10月、福島県は高低几号の刻まれた石塔の処分方法を内務省に問い合わせている。その伺いには県内各区から報告された几号の刻まれた石塔が9基明記されているが、福島の湯殿山供養塚は県庁と目と鼻の先にもかかわらず記載がない。記載漏れも考えられるが、一般的な供養塔とは見なさず、現地に残すべき石塔と判断したのかも知れない。ただし、現地に残された場合は、明治14年に起きた福島町の大火で石塔にも被害があったと考えなければならない。
いずれにしても、町家が櫛比する中心地であり、道幅もそう広くないことから、「湯殿山供養塚」は往来を妨げない規模・形状だったと推定している。

 

まず優先すべきは福島県歴史資料館所蔵「明治期行政文書」の精査である。謎を解くヒントが必ず埋もれているはずである。また、信夫橋北詰にほど近い常徳寺で見かけた湯殿山塔や、福島県歴史資料館から県立図書館へ歩いてへ移動すると必ず目にした信夫山の湯殿山塔など、市内には湯殿山の供養塔が点在する。信夫山自体が信仰の山で出羽三山になぞらえて羽黒山・湯殿山・月山の神が祀られていることにも注目である。「湯殿山供養塚」の探索は単に範囲の拡大だけではなく、地域の信仰史など視点の拡大もあわせて必要である。

 

このサイトをご覧になっている方、特に福島にお住まいの方にお願いです。
「湯野村道・湯殿山供養塚」についてご存知の方、心当たりのある方、どうぞご連絡をお願いいたします。よろしくお願いいたします。

現地を調査した日

@2005年4月8・19日  A2010年9月8日  B2011年10月8・9日  

C2014年11月1日

参考文献

福島市史編纂委員会:福島市史4、通史編4、近代1、1974年
福島民報社編集局:道ばたの文化財、福島民報社、1978年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書36、信達二郡村誌1、1982年
福島県教育委員会:「歴史の道」調査報告書 米沢街道、福島−板谷境、1983年
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書48、福島のいしぶみ、1986年
安田初雄:奥州福島城下の形成 その1、福島大学教育学部論集50、1991年
安田初雄:奥州福島城下の形成 その2、福島大学教育学部論集50、1992年

 


Googleストリートビュー(2020年撮影) 
左奥から石畳道を東へ直進するのが陸羽街道(レンガ通り)。米沢街道は白い自動車が写る一方通行の道が入口になる。中央の建物が日本銀行福島支店(本町6-24)、右に建物の一部が写るのが秋田銀行福島支店。私はこの米沢口が地理局が示す「湯野村道」だと推定している。

 


2005年4月8日撮影(次も同じ)
日本銀行福島支店の敷地角に建つ「米沢口(庭坂口)」の解説板。

 


米沢街道は陸羽街道から北に入り、町家の裏を縫うように西へ進む。

 

 

関連話題 その1

 

土木学会附属土木図書館に安積疏水(猪苗代湖疏水)の測量作業に従事した渋谷吉蔵(旧米沢藩士)の日誌が所蔵されている(表紙裏に「安積郡開拓事務測量日誌、米沢渋谷吉蔵」とあり)。明治11年7月22日付の「安積郡開拓事務取調トシテ出張申付候」という福島県令山吉盛典からの辞令を最初に、同年12月まで行った疏水路線の測量過程が記されている。
この日誌を用いた論考はすでに日本大学工学部の知野泰明氏と藤田龍之氏によって「猪苗代湖疏水(安積疏水)事業における測量日誌に関する研究」(『土木史研究』第19号、1999年)がある。論文へ→ジャンプ
私も知野・藤田論文を読んだことで渋谷吉蔵の日誌が存在することを知った。論文の内容が気になった私は2016年に土木図書館を訪ね日誌の原本を閲覧した。
私が特に注目したのは「須賀川近傍袋田原等高低調之事」と「一等道路ノ内改正表」という測量数値の記録である。
「須賀川近傍袋田原等高低調之事」は、白河−新小萱−小田川−踏瀬−大和久−矢吹における各区間の高低差を記している。これは検証の結果、地理局の高低測量数値を用いていることが判明した。(詳しい解説は別項で掲載予定)
ここでは「一等道路ノ内改正表」について詳しく解説する。次がその全文である。
          一等道路ノ内改正表
        67m1757   三拾三号湯殿山
        63m4400   三十四号五柱神社

タイトルを含めるとわずか3行のこの記事は、8月2日「終日雨、滞在」という場所に唐突に書き記されており、前数日の記述を見ても筆者の渋谷本人が担当した測量でないことは明らかである。
原本を閲覧した時点で「湯殿山」は本点の「096 福島 中央」、「五柱神社」は前点の「095 福島 南」であること、さらに「三拾三号」と「三十四号」は塩竈を起点とした番号であることが判明していた。「一等道路」は陸羽街道を指していることは明白であり、この数値は地理局の高低測量に関係していることは間違いないことである。
塩竈からの通し番号が付いていることから地理局で数値の“改正”を行ったとも考えられるが、この当時、のちに萬世大路と命名される中野新道の開削工事など、福島県は積極的に道路や水路の工事を行っていることから、福島県が独自に数値の“改正”を行ったとも想像される。
また、“改正”された数値にも注目しなければならない。湯殿山、五柱神社ともに「福島県下高低几号所在」の数値から「1.5616m」の低下になっている。この「1.5616m」という数値の算出根拠など検証も必要である。

 

関連話題 その2

 

このサイトをご覧の皆さんならば「萬世大路」という言葉はご存知のことと思う。
初代山形県令に就任した三島通庸は山形県の振興を目的に、米沢から福島に抜ける新しい道路建設を計画。福島県令山吉盛典と協議を行い、明治9年11月、山形側を「刈安新道」、福島側を「中野新道」として工事に着手した。県境にある栗子峠の隧道掘削など難工事を経て、明治14年、明治天皇の巡幸に合わせて開通式を行い、天皇から「萬世大路」と命名されたというのが概略である。
では、この萬世大路の工事設計にも内務省地理局の東京−塩竈間高低測量の成果が利用されていることはご存じだろうか。
残念ながら今のところ明確に測量成果の利用を裏付ける文言は見つかっていないが、福島県歴史資料館所蔵の『中野新道事業誌』(明治14年・福島県)を見れば納得できる。
『中野新道事業誌』は新道建設に関わる福島県側の事業をまとめた約4cmの簿冊で、中に「従福島町元標・至栗子隧道口、新道高低実測図」という図面が綴じ込まれている。(縦線2500分ノ1、横線2万分ノ1)
この高低図の最初には「海面」と記され、高さの基準は海面(平均海面)にあることを示している。新道の起点は「福島町元標 二十二丈八尺七寸八分三厘」に始まり、高低線は山をぐんぐん上り最後は「栗子隧道口 二百六十四丈五尺〇五分」で終わっている。
この形式の高低図は安積疏水の「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」でも見られたもので、平均海面、すなわち地理局の東京−塩竈間高低測量の成果を利用しなければ、この当時は書けない図面である。
ちなみに、福島町元標は通十一町目にあった(『信達二郡村誌』福島町)。この位置は「湯野村道」と推定する米沢口から陸羽街道を東へ180メートル進んだ場所になる。地理局の数値は1メートルを3.3尺で換算しているいるので、『中野新道事業誌』「新道高低実測図」に記された福島町元標22丈8尺7寸8分3厘は69.3282メートルとなる。なお、この場所には現在、大正時代の福島市道路元標とともに、平成30年に復元された「福島縣里程元標」の標柱が建っている。福島市公式HPへ→ジャンプ
地理局の東京−塩竈間高低測量は、那須西原基線に海面からの高さを与えただけではなく、安積疏水(猪苗代湖疏水)と萬世大路という、ともに地域の一大振興事業にも貢献していたことが明らかになった。