091 松川 (福島市松川町) 几号現存
092 浅川 (福島市松川町浅川)
093 清水町 (福島市清水町) 几号現存
094 伏拝 (福島市伏拝) 几号現存
095 福島 南 (福島市柳町)
096 福島 中央 (福島市本町・大町)
091 松川
(更新 21.05.12)
点 名 |
091 松川(まつかわ) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 松川駅 南口菅原神社華表 |
現在の地名 |
福島県 福島市松川町字八丁目41 天満宮 |
海面上高距 |
192.8058m |
前後の距離 |
渋川 ← 2836.20m → 松川 ← 2721.20m → 浅川 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
現存 【発見:1994年3月11日、箱岩英一、関 義治】 |
解 説 |
松川村は明治9年に八丁目(はっちょうめ)、鼓岡(つつみがおか)、天明根(てんみょうね)の3か村が合併してできた村である。昭和11年に町制を施行。周辺の村々を併合しながら存続し、昭和41年に福島市と合併して現在に至っている。
さて本題に入るとする。高低測量が行われた直後の明治11年12月に提出された「神社明細帳」には次のように記されている。(摘録) |
現地を調査した日 |
2005年4月8・19日 |
参考文献 |
岩磐史料刊行会:岩磐史料叢書(上)、信達一統志、1916年 |
Googleストリートビュー(2018年撮影)
かつての八丁目宿南口にあたる天満宮の前から陸羽街道を北に見る。通りのところどころに宿駅の名残が感じられる。
2005年4月撮影(以下同じ) 明治11年の「神社明細帳」に記された石燈籠、敷石、石鳥居が今に残る。社頭の「伊勢大神宮」と刻まれた常夜灯は安永7年の建立である。石鳥居の建立年は残念ながら確認することができなかった。街道から石鳥居までの距離は約6メートル。
几号は街道から見て右の柱に刻まれている。この柱、台石や根巻などない状態で地面から直接出ている。几号の刻まれた位置が地表面に近いことから、几号が刻まれた当時はもう少し下部が出ていたと想像される。境内は天神様ゆかりの飛梅(とびうめ)と満開の桜が咲き香る。
上の写真は何も細工をしないで見たままの几号。下は線刻に水を付けて撮影したもの。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒までの地上高は13cm。
鳥居の石質や泥はねなどで線刻は確認しづらいが大きな欠損などは見受けられない。
092 浅川
(更新 21.05.20)
点 名 |
092 浅川(あさがわ) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 浅川村字西地蔵岡 道北畑中 自然石 |
現在の地名 |
福島県 福島市松川町浅川字辻(付近) |
海面上高距 |
159.7840m |
前後の距離 |
松川 ← 2721.20m → 浅川 ← 3616.00m → 清水町 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
最初に浅川の変遷を記そう。
さて、本点の前と後ろである「091松川」と「093清水町」は、ともに1994年に当時国土地理院におられた箱岩英一氏と関義治氏によって几号が発見されている。その各点間に「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記された距離を当てはめることにより、本点の几号附刻地点はおおよその位置が絞り込めることになる。私が地図上で計測した結果、東北本線の「浅川踏切」付近と推定した。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月8・19日 A2006年12月2日 B2010年12月19日 |
参考文献 |
福島市史編纂委員会:福島市史資料叢書36、信達二郡村誌1、1982年 |
2005年撮影。浅川踏切を通る陸羽街道を北に見る。線路向こうの家並みは丸石の集落。明治12年当時は人家1軒(『信達二郡村誌』)、明治15年頃は宅地3軒(地籍簿)とある。
丸石の集落側から見た浅川踏切。几号附刻の推定地はこの先になる。この区間の鉄道は明治20年12月に開業。長らく単線であったが昭和39年9月東京オリンピックの会期を目前に複線化が完了した。この辺りは急勾配区間であったため、ここ浅川踏切を含む従来からの線路を下り勾配の下り専用線とし、上り線は勾配を改良するため少し離れた場所に新設されている。
現在の浅川「地蔵岡」は県道114号線を境にして西の区域であるが、明治15年頃の地籍図を見ると黄色の点線の部分も「地蔵岡」であった。鉄道が敷設され、さらに県道が開通したことで字界の変更が行われたと推定される。陸羽街道に接する場所は「地蔵岡1番、田、4畝7歩」と地籍簿に記されている。この地点を几号附刻の有力な推定地と見ているが、この場所はどちらかと言うと街道の西であり、「道北、畑中」という条件に合致しない気掛かりもある。
浅川「地蔵岡」が舌状に張り出していた場所。現在の道幅は昔に比べて恐らく広くなっているだろう。「道北畑中」とは田圃から畔と水路、更には白い車がある道路の部分まで該当するのかも知れない。現地の再確認、及び聞き取りや法務局での調査など慎重な検証が必要である。
093 清水町
(更新 21.05.26)
点 名 |
093 清水町(しみずまち) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 清水町出雲大神社石灯籠 |
現在の地名 |
福島県 福島市清水町字西裏89 出雲大神宮 |
海面上高距 |
163.0402m |
前後の距離 |
浅川 ← 3616.00m → 清水町 ← 2481.40m → 伏拝 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
現存 【発見:1994年3月11日、箱岩英一、関 義治】 |
解 説 |
清水町村は江戸期から明治22年まで存続した村で、奥州街道の宿駅「清水町宿」が置かれていた。地名は街道沿いにあったケヤキの根元から清水が湧いていたことに由来するという。また、江戸期の文献には「根子(ねっこ)町」「根子町宿」とも見える。これは宿駅を整備したばかりの頃(天正年間)は、道路上に多くの松の根が残ったままで、歩くのに難儀したことから伊達政宗が名付けたと伝えられる。清水町と記すようになったのは延宝年間からという。 『武奥増補行程記』6(写本)(寛延4年頃)「根子町、清水町トモ」とある。
出雲大神宮は明治11年12月提出の「神社明細帳」に次のように見える。(摘録) |
現地を調査した日 |
@2005年4月8日 A2006年12月2日 |
参考文献 |
岩磐史料刊行会:岩磐史料叢書(上)、信達一統志、1916年 |
2005年4月撮影(以下同じ) 街道から見た出雲大神宮の正面。参道の左右に石灯籠が建つ。
東隣(画像右端)の鈴木さん(男性)にお話しを伺った。几号の存在はご存じで、これまでに若い人も含めて何人か訪ねてきたとのこと。肝心の灯籠だが記憶にある限り移動はしていないという。ただし、昔の街道部分は今より1メートルほど低かったと教えていただいた。
右側の石灯籠。竿部に「常夜燈」と刻む。この灯籠に建立年は見当たらないが、対となる左側の灯籠には「安政三丙辰年四月吉日」とある。
几号は下から2段目の台石、正面中央に刻まれている。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm。1段目台石は高さ17cm。2段目台石の底辺から几号の横棒までは18.5cm。几号も含めて台石全体に風化が見られる。
几号の刻まれた石灯籠の背後には一等水準点「第2133号」が埋設されている。昭和49年選点・設置。土をはらうと金属標が顔を出す。平成23年の改測で標高は163.8820メートル。
094 伏拝
(更新 21.06.12)
点 名 |
094 伏拝(ふしおがみ) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 伏拝村 坂上道側自然石 |
現在の地名 |
福島県 福島市伏拝字行人下 共楽公園内 |
海面上高距 |
123.9434m |
前後の距離 |
清水町 ← 2481.40m → 伏拝 ← 3117.60m → 福島 南 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
現存 【発見:2005年4月19日、浅野勝宣】 |
解 説 |
伏拝(ふしおがみ)という地名譚はスペースの都合で省略するが、日本各地に散在する「伏拝」の所在地は、いずれも信仰に関わるところで、神仏が鎮座する地を「伏して拝む」場所だったとされる。福島の伏拝もそうだったと思われるが、この地には急で長い坂道があり、坂を上るには「伏し拝む」ような姿勢にならざるを得ない場所であったということも念頭に置いておきたい。 (内務省土木局『昭和十年度直轄工事年報』) さらに自動車普及の拡大にともない、昭和40年代から50年代にかけて順次開通した国道4号福島南バイパス(全長19.6キロメートル)は、江戸古道・明治新道・昭和新道とも完全に分離され、高速道路並みの高規格道路となっている。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月8・19日 A2006年4月8日 B2006年12月2日 |
参考文献 |
岩磐史料刊行会:岩磐史料叢書(上)、信達一統志4、1916年 |
『武奥増補行程記』6(写本)(寛延4年頃) 伏拝坂周辺の様子
2005年4月撮影(以下同じ) 福島市中心部方面から見た伏拝坂の入口。上の『武奥増補行程記』で「伏拝坂」という文字がある辺りになるだろうか。画像の左側に平成8年設置の道標が写っている。「左・旧四号国道・明治十年代より数次の改良工事により現在に至る。一部旧道が残っている」。「右・旧奥州道(陸羽街道)・天正年間(1573〜1593)伊達政宗公により開設されたという。清水町仲興寺前に通じる」とある。ここから高低差45メートルを300メートルの距離で上るという急坂になる。大名も駕籠から下りて歩いたと伝えられる難所である。
伏拝坂の途中にある「舟繋ぎ石(ビッタラ石)」【画像左】と、急坂を上り切って共楽公園の入口に建つ馬頭観世音塔(文化2年、飛脚問屋島屋建立)【画像右】。
2005年4月に自転車旅行をした当時は「TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT」に記された距離と標高、および『地質要報』の「伏拝村 旧道坂上」という情報だけが頼りであった。
往路で伏拝の推定地に到達したものの、ごく普通の公園然とした風景に「これが本当に陸羽街道?」とあっけにとられる思いがした。とにもかくにも共楽公園にある馬頭観世音塔を有力視していたので丹念に観察した。しかし、几号は見当たらない。
東京からの帰路は次第に天気が崩れて雨になると予報されていたので、じっくり調査する余裕がないまま北を目指してペダルを漕いでいた。雨雲にあわせるように桜の見ごろも北上し、10日前の往路ではつぼみだった伏拝の桜も復路では満開になっていた。
共楽公園は桜の名所である。いつまで天気が持つか心配だったが、ここは花見を楽しもうと自転車を押しながらゆっくり公園の通路(陸羽街道)を歩いた。馬頭観世音塔が見えてきたので公園も終わりである。「しかし伏拝の几号は何に刻んだのだろう?」と改めて周囲を見渡し視線を下に落とした。すると路肩の斜面に顔を出した石の面に何やら人工的な横線が。「ん?」
あまりの驚きに慎重な検証を行わず表土を除けてしまったので、慌てて発見した瞬間の状態に戻して撮影したものである。几号発見のときはこのように1本の横棒しか見えない状態だった。満開の桜に誘われて自転車から下りゆっくり歩いたからこそ見つけられたと思われる。
几号の刻まれた石は見える範囲の高さ約50センチメートル、横幅約90センチメートル。まさに街道脇(というか公園の散策路脇)で人知れず埋もれていたのである。辺りの風景は変わり多少土も被ってしまったが、恐らく明治9年当時から動くことなく同じ場所にあると思われる。
几号。横棒9.0cm、縦棒10.0cm、横棒の幅1.1cm。大半が地中に埋もれていただけあって線刻は良好な状態である。几号の周囲は少し平面に加工されているように見受けられる。
095 福島 南
(更新 22.04.09)
点 名 |
095 福島 南(ふくしま みなみ) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 福島駅南口 信夫橋際 五柱神社 |
現在の地名 |
福島県 福島市柳町85番2 柳稲荷神社 |
海面上高距 |
65.0016m |
前後の距離 |
伏拝 ← 3117.60m → 福島 南 ← 1077.55m → 福島 中央 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明(亡失の可能性が高い) |
解 説 |
思えば杉田(087)から坂道を上り下りしてきた街道も、伏拝の急坂を下ると福島盆地の底に到達である。ここから福島市街地を経て桑折(099)付近まではほぼ平坦な道となる。
地理局が公表した情報には几号を五柱神社の何に刻んだのか具体的な記述はない。石垣なのか鳥居なのか常夜燈なのか。前例のない珍しい表記であり、大変に困った表記でもある。五柱神社に関する史料としては明治11年稿成の『信達二郡村誌』に記述がある。その全文は次のようになっている。
五柱神社を理解するには信夫橋の架け替えの歴史を把握する必要があるだろう。江戸時代までさかのぼって橋とその周辺の歴史を整理しておく。
(武奥増補行程記より)
元禄年間 須川橋。中州の両側に長さ45mと40m、幅3.8mの木橋
明治6年に初代信夫橋が建設されるにともない、江戸時代より城下の入口として警固していた桝形は解体された。その際、枡形付近にあったと推定される小祠が五柱神社として神域の整備が行われたと見ている。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月8日 A2006年12月2日 |
参考文献 |
野村兼太郎:経済全書4、維新前後、日本評論社、1941年 |
明治16年、地籍丈量図「信夫郡福島町字通一」(一部)
(福島県歴史資料館所蔵「明治期福島県地籍帳・地籍図・丈量帳」)【掲載許可済。禁転載】
信夫橋北詰西側が通一の1番で、地番は西側を北に進み通二(荒町)境の44番まで行ったところでZ(ゼット)字に折り返し、次の45番は信夫橋北詰東側、すなわち五柱神社に移ってきている。(註:「四十五番」を赤囲み)
法務局備え付けの地図(地図に準ずる図面:旧土地台帳附属地図)(加筆)
明治の地籍丈量図とほぼ同じ範囲。信夫橋北詰西側が柳町1番で、地番が西側を北に進むのも地籍丈量図と同じであるが、現在は荒町境でU(ユー)の字に折り返して信夫橋北詰東側が85番2となっている。(註:85番2の範囲を赤囲み)
明治と現在では信夫橋北詰の地形は確実に変化しているはずだが、神社敷地という特質もあってか地図の更正が不完全であり、柳稲荷神社のある85番2は明治時代の地籍丈量図における45番とほぼ同じ形状の範囲となっている。
2005年4月8日撮影(次も同じ) 信夫橋の北詰東側、柳稲荷神社付近の風景
左側は信夫橋と荒川の河川敷。右側は柳町の入口。この場所に江戸口枡形と木戸があった。
柳稲荷神社の全景。神域はこれですべてである。
社殿右側の石碑は明治31年建立「古峯神社」碑。古峯神社は火伏せ・防火の神として栃木県鹿沼市にある。明治14年の大火後に「古峯講」という講がつくられた。画像では陰になっているが社殿左側には「柳稲荷神社御来歴」碑がある。参考までにその銘文を下に記す。
柳稲荷神社御来歴
抑当稲荷神社ノ御由緒ハ詳ナラズト雖 伝承スル所ニ拠レバ 往昔当地方大洪水ノ際 吾ガ柳町ハ殆(あやう)ク流失ニ瀕セシヲ 河岸ニ有リシ柳ノ大樹能ク其水勢ヲ避ケ 以テ其難ヲ免レ得シメキ 然ルニ減水後奇シクモ其大樹ノ基ニ稲荷ノ小祠ノ懸レルヲ見ル 里人之偏ニ神霊ノ加護ノ然ラシムルモノトナシ 柳稲荷神社ト称シ 当市南方ノ守護神トシテ厚ク之ヲ祀リシト云フ
而シテ当町ハ 元東側ヲ鍛冶町 西側ヲ大学町ト称セシモ 元禄四年十月当社ニ因ミテ両町ヲ合併シ 柳町ト改称スルニ至レリ 当時ハ神域五拾四坪其内ニ壮麗ナル社殿在リシモ 明治十四年ノ大火ニ炎上ノ厄ニ遭ヒテヨリ石ノ小祠ヲ建テ 毎年旧初午ヲ以テ祭礼ヲ営ミ来タレリ
而シテ昭和七年十二月一日信夫橋ノ架替ヲ機トシ 有志ノ奉賽ヲ募リ 以テ再建シ 当地ノ守護神ト仰ギタリ 今茲紀元二千六百年ヲ卜シ愈皇国ノ隆昌ト出征将士ノ武運長久ヲ祈念シ 氏子一同相謀リ建碑以テ神慮ニ応ヘントス
昭和十五年十月十日 高野平次郎撰 斎藤道行書
(碑高120p)
Googleストリートビュー(2019年撮影)
現地調査を行ったのは「五柱神社」と判明する前であるが、信夫橋際にある柳稲荷神社の周囲もひと通り観察しているので、画像に写っている石材類も当然見ているはずである。しかし、改めてGoogleさんの画像を見てみると確認した自信も揺らいでくる。現地を再調査する必要があるようだ。なお、歩道際に繁茂する植栽の陰に一等水準点「第2136号」がある。
096 福島 中央
(更新 21.08.07)
点 名 |
096 福島 中央(ふくしま ちゅうおう) |
---|---|
当時の場所 |
福島県 福島 湯野村道 湯殿山供養塚 |
現在の地名 |
福島県 福島市本町・大町 |
海面上高距 |
68.7373m |
前後の距離 |
福島 南 ← 1077.55m → 福島 中央 ← 3340.00m → 五十辺 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
福島県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
照合資料 5 |
奥州街道ノ高低 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
前点「福島 南」から県都福島の市街地を1077.55メートル進む。到達したところは江戸時代以来、町人町の中心地といえる場所である。現在、この付近の陸羽街道(市道本町・上町線)はレンガ通りと通称され、さらには金融機関が多く存在することから“福島のウォール街”とも呼ばれている。作曲家古関裕而の生家「喜多三(きたさん)呉服店」跡もこの一角にある。
第一の謎は「湯野村道」である。湯野村とはかつて伊達郡にあった村で、福島からは北へ8.5キロメートル離れた場所に位置する。飯坂温泉の東隣と言ったほうが分かりやすいだろうか。現在は福島市飯坂町湯野となる。
第二の謎は「湯殿山供養塚」である。はっきり申し上げてこれはお手上げである。
まず優先すべきは福島県歴史資料館所蔵「明治期行政文書」の精査である。謎を解くヒントが必ず埋もれているはずである。また、信夫橋北詰にほど近い常徳寺で見かけた湯殿山塔や、福島県歴史資料館から県立図書館へ歩いてへ移動すると必ず目にした信夫山の湯殿山塔など、市内には湯殿山の供養塔が点在する。信夫山自体が信仰の山で出羽三山になぞらえて羽黒山・湯殿山・月山の神が祀られていることにも注目である。「湯殿山供養塚」の探索は単に範囲の拡大だけではなく、地域の信仰史など視点の拡大もあわせて必要である。
このサイトをご覧になっている方、特に福島にお住まいの方にお願いです。 |
現地を調査した日 |
@2005年4月8・19日 A2010年9月8日 B2011年10月8・9日
C2014年11月1日 |
参考文献 |
福島市史編纂委員会:福島市史4、通史編4、近代1、1974年 |
Googleストリートビュー(2020年撮影)
左奥から石畳道を東へ直進するのが陸羽街道(レンガ通り)。米沢街道は白い自動車が写る一方通行の道が入口になる。中央の建物が日本銀行福島支店(本町6-24)、右に建物の一部が写るのが秋田銀行福島支店。私はこの米沢口が地理局が示す「湯野村道」だと推定している。
2005年4月8日撮影(次も同じ)
日本銀行福島支店の敷地角に建つ「米沢口(庭坂口)」の解説板。
米沢街道は陸羽街道から北に入り、町家の裏を縫うように西へ進む。
関連話題 その1
土木学会附属土木図書館に安積疏水(猪苗代湖疏水)の測量作業に従事した渋谷吉蔵(旧米沢藩士)の日誌が所蔵されている(表紙裏に「安積郡開拓事務測量日誌、米沢渋谷吉蔵」とあり)。明治11年7月22日付の「安積郡開拓事務取調トシテ出張申付候」という福島県令山吉盛典からの辞令を最初に、同年12月まで行った疏水路線の測量過程が記されている。
この日誌を用いた論考はすでに日本大学工学部の知野泰明氏と藤田龍之氏によって「猪苗代湖疏水(安積疏水)事業における測量日誌に関する研究」(『土木史研究』第19号、1999年)がある。論文へ→ジャンプ
私も知野・藤田論文を読んだことで渋谷吉蔵の日誌が存在することを知った。論文の内容が気になった私は2016年に土木図書館を訪ね日誌の原本を閲覧した。
私が特に注目したのは「須賀川近傍袋田原等高低調之事」と「一等道路ノ内改正表」という測量数値の記録である。
「須賀川近傍袋田原等高低調之事」は、白河−新小萱−小田川−踏瀬−大和久−矢吹における各区間の高低差を記している。これは検証の結果、地理局の高低測量数値を用いていることが判明した。(詳しい解説は別項で掲載予定)
ここでは「一等道路ノ内改正表」について詳しく解説する。次がその全文である。
一等道路ノ内改正表
67m1757 三拾三号湯殿山
63m4400 三十四号五柱神社
タイトルを含めるとわずか3行のこの記事は、8月2日「終日雨、滞在」という場所に唐突に書き記されており、前数日の記述を見ても筆者の渋谷本人が担当した測量でないことは明らかである。
原本を閲覧した時点で「湯殿山」は本点の「096 福島 中央」、「五柱神社」は前点の「095 福島 南」であること、さらに「三拾三号」と「三十四号」は塩竈を起点とした番号であることが判明していた。「一等道路」は陸羽街道を指していることは明白であり、この数値は地理局の高低測量に関係していることは間違いないことである。
塩竈からの通し番号が付いていることから地理局で数値の“改正”を行ったとも考えられるが、この当時、のちに萬世大路と命名される中野新道の開削工事など、福島県は積極的に道路や水路の工事を行っていることから、福島県が独自に数値の“改正”を行ったとも想像される。
また、“改正”された数値にも注目しなければならない。湯殿山、五柱神社ともに「福島県下高低几号所在」の数値から「1.5616m」の低下になっている。この「1.5616m」という数値の算出根拠など検証も必要である。
関連話題 その2
このサイトをご覧の皆さんならば「萬世大路」という言葉はご存知のことと思う。
初代山形県令に就任した三島通庸は山形県の振興を目的に、米沢から福島に抜ける新しい道路建設を計画。福島県令山吉盛典と協議を行い、明治9年11月、山形側を「刈安新道」、福島側を「中野新道」として工事に着手した。県境にある栗子峠の隧道掘削など難工事を経て、明治14年、明治天皇の巡幸に合わせて開通式を行い、天皇から「萬世大路」と命名されたというのが概略である。
では、この萬世大路の工事設計にも内務省地理局の東京−塩竈間高低測量の成果が利用されていることはご存じだろうか。
残念ながら今のところ明確に測量成果の利用を裏付ける文言は見つかっていないが、福島県歴史資料館所蔵の『中野新道事業誌』(明治14年・福島県)を見れば納得できる。
『中野新道事業誌』は新道建設に関わる福島県側の事業をまとめた約4cmの簿冊で、中に「従福島町元標・至栗子隧道口、新道高低実測図」という図面が綴じ込まれている。(縦線2500分ノ1、横線2万分ノ1)
この高低図の最初には「海面」と記され、高さの基準は海面(平均海面)にあることを示している。新道の起点は「福島町元標 二十二丈八尺七寸八分三厘」に始まり、高低線は山をぐんぐん上り最後は「栗子隧道口 二百六十四丈五尺〇五分」で終わっている。
この形式の高低図は安積疏水の「猪苗代湖ヨリ安積郡諸原野高低実測図」でも見られたもので、平均海面、すなわち地理局の東京−塩竈間高低測量の成果を利用しなければ、この当時は書けない図面である。
ちなみに、福島町元標は通十一町目にあった(『信達二郡村誌』福島町)。この位置は「湯野村道」と推定する米沢口から陸羽街道を東へ180メートル進んだ場所になる。地理局の数値は1メートルを3.3尺で換算しているいるので、『中野新道事業誌』「新道高低実測図」に記された福島町元標22丈8尺7寸8分3厘は69.3282メートルとなる。なお、この場所には現在、大正時代の福島市道路元標とともに、平成30年に復元された「福島縣里程元標」の標柱が建っている。福島市公式HPへ→ジャンプ
地理局の東京−塩竈間高低測量は、那須西原基線に海面からの高さを与えただけではなく、安積疏水(猪苗代湖疏水)と萬世大路という、ともに地域の一大振興事業にも貢献していたことが明らかになった。