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114 沼辺 (村田町沼辺) 
115 船迫 (柴田町本船迫)
116 四日市場 (柴田町四日市場) 
117 岩沼 (岩沼市稲荷町)
118 植松 (名取市植松)
119 増田 (名取市増田)

114 沼辺

(更新 23.07.28)

点   名

114 沼辺(ぬまべ)

当時の場所

宮城県 沼辺村立石囲 百六十六番地 太田常三郎居宅前

現在の地名

宮城県 村田町沼辺字立石

海面上高距

14.5758m

前後の距離

大河原 ← 2330.00m → 沼辺 ← 3102.60m → 船迫

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 沼辺村
 14.5758m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Numaba
 14.5758m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 沼辺村立石囲百六十六番地前据石
 14.5758m/48.808尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 沼辺ムラ 立石囲 百六十六番地 太田常三郎居宅前

照合資料 4

地質要報
 沼辺村
 14.6m/―

几号の現存有無

不明

解  説

宮城県南の几号附刻地については、初めての調査からから20年が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じているが、その実現には至っていない。
詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第2集(2004年)に収録した解説で代用とする。

 

『宮城の標石』第2集
沼辺 立石
陸羽街道はわずかな距離だが村田町の最南端をかすめる。船迫から道を西に進むと北側には韮神山、南には白石川・荒川がせまり、その狭間に立石の集落がある。陸羽街道の旧道は立石から韮神山の坂を越えて大河原に通じていたが、白石川南の船岡地区に新道ができたこともあり、立石周辺はことに長く旧道の趣をとどめていた。しかし、昭和60年に開通した柴田バイパスの建設工事にともない、田畑を埋め立て山を削り四車線道路ができた。
現在、立石には太田姓が2軒ある。地元で話しを聞いたところ「太田常三郎」氏のご子孫は県外に転出し、その屋敷跡はバイパス敷地になっているとのこと。具体的にはバイパス上り車線にあるガソリンスタンドの前あたりで、東京から321kmという表示が立っている。話しに間違いがなければ推定地は道路の下である。
さて、ここ沼辺立石で几号を刻んだものは単に「居宅前」とあるだけで、丸石とも石塔とも附刻物は明示されていないため、新設標石の可能性も大いにあり得る。自然石にしろ新設標石にしろ移設の可能性も考えられるので、立石の集落や韮神山麓にある石塔群を調査したが、それらしき物の発見には至っていない。

 


韮神山より (平成16年3月)
推定地を山頂から俯瞰する。
山と川に挟まれたこの平場に几号標石はあったはずだ。

 


推定地付近 (平成15年6月)
右にガソリンスタンド、左には立石集落の家々が数軒並ぶ。

現地を調査した日

@2003年6月21日  A2004年3月28日

参考文献

浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年

 

115 船迫

(更新 23.09.24)

点   名

115 船迫(ふなばさま)

当時の場所

宮城県 舟迫 松並木道西側ノ丸石

現在の地名

宮城県 柴田町本船迫

海面上高距

13.3175m

前後の距離

沼辺 ← 3102.60m → 船迫 ← 5562.94m → 四日市場

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 舟迫駅
 13.3175m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Funabasa
 13.3175m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 舟迫村松並木街道西側自然石
 13.3175m/43.9484尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 舟迫 松並木道西側ノ丸石

照合資料 4

地質要報
 船迫駅
 13.3m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 舟迫
 ―/4丈3尺

几号の現存有無

不明

解  説

宮城県南の几号附刻地については、初めての調査からから20年が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じているが、その実現には至っていない。
詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第2集(2004年)に収録した解説で代用とする。

 

『宮城の標石』第2集
船迫 松並木
几号を刻んだ地点はまことに漠然としている。当時の陸羽街道は船迫村だけでも5キロに及び、松並木もいたるところにあったと考えられる。しかしこの報告にも注目点がある。「道西側」という表記である。街道の西側に丸石があるということは、すなわち街道は南北に通っている場所となる。現在の地図で旧街道をなぞると南北に通る場所が2か所浮かび上がった。現在の船迫公民館付近と、旧船迫宿の南側入口付近である。そこで隣接する几号附刻地点「四日市場」と「沼辺 立石」までの距離をそれぞれ比較すると、船迫公民館付近が両者のほぼ中間点となることが判明した。また、船迫公民館の敷地一角にある記念碑には、やや広い範囲を指していると思われるが「この地は古くから奥州街道 船迫の松並木として多くの人から知られていた…」とも記されている。
だが、船迫公民館付近を推定地とするには理由が脆弱であり、実際に「丸石」を探し当てるしか決め手はない。我々は村田町沼辺立石から柴田町JR槻木駅まで、旧街道を7キロあまり歩いて探索した。しかし、その調査時も、そして現在に至っても几号の刻まれた丸石は確認できていない。

 


船迫公民館の前 (平成15年6月)
街道を南から北を向いて撮影。左の案内図の前に見える標石には「奥州街道通り」と刻まれ、この囲みの中に記念碑が建っている。なお、公民館入口には明治初年の村絵図や付近を写した航空写真が掲示してあり、地域の変遷をうかがい知ることができる。

現地を調査した日

@2003年6月21日  A2004年3月28日

参考文献

浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年

 

※『宮城の標石』第2集を執筆した当時は几号附刻地間の距離が不明であった。その後に距離が判明しているので上記の位置は前後の地点から推定したものである。

116 四日市場

(更新 23.11.25)

点   名

116 四日市場(よっかいちば)

当時の場所

宮城県 四日市場ムラ 字三軒茶屋掲示場傍蔵王塔

現在の地名

宮城県 柴田町四日市場字原前11 (移設・西台前37-1)

海面上高距

7.6386m

前後の距離

船迫 ← 5562.94m → 四日市場 ← 5280.85m → 岩沼

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 四日市場村
 7.6386m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Yokkaichi
 7.6386m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 四日市場村字三軒茶屋旧蔵王塔台石
 7.6386m/25.2074尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 四日市場ムラ 字三軒茶屋掲示場傍蔵王塔

照合資料 4

地質要報
 四日市場府  ※「府」は「村」の誤植と推定
 7.6m/―

几号の現存有無

不明

解  説

宮城県南の几号附刻地については、初めての調査からから20年が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じているが、その実現には至っていない。
詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第2集(2004年)に収録した解説で代用とする。

 

『宮城の標石』第2集
四日市場 蔵王塔
道は柴田郡に入った。四日市場の几号推定地は前地点の岩沼竹駒神社から5.3キロも離れている。岩切−原ノ町間に匹敵する。現在の地名表示では「三軒茶屋」という字名は存在しないが、俗称として使われている。現在この三軒茶屋を横切る国道四号線は四車線道路となり、その拡幅工事にともない原前11番地付近にあった石塔群は、約150メートル奥まった町道脇に移動された。
明治初期の『四日市場村図』(皇国地誌附図)によると、掲示場は原前11番地付近にあったのは間違いないが、掲示場を示す記号がこの番地とは道を挟んで反対、陸羽街道の南側に記されている。
さて現在の地(西台前)には「蔵王山」を含め6基の大きな石塔がある。うち5基は花崗岩を加工したもので見事な石の並びである。几号を刻んだと思われる石塔には「蔵王山・慶応丁卯三年十月八日・菊庵書(落款)・當邨中」とあり、高さ174センチ、最大幅128センチの花崗岩である。台石はなく「山」の字の下が辛うじて地表に出ている状態であり、表面観察では几号は確認できなかった。四日市場の蔵王塔はこれ一基という情報なので間違いないと考えるが、几号を確認できないのが惜しまれる。

 


四日市場字西台前の石塔群 (平成15年5月)
右から湯殿山(文久2年)、蔵王山(慶応3年)、庚申(寛政12年)、金華山(文久元年)、大津見神社、青麻神社(明治29年)と並ぶ。

 


蔵王山塔
山の字の下が辛うじて地表面に出ている状態であり、台石があるのか、地中にどの程度埋没しているのかも不明。

現地を調査した日

@2003年5月24日  A2003年6月21日

参考文献

浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年

 

117 岩沼

(更新 23.12.30)

点   名

117 岩沼(いわぬま)

当時の場所

宮城県 岩沼 竹駒神社石燈籠台石崕

現在の地名

宮城県 岩沼市稲荷町

海面上高距

3.0346m

前後の距離

四日市場 ← 5280.85m → 岩沼 ← 4598.00m → 植松

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 岩沼駅
 3.0346m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Iwanuma
 3.0346m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 岩沼 竹駒神社石燈籠台石崕
 3.0346m/10.0142尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 岩沼 竹駒神社石燈籠

照合資料 4

地質要報
 岩沼駅
 3.0m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 岩沼
 ―/1丈

几号の現存有無

不明

解  説

宮城県南の几号附刻地については、初めての調査からから20年が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じているが、その実現には至っていない。
詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第2集(2004年)に収録した解説で代用とする。

 

『宮城の標石』第2集
岩沼 竹駒神社
〔当時〕名取郡岩沼竹駒神社燈籠
〔現在〕岩沼市稲荷町一番地 竹駒神社 / 中央一丁目 参道入口
竹駒神社は岩沼市街地の南寄りに位置し、伏見稲荷神社の系統をひく日本三稲荷の一社とされる。承和9年(842)陸奥守小野 篁 が創建したと伝えられ、江戸時代には農業・養蚕・馬産・職人の神として藩主伊達家をはじめ庶民にも広く信仰された。現在でも県内外から多くの参拝者を集めている。
境内は陸羽街道から百数十メートル奥まったところに一之大鳥居がある。大鳥居に至る道は安永4年(1775)に藩へ願い出て設けられたもので、明治初年の『社寺境内区画図』(宮城県公文書館蔵)にも幅一間三分、長さ七十六間の道が社地として報告されている。
几号は街道から確認しやすい不朽物に刻むのが鉄則であれば、陸羽街道に面した参道入口に灯籠があったと推定されるが、現在では灯籠が存在したことすら確認することができない。広い境内に移設した可能性も大いにあり得ると、整備・清掃が行き届いた境内で目に付いたすべての灯籠を調べたが、几号の刻まれたものは無く、さらに広範囲に神社周辺も探したがやはり発見することはできなかった。我々は境内に現存する灯籠が案外少ないと感じたが、時とともに失われた灯籠も数多いと想像される。

 

 


陸羽街道より百数十メートル奥にある竹駒神社の大鳥居を見たものである。
(平成15年9月)

 


ほぼ同じ地点から岩沼の商店街を見た風景。高低几号を刻んだ灯籠はこの付近にあったと考えられるが、今ではまったく見当もつかない。

現地を調査した日

@2003年5月17日  A2003年9月2日  B2004年1月18日

参考文献

浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年

 

118 植松

(更新 24.01.30)

点   名

118 植松(うえまつ)

当時の場所

宮城県 植松邑字西向囲一ノ橋際 道祖神路石塚

現在の地名

宮城県 名取市植松

海面上高距

3.9198m

前後の距離

岩沼 ← 4598.00m → 植松 ← 3667.10m → 増田

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 植松村
 3.9198m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Uwamatsu
 3.9198m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 植松村字西向囲一ノ橋際道祖神路塚
 3.9198m/12.9353尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 植松邑字西向囲一ノ橋際 道祖神路石塚

照合資料 4

地質要報
 植松村
 3.9m/―

几号の現存有無

現存

解  説

宮城県南の几号附刻地については、初めての調査からから20年が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じているが、その実現には至っていない。
詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第2集(2004年)に収録した解説で代用とする。

 

『宮城の標石』第2集
植松 道祖神路塔
〔当時〕名取郡植松邑字西向囲一ノ橋際 道祖神路石塚
〔現在〕名取市植松字西向62−1 川内沢橋南側
増田を出ると現在の国道四号線は東北本線の東側を並走するが、旧道は名取郵便局近くの奥州街道(飯野坂)踏切を渡り古墳が点在する飯野坂の丘陵下を進む。両側に民家が建ち並ぶ道をひたすら南下すると、やがて川内沢川に架かる小さな橋が見えてくる。この橋を渡った右側の民家の角に「道祖神路石塚」はある。

石塔は上の図のように三角柱である。
碑本体の高さは175cm、正面の幅は約60cm。正面には「道祖神路」とあり、その下に几号が刻まれている。南面には「笠島はいつこ皐月のぬかり道 はせを」とあり、北面には長文なので端折るが「社者此川水上廿八丁余、而有于笠島村八嶺也……中古中将実方朝臣東遊之旧跡……故記而以告探勝之人、古碑折却今継哲人之志再建之。安政三季丙辰冬十一月十日也、仙台河原町小西利兵衛是行。世話人笠島村植松村若者」とある。
松尾芭蕉は『おくのほそ道』の道中、平安中期の歌人で陸奥守に左遷された藤原実方が、落馬して亡くなった場所と伝えられる笠島の道祖神社を訪ねたいと願っていた。しかし、梅雨の長雨で笠島への道はぬかるみ参拝をあきらめ「笠嶋はいづこさ月のぬかり」の句を残しそのまま街道を北に進んだ。往時はこの川に沿って川上の笠島に行く道があり、この道祖神路塔の右脇には「笠島道」と刻まれた高さ85cmあまりの道標も建っている。
さて肝心の几号であるが、横棒9cm、縦棒は10.5cm。地上から横棒までの高さが約25cmである。(台石は深く埋没し、碑本体とはコンクリートと思われるもので結合されている)
この「道祖神路」の几号は以前より認識していたものの、なかなか調査の機会に恵まれなかった。いよいよと決意し調査に赴いたのは梅雨の雨が降りしきるなかであり、芭蕉と同じく雨に煙る笠島の山々を眺めつつ記録した次第である。

 


道祖神路塔とその周辺 (平成15年7月)
道祖神路塔の左側には文化財の標柱、右側には「笠島道」と刻まれた道標が建っている。ガードレールの部分が川内沢川に架かる橋。旧笠島道は手前の電柱を左折する。

 


几号は「道祖神路」の字の下に刻まれている。

 


道祖神路塔に刻まれた几号

現地を調査した日

@2003年7月19日  A2004年1月18日

参考文献

浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年

 

119 増田

(更新 24.02.28)

点   名

119 増田(ますだ)

当時の場所

宮城県 増田駅荒神社石燈籠台石崕

現在の地名

宮城県 名取市増田

海面上高距

5.8123m

前後の距離

植松 ← 3667.10m → 増田 ← 4164.90m → 大野田

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 増田駅
 5.8123m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Masuda
 5.8123m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 増田駅荒神社石燈籠台石崕
 5.8123m/19.1796尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 増田 村社荒社 神燈石礎 五十六番菊地善蔵所有

照合資料 4

地質要報
 増田駅
 5.8m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 増田
 ―/1丈9尺

几号の現存有無

亡失

解  説

宮城県南の几号附刻地については、初めての調査からから20年が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じているが、その実現には至っていない。
詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第2集(2004年)に収録した解説で代用とする。

 

『宮城の標石』第2集
名取 増田神社
〔当時〕名取郡増田 村社荒神社神燈石礎 五十六番菊地善蔵所有
〔現在〕名取市増田二丁目3−13 増田神社
増田神社は商店街の中心部にありながら旧態を良くとどめている。江戸時代は奥州街道の増田宿として栄え、神社はその北町に位置する。そもそもは地主である菊地善蔵の遠祖が大和国笠山の社より分霊し、永正年中(1504〜)現在地に遷座したと伝えられる。当時は荒神社と呼ばれていたが、明治18年に笠山神社となり、同41年には町内の五社を合祀し現在の増田神社へと社号を改めた。
几号を刻んだ「神燈」とは道路より約4メートル入った位置にある石灯籠で、二段の石組台座の上に小振りの狛犬があり、その狛犬の背に灯籠の部分が乗るという一風変わった形をしている。几号は道路から見て左側の台座根もとに刻まれている。台座の高さ47cm、その上の狛犬を含めた灯籠の高さは188cmである。灯籠の竿には「御神燈」「町内安全」「天保六己未歳三月十八日」と三面にわたり刻まれている。反対の灯籠は形はほぼ同じだが文化13年の奉納と銘にある。
几号は横棒9cm、縦棒は10.5cm。地面に敷かれたコンクリートの面が縦棒の一番下と同位置である。横棒の太さは1.3cmで掘りも深い。几号を刻んだ箇所は平面に削り直されており、全体に丁寧な仕上げといえる。神燈の傍らには平成10年に石井春雄氏によって立てられた几号標の解説板がある。
因みに菊地善蔵は南隣りの増田公民館一帯に屋敷を構え、幕末には増田宿北町検断という村役を務めていた。明治9年・14年の巡幸の際には小休所にあてられ、明治天皇命名の「衣笠の松」が今でも公民館の前庭に見事な枝振りを見せている。
埋没の憂いをなくさんとコンクリートを敷いたと思われるが、最善の策とはいいがたい。しかし、解説板の設置にしても保存に努めようとする行為は意義深いと言える。今後も市街地整備の波が押し寄せるかも知れないが、永く几号を保存していただきたい。

 

正面。几号は台座の根もとにある

 

右側面越しに街道を見る

 

神燈石礎に刻まれた几号 (平成15年5月)

石組全体は粗削りだが几号の周囲だけは平面に削り直されている。下の白い部分はコンクリートで固められていて、この面が几号縦棒の最下部と同じ位置にある。

 

 

追 記 (2024年2月)
上記した『宮城の標石』第2集を作成した2004年当時は、心から増田神社の高低几号が末永く保存されることを願っていたし、現地には解説板も設置されていることから、地元の人々にも広く理解され大事に保存され続けるものと思っていた。
ところが、それから数年して「増田神社の高低几号がなくなった」という情報を耳にした。
私が住む宮城県内で「几号亡失」が起こったことに強い衝撃を受けた。
聞くところによれば神社の宮司さんも几号保存の必要性をめぐり、関係機関に問い合わせをおこなったらしいが、結論は「撤去」に決したのとのことである。
当時、几号の情報は今以上に狭い仲間内で共有していたような状態であった。私は小冊子を小部数作って満足し、几号の保存に向けての周知活動はしてこなかった。増田神社の几号亡失に関しては誰に非があるわけではないが、私たちの周知活動も足りなかったと自分自身を悔やんだ。
そんな気持ちでいたときに東日本を大地震が襲った(2011年)。
台石に几号の刻まれた石灯籠は、上の画像で見ていただくとわかるように、本体は凝った造りである反面、なんとも線が細くて華奢である。とてもじゃないが、あの激震に石灯籠は耐えられなかったであろう。

 

現地を再訪したのは2016年になってからである。几号の現存を確かめた現地を、今度は「亡失」を確認しに行くのである。何とも悲しくてつらい。

増田神社の社頭に立った。几号が刻まれた石灯籠があった場所には真っ白な狛犬がドンと鎮座していた。
その台石には「奉献」「平成二十二年四月吉日建立」「増田神社総代会」と刻まれている。(平成22年=2010年)
ほかの方も境内を見て回られたと聞いていたが、最後は自分の目で確かめねばと早朝の境内をひと回り。やはり撤去した石灯籠の台石は見当たらない。私もここに至って観念し増田神社の「几号亡失」を受け入れた。

 

現存していた高低几号が亡失するということは残念でならない。二度とそのようなことが起こらないように願っている。なお、このWebページ「高低几号の情報室」の開設も微力ながら几号の存在を知ってもらう一助になればと願うからである。

現地を調査した日

@2003年5月17日  A2016年12月10日

参考文献

浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年