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120 大野田 (仙台市太白区東大野田) 
121 長町 (仙台市太白区長町)
122 広瀬橋 (仙台市若林区河原町) 
補点 南鍛冶町 (仙台市若林区南鍛冶町)
123 仙台 (仙台市青葉区大町)

120 大野田

(更新 24.03.30)

点   名

120 大野田(おおのだ)

当時の場所

宮城県 大野田村 名取川北岸宝龍社金剛山塚

現在の地名

宮城県 仙台市太白区東大野田

海面上高距

8.7543m

前後の距離

増田 ← 4164.90m → 大野田 ← 3001.80m → 長町

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 名取川北岸
 8.7543m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Natorigawa (Nordseite)
 8.7543m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 大野田村 名取川北岸宝龍社金剛山塚
 8.7543m/28.8882尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 大野田邑 名取川北岸 十五番地宝龍社内金剛山石塚

照合資料 4

地質要報
 名取川 国道
 8.8m/―

几号の現存有無

現存

解  説

宮城県南の几号附刻地については、初めての調査からから20年が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じているが、その実現には至っていない。
詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第2集(2004年)に収録した解説で代用とする。

 

『宮城の標石』第2集
大野田 宝龍神社
〔当時〕名取郡大野田邑名取川北岸 十五番地宝龍社内金剛山石塚
〔現在〕仙台市太白区東大野田4-23 宝龍神社
JR長町駅前から国道4号線を南に2キロメートル、名取川を渡る橋の手前に宝龍神社はある。同じ敷地内に東大野田公会堂や消防のポンプ小屋、水防倉庫なども建っている。江戸時代の地誌には「宝量権現社」として、明治初期の『大野田村誌』(皇国地誌)にも「宝量社」とある。
『村誌』には次のように記されている。

小社々地東、東西十七間三尺、南北七間一尺五寸、面積四畝七歩、本村ノ東方ニアリ、伝云武烈天皇ノ御衣冠ヲ埋メ祭ルト何ノ故ヲ詳ニセス、祭日十一月五日、社地中老杉六株アリ

明治42年に富沢の多賀神社に合祀されたが、その後(昭和2年頃)旧地に社殿が再建されたと伝え聞く。
目指す「金剛山石塚」は小さな社殿の裏手に「湯殿山」や「小牛田山神」などの石碑とともにある。台石の高さ21cm、横幅116cm。その上に乗る碑の高さ136cm、正面の最大幅100cmで「金剛山」と力強く刻まれている。裏面には「安政六年己未正月十三日 当村講中」とある。
几号は台石の正面中央に刻まれている。石の表面に凸凹を残したまま几号を刻んでいるために、自然な風化や欠損が進行し几号の線刻が不鮮明な箇所もある。几号は横棒9cm、縦棒10.5cm、横棒までの地上高が14cmである。
明治42年の合祀と廃社や周辺の諸工事により、神社境内が明治10年当時と変わらぬ位置にあるかは今後確認しなければならない。ただ現在の金剛山塔は奥まった社殿のその裏にあり、街道からは直接確認できない位置にあることから、少なくとも石塔自体は移動されていると判断する。
ここ宝龍神社の几号標は、我々が史料「几号附刻一覧」をもとに現地調査をし最初に几号を確認した地点であり、発見の喜びとともに一覧の内容が信頼できるものだと確信した記念すべき場所でもある。

 

 


宝龍神社の全景 (平成15年5月)
現在の国道4号線から見た宝龍神社の境内。左側には富沢方面に通じる市道・仙台南部道路・名取川の順に並び、背後には東北本線・東北新幹線の橋梁が見える。

 

 


社殿裏にある金剛山塔

 

 


金剛山塔の台石に刻まれた几号

現地を調査した日

2003年5月17日

参考文献

浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年

 

121 長町

(更新 24.04.29)

点   名

121 長町(ながまち)

当時の場所

宮城県 長町 八十一番地常蔵院堂前石燈籠

現在の地名

宮城県 仙台市太白区長町

海面上高距

13.2781m

前後の距離

大野田 ← 3001.80m → 長町 ← 336.68m → 広瀬橋

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 長町駅
 13.2781m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Nagamachi
 13.2781m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 長町駅八十一番地常蔵院石燈籠
 13.27805m/21.8174尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 長町 八十一番地常蔵院堂前石燈籠

照合資料 4

地質要報
 長町駅
 13.3m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 長町
 ―/2丈1尺5寸

几号の現存有無

現存

解  説

宮城県南の几号附刻地については、初めての調査からから20年が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じているが、その実現には至っていない。
詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第2集(2004年)に収録した解説で代用とする。

 

『宮城の標石』第2集
長町 常蔵院
〔当時〕名取郡長町八十一番地常蔵院堂前石灯籠
〔現在〕仙台市太白区長町一丁目7-34  十八夜観音堂
広瀬橋を渡ると長町の町場であり、常蔵院は町に入ってすぐの位置にあたる。前地点の「広瀬橋北詰欄檻下礎石 外面」からは僅かに200メートルしか離れていない。常蔵院はもともと修験(天台宗寺門派)の寺院であったが、明治になって修験が禁止されると廃寺になり、現在は三間四面の観音堂のみが残る。ここは仙台三十三観音の第三十二番札所であり「十八夜観音」としても知られるが、現在はお堂の前に玩具店のビルが建ち、参道も車の通路として辛うじて残っている状態である。さらに、周囲には高層マンションがせまり、容赦ない都市化の波が押し寄せている。
高低几号は「常蔵院堂前石灯籠」に刻んだとあるが、お堂の前とその周囲には計四基の石灯籠が現存している。お堂の前にあるのが高さ約190cm「奉納 常夜燈 文政十三庚寅年三月吉日」銘の一対二基、やや離れた片隅には同じ銘の一基(高175cm)と天保三年銘の一基(高150cm)がある。
初回の調査では表面観察にとどまり几号は確認できなかったが、再調査の際に灯籠台石の根もとを掘りさげて几号の現存を確認することができた。几号が刻まれていたのは観音堂の前にすええられていた向かって右側の常夜灯である。台石の正面を数センチ掘りさげたところで横棒が現れ、几号全体が見えるまで掘りさげて計測を行った。几号は横棒8.7cm、縦棒10.7cm、横棒の太さは1cm。 (それぞれ数値を示したが目盛を水平に読むことが困難であったことを付言しておく)
明治初年の「社寺境内区画図」(宮城県公文書館蔵)によれば「長町村観音堂」とあり境内7畝10歩(220坪)、東は道路(陸羽街道)、西は地主常蔵院住職遠藤秀光宅地、南は佐藤氏宅地、北は戸長宍戸松兵衛宅地と記されている。几号の刻まれた常夜灯が明治10年当時から移動していないという確証はないが、この環境でよくぞ残っていてくれたという気持ちでいっぱいである。

 


観音堂の堂宇 (平成15年8月)    
矢印の位置にある常夜灯に几号は刻まれている。
お堂の背後には高層マンションがせまる。

 


常夜灯

 


常夜灯の台石を数センチ掘り返すと几号の横棒が見えてくる。

 


常夜灯の台石に刻まれた几号

 

 

追 記 (2024年4月)
十八夜観音堂には東日本大震災後の2011年9月と2016年12月にも訪ねている。
ただし、常夜灯の根元を掘り起こして几号の確認まではおこなっていないが、常夜灯の状況に変化がないことは確かめている。
2011年9月に訪ねた際は、震災から半年が経過し、もしかしたら境内の整備などもあるかも知れぬと、観音堂保存会の代表者宅を訪ね、常夜灯の根元には明治初めにおこなわれた測量の目印が刻まれている旨を説明申し上げ、長く保存されるよう何度もお願いしてきた。
それから5年後の2016年12月、久しぶりに訪ねてみた。
都市化の高波が小さな観音堂にも容赦なく押し寄せ、訪ねるたびに周囲の景観は変わりびっくりさせられるのであるが、現在はお堂にしぶきがかかる程度でなんとかとどまっているようである。 がんばれ十八夜観音堂! 残れよ長町の几号!

 


(2016年12月撮影)観音堂境内の前にあった玩具店は姿を消し、この当時はマンションのモデルルームとなっていた。
参道はモデルルームの建物陰に細長く設置されている。

 


観音堂の前に建つ常夜灯。いつ来てもこの景観に変化はない。
几号は向かって右側の常夜灯下部に刻まれている。

現地を調査した日

@2003年5月17日 A2011年9月10日 B2016年12月10日

参考文献

浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石2、2004年

 

122 広瀬橋

(更新 24.07.11)

点   名

122 広瀬橋(ひろせばし)

当時の場所

宮城県 仙台 広瀬橋北詰欄檻下礎石 外面

現在の地名

宮城県 仙台市若林区河原町

海面上高距

13.4203m

前後の距離

長町 ← 336.68m → 広瀬橋 ← 4016.73m → 仙台

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 仙台 広瀬橋
 13.4203m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 Hirosebashi
 13.4203m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 仙台 広瀬橋北詰欄檻下礎石
 13.42030m/44.2860尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 仙台 広瀬橋北詰欄檻下礎石 外面

照合資料 4

奥州街道ノ高低
 広瀬川北岸
 ―/3丈7尺

几号の現存有無

亡失

解  説

宮城県南の几号附刻地については、初めての調査からから20年が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じているが、その実現には至っていない。
詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第1集(2003年)に収録した解説で代用とする。

 

『宮城の標石』第1集
仙台 広瀬橋
〔当時〕宮城郡仙台広瀬橋北詰欄檻下礎石 外面
〔現在〕仙台市若林区河原町一丁目・二丁目 / 堰場
広瀬川に架かる広瀬橋は仙台城下と長町宿の、宮城郡と名取郡の、現在では仙台市若林区と太白区の境界である。明治初年までは長町橋と呼ばれ、仙台城下入口の橋として重要なものであった。しかし、幾度となく流失を繰り返し、明治5年にも修繕したものが間を置かず大水にて流失している。几号が刻まれた橋はその後に修繕か架け替えが行われたものである。
しかし、この橋も明治17年の大水で被害にあう。そのあたりのことを「広瀬橋修繕目論見牒」(宮城県公文書館蔵『陸羽街道一等字広瀬橋一件』、明治17年2-0088)より一部紹介する。

 

  (橋の)全長六拾四間、幅四間  (※ 当時の川幅は約130m)
  …明治十七年九月十五日出水ニ付北阿元拾三間半落橋ニ付修繕…。  
  石工拾人、是者足元石垣直シ方。

 

このように几号を刻んだ「北詰欄檻下礎石 外面」側が流失し石垣をはじめ大規模に修繕が施されている。その後も明治22年に流失、同42年には日本最初の鉄筋コンクリート橋となり、確実に几号残存の可能性は低くなる。まさに「広瀬川流れる岸辺 想い出とともに几号もかえらず…」といった感である。

 


現在の広瀬橋 (平成15年7月)    
広瀬川をはさんで南(長町)から北(河原町)を見る。河原を歩いてみたが明治10年当時架かっていた橋の遺構は何も確認できない。橋の欄干越しに桃源院本堂の屋根が見える。

現地を調査した日

@2003年5月17日 A2003年7月19日

参考文献

浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石1、2003年

 

 

付録

(2004年『宮城の標石』第2集p.33転載)

『仙台市測量全図』について
『仙台市測量全図』は明治26年に仙台市役所が発行した六千分一の地図で、仙台では初の本格的な地図といわれ、その精密さ内容の重要さは現在でも高い評価を得ている。この地図に1か所だけ「」が記されている。広瀬橋北側の桃源院山門付近である。これは高低測量で用いる几号に間違いないと思うが、明治10年の几号一覧では「広瀬橋北詰欄檻下礎石 外面」に刻んだとあり、広瀬橋の架け替えの際に測点が移動されたものだろうか。しかし、同じく一覧にある「芭蕉の辻」に「」の印が見当たらないことから、どのような意味合いで桃源院付近に几号を記したかは不明である。ただし、この位置が当時の仙台市域における最も標高の低い地点にあたることから、仙台市独自の水準原点であった可能性も考えられる。

(『仙台市測量全図』の一部)ああああああ

本来この『測量全図』は市街地に用水路を引くために作成された経緯があり、そのため地形の高低については細かく標高が記されている。次にこの地図の凡例を一部紹介する。
  圏弧 測点    二重圏弧 三角点及石標     黒書 毎点々号
  朱書 高程ハ塩釜湾平均海水面上ヲ水準基点トシテ測レルモノ
   也 但括弧ハ地盤ヨリ一尺上括弧ナキハ地盤上ノ高サトス
二重圏弧とは「◎」のことで図中には20か所ほどある。この中には芭蕉の辻や愛宕神社、見通しのきく場所として集治監避雷尖頭というものもある。
細かな標高は朱書で記され、私が利用した図面は印刷が薄いところもあり、正確に判読できない箇所もあった。また、標高が書き込まれていない箇所もある。主な地点では次のとおり。
  芭蕉の辻    137尺076 (或は139尺443)
  広瀬橋北詰   51尺314 (上の図、橋の北側)
  広瀬橋の下   35尺780 (上の図、橋の東、川面)
桃源院の 地点には標高は記されていないようである。基準とした「塩釜湾平均海水面上」だが明治10年の高低測量に基づくものという確証はないが、大いに気になるところである。

補点 南鍛冶町

(更新 24.09.01)

点   名

補点 南鍛冶町(みなみかじまち)

当時の場所

宮城県 仙台 南鍛冶町二十一番地隅 筆塚台石

現在の地名

宮城県 仙台市若林区南鍛冶町

海面上高距

21.79485m

根拠資料

宮城県下高低几号所在
 仙台 南鍛冶町二十一番地隅 筆塚台石
 補点 21.79485m/71.9228尺

几号の現存有無

現存

解  説

《お詫びとお知らせ》
本項は今回新たに書き下ろした文章になります。ただし、解説を書くつもりが出来あがってみれば〈発見時の思い出〉になってしまいました。
行く行くは本来の〈解説〉に改めますが、当分はこの内容でお許しください。
また、本点の根拠となる肝心要の「宮城県下高低几号所在(=宮城県下陸羽街道並塩竈ヨリ仙台マテ沿道高低几号所在及海面上高距実測数)」はまだ発表に至っていません。申し訳ございません。近いうちに掲載いたしますのでご了承ください。

 ************************************

 

本点を調査してから10年を越える月日が流れた。まさに「光陰矢の如し」である。
その日(2013年4月13日)は、朝から畠山君と県南の柴田町・大河原町・白石市と、今が見ごろの桜をめでつつ一日がかりの几号調査であった。
旅の終わりが仙台市若林区の南鍛冶町である。桜の名所である石橋屋の“しだれ桜”を横目に見て現地に急いだ。
几号附刻物は「筆塚台石」。事前の調査で南鍛冶町の三宝荒神社に筆塚が一基あると把握していた。他には情報がないのでこの一基に期待するしかない。

 

日没が迫る午後6時前、三宝荒神社に到着。境内の写真撮影も慌ただしく済ませ、目的の筆塚に駆け寄った。
棹石には堂々たる筆致で「笹原美次先生 筆塚」と刻まれている。
さっそく台石に注目である。
正面、・・・。 右側、左側、・・・。 残るは裏面、・・・・・。
「几号はないなぁ ・・・」 私が気落ちした声を出した。

 

それでも念には念をと、もう一度台石を見ていたときである。
畠山君が「あった! ありました!」と大きな声をあげたのである。
「えっ、どこ?」
「どこだと思います。わかりませんか?」
「えー? どこ??」
「ここです!」と言って指をさした。

 

場所は台石の正面中央。これは几号の常道である。
しかし、どう見たって几号()の線刻は見当たらない。
私は自分の目と、畠山君の言葉を疑った。
(几号がなくて落胆している私に冗談を言って笑わせようとしているのか?)

 

それでも畠山君は指で「ほら、これと、これと、これ」と3本の線を示した。
「えっ! これっ?」
そこにあった線刻は、今まで見てきた几号とはまったく異なるものであった。
何が異なるかと言えば、@稚拙で雑 A彫りは極めて浅い B横棒はない。
几号と言われれば几号であるが、几号ではないと言われれば几号ではない。
なんじゃこりゃあ?!

 

辺りは薄暗くなってきた。とりあえず几号発見時の“儀式”であるスケッチと計測を急いだ。
すると、畠山君は携帯電話のライトで几号(もどき)を照らしてくれた。
そこに浮かび上がった3本の線。 「おっ!」 まさしく几号の3本線である。
私も最後の最後に「几号発見!」と納得した。

 

朝からの几号調査の旅はこれにて大団円!
おじさん2人はさっそく祝杯を挙げようと、夜のとばりが下りた仙台の街に消えていったのである。

 

《追記》
本点の几号は畠山君がいなければきっと見落としていただろう。10年過ぎた今でも畠山君には心より感謝している。

現地を調査した日

@2013年4月13日(発見) A2013年9月21日

参考文献

南鍛冶町商栄会:復刊 南鍛冶町三宝大荒神社縁起誌、1987年
東北学院大学民俗学研究会:南鍛冶町三宝荒神社民俗調査報告書、2007年

 


三宝荒神社の鳥居と社殿
南鍛冶町には鍛冶職人が多く住んでいたが、火の神、火伏せの神として祀られたとされる。
鳥居の扁額には「三寶大荒神」とある。背後に見える高架は東北新幹線の高架。

 


社殿側から振り返って見た石碑群
御神木である「公孫樹(イチョウ)」の周囲には数々の石碑がある。筆塚は中央の奥。
手前の標石は一等水準点No.2177。標高は21.7053m(2016年改測)。

 

 
「笹原美次先生 筆塚」の石碑
台石の高さ42cm、幅110cm。棹石の高さ146cm、幅76cm。

 


正面から見た台石
このどこかに几号があります。さて、どこでしょうか?

 


正解はここです。
もう一度、台石全体の画像を見て場所を確かめて。(台石の上の方の中央部分)
「これ、几号じゃないよ」というお声が聞こえてきそうだが、現物を見た私と畠山君はこの線刻を几号と認定した。
几号の横棒はないのであるが、石に入った亀裂を横棒に見立てたとも推測できる。
3本線の接点(=石の亀裂)までの地上高は34cm。

 


石碑のスケッチや計測をしていたら周囲は薄暗くなり、畠山君が携帯電話のライトを照らしてくれた。これによって石に陰影ができ線刻が浮かび上がった。
”補点”は東京塩竈間の公式な高低表には載っていない。補点としての几号がこの程度の目印で済むのならば、宮城県以外にも”補点”がありそうな気がする。
(ここまでの撮影:2013年4月13日)

 


2013年9月に発生した台風18号は暴風域を伴いながら関東から東北地方を通過した。
この台風の被害状況を伝えるニュースでは三宝荒神社の御神木「公孫樹(イチョウ)」の枝が折れ、隣接する民家に被害があったと伝えていた。
イチョウの直下にある石碑に被害は出ていないか気になり、台風の数日後に現地を訪ねた。
イチョウの太い幹には枝が折れた痕跡が認められる。画像には写っていないが右斜め後ろの民家には枝が落下し被害が出ていた。筆塚をはじめ石塔群には被害はなさそうである。

 


初回の調査時とは違って昼前に撮影。几号の線刻の印象がまた違う。

 


斜め上から几号を撮影。こうすると3本の線がよくわかる。
いずれの線も人の手により加工されていると強く確信した。
このあと近所の人に聞いて三宝荒神社の総代さんを訪ね、「境内の筆塚にはこれこれこういう記号が刻まれています。どうぞ大切に管理して下さい」と頭を下げてお願いしてきた。
(ここまでの撮影:2013年9月21日)

 

123 仙台

(更新 24.10.30)

点   名

123 仙台(せんだい)

当時の場所

宮城県 仙台 大町芭蕉辻里程元標

現在の地名

宮城県 仙台市青葉区大町

海面上高距

42.2477m

前後の距離

広瀬橋 ← 4016.73m → 仙台 ← 3409.62m → 原町

照合資料 1

陸羽街道高低測量直線図
 仙台 国分町
 42.2477m/―

照合資料 2

TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
 SENDAI
 42.2477m/―

照合資料 3

@宮城県下高低几号所在
 仙台 大町芭蕉辻里程元標
 42.24765m/139.4181尺
A明治10年 地理局通知(史料9)
 仙台 芭蕉辻里程元標礎石

照合資料 4

地質要報
 仙台 国分町
 42.2m/―

照合資料 5

奥州街道ノ高低
 仙台 国分町芭蕉辻
 ―/13丈9尺

几号の現存有無

亡失

解  説

宮城県南の几号附刻地については、初めての調査からから20年が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じているが、その実現には至っていない。
詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第1集(2003年)に収録した解説で代用とする。

 

『宮城の標石』第1集
仙台 芭蕉の辻
〔当時〕宮城郡仙台芭蕉辻里程元標礎石
〔現在〕仙台市青葉区大町一丁目4−1
奥州街道と仙台城大手門から伸びる道が交差する芭蕉の辻は、正式には札の辻と呼ばれ諸国に聞こえた名所であった。
明治6年12月、太政官達第413号により諸街道の里程測量と元標・里程標の設置が定められた。県庁所在地の四達枢要の場所へ1尺角で高さ1丈2尺の木柱を建て、適宜に「石据」などを設けることとされた。宮城県ではこの時点で仙台の芭蕉の辻に決定したらしく、以後、宮城県における道路の中心点となった。
元標は芭蕉の辻の西北角に建てられたが、それに記された内容と変遷は資料や時代によって異同があり、すべて正確には把握できていない。あえて建て替え時期を挙げれば明治29年、大正8年以前、昭和13年以前、そして昭和46年(現存)となろうか。ただし、昭和に入ると本来の元標としての役目は失われている。
明治初年の石据(礎石)がどの年代まであったものか、芭蕉の辻を特集した古写真集(『写真で見る仙台むかし語り・芭蕉の辻』仙台なつかしクラブ、2001)などを見ても、なにせ古い写真ゆえはっきりしたことがわからない。少なくとも空襲をうけ復興後の芭蕉の辻からの几号が消えていたのは確かなことである。

 

 
芭蕉の辻の古写真 (明治10年代)   
陸羽街道を南から北を見る。辻の北西角に里程元標が建ち、拡大すると礎石は三段ほどの石組みであることがわかる。標柱の南面には「長町…」と書いてあるのが見える。南隣の長町村元標までの距離が記されていた。

現地を調査した日

2005年4月6日 ※これ以前にも何度か調査

参考文献

仙台なつかしクラブ:写真で見る仙台むかし語り・芭蕉の辻、2001年
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石1、2003年

 

芭蕉の辻の古写真
2003年に『宮城の標石』第1集を刊行したあとも、芭蕉の辻の里程元標が写った古写真を探し続けているが、いまだ几号が写っている写真は見つかっていない。
ここに芭蕉の辻の古写真を10点ほど掲載する。古写真と言っても多くは絵葉書である。
いずれも正確な撮影年は不明であり、おおよその感覚で古い(だろう)順に並べてみた。

 


『宮城の標石』第1集でも掲載した画像である。台石は3段に見える。

 

(仙台市歴史民俗資料館提供)・・・

 


2枚目、3枚目になると台石の下3段目は半分近く埋もれているように見える。
道路改修で盛り土されたのかも知れない。

 


この画像では里程元標の正面に「宮城縣里程元標」と記されているのがわかる。
台石が少し欠けている。往来の激しい場所柄、荷車などの接触もたびたびあったことだろう。

 

 

 

 

 

 


最後の2枚は昭和20年の仙台空襲で失われた「芭蕉の辻」と彫られた石柱。近年になりこれは昭和10年10月の建立であることが判明した。(佐々木伸『奥州・仙台の謎解きシリーズ5 政宗公銅像』2022年)
昭和10年は仙台藩祖伊達政宗没後300年にあたり、「藩祖政宗公三百年祭」が盛大におこなわれた。青葉山の本丸跡に設置された政宗の騎馬像(初代)もこの時のものである。
芭蕉の辻には先の内閣総理大臣斎藤實の揮毫による石柱が設置された。少なくともこの時点で几号の亡失は決定的になった。