124 原町 (仙台市宮城野区原町)
125 岩切 (仙台市宮城野区岩切)
126 南宮 (多賀城市南宮)
127 市川 (多賀城市市川大久保)
128 塩竈 (塩竈市西町)
129 塩竈湾 (塩竈市尾島町)
124 原町
(更新 25.03.26)
点 名 |
124 原町(はらのまち) |
---|---|
当時の場所 |
宮城県 苦竹村 百十三番地角四辻追分道標 |
現在の地名 |
宮城県 仙台市宮城野区原町 |
海面上高距 |
24.2772m |
前後の距離 |
仙台 ← 3409.62m → 原町 ← 5628.90m → 岩切 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
@宮城県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
宮城県内の几号附刻地については、初めての調査からから20年以上が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じている。しかし、その実現には至っていない。詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第1集(2003年)に収録した解説で代用する。
『宮城の標石』第1集 南 長町 宮城野 いてふ道 嘉永六年七月日 一里
西 御 城 下 二十六丁
北 塩かま 松島 三里十九丁 六里十五丁
東 八幡八まん 七はま 二里十六丁 四里廿四丁
表面観察では几号を確認できない。南面の「一里」を年号脇のわずかなスペースに刻んでいることから、さらに下へ几号を刻むスペースがあるのか疑問も残る。 (※ 里程は追刻ではないか?)
上の絵図は高低測量が行われた明治10年の原町絵図(原町市坊図・部分)で、高低測量の道筋は「原ノ町東入口」から来て「二等道路東海岸道」に左折する。この四辻の東南角に台座のある石碑が見える。写真の道標はまさしくこの位置に建っている。明治の絵図もこの道標を描いたことは間違いないが、当時は絵図のように台石が付いていたのかは不明である。 |
現地を調査した日 |
2003年5月17日 |
参考文献 |
原町市坊図:宮城県公文書所蔵「庶務雑件」(明治11年、2-0097)収録 |
125 岩切
(更新 25.04.30)
点 名 |
125 岩切(いわきり) |
---|---|
当時の場所 |
宮城県 岩切村 二百番地角青麻道々標 |
現在の地名 |
宮城県 仙台市宮城野区岩切字入山 |
海面上高距 |
10.0498m |
前後の距離 |
原町 ← 5628.90m → 岩切 ← 2414.90m → 南宮 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
@宮城県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
不明 |
解 説 |
宮城県内の几号附刻地については、初めての調査からから20年以上が経過し、現状の確認も含めて再調査の必要性を強く感じている。しかし、その実現には至っていない。詳細な解説は再調査後に掲載することとし、その間は拙著『宮城の標石』第1集(2003年)に収録した解説で代用する。
『宮城の標石』第1集
道標の正面。碑面「青麻道」の下部がかろうじて地表面に出ている状態である。
|
現地を調査した日 |
2003年6月15日 |
参考文献 |
浅野勝宣・畠山未津留:宮城の標石1、2003年 |
126 南宮
(更新 25.06.03)
点 名 |
126 南宮(なんぐう) |
---|---|
当時の場所 |
宮城県 南宮村 一番地慈雲寺門前地蔵台 |
現在の地名 |
宮城県 多賀城市南宮字町 |
海面上高距 |
6.2326m |
前後の距離 |
岩切 ← 2414.90m → 南宮 ← 2522.40m → 市川 |
照合資料 1 |
陸羽街道高低測量直線図 |
照合資料 2 |
TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT |
照合資料 3 |
@宮城県下高低几号所在 |
照合資料 4 |
地質要報 |
几号の現存有無 |
亡失 |
解 説 |
2025年4月、本当に久しぶりになるが東京塩竈間高低几号附刻地の確認調査に出かけた。(ただし、これも別件で多賀城まで行かねばならない用事があったからであるが・・・)
さて、慈雲寺の石地蔵に関し文献として古いものは、今から90年以上も前の1933年(昭和8年)に宮城県教育会が刊行した『郷土の伝承』第2輯の「慈雲寺の縛り地蔵と志引観音(宮城郡多賀城村)」というものになる。『宮城の標石』第1集(2003年、浅野・畠山共著)では誌面の都合で省略したので、今ここに転載して紹介したい。
多賀城村南宮に慈雲寺と云ふ古い寺がある。其の門前に左右二体の地蔵様が立つてゐる。其の右方の古い地蔵様を地方では慈雲寺の縛り地蔵と崇めてゐる。夜泣する子や病気の子供のあるときは此地蔵さまをつなぎ藁で縛つて御願をかけると不思議にもすぐ癒る、癒れば御礼としてつなぎ藁を解いて赤頭巾や赤の腹掛を献納する、それで此の地蔵様は年中新らしい赤い頭巾や腹掛をしてゐらつしやる。
此地蔵さまは元北寿福寺と称する所の北端一里塚の近傍にあつたのを慈雲寺の先住時代に現在の所に移し、且つ一人では御さびしからうと新しく地蔵さまをこしらへて其の左方に立てゝ一対にしたとの事である。
これは当該記事の冒頭部分であるが、石地蔵の当時に至る経緯や信仰の様子がよくわかる。後続の『多賀城町誌』や『多賀城市史』においても慈雲寺の石地蔵に関してはこの話をもとに説明されている。なお、慈雲寺への移設前については「ムラ外れのナングウッパラ(南宮原)という人気のない場所にあった」とも伝えられている。
以下の画像3点は多賀城市教育委員会提供
|
現地を調査した日 |
@2003年5月18日 A2025年4月22日 |
参考文献 |
宮城県教育会:郷土の伝承2、1933年 |
ご 協 力 |
多賀城市教育委員会 様 |